2021年11月25日

「溺れる者と救われる者」

まさにいまこの瞬間もそうなのだが、最近はブログを書いて自分の気持ちを文章にして表わすということの無意味さを、次第に意識するようになった。

「書いてどうする」悲しい酔いどれの捨て鉢のような想い。やりきれぬ虚無感。かつまた、誰にも読まれていないにしても、自分で満足のいく文章が書ければ・・・といった意欲気概も、今の自分の思考力や表現能力を省みて、ただだた末枯(すが)れてゆくばかりである。

彼女にとって、カウンセリングは一種のアジールであった。ある人は「解放区」と呼ぶ。世間のドミナント(支配的)な家族言説から解放される場、それがカウンセリングの役割なのだ。
 (略)
なぜ、アジールが必要なのか。「私は親からまったく愛されませんでした。だから親のことは嫌いです」「母親の存在が不気味で恐怖すら抱いてしまいます」「いっそ早く死んでほしい」という衷心から発する言葉が無批判に聴かれる場所がなければ、彼女や彼らは孤立無援の状態におかれてしまうからだ。自分が感じていることが「正しくない」「ヘンだ」「異常だ」と批判されて責められること、自分が感じ、考えていることが誰からも承認されないこと、このような状態で人は生きてゆくことはできない。たとえ生命は維持できたとしても、精神的生命は絶たれてしまうのだ。
 (略)
どちらを向いても孤立無援な闘いしか見えないとき、たったひとつのアジールが必要なのだ。
クライエントは、生きるために、命を賭けてアジールとしてのカウンセリングを求めているのだ。そうしなければ生きてゆけないからである。とすれば、カウンセラーの役割は明瞭である。目の前のクライエントが生きてゆくことを支援するのだ。そのために、彼女が母の死を喜んでいるのであれば、ともに喜ぶ、ためらいもなく、そうするのである。
(下線・太字Takeo)

信田(のぶた)さよ子著『国家と家族は共謀する サバイバルからレジスタンスへ』(2021年)


しかしながら、わたしのような者。即ち「人外(にんがい)」の言葉を、カウンセラー、精神科医を含め、一体誰が「無批判に耳を傾けてくれる」のか?
例えば信田氏のクライエントが、「時々親に殺意を抱くことがあります」或いは「いっそ親を殺して自分も死のうかと最近は思うようになっています」という「衷心からの言葉」を聞いた時に、カウンセラーはそれらの言葉を「無批判に」「受容する」ことが可能だろうか?
仮にクライエントが生きることをカウンセリングの第一の使命であるとするなら、その為に犠牲になる者の存在をも認めることが出来なければ、辻褄が合わないのではないか?

「いっそ早く死んでくれればと思う」という言葉には「無批判にクライエントの言葉=感情=心の在り方」を認め、「ひとおもいに殺してやろうかと・・・」に関しては批判的に容喙するというのでは、おかしくはないか?

仮に目の前にいる人間の生を維持することが至上の課題であるとするならば、カウンセラーはあらゆる「負」(とされる)感情をも受け止めなければならないだろう。

信田氏の信念に基づくなら、カウンセラーは、モラルや規範、法の束縛すら超越し、人間存在のありとある「業」を肯定しなければならないだろう。

・・・と以上のようなわたしの言い分が、いったい誰に理解され得るのか?

わたしの言葉は、老練なカウンセラー信田さよ子氏にすら、

「正しくない」「ヘンだ」「異常だ」と批判され、責められるのではないか。

率直に言って、信田氏は人間に対して、高をくくっている。

「まだ名前を持たないマイノリティーが常に存在する」という事実を看過している。


「彼女が母の死を喜んでいるのであれば、ともに喜ぶ、ためらいもなく、そうするのである。」

ここにカウンセリングという「職業」「お仕事」の、絶対に越えることのできない限界がある。

即ち

「彼女が母の死を心底望んでいるのであれば、その為の協力を惜しまない。力を貸す。ためらいもなく。」と決して言うことができないからである。


わたしには「アジール」と呼べる場所がない。そしてそれは探せば見つかるというものではない。わたしはあくまでも「孤立と、独特の認識の化け物」であり、人間ならぬ何か奇妙に悲しい生物(いきもの)」なのだから。


新聞によると、17日千葉県で放火があり、寝たきりの男性(67歳)同じく重度の身体障害を持つ息子(32歳)が焼死した。火をつけたのは、殺された夫の妻であり、同じく焼死した息子の母である65歳の女性であった。容疑者本人もまた、身体に障害を持ち、「介護に疲れた」と供述している。

わたしはこの事件に関して、「仕方がなかった」「他にどうしようもなかった」としか言えない。わたしが仮にこの事件を裁く立場にいたなら、この、妻であり、母親であり、また(自身障害を持った)ひとりの人間である女性に対して「無罪」判決を出すだろう。実際彼女はなんら咎められるべき「罪」を犯してはいないのだから・・・

わたし自身「母に殺されても仕方がない」と思い「母はわたしを自分の人生から消し去る権利をもつ」と考えている。





 


10 件のコメント:

  1. こんにちは, Takeo さん.

    > 例えば信田氏のクライエントが、「時々親に殺意を抱くことがあります」或いは「いっそ親を殺して自分も死のうかと最近は思うようになっています」という「衷心からの言葉」を聞いた時に、カウンセラーはそれらの言葉を「無批判に」「受容する」ことが可能だろうか?
    > 仮にクライエントが生きることをカウンセリングの第一の使命であるとするなら、その為に犠牲になる者の存在をも認めることが出来なければ、辻褄が合わないのではないか?

