2021年11月8日

我 無智を愛す

徒然にツイッターの「文学・文化系」アカウントをいくつか眺める。5分もしないうちにドゥルーズのいう「人間であることの恥」の感覚があたまをもたげてくる。
たくさんの本を読むこと、文化的、知的で博識といわれるような人間であるということはひどく薄汚いことだなという気持ちに囚われる。

或る「読書家」の言葉

「苦しい時に本に助けられることが多い。でもその時その時、どの本が助けになるのか、開くまでわからない。読んでいる途中もあまりわかっていない。読み終えてから、あやういところを助けられた、と思う。」

わたしは先に「哲学は人を救えるか?」という問いに対して、「否!」と答えるだろうと書いた。


「本に救われる程度の苦しみ」・・・優雅だな・・・


先日の「断想、廃滅の美」に於いて、わたしは、孤独な者、悲しむ者、悩める者、貧しき者、鞭撲たれし者、涙を流す者の中に「美」を視る、と書いた。

あるブログで、この投稿について言及されていて、それは「美と健康の背馳」と題されていた。幾分大雑把ではあるが、左程的外れではない。

「健康・健常」であることと「美」とは相容れないと考えているわたしは、同様に、「知」と「美」の背馳をも感じている。

嘗てこう書いたことがある


わたしは「限りなく「無」に近い存在」を愛する。

この「無」には「無口」(無言)「無能」「無智」というような意味あいも含まれている。

有名より無名を

勝者よりも敗者を 敗者よりも不戦敗者を 不戦敗者よりも逃亡者を

若年・中年よりも幼年・老年を

人間よりは動物を 動物よりは植物を 植物よりは鉱物を

博識よりは文盲を

饒舌よりは啞者を

進歩よりは退化を

健常より障害を・・・

しかしわたしじしんがまだ「無」に近づけていない。

宗教的な思想とは無関係に、寧ろ哲学的な意味合いにおいて、より小さく、より無力で、より弱くありたい

けれどもこのように「無」を事々しく言い募ること自体が、「無」から遠ざかることになるという矛盾。

「雨露を凌ぐ」という。けれども本当は雨と露と、風だけで生きられるような存在でありたい。

無に近づきたいという欲求と、生きるということは、それ自体が相容れないことなのだろうか。

それ以前に、わたしは「限りなく無に近い存在」に何を見ているのだろう・・・


本に、また広く「文化」と呼ばれるものに救われ得る者たちは幸いである。彼ら知的ブルジョアは、所詮わたしとは縁なき衆生である。わたしはそのような存在を厭う・・・









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