いまだにわからない。「脱・引きこもり」をスローガンに掲げる当事者及び支援者にとって、「脱」とは何を意味しているのかが。
正直なところ、「ひきこもり」なる概念もつまびらかではない。
窓から眺めるともなく外に目をやると、団地内のプラタナスの落ち葉が道に散り敷いている。
うつくしいとおもう。
いつのころまでだったろう、この時期、ひとりで、或いは友人がいた時には一緒に、皇居前広場を歩いたのは。上野公園の銀杏の、目もあやな黄金色の落葉を愛でたのは。晩秋の日比谷公園を逍遥していたのはいつの頃だったのだろう。
「脱・引きこもり」を揚言する人たちに訊きたい。
あなたにとって、「外界」とは何か?
確かにいまでも「皇居前広場」はあるだろう「上野公園」も「日比谷公園」も無くなってはいないだろう。
けれども、わたしにとって、わたしの生まれ育った街(町)は既に存在しない。
銀座はとうに「わたしの銀座」ではなくなり、渋谷もまた「わたしの渋谷」ではない。
東京は夙にわたしの故郷ではない。
「脱・引きこもり」とは、「内」から「外」へだと仮定して、その「そと」とは、実体を伴う「街(町)」ではなく、あくまでも、抽象的な「シャカイ」なるものを指すのだろうか?
特に中年以上の「引きこもり」の方たちに尋ねたいのは、あなたが望むのは、「帰郷」ではなく、あくまでも「シャカイ」という機関の内側に入り込むことであるのか?
あなたにとって、あなたの生の連続性は何に拠って支えられているのか?
扉を開ける度に、目の前に昨日と異なる風景が広がっていても「あなた」は「あなた」でい続けることができるのか?目覚める度に隣に見知らぬ女が寝ているのに気づいた時と同じように、苦笑ひとつをもって異質の世界に適応できるのか?
生きるということは、自分を取り巻く世界との融和に他ならない。けれども、外界は目まぐるしい速度で変化し続けている。「停泊する港が見つからない状態」── そのような状況の中で、尚「脱・引きこもり」とはどのような意味を持つのか?
「脱・引きこもり」とは何処から何処への「脱出」なのか?
「引きこもり」から「脱した後」あなた方を待っているのは如何なる世界か?
あなた方が待っている世界とは何処なのか?
生きるとは、「安息の地」を、そして「死所」「終の栖」を探す長い旅ではないのか?
やっと停泊する港を見つけたと思ったら、明日はまた沖へ放り出されているような環境で、そんな国で、「脱・引きこもり」の持つ意味とはなにか・・・
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