    クライアントにとっては, この言葉は切実だと思います.
    私自身, 過去に私に対して衆人の前での罵倒・恫喝, 心理的な暴力の連続的な行使を行った何人かについては不幸になればいい, 死ねばいいと思っています.
    殺意にまで至らないのは, 私の気質の穏やかさ, 弱さの故でしょう.

    私は, ずっと私を担当している PSW との面接を続けています.
    その PSW は臨床心理士ではないため, この面接が制度上カウンセリングと呼ばれるかどうかは不明です.

    Takeo さんが述べている状況とは異なりますが, 数年前, 私は父 (当時すでに故人) のことを PSW に相談したことがあります.

    父の存在を私の中から消し去りたい, しかし一方で母から, 父が幼年時代に両親から虐待されていたという事実を初めて聞いた.
    父の態度の根源には, 幼児期に受けた両親からの虐待があったのだろうか?
    自分の中の父への憎悪は変わらないが, 自分はどのように対処すべきだろうか?

    その時の PSW の答えは次のようなものでした.

    私の父への憎悪はそのままにしておいて良い.
    父が虐待されていた事実を知った私の気持ちは, 心の中で燃やすイメージを持つこと.
    燃やして灰になるイメージを得ること.

    私は納得したのですが, 結局ここで言われたような, 気持ちを心の中で燃やすというイメージを抱くことができませんでした.
    ですから, この問題は未解決です.
    もし, 気持ちを燃やすイメージを結ぶことができていたらどうなっていたのかもわかりません.

    私が納得したのは, PSW が私の中にある「憎悪」をそのままにしておいて良いと言ってくれたからです.
    憎悪の感情の持って行く先がわからなくなっているのは今でも変わりませんが, 私に関してはそれは実はどうでも良かったのではないかとも思います.

    その後の面接を通じて私の中で父の存在がだいぶ薄れたことにより, あえて問題を解決しなければならないという状態ではなくなりました.

    今になって考えてみると, PSW が私に言った答えの背景にはいくつかの要因があったのではないかと思うのです.

    ・カウンセリングの手法として, 患者である私を無条件に認めること.
    ・私を回復の方向に向けるような対応をとる必要があるということ
    ・私という人間は, おそらく上記の事実を知ったからといって動揺して自暴自棄になり犯罪を犯したりはしないだろうということ

    実際に衷心から「殺してやりたい」と思っている患者も多いでしょう.
    私としては, そういった感情をぶつけられたカウンセラーはその気持ちを受け止めて肯定してほしいと思います.
    そうでなければ患者は二重に苦しむことになります.
    殺したい相手から受ける苦しみとカウンセラーの無理解な対応から受ける苦しみです.
    「だからと言って相手を殺していいのか」というのは単純過ぎる物言いだと思います.

    > 「彼女が母の死を心底望んでいるのであれば、その為の協力を惜しまない。力を貸す。ためらいもなく。」と決して言うことができないからである。

    これは Takeo さんの言うように, カウンセリングの限界であり, 患者 (ここでの彼女) のことを思ってその心に寄り添う人全てに突き付けられる限界ではないでしょうか.
    「喜んで力を貸す」という人もいるかも知れませんが, その態度表明は別の意味で彼女の心に土足で踏み込むことだと感じます.

    > わたしには「アジール」と呼べる場所がない。そしてそれは探せば見つかるというものではない。わたしはあくまでも「孤立と、独特の認識の化け物」であり、「人間ならぬ何か奇妙に悲しい生物(いきもの)」なのだから。

    Takeo さんが「いかなる他人によっても「アジール」を見出だすことができない」と言う背景にあるどうにもならなく深い絶望を思います.
    その絶望には安易な周囲からの助言を拒絶する強さがあります.
    通り一遍のカウンセリングなど無力でしょう.

    ただ, Takeo さんの心が, こうして文章を書いたりアートに触れたりすることで少しでも癒されることを願うばかりです.

    ごめんなさい. まとまりの無い文章になってしまいました.
    私自身, 「殺したいほど憎い相手がいる」人への共感を持つ者として少し書きました.

    なお, 千葉の放火事件のことですが, 私もニュースで事件のことを読んで以来混乱しています.
    当事者である女性の苦しみや死亡した夫や息子のことを考えています.
    この家族を救えなかった社会の脆弱さへの怒りも感じています.

    朝晩の冷え込みが厳しくなってきましたね. Takeo さんが健康で穏やかな日々を過ごされますように, 祈っております.

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    1. おはようございます、底彦さん。

      久しぶりのコメント、うれしく思っています。

      頂いたメッセージへの返信は、今夜(以降?)になると思いますが、その前に、できれば、底彦さんにお願いがあります。

      底彦さんにとって、わたし=Takeoとはどのような存在であるのか?
      底彦さんのTakeo像をお聞きしたいのです。

      はじめてネット(ブログ上で言葉を交わした時から、今現在、お互いの置かれている状況を踏まえて、その印象はどのように変化してきたのか?何かしら変わらぬものはあるのか?

      長くても短くても構いません。感じていることを聞かせてください。

      例えば「本」に譬えるなら、どのような種類の本であるとか・・・『プロレゴメナ』なのか?『八本脚の蝶』なのか?或いはシモーヌ・ヴェイユ的なものなのか?

      とんでもない、ただ一時愉しんで後は忘れてしまう小説のようなものなのか?

      聞かせて頂ければと思います。

      今日も穏やかな一日でありますように。

      武雄


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  2. こんにちは, Takeo さん.

