2019年9月29日

不和


時代と喧嘩しながら生きるのは、一個の特権である。四六時中、自分は他の連中のようには考えていないのだ、という自覚がある。この鋭い違和感は、どんなに貧弱な、不毛なものに見えようとも、なおある哲学的な定款を持っており、時代の諸事情と狎れ合った思考には求めようもないものなのだ。

ー エミール・シオラン『生誕の災厄』より







足りないものは何か?


What the world needs now is love, sweet love
It's the only thing that there's just too little of
What the world needs now is love, sweet love
No not just for some but for everyone

Lord we don't need another mountain
There are mountains and hillsides enough to climb
There are oceans and rivers enough to cross
Enough to last until the end of time

What the world needs now is love, sweet love
It's the only thing that there's just too little of
What the world needs now is love, sweet love
No not just for some but for everyone

Lord, we don't need another meadow
There are corn fields and wheat fields enough to grow
There are sunbeams and moonbeams enough to shine
Oh listen Lord, if You want to know.

バート・バカラックの「世界は愛を求めている」(What The World Needs Now Is Love)

ハル・デイヴィッドの歌詞でこう歌われている


神さま もうこれ以上の山は要りません。
もう登り切れないくらい たくさんの山も 丘もあります。
渡り切れないくらいの海も 河もあります。
世界の終わりが訪れるまで十分なほど

神さま、もう草原は要りません。
トウモロコシ畑も 小麦畑も もう世話しきれないくらいに十分にあります。
太陽も 月も 光を与えてくれています。

世界が今求めているもの それは愛 優しい愛
かけがえのないものだけど 世界にほんの少ししかないもの
世界が今求めているもの それは愛 優しい愛
いいえ 決まった誰かへの愛ではなく すべての人への


この歌はハル・デイヴィッド作詞、バート・バカラック作曲で、1966年に発表された。

相変わらず、歌詞も音楽も素晴らしいが、

今、山も、丘も、草原も、海も、河も、わたしたちに十分に恵みを与えてくれていると言えるだろうか?

太陽の光も、月明かりも、わたしたちの世界を照らしてくれていると言えるだろうか?

「神さまもう充分です」と?

必要なのは、山でも河でも、森でも、草原でも、広がる畑でも、太陽でも月でもない。
ただ、愛なのです、と?

この曲が作られた、50数年前には、このように言うことができただろう。
しかし、それから半世紀を経た今、わたしたちに必要な「愛」とは、他ならぬ、多様な樹木が生い茂り、様々な動植物たちの生きる場所である山であり、魚の飛び跳ねる川であり、汚染されず、開発されておらず、埋め立てられていない、魚たちの回遊する、元のままのうつくしい海であり、風にそよぐ草原や田畑ではないのか?
それこそが、ヒトの「愛」を育てる土壌ではないだろうか。

しかし、神さまに、「今世界には自然が足りません。きれいな海も、臭わない河も、緑為す草原も、自由に枝をのばす樹々も、きれいな空気さえも不足しています!」と言ったところで、神はただ黙って肩をすくめて立ち去るだろう。

その足元には齧りかけのリンゴが一個、転がっている・・・



Jackie DeShannon - What The World Needs Now Is Love

「世界は愛を求めてる」-ジャッキー・デシャノン










2019年9月27日

「わたし」とは・・・




『そしてわたくしはまもなく死ぬのだらう』


  …………………

そしてわたしはまもなく死ぬだらう

けれどもわたくしといふのはいったい何だ

何べん考えなおし読みあさり

そうともききこうも教えられても

結局まだはっきりしていない

わたしといふのは……


死の直前の宮沢賢治はこう歌っている。ずいぶんはっきりした個性の持主で、一生を「実存的」に生き抜いた求道の人、宗教的精進と農民の為の実践に生き抜いた人である彼にしてなお、「わたしというのはいったい何だ」と生涯の終わりに言っているのだから、凡人の私たちを考え込ませるに足る・・・

