2021年12月4日

「生」は「死」

以前は死ぬことばかり考えていた。

今は死のことしか考えられない。「考える」というよりも、「死」の観念が頭から離れることがない。

以前にも書いたが

「人はなぜ死ぬのでしょうね?」という「不如帰」のセリフが頭から離れない。

「生を与える」ということは、とりもなおさず「死を与える」ということに他ならない。

「生」を与えるということは同時に「病い」と「老い」と「衰弱」「屈辱」そして最終的な「苦悶」と「死」を、与えることだ。

人間に限らない。遍く生物は死ぬために生まれる。

「病むために生まれる」

「衰えるために生まれる」

「苦しむために生まれる」

そして死ぬ。

何故?

なぜ神はかほどにまで残酷な世界を創ったのか?

「それでも人生は素晴らしい」

「それでも人生にイエス」とは、そもいかなるいかなる思想から生まれた言葉か?


「世界は涙にあふれている」── これだけが唯一の、ただひとつの思想だ・・・









3 件のコメント:

  1. 「溺れる者」プリーモ・レーヴィ、わたし、母、千葉の一家

    「救われる者」-「それでも人生にイエス」と言える者。

    先日母と「それでも人生にイエス」というタイトルについて話した時に、「それがもしフランクル自身の言葉なら、「わたしは」とても受け容れられないね」と話していました。



    世の中には二種類の人間がいると思います。

    「溺れる者」と「救われる者」

    そして

    「それでも人生にイエス」という言葉に頷ける者と「人間であることの恥」という言葉に共鳴する者。

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  2. >どうか、その創造、体験、苦悩が永遠とともにありますように☆

    悲しくて 悲しくて 

    とても やりきれない

    この燃えたぎる 苦しさは

    明日も つづくのか・・・

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  3. 確か石原吉郎の言葉だったと記憶しているが、或いはプリーモであったかもしれない。

    「すなわち、最も良き人々は還ってこなかった。そして最もよき私自身も還ってこなかった」

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