    私が Takeo さんの印象を考える上で, 今でも思い出す Takeo さんのブログでの言葉があります.

    > 平気で(彼にとっての)「バトルフィールド」或いは「地獄」に留まって居られることが「治癒」の謂いなのか?

    私が初めて Takeo さんのブログを訪れたときに目に止まった言葉です.
    Takeo さんは一貫して精神疾患における「治癒」への疑い, 問い掛けを行っていますね.

    この言葉は私の中にあった「治癒」への恐れを明確に言い当てていました.
    また, Takeo さんは心の病には「治癒」など無いと考えているのではないだろうかと思いました.

    仮に私の鬱病が治癒したとして, 私は私を鬱に陥れた現実の社会の中に戻っていかなければなりません.
    これは私にとって恐怖です.
    それならば私にとって「治癒」の意味はあるのだろうか, という問い掛けを突き付けられました.

    また, 私の鬱病は私の性格・気質に深く根ざしています.
    そこから, 医療にとっての私の治癒とは私の性格・気質を無理矢理ねじまげることなのではないか, という疑いも生じてきます.

    Takeo さんとは, 何度か治癒に関して話したことがあります.
    これは私には大切な議論でした.
    またあらためてお話ができればと思います.

    Takeo さんを何かに譬えるとすれば, 硬質な詩ではないでしょうか.
    余分なものを削ぎ落とした美しい詩ではないかと思うのです.

    だからこそ上のような言葉として, 真実を突けるのだと私は思います.

    短くまとめてみました.

    夜になると冷え込んできますね.
    どうか体調など崩されませんよう, 祈っております.

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    1. おはようございます、底彦さん。

      この返信を書くにあたって、随分と遅疑し逡巡しました。いったい何を書くのだろう?いったい何が書けるのだろうという想いが強いのです。

      そもそもわたしはこの投稿 ー「溺れるものと救われる者」で何を書きたかったのか?

      発端は母が借りて読んでいた本で、母はこの本にある

      「自分が感じ、考えていることが誰からも承認されないこと、このような状態で人は生きてゆくことはできない。たとえ生命は維持できたとしても、精神的生命は絶たれてしまうのだ。」

      というところで、この箇所をわたしに重ね合わせてみていると教えてくれたのです。

      それに続くわたしの文章は、人は、(或いは医療・福祉・支援というものは)どこまで、困っているものの「不合理な」「反・常識的な」願いに応えることが可能であるのか?という自他への問いかけでした。

      「衷心から発する言葉が無批判に聴かれる場所がなければ、彼女や彼らは孤立無援の状態におかれてしまう」

      「クライエントは、生きるために、命を賭けてアジールとしてのカウンセリングを求めているのだ。そうしなければ生きてゆけないからである。とすれば、カウンセラーの役割は明瞭である。目の前のクライエントが生きてゆくことを支援するのだ。」

      「生きてゆくことを支援する。」
      けれども、そこには当然ながら限界があります。

      底彦さんは

      >実際に衷心から「殺してやりたい」と思っている患者も多いでしょう.私としては, そういった感情をぶつけられたカウンセラーはその気持ちを受け止めて肯定してほしいと思います.
      そうでなければ患者は二重に苦しむことになります.
      殺したい相手から受ける苦しみとカウンセラーの無理解な対応から受ける苦しみです.
      「だからと言って相手を殺していいのか」というのは単純過ぎる物言いだと思います.

      わたしはこの言葉に底彦さんらしいやさしさ、人への思い遣りを見ました。
      同時に、「だからと言って相手を殺してもいいのか?」という命題については、
      わたしは「復讐」という言葉を想起します。
      「倶ニ天ヲ戴カ不ル」者。だからといって殺してもいいのか?と詰問されれば、わたしは「何故いけないのか?」と問い返すでしょう。

      「彼女が母の死を心底望んでいるのであれば、その為の協力を惜しまない。力を貸す。ためらいもなく。」と決して言うことができないからである。

      >これは Takeo さんの言うように, カウンセリングの限界であり, 患者 (ここでの彼女) のことを思ってその心に寄り添う人全てに突き付けられる限界ではないでしょうか.
      「喜んで力を貸す」という人もいるかも知れませんが, その態度表明は別の意味で彼女の心に土足で踏み込むことだと感じます.

      「復讐」とともにわたしが考えるのは、「自死の幇助」ということです。

      ここで何度か書いてきたことですが、わたしの大好きな映画、マイケル・ウィンターボトム監督の『バタフライ・キス』では、主人公ユーニスは、旅の途中で出逢った女性と親密な関係になり、最後にその「友」に頼むのです「私を殺して」。
      友人は「友人であるが故に」彼女の意思に従い、彼女を溺死させます。

      実話を基にした映画『海を飛ぶ夢』では、首から下がマヒしている主人公が、「あなたのことが好きだから、生きてほしい」という女性に向かって、「僕を死なせてくれるのが本当の友だちだ!」と声を荒げます。

      わたしは昔から、「自殺幇助」という「罪」があることが不思議でなりませんでした。
      人を救うことが何故罪になるのか・・・



      底彦さんの言われる。

      >「喜んで力を貸す」という人もいるかも知れませんが, その態度表明は別の意味で彼女の心に土足で踏み込むことだと感じます.