『神谷美恵子著作集2 人間をみつめて』第3章「人間を取りまくもの」(1980年)より 







2019年9月26日

ふたつさんの絵





 詩のような題=Poetic Title

              きっと きみは さみしいんだね



                  だから こんなに かがやいている せかいのなかで 
                  ひとり ぽつんと かなしそうに しているんだね

                  それとも もしかして 
                  ほんとは とっても うれしいのかい

                  だから こんな とじこめられた ばしょで
                  ひとり かがやきを ふりまき つづけているのかい

                  それとも・・・

                  いいえ

​                  わたしが ここに いるのは 
                  さみしいとか うれしいとか
                  そういうことでは ありません

                  ただ わたしは
                  どうしようもなく なやましくて
                  たえられないほど もどかしくて 
                  それで わたしの からだじゅうを
                  ぜつぼうてきな よろこびが くるおしく めぐっていて

                  だから わたしは 
                  ただ こころを しずめるために 
                  『ここに ひとりで さいているのです』

                  でも わたしのことを きにかけてくれて うれしい

                  ここに かくれて さいている わたしに
                  きづいてくれる ひとが いるなんて

                  わたしは そのことが ほんとうに とっても うれしい








                   詩のような題=Poetic Title

                  『もしも はなに なれたら』


              たいように せを むけて はしりだそう



                  その ぎゃっこうの なかで 
                  せっかく さいた あざやかな いろを 
                  うしなって しまうとしても

                  もしも はなに なれたら

                  つきあかりに てらされよう

                  その あおじろい ひかりに
                  いま はなひらいた ばかりの みずみずしさを
                  すいとられて しまうとしても


                  もしも はなに なれたら

                  よろこびに みちて おどるように はしりつづけよう

                  こんな くらやみの かたすみに 
                  この はなびらの いろで すこしだけでも 
                  あかみを うつすことが できたなら
                  きっと それは はなさくことの よろこびに ちがいない

                  だから もしも ぼくが はなに なれたら

                  そんなふうに さいてみたいと 
                  ひそかに そう おもっているのです





                 詩のような題=Poetic Title


                       この さびついてしまった ふうけいを みてくれ
                       うみも そらも じめんも 
                          うずを まきながら 
                       ながれこんでいる ものも
                       すべての ものが さびついてしまっている

                      これを ふうけいと いうだろうか

                      こんな ところには
                      ぜったいに いきたくない

                      でも えの なかだったら 
                     『いってみたいと おもう ばしょ』








詩のような題=Poetic Title

『ほんとうの わたしは』

                                            
                          わたしの なかの わたしは

                          わたしの なかに あって
                          そのなかでも いちばん わたしで ある わたしは

                          こんな すがたを しています

                          なんねんも かけて 
                          ようやく みつけだしました

                          それは のぞんでいる すがたでは なかったけれど

                          それは 
                          こんなふうに からまりあって
                          こんなふうに うすきみわるくて 
                          こんなふうに さみしそうな すがたで あったのだけれど

                          それが
                          わたしの こころの ちゅうしんで
                          ひとり ぽつんと たっているのを みつけだした そのときから
                          わたしは いっしゅんたりとも めを はなさずに
                          それを みつめつづけて いるのです

                          きっと もう 
                          にどと そこから めを はなすことは ないでしょう

                          だって わたしは 

                          すべてのものを それを とおして みてきたのですから




上記の絵はすべてこのブログの友人であるふたつさんの作品です。

彼の他の作品は

壁の上の幻想

Naka  Futatu


の3つのギャラリーで見ることができます。

今回はわたしが個人的に好きな作品を選びました。

みなさまにもお楽しみいただければ、そしてなにかを感じて頂ければ幸いです。

もしひとりでもこれらの絵を気に入ってくれる方がいたら、それはわたしにとっても、
大きな喜びです。

感想をお聞かせいただければ幸いです。









日向のヒューモリスト


もう10年以上も前から繰り返し愛読しているブログを、また眺めていたら、中に「日向のヒューモリスト」という言葉を見つけた。ブログの筆者である女性が、知り合いのミュージシャン(?)を評して言った言葉。

いい言葉だなと思った。

わたしはここのみなが認めるように、「闇」の人だ。

真っ平ごめんと 大手を振って
歩きたいけど 歩けない
いやだいやです お天道様よ
日蔭育ちの 泣きどころ
明るすぎます おいらには

と、「傷だらけの人生」をテーマソングにしているような、「影」を好む人間だ。

けれども、「日向」とか「陽だまり」というのは、「日の当たる場所」とはいえ、
夏の太陽やヒマワリといったイメージとはだいぶかけ離れている。
夏の照りつける太陽のような容赦のなさ、強烈さがない。
だからこそ、お年寄りや病人、老いた猫などが「ひなたぼっこ」をするのだ。

