2021年11月13日

映画『帰って来たヒトラー』を観て

『帰って来たヒトラー』という映画を観て、その感想を書こうとしたが、どうしてもうまくまとめることができない。

参考にアマゾンのレヴューを見たが、概ね好評のようである。

ここ数週間で観た映画は何本かある。『男と女のいる舗道』(ゴダール)、『田舎司祭の日記』(ロベール・ブレッソン)、『太陽がいっぱい』(ルネ・クレマン)、『スリ』(ブレッソン)・・・何故それらについての感想を書かずに、この映画について書こうと思ったのか?自分でもはっきりしない。

まとまらぬままに断片的に感じたことを記すなら、

● 日本とドイツとの間に何らの共通点も見いだせなかったということ。

● 日本には、「もし今あの人物が蘇ったら」というような存在がひとりも思い浮かばないということ。

● 嘗て日本にヒトラーのような人物が存在したことがないということ。

● 日・独・伊三国同盟とは言いながらも、日本のファシズムと、ナチスのファシズムとは本質的に異質であること・・・などが挙げられる。

更に戦後のドイツは「過去(=「自分たち」がしたこと)の贖罪」と民主主義の道を歩み続けてきたが、日本は嘗て一度たりとも民主主義国家であったことはなく、故に「自分たちの罪」を贖うという行為からひたすら目を背け続けてきた。

「ナチス」=「ドイツ人」のしたことを、これからもドイツという国家が存在する限り、忘れてはならないと考える国民と、戦後一貫して、戦前回帰を志向してきた日本の政治とは、そもそも正反対の現代史(=戦後史)を歩んでいる。


まったく映画の批評にはならないが、この国には、ヒトラーのようなカリスマ的独裁者は不要である。何故ならヒトラーに洗脳されるまでもなく、我々日本人全体が、(程度の差こそあれ)本質的に顔のないヒトラーだからだ。われわれは既にして、「ヒトラー的なるもの」を潜在的に容認している。それは何か。社会的弱者、障害者、マイノリティーへの忌避感情、そして内面化され血肉化された国家(オカミ)への忠誠・追従である。弱きを挫(くじ)き強きを援けるメンタリティーである。

民主主義国家の最も特徴的な要件は、国民(市民・人民)は政府にとって脅威であるという点である。即ち言葉の本来の意味に於ける「民主主義」とは、国家(政府)への「抵抗」「不服従」を包摂した概念である。

「ヒトラーの復活」は問題ではない。

先の大戦で、日本という国は、「独裁者不要(乃至不在)のファシズム国家」であったことを忘れてはならない。











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