      という言葉の意味がよくわかりません。面白半分に人は殺せません。わたしは以前「ヒットマン」についてのショート・ショートを『小説家になろう』というサイトに投稿したところ、ある読者から、極めて不謹慎であると指弾された経験があります。
      彼(彼女?)はきっと、「殺し屋家業」などもっての外であり、「フィルム・ノアール」などというジャンルの映画が存在することにすら、おぞましいことと腹を立てているのでしょう。



      つまり、「アジール」とは「真の友情」「愛情」無くしては成り立たない概念であると思うのです。
      数年前に「流行った」映画だか小説だかの惹句である

      「あなたのために狂えるのは、私だけ」

      という言葉に要約されます。

      殺し屋は「ビジネス」ですが、「自殺幇助」や「復讐」は、狂気の愛のみが為せる至上の愛であろうと思います。無論「狂気の愛」という言葉がトートロジーであることはいうまでもありません。狂気を伴わない愛情など、そもそも愛情と呼ぶに価しません。
      エディット・ピアフの「愛の賛歌」でも、岩谷時子の日本語訳ではぼかされていますが、フランス語の原曲では、「あなたがそれを望むのなら盗みだってする、人だって殺す」と歌われています。



      ここで白状しておくことがあります。わたしは、心を通わせることのできる人がいて、安心して本心を語ることのできる「アジール」をいくつも ──「デイケア」「PSWとの対話」「作業療法」「AAA」── 持っている底彦さんに、強い「嫉妬」の感情があります。

      わたしは嘗て、クリスマスに一緒に過ごす相手がいる人に対しても、ヴァレンタインデーにチョコレートをたくさんもらう人に対しても、ジェラシーという感情を抱いたことがありません。けれども今、「出口なし」の境遇にあり、孤独であることに窒息しかかっている今、底彦さんの持つ「人との親密な触れ合い」に、さわれば火傷をするくらいの嫉妬の焔(ほむら)が胸の中に滾(たぎ)っています。

      本稿の最後に千葉の放火殺人事件を(一見)唐突に付け加えたのも、彼らもまた「寄る辺なき者たち」=「溺れる者」であったという同類・同族意識からでした。



      今回頂いたふたつのメッセージをを読んで、底彦さんはやはり報われて=救われて然るべき人間であると改めて感じました。底彦さんのブログを今回久し振りに読みました。先に書いたように、胸に疼痛が宿るような思いで読みました。しかしかつて底彦さんがひどく調子の悪かった時でも、わたしに対して常に敬意とやさしさ、思い遣りを忘れずに接してくれたことを思いました。

      今回久し振りにブログを拝見すると、これまで感じたことのない快癒の傾向が目立ちました。既に半分ほどは完解しているのではないかとも感じました。

      わたしは底彦さんの治癒への兆しを当然のことと見做しながら、また同時に自分の中にある、嫉妬・妬み・羨む気持ちを醜いものとして愧じることもしません。

      わたしも母も、今日を明日に継ぐような毎日を送っています。一寸先は闇です。
      千葉の一家とわたしたちは、本当に薄壁一枚隔てて隣り合わせに生きていました。ただ、順番が、「あちらが先」だったというだけです。
      わたしもまた「彼女たち」同様、「寄る辺無き者」なのです。

      それでもわたしは底彦さんの友情に感謝しています。

      この期に及んで、自分を飾ろうとも、繕おうとも思いませんが、ご不快の気持ちを与えてしまったことを深くお詫びします。

      武雄

      書きたかったことの半分も書けなかった気がします・・・


















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    2. こんにちは, Takeo さん.

      > 同時に、「だからと言って相手を殺してもいいのか?」という命題については、
      > わたしは「復讐」という言葉を想起します。
      > 「倶ニ天ヲ戴カ不ル」者。だからといって殺してもいいのか?と詰問されれば、わたしは「何故いけないのか?」と問い返すでしょう。

      Takeo さんの仰ることはわかります.
      けれども, 私は「だからといって殺してもいいのか?」という問い掛けには, 「殺したい」と思っている当事者に対する悪意や扇動を感じてしまうのです.
      当事者に「何故いけないのか?」と言わせて後戻りできなくさせる傍観者ゆえの底意地の悪さを感じてしまうのです.
      私が単純過ぎる物言いだと書いたのはそのような理由からです.
      自分は痛い思いをしない, 罪に問われない傍観者の言葉だからです. だとしたら上辺の善意や正論にかこつけて何とでも言えます.
      そのような無責任な物言いに当事者は反応する必要は無いと考えます.

      > >「喜んで力を貸す」という人もいるかも知れませんが, その態度表明は別の意味で彼女の心に土足で踏み込むことだと感じます.
      >
      > という言葉の意味がよくわかりません。面白半分に人は殺せません。わたしは以前「ヒットマン」についてのショート・ショートを『小説家になろう』というサイトに投稿したところ、ある読者から、極めて不謹慎であると指弾された経験があります。
      > 彼(彼女?)はきっと、「殺し屋家業」などもっての外であり、「フィルム・ノアール」などというジャンルの映画が存在することにすら、おぞましいことと腹を立てているのでしょう。

      当事者が「殺したい・殺そう」という結論に至るまでに辿った複雑な道筋を思ってしまうのです.
      即断即決でこんなことを決められる人間はそうはいないでしょう.
      逡巡・自分が罪人になるという事実・相手に対する僅かな哀れみや愛情, そういったものを辿った挙句に漸く至った結論だと想像されます.

      対して「喜んで手を貸す」という人は, それが心からの言葉だったとしても, 当事者の内面へのどれほどの共感があってのものでしょうか.
      上の「何故いけないのか?」への反論で述べたように, 却って当事者を追い詰める言葉ではないのか.
      だとしたら当事者の心の奥深くには届かない.
      そう考えてしまうのです.