そして、ユーモアというのもまた、日向や陽だまりに似ている。

人間の知的・情緒的活動の中で、最も高度なものが「ユーモアのセンス」だと思っている。

殆どの日本人同様、わたしにはユーモアのセンスが決定的に欠けている。

プリーモ・レーヴィも、石原吉郎も、エミール・シオランも、シモーヌ・ヴェイユも、ユーモアとは程遠い。ドロローサもオーファンも、実際に会ったことがないので、確かなことは言えないが、少なくとも彼女たちの描く絵を観ている限り、「日向のヒューモリスト」というイメージではない。

じゃあどのような人が「日向のヒューモリスト」と言えるのか?

何とか名前を挙げられるのは、尾崎放哉、正岡子規、芥川龍之介、遥かに時代を遡って、良寛、一茶、
今の人と言われると、既に故人だが、加藤和彦。日本人ではこのくらいしか思いつかない。

「ユーモア」の定義もわたしにはよくわからない。これも辛うじて言えることは、
サービス精神旺盛な人、つまり人を喜ばせることが好きな人、知性のある人、
優しい人、思慮深い人、包容力のある人、自己犠牲を厭わない人、稚気を持った人・・・

わたし自身到底日向にも、ヒューモリストにもなれない。
「秋霜烈日」に対して、それは「春風駘蕩」という言葉が似合うから。
かといって、オポチュニスト(日和見)でもオプティミスト(楽観主義)でもない。

考えれば考えるほど「日向のヒューモリスト」とはどのような人を言うのか分からなくなる。ただ、そのような人は、芸術家や作家、そしてマスコミに出るような職業の人の中に探すよりも、案外名もない庶民の中に多く隠れて(埋もれて?)いるのかもしれない。







2019年9月25日

「殺・風景」


今から20年前、1999年に出版された鬼海弘雄の写真集『東京迷路ーTokyo Labyrinth』に3人が文章を寄せている。ポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダ、そして種村季弘、赤瀬川源平である。

アンジェイ・ワイダの序文を抜粋引用する。

キカイ・ヒロオの写真には抵抗しがたい強烈な詩情が溢れている。
現代の写真家の中で、彼ほど都市の生理を把握している人間を私は知らない。
人の手によって建設させた人工物でありながら、有機物のごとく生成し老熟する建築物。これら、キカイが撮影したトーキョーの姿は、社会学的な背景は語らずとも、彼の詩的感性を雄弁に物語っている。
 あえて人間の姿を排除し、看板や洗濯物などの何気ない”モノ”を掬いとるという方法により、キカイの企みは鮮やかに強調されている。彼は、通行人や出来事をスナップするといった、よくある見え透いた技巧には関心を持たない。それよりも街角が持つ固有の”人格”に深い共感(シンパシー)を抱いているのだ。
 だからこそ、この一連の写真を見る者には、街に運命的に縛られながらも、人生を気高くかつ深刻に甘受している人々の姿が見えてくる。

この文章のタイトルは「街角のエクリチュール」。



「街角」と「街」は同じではない。「街角」とは、地図上の任意の一区画を切り取ったものではない。しかしこの文章を読むと、ワイダは、トウキョウという「街」或いは「都市」と、その内側でひっそりと息づいている「街角」という、いわば対極に位置するものを混同しているようにも読める。

「人の手によって建設させた人工物でありながら、有機物のごとく生成し老熟する建築物。」確かに鬼海はそれらの建物を、この写真集に蒐めている。しかし本書の中で種村季弘が指摘しているように、「人の手によって建設させた人工物でありながら、有機物のごとく生成し老熟する建築物」がほとんど喪われてしまっているのが、1999年当時の東京という街であり都市である。

「街角が持つ固有の”人格”」── そう。「固有の人格」を持つのはあくまでも「街角」=「大きな街の小さな片隅」であって、街には、少なくとも東京という街には「固有の人格」という形容は当てはまらない。
「エクリチュール」を持つのも、やはり種村が言うように、鬼海が「拾い蒐めた」個々の建物であって、この街にエクリチュールはない。

「だからこそ、この一連の写真を見る者には、街に運命的に縛られながらも、人生を気高くかつ深刻に甘受している人々の姿が見えてくる。」

街に運命的に縛られながらも、人生を気高くかつ深刻に甘受している人々の姿・・・?

