2021年11月21日

映画『アルファヴィル』を観て

ゴダールが1965年に制作したこの近未来SFを観て、感想を書くことの難しさを感じている。朋友であるフランソワ・トリュフォーが監督した、レイ・ブラッドベリの『華氏451』のように、ストーリーに一貫性がなく、いわば「言葉」と「感情」についての様々に矛盾したフラグメント(断片)の集積のような作品だからだ。

舞台である「アルファヴィル」という国では、感情を持つことを禁じられている。
ディストピアを描いた小説乃至映画に共通するのは、そこに住む人々が、自分が感情の無い世界、考えること、感じることを禁じられ、罪とされる世界に生きていることに全く無自覚であるという点だ。
無論例外もいる。彼らはしかし、「思惟する」「感じる」といった「罪」によって、「当局」によって処刑されるか、或いは洗脳のために隔離されている。

この映画では、「辞書」が「聖書」と呼ばれている。だがその辞書の中の言葉は頻繁に更新され、「今現在」に相応しくないとみなされた言葉は、次々に消されてゆく。
映画の中で、『アルファヴィル』という国を建国した、フォン・ブラウン博士の娘であるナターシャ(アンナ・カリーナ)は、自分の好きな「コマドリ」「泣く」「秋の光」「愛情(やさしさ)」という言葉たちがこの数週間のうちに辞書から消えたと呟く。この世界では、辞書の中の言葉が消されるということは、現実のコマドリや秋の光が、この世界から消滅したことを意味するらしい。

ゴダールの意図が那辺に在るのかは分からないが、わたしは「世界は言葉で出来ている」とは考えない。辞書からそれを指す「動詞」や「名詞」が消されても、空を飛ぶコマドリも、枯葉の散り敷く大地に落ちる秋の光も消すことはできない。
「恋」や「愛」という言葉の意味を教えられていないからといって、人間の感情を完全に無化することはできない。何故なら「人間」とは畢竟「感情体」の謂なのだから。

わたしはこの映画で、人間が「ことば」に頼り過ぎているのではないかという逆説を感じた。
読み書きが全くできなくとも、人間は人間である。けれども、少なくともわたしは、「秋の光に心動かされることなく」「コマドリの啼く声に耳をそばだてず」「涙を流すことなく」「人へのやさしさを知らない者」を「人間」と呼ぶことはできない。

映画では「詩(ポエジー)」が、ひとりの女性(ナターシャ)を救う設定になっている。けれども、「詩(ポエジー)」はあくまでも一つの契機であり触媒に過ぎない。
内面に、耳に聴き、目にした言葉に呼応し得るポエジー(機微)を持たざる者、すなわち情緒を持たない人間にとっては、ほんものの「バイブル」であろうが、シェイクスピアのソネットであろうが、所詮馬の耳に念仏である。

捕らえられた探偵コーションが、この都市を支配する巨大コンピューターα60に尋問される。

アルファ60は問う

「闇を光に変えるものは?」

「詩(ポエジー)だ」

闇を光に変えるのはことばではない。暗闇に差し込む一筋の光、それは愛情に他ならない。

先程「馬の耳に念仏」であると書いた。では馬は「詩(ポエジー)」を理解し得ないか?
否。馬の存在それ自体が詩なのだ。

詩人を詩人たらしめているものは何か?それは「自然」である。
いうまでもなく、「自然」と「マテリアル・ワールド」は相容れない。
人間が自然から遠ざかり、機械への依存、すなわち「効率」と「利便性」への盲信が飽和点にまで達した時。そこは、「アルファヴィル」になる。

SNSLINEの日常化によって、言葉の、即ち内面世界の貧困化は歯止めが利かなくなっているように感じられる。しかし同時に、ツイッターなどで、巧みに言葉を駆使し、ひまを見ては本を読んでいる人たちの「ツイート」を見て、そこに感情の豊穣とは全く無縁の、薄っぺらな衒気だけを見てしまうのだ。


ー追記ー

映画の主人公である探偵レミー・コーションは決して二枚目ではない。けれども何故か魅力があり、彼と「愛」や「詩(ポエジー)」「言葉の力」などについてゆっくり語り合いたいと思わせる人物だ。彼の言葉の比重は、「呟き人」たちの内容空疎な衒いに比べて、遥かに重い。











0 件のコメント:

コメントを投稿