      Takeo さんが投稿した「ヒットマン」についてのショート・ショートや紹介されている『バタフライ・キス』『海を飛ぶ夢』という映画を観たことはありません. すみません. 映画の中で手を貸した者の演技はどのようなものだったのでしょうか.
      前後の文脈がわかりませんが, エディット・ピアフの「愛の讃歌」の原詞の言葉は言葉そのものが持つ意味で「あなたがそれを望むなら盗みだってする、人だって殺す」なのでしょうか. 寧ろ絶対的な愛の深さを強調するために挿入されたものではなかったでしょうか.

      人を救う, 特にそれがその人を死に至らしめることによって救うというものであった場合, その行為が持つ意味は当人の内面の最も深いところに触れるものであり, 単純になぜいけないのか? と言えるものではないのではないと思います.

      私にも「復讐」という行為への渇望はあります. 心の底の暗い奥底で, 何人かの人間への復讐が行えたらと思っています.
      それを現在のところできないのは, 私が未だ心が弱っていることと私の人としての凡庸さ故です.

      そして, 私のブログを読んでいただいてありがとうございます.
      Takeo さんが読み取った通り, 私の状態は以前よりも回復しています.

      慢性的な鬱に悩まされてはいますが, 以前の苦しみとは比較になりません.

      Takeo さんがそのような私への嫉妬・妬み・羨む気持ちを抱いていること, 私にはどうすることもできませんが, 正直に告白してくれたことはありがたいと思います. Takeo さんがそういう状態にあることは理解しました. 私は決して不快な思いにはなっていません.

      最後に, 千葉の一家と Takeo さんのご家族が薄壁一枚隔てた関係で, たまたま Takeo さんのご家族の順番が後になっただけだというのは非常な問題だと思います.
      何とかならないのですか.

      安易に周囲が何かを言ったり手を差し伸べたりすることではないかも知れませんが, Takeo さんを含め, ご家族に平安が訪れることを祈っております.

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    3. こんばんは、底彦さん。

      わざわざお返事をありがとうございます。

      以下、覚束ないながら、底彦さんの返信について、わたしの率直な想いを綴ろうと思います。



      >Takeo さんの仰ることはわかります.
      けれども, 私は「だからといって殺してもいいのか?」という問い掛けには, 「殺したい」と思っている当事者に対する悪意や扇動を感じてしまうのです.
      当事者に「何故いけないのか?」と言わせて後戻りできなくさせる傍観者ゆえの底意地の悪さを感じてしまうのです.

      この返答は意外でした。このように考えたことはありませんでした。

      最初の底彦さんのコメントにあった

      >実際に衷心から「殺してやりたい」と思っている患者も多いでしょう.
      私としては, そういった感情をぶつけられたカウンセラーはその気持ちを受け止めて肯定してほしいと思います.
      そうでなければ患者は二重に苦しむことになります.
      殺したい相手から受ける苦しみとカウンセラーの無理解な対応から受ける苦しみです.
      「だからと言って相手を殺していいのか」というのは単純過ぎる物言いだと思います.

      この最後の一文。そのように口走る人間の気持ちは、単に、「殺人は罪」という社会通念・常識(とされていること)を、いわばオートマティックに、「決まり文句」として反芻しているに過ぎないと思っています。
      底彦さんの解釈を「深読み」と言うことはできませんが、「だからといって殺してもいいのか!?」と詰め寄る者たちは、「傍観者」ではなく、「社会通念」の代弁者、乃至、社会(或いは「世間」)の常識・モラル・規範に囚われて、「個別の人間」「個としての相手」を見ることのできない、「社会化された人間」であろうと考えるのです。

      わたしは彼らに何らの「底意」も「扇動」の意図も感じないのです。
      自分は正しいと思っている人、即ち、社会の眼を通してしか「人間存在」を見ることができない人たちです。

      わたしは彼らに「何故いけないのか?」「何故?」「何故?」「何故?」と、執拗に問いただしたいのです。そして仮に心から納得のいく答えが得られたなら、それは一種の救いでしょう。



      >当事者が「殺したい・殺そう」という結論に至るまでに辿った複雑な道筋を思ってしまうのです.
      即断即決でこんなことを決められる人間はそうはいないでしょう.
      逡巡・自分が罪人になるという事実・相手に対する僅かな哀れみや愛情, そういったものを辿った挙句に漸く至った結論だと想像されます.

      この箇所もまた意外でした。

      >逡巡・自分が罪人になるという事実・相手に対する僅かな哀れみや愛情,

      このような気持ちはわたしにはありません。殺してもなお余りある人間に対すし、びた一文の憐れみも、ましてや愛情にも似た感情などわたしには皆無です。

      「憎みても余りある者」に、はたしてそのような感情を抱き得るでしょうか?わたしの答えは「断じて否」です。
      これは「戦争」ではありません。恨みも憎しみもない他民族、他国民を殺すことに逡巡を覚えるのは「人間として」真っ当なことです。だからこそ、ベトナム戦争の帰還兵のように、心を病む兵士たちが、必ず戦争には存在するのです。
      「なぜわたし自身の憎しみの対象でもないベトナム人を殺したのか?」

      憎んでもいない人間を殺すことは罪・・・というよりも、人間としての行いではありません。その感覚を麻痺させるのが戦争です。



      「何故殺してはいけないのか?」

      それに関連して、以下の辺見庸の言葉に強く共感します。

      「わたしは、殺したことの非道を反省し悔いているのではなく、殺したことへの他からの非難、譴責、追跡、逮捕、処罰の可能性に怯えているのである・・・」



      わたしは繰り返し、日本人は真に憎むことを知らない民族だと書いてきました。己の裡に誰かを心から憎む感情の無い者が、他者(他国)から向けられた「憎悪」に、「怨恨」に鈍いということは言を俟ちません。



      >「喜んで手を貸す」という人は, それが心からの言葉だったとしても, 当事者の内面へのどれほどの共感があってのものでしょうか.
      上の「何故いけないのか?」への反論で述べたように, 却って当事者を追い詰める言葉ではないのか.
      だとしたら当事者の心の奥深くには届かない.
      そう考えてしまうのです.