いったいどこの話をしているのか?



一方種村季弘は、鬼海が蒐集した建物たちを、東京に生きる百鬼夜行=付喪神(つくもがみ)だと評した。

種村は言う

まだ現役のつもりでいたのに、高度成長だの列島改造だのという異人さんがどやどや押しかけてきて60年代以前の平べったい東京の主役だった町並みは真っ白な高層ビルに押しのけられ、見る影もなく追い詰められ押しつぶされされた。ここ30年間見なれた、というより見飽きた風景である。だが押しつぶされそうになりながらもまだなんとか生き残っている。地上げの毒牙をよくぞ逃れ、戦後戦争の小野田さん横井さんとして、高層ビルのジャングルに深く静かに潜行し、あっぱれ無降伏・無転向の成果を上げた。

種村は一貫して、鬼海の写した建物たちをこのような戦後東京の「生存者」であり「妖怪変化」であるという。そして妖怪たち、付喪神たちが、このように魅力的なのは、超高速消費都市東京では、新しいものはあっという間に古び、廃品になり用済みになり消え去ってゆくというパラドクスのせいであるという。だから古くから生き永らえることのできた物だけが「付喪神」になり得るのだと。

しかしいずれにしてもこの鬼海弘雄の写真が写しだしているのはすべて前世紀のものばかりである。敗戦の年に生まれた建築家松山巌をして、種村季弘の死後、あまりの東京の変貌ぶりに、「種村さん、見ないでよかったよ」と言わしめたほどに、東京の姿はこの写真集が出版された時代から大きく変わった。

「あとがき」に鬼海弘雄は記す。

ある時ふと、ポートレイトが、単にその場その時の人の表情を捉えるだけではなく来し方や価値観など、内面性や人柄をも写すことができるなら、同じことが風景写真でもできるのではないかという思いがよぎった。人が暮らしている町角や路地を撮って日々の暮らしから漏れ出す”匂い”を写すことができるのではないか。

果たして、21世紀のトウキョウに「テクスチャー」や、「人格」や、「付喪神」、「暮しの匂い」 があるのだろうか?
今日、ポートレイトについて「単にその場その時の人の表情を捉えるだけではなく、来し方や価値観など、内面性や人柄をも写すことができる」と言いうるのだろうか?
そして風景写真について言うなら、種村季弘の言う、「生存者」や「付喪神」は未だ存在しているのだろうか?

フォン・ヤイゼル神父は私が日本に帰って数年後に亡くなったが、たとえば電車の窓から雑然とした町並みを眺めていて、よくひびく彼の声が東京の空にとどろきわたるような気のすることがある。こんな思想のない街に暮らしていたら、きみたちはこれっぽっちの人間になってしまうぞ。

これは須賀敦子が松山巌の依頼に応じて、彼の著作『百年の棲家』の解説として認めた一文の結びである。

松山巌と同じ1945年に生まれた鬼海弘雄は『東京迷路』出版後20年を閲した現代のこの都市をどのように見ているのだろうか。












2019年9月24日

大学は出たものの・・・


時々無理して大学など行かずに、美術系の専門学校にでも行っていればよかったかもと思う。けれども人付き合いの苦手なわたしは結局普通の大学でもアート系の学校でも、親しい友人を作ることはできなかったかもしれないとも。

アート系=個性派乃至エキセントリックとは限らないだろう。

今、すべての人が同じように感じ、考え、行動する(ように見える)時代に、美大生やアート系の専門学校の生徒たちはどうなんだろう?
やはり似たように感じ、似たように考え、似たように描くのだろうか?