      なかなか死ぬことが叶わぬ場合、相手がどこの誰であろうと、「ビジネス」として殺してもらうことをわたしは厭いません。もしわたしを殺してくれる人がいれば、最も大事なのは腕の確かさだけです。

      カウリスマキ&ジャン=ピエール・レオの『コントラクト・キラー』はわたしにすれば「コメディー」ですが、「金を払うから人を殺してほしい、殺す相手は私だ。」という「殺人(自殺)契約」に、わたしは全く抵抗はありません。

      わたしはまったく見ず知らずの者に「わたし自身の依頼によって」殺されることを少しも厭いません。
      繰り返しますが必要なのは確かな腕前。それだけです。



      『バタフライ・キス』で、ユーニスを殺した女性には特別な苦悩や葛藤もなく、自分が「友」だと思っている人間の頼みを素直に聴いてあげたという印象で、わたしはこの映画を観ながら、「彼女にはユーニスを殺すということにためらいはないのか?」という気持ちをまったく抱きませんでした。
      わたしの印象は、「神は私を忘れている!」と叫ぶユーニスは、彼女と出会うことによって最終的に「救われた」のだと思っています。

      『海を飛ぶ夢』は実話に基づいた作品ですが、自殺幇助は罪になるので、彼の「自死」への想いを支持する友人・知人たちが、「分業」して、彼を救おうとします。この映画でも、みなは本人の望みを知っているので、彼を殺すことへの遅疑逡巡は見られませんでした。みな彼を早く苦痛から救ってやりたいという「愛情」から、黙々と、着々と、自分に与えられた役割を果たしていきます。



      >人を救う, 特にそれがその人を死に至らしめることによって救うというものであった場合, その行為が持つ意味は当人の内面の最も深いところに触れるものであり, 単純になぜいけないのか? と言えるものではないのではないと思います.

      今目の前で苦しんでいる者を救う。そこに何かもっともらしい「理論」が必要でしょうか?
      最優先されるべきは、(安楽な)死に拠って救われたいと切望する彼・彼女の切実な「願い」だけではないでしょうか?



      >Takeo さんがそのような私への嫉妬・妬み・羨む気持ちを抱いていること, 私にはどうすることもできませんが, 正直に告白してくれたことはありがたいと思います. Takeo さんがそういう状態にあることは理解しました. 私は決して不快な思いにはなっていません.

      わたしは底彦さんの快癒を妬んでいるのではありません。底彦さんがこれまで辛かった時にも、常に周りには上述した人たちがいて、場所がある。そのことへの激しい嫉妬です。
      くるしい時だろうと、軽快に向かっていようと、いつも心が通じ合える人間がいる。
      底彦さんの状態ではなく、底彦さんの持っているものに対するなの嫉妬なのです。



      >最後に, 千葉の一家と Takeo さんのご家族が薄壁一枚隔てた関係で, たまたま Takeo さんのご家族の順番が後になっただけだというのは非常な問題だと思います.
      何とかならないのですか.

      もしわたしと母がなんとかなるのなら、千葉での事件は起こらなかった筈です。

      先に『鉄くず拾いの物語り』という映画に激しい憤りを示したのも、それが、すべての「溺れる者」への嘲弄であると感じたからです。

      「嗚呼、それでも人生は素晴らしい!」等という、およそ病んだ者、身体を横たえて休むこともままならない者、千葉の一家、そしてわたしや母を含めた「寄る辺なき者たち」へ唾を吐きかけるような侮辱であると感じたからです。

      >安易に周囲が何かを言ったり手を差し伸べたりすることではないかも知れませんが,

      気軽に声をかけることができない。それは何故かと考えてしまいます。
      何故「安易に周囲が何かを言う」「気軽に手を差し伸べる」ことを躊躇うのでしょう?

      ここにこそこの国の悲喜劇の根があるように思います。



      ひとつひとつに反論を試みたわけではありません。わたしが常日頃思っていることを改めて飾らずに述べてきました。わたしと底彦さんとの考え方、感じ方の相違がとても興味深く感じられたやり取りでした。

      言葉遣いなど、居丈高に聞こえたかもしれませんが、あくまでも自分の気持ちに忠実に、議論し合える友人に向けて書いたつもりです。

      これからもこのような機会が持てることを望みます。

      武雄





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    4. 追記

      >前後の文脈がわかりませんが, エディット・ピアフの「愛の讃歌」の原詞の言葉は言葉そのものが持つ意味で「あなたがそれを望むなら盗みだってする、人だって殺す」なのでしょうか. 寧ろ絶対的な愛の深さを強調するために挿入されたものではなかったでしょうか.