今日はカイ・ニールセンの絵を。

彼の輸入版の薄い画集、10年ほど前に新宿紀伊国屋で求めたのだけど、ほとんど開かないままになっている。


◇    ◇


In Powder and Crinoline, Fairy Tales Retold by Sir Arthur Quiller-Couch,1913,  Kay Nielsen, (1886 - 1957)

“Sir Olaf and the Underworld,” 1913,
transparent and opaque watercolor, pen and brush and ink, gesso and metallic paint, over graphite.Kay Nielsen, (1886 - 1957)

Via


あなたには自らの存在を消す兆しがあったが、

あなたの魂が出て行ってしまったのか 止まっているのか分からなかった

                        ルース・ポソ・ガルサ








2019年9月23日

底彦さんへ


最新の投稿拝見しました。

実はわたしも先程似たような内容の文章を書いたのですが、何故か投稿する気になれませんでした。

わたしには先が無いということ。つまり何度も繰り返し書いているように、「良くなれるのか?」「ずっとこのままなのか?」という不安・焦燥の無い代わりに、「良くなるということはあり得ない」という厳然たる事実。しかしそこに絶望はありません。「絶望」があるから「絶対によくなることはできない」のです。絶望は、現状の結果ではなく、原因なのです。
そんなこれまで570遍も書いてきたことをまた今日も繰り返すことに意味を見いだせなかったのです。

丁度そんな時に底彦さんの投稿を読んで、考えました。

いくつかお聞きしたいことがあります。もちろん今の底彦さんの状態は承知していますので、書くだけ書き残させてください。

もし差し支えなければ、気分のいい時にでも気軽に、率直にお答え頂けると幸いです。

1)底彦さんにとって、「治った」=(完治ではなくとも)と言えるのはどうなったときでしょうか?

2)底彦さんの生きる動機とはなんですか?

3)現在の治療にほぼ満足していますか?

4)底彦さんの苦しみの根源は何だと思いますか?

デイケアでも、クリニックでも、「治るという意味がわからない」と言っても、誰にも通じないのです。このもっとも大本のところで話が通じないのでは、そもそも治療とは何でしょうか?
「それはね。治ってみて初めて分かるものなんだよ」という話は、まったくふざけた話だと言えるのでしょうか?

木村敏のエッセイの中にリルケの「若き詩人への手紙」の一部が引用されていました。

以下書き写します。

「……あなたの心の中の、あらゆる未解決なものに対して忍耐をお持ちなさい。そして問題そのものを、閉ざされた部屋のように、非常に見慣れない言語が書かれた本のように、愛するようになってください。今は解答をお探しにならないでください。解答は、あなたがそれを体得することがお出来にならないでしょうから、今はあなたに与えられ得ないのです。大切なことは、あらゆることを体得する、ということです。あなたは今問題を「体得」しなさい。多分あなたは次第次第に、それとお気付きにならないで、遠い将来のある日、解答の中へ入り込んで、解答を体得なさるようになるでしょう。……」(下線、本書では傍点)
ー木村敏『形なきものの形』〈音楽・言葉・精神医学〉

「治るということがわからない」というわたしに対して、「それはあなたが治ってみて初めて分かることなんだよ」といわれて、リルケの言葉を読むと、なんだかキツネにつままれたようです。

けれどもこれを単に馬鹿げたアネクドートと一笑に附せないなにかがあります。











憂鬱な秋…


八月の末にはもう

すすきの穂が山々に

銀髪をくしけづる (西脇順三郎)



しかし近所の小公園のすすきはことごとく根こそぎ引っこ抜かれた
もうあの小公園にすすきの穂がなびくことはない

紅葉の季節ともなれば、別の大きな公園では市に委託された業者たちが
地に落ちたそばから落ち葉を掃き清めてゆく
やかましい送風機で吹き寄せては
うつくしく色づいた病葉をゴミ袋の中に
ぎゅうぎゅうと押し込んでゆく
そう 道を清めてゆく
爆音を響かせて
子供が、お年寄りが、落ち葉を踏んで滑って転んで怪我をしないようにと

だからわたしはもう秋が好きではいられなくなった。




お母さん わたし感じるの

ごみ箱や堆肥のなかに

人間らしい気持ちにさせるものが

いってみれば神さまが

ごみ箱のなか 堆肥のなか じゃれてる猫

神さまはどんなところにだっているわ

そうでしょう お母さん



「お母さん ごみ箱の中に神さまが」

『スティーヴィー・スミス詩集』郷司眞佐代 訳(2008年)より






2019年9月22日

スティーブン・フォスター


今から34年前。1985年の『暮しの手帖』を眺めていた。中に「レコード」を紹介するページがあった。

作曲者の名は知らずとも、彼の作曲した曲は誰もが聴いたことのある、アメリカのスティーヴン・フォスター(1826-1864)のレコードが紹介されていた。
「ケンターキーのわが家」「おおスザンナ」「オールド・ブラック・ジョー」「夢見る人」「故郷の人々(スワニー川)」「草競馬」・・・

時代がほぼ1世紀ほど下るが、アメリカの国民的作曲家というと、真っ先に、ジョージ・ガーシュインを思い出してしまう。もちろん、ガーシュインに限らず、彼と同時代、即ち、20世紀初頭には、アーヴィング・バーリン、コール・ポーター、リチャード・ロジャース、ジェローム・カーン、ホーギー・カーマイケル etc...と、枚挙に暇がないくらいだが、主にジャズ・シンガーたちに歌われ、ミュージカルで歌い踊られた彼らの歌に比べて、スティーブン・フォスターの歌は、庶民の生活の中に息づいているフォーク・ソングであり、民謡と言えるだろう。


しかし、解説によると、フォスターはうつくしい歌を数多く作りながら、経済的には恵まれず、アルコールにからだをむしばまれて短い生涯を閉じたのだった。
「金髪のジェニー」という歌を捧げたジェニーとは、結婚後3年後には別れ、37歳の若さで一人ぼっちで死んだとき、ニューヨークの貧民街の木賃宿に残っていた身の回りの品は、背広一着、ズボン一枚、チョッキ一枚、帽子ひとつ、靴が一足、外套一着。下着も靴下もなく、小さな財布の中には「親しい友達、そして優しい心」と走り書きした一枚の紙切れと、所持金が38セントだけだった。




これを読んで、涙がこぼれた。彼の不幸な生涯に同情したからではない。

「親しい友達、そして優しい心」それがフォスターその人であり彼の音楽だった。

或いは人は彼の生涯を「あまりにも悲しい」「あまりにも不幸せ」だったと評するかもしれない。けれどもわたしは敢えて、彼の人生に、「あまりにも美しい」という言葉を添えたい・・・


Stephen Foster - Hard Times Come Again No More


Hard Times Come Again No More - Nanci Griffith



Al Jolson - Old Black Joe


わたしはフォスターの「ハード・タイムス・カム・アゲイン・ノー・モア」という歌を、
ナンシー・グリフィスの『アザー・ヴォイセズ TOO』(1998)で20年ほど前に初めて知った。
「ケンターキーのわが家」や「草競馬」の同じ作曲家が、こんな辛い歌を作っていたことを初めて知ったのだった。


レコードは高級なCDだなと思い、『暮しの手帖』をめくりながら、良質な雑誌は大人のインターネットだと思った。








2019年9月21日

人生の寓話



〔寓話の続き〕


その物語は刺繍した布のような 神秘の中の

郷愁のフォルム


あなたは薄暗がりの中で人生と言葉を紡いだ

とても細い糸で 夢の断片を

それは傷付いたバラの混沌の物語


終わりがあるということ


沈黙とともにナイチンゲールがやってきた

揺らめき 拠り所のない風が

愛が集まる脆い楽園の郷愁に

近づいていた


夢は雪の詩集をされた青いリンネルの

ハンカチに似ていた


その糸は傷ついた雨であった


物語は続き ゆっくりと

深く 暗く 不治の傷となった

その存在のまさに中心で…




『ルース・ポソ・ガルサ 詩集』桑原真夫 訳 より












デイケアと気づき


昨日(木曜日の午後)と今日の午前中のデイケアに参加した。
昨日はまたもや「集団認知行動療法」。前回で、(少なくともグループ「集団」でやる)認知行動療法には懲りているはずなのに、今回のテーマが「アンガー・マネジメント」=「怒りの感情をコントロールする」ということで、参加者がどのようなことに怒りを感じ、それにどのように対処しているのかを知りたいという興味が上回り、結局方向転換して参加することにした。