      ここもまたわたしと底彦さんの感じ方の違いが明瞭に表れている箇所だと思います。

      わたしはこの歌詞の台詞を文字通り、「あなたが望むことならどんな罪だって犯す」と受け取っています。

      そのことはフランソワ・トリュフォーの『黒衣の花嫁』の感想に書いたつもりです。

      https://plaza.rakuten.co.jp/poboh/diary/201702150000/

      蛇足乍ら、わたしがお叱りを蒙った「ヒットマン」のショートショート

      https://plaza.rakuten.co.jp/poboh/diary/201705180000/

      ご笑覧下さい。

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    5. >ピアフの「愛の讃歌」の原詞の言葉は言葉そのものが持つ意味で「あなたがそれを望むなら盗みだってする、人だって殺す」なのでしょうか. 寧ろ絶対的な愛の深さを強調するために挿入されたものではなかったでしょうか.

      言葉そのものが持つ意味で「あなたがそれを望むなら盗みだってする、人だって殺す」という告白こそが、正に「絶対的な愛の深さを強調するために挿入されたもの」であるとわたしは思います。
      これは愛の修辞ではないと思っています。

      このあたりが、山田太一氏をして、楽天ブログを読んで、わたしの「愛情観」「友情観」にはとてもついてゆけないと言わしめた所以ではないでしょうか?

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    6. こんにちは, Takeo さん.

      Takeo さんにお返事をいただいてから, またいろいろと考えました. 少し書いてみようと思います.

      > >実際に衷心から「殺してやりたい」と思っている患者も多いでしょう.
      > 私としては, そういった感情をぶつけられたカウンセラーはその気持ちを受け止めて肯定してほしいと思います.
      > そうでなければ患者は二重に苦しむことになります.
      > 殺したい相手から受ける苦しみとカウンセラーの無理解な対応から受ける苦しみです.
      > 「だからと言って相手を殺していいのか」というのは単純過ぎる物言いだと思います.
      >
      > この最後の一文。そのように口走る人間の気持ちは、単に、「殺人は罪」という社会通念・常識(とされていること)を、いわばオートマティックに、「決まり文句」として反芻しているに過ぎないと思っています。
      > 底彦さんの解釈を「深読み」と言うことはできませんが、「だからといって殺してもいいのか!?」と詰め寄る者たちは、「傍観者」ではなく、「社会通念」の代弁者、乃至、社会(或いは「世間」)の常識・モラル・規範に囚われて、「個別の人間」「個としての相手」を見ることのできない、「社会化された人間」であろうと考えるのです。

      そうですね. この「社会化された人間」という表現が当て嵌まりそうですね.
      当該の言葉は, 社会の常識・モラル・規範に囚われている人間が反射的に言いそうな言葉ではあります.
      私自身はこの「だからと言って相手を殺していいのか」という言葉を言われたことはありません. ただ, そういう言葉を言いそうな人間は想像することができます.
      いずれも極めて「社会化された人間」でした.

      私が先のように書いた背景には, その彼らを念頭に置いていたということがあります.
      「深読み」だと言われればそれまでかも知れません. ただもし彼らが「だからといって相手を殺していいのか」と詰め寄ってきた際には, その拠り所である常識・モラル・規範を背に上からの態度でこちらを苦しみ蔑んでやるという底意地の悪さを発揮するだろうことも想像できるのです.
      この辺は私の実体験と結びついています.

      > >逡巡・自分が罪人になるという事実・相手に対する僅かな哀れみや愛情,
      >
      > このような気持ちはわたしにはありません。殺してもなお余りある人間に対すし、びた一文の憐れみも、ましてや愛情にも似た感情などわたしには皆無です。

      わかりました.
      この部分およびそれに続く一連の箇所には Takeo さんと私との違いが現れているのだと思います.
      どちらが良いとか悪いとかも問題ではありません. 私なら, という想像の元に書いた箇所です.

      それで感じたのですが, 私という人間そのものが, 上記の「社会化された人間」という側面をかなり持っていることは否定できません.
      これを認めるのは愉快なことではありませんが, 社会の常識・モラル・規範といったものに縛られている面があるのは事実でしょう.
      その中でもがきながらも, 上に引用した「逡巡・自分が罪人になるという事実・相手に対する僅かな哀れみや愛情」という表現が出てきたのだと思います.

      Takeo さんは「社会化された人間」ではありませんね. そのようなところには一部少なからず羨望の念を抱いてしまいます.

      > わたしは繰り返し、日本人は真に憎むことを知らない民族だと書いてきました。己の裡に誰かを心から憎む感情の無い者が、他者(他国)から向けられた「憎悪」に、「怨恨」に鈍いということは言を俟ちません。

      そうかも知れません. 強い者に阿り弱い者を蔑む, 見たくないものは見ない・無かった・起こらなかったことにする, そんな特性は心の底から憎むということを知らない・できない者が獲得したものなのでしょう.

      『バタフライ・キス』『海を飛ぶ夢』についての解説, ありがとうございます.
      殺すことによる救いが描かれているのですね.

      私は Takeo さんによるこれらの映画からの場面の引用に対して, 自分が死を望む当事者だったらと考えて書きました.
      その根底には死の痛みや意識が失われることへの潜在的な恐怖があります.
      このことから, 自ら死を望む立場を想像しながらもそれに他者が介在してくることへの慎重さ・臆病さ・恐怖が記述に入ってしまったのです.
      他者の手が救いになる可能性というところは考えが及ばなかったというか考えるのが恐ろしかったというか, そんなところです.

      > >安易に周囲が何かを言ったり手を差し伸べたりすることではないかも知れませんが,
      >
      > 気軽に声をかけることができない。それは何故かと考えてしまいます。
      > 何故「安易に周囲が何かを言う」「気軽に手を差し伸べる」ことを躊躇うのでしょう?

      もしかしたら Takeo さんにとって大変不愉快なことを書いてしまったかも知れません. ごめんなさい.
      私がこのように書いたのは, 上に述べた当事者である自分を前提としていたからです.
      そのような当事者に外から手を差し伸べられることへの抵抗感があったのです.