過日他のプログラムで「睡眠」がテーマだった時に、冒頭の「寝る前に何をしますか?」という質問に、参加者は「眠剤を飲む」などの他に、様々な、自分なりに寝る前の習慣にしていることを上げた。「トイレに行く」「明日の天気をチェックする」「目覚ましをセットする」etc...その時にわたしは、「寝る前」というのがいつなのか分からない。と答えた。仮に日によって寝る時間がまちまちであっても、「寝る前」というのは必ずあるはずだ。けれども、わたしは同じように「いつ起きているのか」もわからない。今こうして文章を書いている時も、果たして「いまは起きている時間」と言えるのか?更に言うなら、「いまわたしは生きている」といえるのかさえ覚束ない。



話を戻して、昨日の「アンガー・マネジメント」。プログラム開始前の自己紹介と今日のテーマに沿った一言は「イライラした時の対処法は?」であった。みなさんは「素数を数える」とかいろいろ(・・・忘れてしまった)な対処法を上げていた。わたしは、「イライラ」の意味するところがよくわからなかったので、それを「怒り」に置き換えて答えた。わたしの怒りの対象は、広く「外界」である。昨日今日のように、日傘が必要な日差しの中で、無駄に電気を点けている駅のホーム。
アイドリングをしているクルマ。スマホバカの群れ=(・・・というのはトートロジーだ。「群れている」から「バカ」なのだから)

外界、即ち世界は、わたしが怒ったところで、ビクともしない。だから答えは「怒りは内攻し蓄積される」であった。

例によって、資料として配られたプリントが、まったく無内容な空疎なものだったので、話し合いの内容は割愛するが、終了前のそれぞれの感想でのわたしの発言は、「このプリントの冒頭に書かれているように、「怒りというものは、その人の価値観や生き方、こだわりから生じるもの」という点に関しては同感です。怒りは正にその人の一部です。だとすれば、あえてそれを消去したり、マネジメントする必要など全くないと思う」

わたしはまたもや認知行動療法的な発想を全否定したわけだが、これも前回同様、わたしの発言に対する目に見える反発・反感はどこからも感じられなかった。
それどころか、極端で過激な形ではあるが、自己の主張を真っ直ぐに、愚直に表明することに(した後で)グズグズと悩んでいるのは当人だけのようにさえ見えた。



今日の10時半から行われたのは「スモール・グループ・セラピー」というもので、
皆であれこれ話し合いましょうという、特定のテーマを設けずにディスカッションするプログラムだった。

せっかく午前中に来たのだし、日頃感じていることを発信した。

「・・・今日ここにおられる何人かの方たちも既にご承知のように、昨日も含む一連の「集団認知行動療法」への毎度の異議申し立て、他のプログラムでも見られる突飛な発言、またそれに対する自分の内部でのスッキリしない気持ち。一方で、同じプログラムに参加している人たちが、いつも気軽に笑顔で挨拶をしてくれるということへの不思議な感覚。そして、普通はこういう場所では、(もちろん「合わない」といって来なくなる人もいるでしょうが)こうして継続している者は、次第に皆に、その場に馴染んでいくものではないかと思うのですが、逆にわたしは回を追うごとに、皆との距離、隔たりが少しづつ広がってゆくように感じています。それは単に意見の相違ではなく、多分みなさんとわたしとの根本的な生き方の相違、そして病気に対する向き合い方の違いだと感じています。しかしそのように、根本的な生き方や考え方が180度違う人たちからのいつも変わらぬ「笑顔の挨拶」というアプローチに、ある種のダブルバインドを感じて戸惑っています・・・」

そして改めて、わたしがここに通う意味は何なのか?もう1年近く通っていながらその疑問は深まるばかりだと訴えた。

それが今日の前半のテーマになったが、ここに些細だが小さからぬ意味を持つ出来事が起きた。
通常のプログラムと違って、このプログラムではテーブルを使わないで、みんなで円形に椅子を並べて座る。わたしのふたつ隣の女性は、いつも認知行動療法に出席している人で、大抵、「とても参考になりました」と言う人である。つまりわたしとは対照的に、認知行動療法を肯定的に捉えている。

昨日、午後のプログラムが終わり、ほとんどの人が帰った後に、プログラムを行う部屋で、そのひとはいつものメンバーと卓球をやっていた。わたしが、資料を返しにその部屋に戻った時に、「Takeoさんは卓球やらないの?ここで覚えられるよ」と声をかけてくれた。
笑顔で声をかけてくれる人のひとりである。