      どうも, 私は他者が自分の一定以上近くに来ることを極度に恐れています.
      それは自分が鬱病になった経緯などとも無関係ではないように思います.
      この認識を得られたことは幸いでした.

      > そのことはフランソワ・トリュフォーの『黒衣の花嫁』の感想に書いたつもりです。
      >
      > https://plaza.rakuten.co.jp/poboh/diary/201702150000/

      すみません. ここを読んだのですが, 『黒衣の花嫁』の感想が見つかりませんでした.

      > 蛇足乍ら、わたしがお叱りを蒙った「ヒットマン」のショートショート
      >
      > https://plaza.rakuten.co.jp/poboh/diary/201705180000/

      このショートショートは面白いです. 思わず笑ってしまいます.
      途中から主人公がどこかオドオドしてくるのもいいですね.

      > >ピアフの「愛の讃歌」の原詞の言葉は言葉そのものが持つ意味で「あなたがそれを望むなら盗みだってする、人だって殺す」なのでしょうか. 寧ろ絶対的な愛の深さを強調するために挿入されたものではなかったでしょうか.
      >
      > 言葉そのものが持つ意味で「あなたがそれを望むなら盗みだってする、人だって殺す」という告白こそが、正に「絶対的な愛の深さを強調するために挿入されたもの」であるとわたしは思います。
      > これは愛の修辞ではないと思っています。

      ここは私はそのようには考えませんでした.
      上にも書きましたが, 私は他者が自分に近付いてくるのが怖いのです.
      「あなたがそれを望むなら盗みだってする、人だって殺す」ほど, 自分の内面に相手が接近してくる, 入り込んでくるのが恐ろしいのです.
      けれども Takeo さんの考えは届いたと思います.

      いつの間にか冬になりつつありますね. 朝晩は冷えますが空気の清冽さも感じます. どうか今日も穏やかな日々を過ごされますよう, 祈っております.

      底彦

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    7. こんばんは、底彦さん。

      「社会化された人間」ということについて少し触れてみようと思います。

      わたしは「愛する者」ではありません。わたしは「怨む者」であり「妬む者」であり・・・つまり人の感情で、「悪」とされているものを多く具えている人間です。

      わたしはそのことを愧じていませんし、矯正しなければとも思いません。

      「社会化された人間」ー これはこの文章の中では「ニッポン化された」と言い換えることができるでしょう。

      この国では「暗い話」「深い話」「理屈っぽい話」が、何故か申し合わせたように遠ざけられます。哲学とは本来「ある事柄に対する批判的思惟」であると同時に「負とされていることに対する肯定的態度」であるはずです。
      「常に明るさを強いられ」、「深い話」が斥けられる文化的土壌に於いて、哲学的思考が育まれることはありません。

      深いところには当然光はとどきません。だから「暗い」。
      昼なお暗い森の奥深く分け入り、外からの光ではなく、自らの内側から発せられる微光を見出すこと。それが「考える」ということだと思うのです。



      > >ピアフの「愛の讃歌」の原詞の言葉は言葉そのものが持つ意味で「あなたがそれを望むなら盗みだってする、人だって殺す」なのでしょうか. 寧ろ絶対的な愛の深さを強調するために挿入されたものではなかったでしょうか.
      >
      > 言葉そのものが持つ意味で「あなたがそれを望むなら盗みだってする、人だって殺す」という告白こそが、正に「絶対的な愛の深さを強調するために挿入されたもの」であるとわたしは思います。
      > これは愛の修辞ではないと思っています。

      >ここは私はそのようには考えませんでした.
      上にも書きましたが, 私は他者が自分に近付いてくるのが怖いのです.
      「あなたがそれを望むなら盗みだってする、人だって殺す」ほど, 自分の内面に相手が接近してくる, 入り込んでくるのが恐ろしいのです.

      わたしにとって、「真の愛」とは、正に、あなたが望むなら盗みを犯すこともためらわないし、人を殺すことだって厭いはしない。そして「もしあなたが死ねばわたしも死ぬ」ことだと思っています。
      つまり一心であり同体なのです。「全き抱擁」ー ヤン・シュヴァンクマイエルのクレイ・アニメを紹介しましたが、完全なる一体化こそが真の愛であるとわたしは考えています。
      だから「心中」は究極の愛のかたちのひとつです。

      わたしがあなたのために死ねるか?あなたがわたしのために死ねるか?
      それがわたしの愛のイデアです。

      シモーヌ・ヴェイユもまた、祖国への愛、そしてそれ以上に人間存在への愛に殉じた人ではなかったでしょうか?

      「死がふたりを分かつまで・・・」ではない。「死」も、ふたりを分かつことはできないのです。

      愛とは狂気の一種です。



      不躾な言い方で申し訳ありませんが、底彦さんから鬱病を完全に取り去ったら、全くの健常者であるとわたしは感じています。そもそも、そうでない人間、病んだ心身から病気を取り去って、尚「健常者ならざる者」が存在するでしょうか?

      わたしはその例外のひとりだと思っています。

      「もしある者が狂人でないとしたら、それはまた別の形の狂気を持っているだけで、それほどわたしたちは、すべてが狂人なのだ」



      まとまりのない文章になってしまいましたが、愛と狂気について、思いつくままを断片の形で書いてみました。また何か意見や感想があれば聞かせてください。

      すっかり冬になりましたね。底彦さんも風邪など召されぬよう、ご自愛の上お過ごしください。








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