そして今日、その人は、ふたつ隣のわたしに向かって「今朝はこのプログラムには参加しないで、トランプをやるつもりでいたけど、あなたの姿を見たので急きょ出席することにしたのよ」

それに対して、「昨日もそうですが、わたしがどちらかというとあなたの意見と反対の発言ばかりしてるのに・・・えっと、お名前何とおっしゃいましたっけ?」
と、その人の方に手を伸ばした途端、その人とわたしの中間に座っていた女性が急に「アア コワイコワイコワイ」と声を上げた。

思いもよらない展開にわたしの方が驚いた。驚いたし、大げさではなくこちらの方がいきなり刃物で切り付けられたような「衝撃」を受けた。あの時、その女性の言葉がもっと別のものだったら、(たとえば「こわいじゃないの」「いきなり手を伸ばさないでよ」等)わたしは二度とあの病院のデイケアに行くことはなかっただろう。
嘗て、「あなたの声が大きすぎて仕事にならない」とヤマトのサービスセンターで同僚の女性に言われて、翌日直ちに仕事を辞めたように。

その後、「コミュニケーションをとる時に気を付けていることは何ですか?」という質問に、3人が「人の嫌がることを言わない(しない)」と答えていた。だがそれは不可能なことだ。わたしは声の大きさで人の仕事の妨害をし、一つ隣の人に手を伸ばしただけで怖れられた。誰をも傷つけないなどということは対人関係に於いては絵に描いた餅なのだ。

そして後半は、ひょんなことから、「食欲の秋」=「好きな食べ物」という話題になった。
これまでシベリアだったのが急にホノルルかフロリダかどこかに移ったようにそこに居る(ほぼ)全員の顔が明るくなり、皆がハイハイと手を上げて、好きな食べ物の話を「これがあの人?」という感じで、明るくハキハキと話すのだ。こんなみんなは初めて見た。
正に厚い雲が裂けて陽光が降り注いだといっても大げさではない様子だった。
もう少し分析的に言うなら、ずっと抑えてきたものが一気に噴き出したという感じ・・・

その中でわたし一人だけが、作り笑顔で沈黙していた。大勢が盛り上がっている雰囲気というのにどうしても馴染めないせいか、そもそも「食」にあまり関心がないせいかわからない。
まだ仕事をしていた頃のことを思い出した。
休み時間になると、どこでも必ずいくつかのグループで盛り上がっている。
大抵はスポーツの大会や、ワイドショーで取り上げられている話題なのだが、わたしはどうしても入っていけない、というよりも、自分に興味のない話に加わろうと思ったことがなかった。仮に興味のある話であっても、「集まって」というのに抵抗があった。

わたしは高校卒業以降、何かの話題で、グループでワイワイと盛り上がったことが一度もない。どんな話題であろうといつも醒めている。唯一の例外は一対一の場合のみ。

それからデイケアに通って、改めて気づいたことだが、わたしは昔から講演会で200人の聴衆のいる中でも、質疑応答の時間になると真っ先に手を上げて、「異論を」述べていた。
その場にいる老若男女200人がわたしに注目していても何も感じなかった。

ところが、デイケアで、プログラムの前や後、ちょっとあの人と話してみたいなと思ってもそれができない。拒絶的拒否的な反応をされるのが怖いのだ。

壇上の著名な講師に向かって反論をぶつけることは怖くはない。何故ならそういう疑問をぶつける時間であるから。けれども個人的に声を掛けるとなると、極端な話、椅子を立って別の場所に行かれてしまうことさえある。同世代や年配の同性に対しても同じ怯えがある。
露骨に席を立つなんてことはないだろうが、微かな表情に拒絶の気配を感じ取ってしまう。先日話を聞いてくれたスタッフのTさんだって、帰り際、「お先に失礼します」と言った時のちょっとした表情にも「ああ、ジツハ キラワレテルナ」と感じてしまう。

ちょっとした語尾のトーン、言いながら、チラと壁の時計に目をやる、机の上の書類をめくる等。

デイケアに参加して、「気づく」ことは少なくないが、どちらかというと、自分の弱点ばかりの気づきであることに気付くのだ。

そして今日の「コワイコワイコワイ」が今後どのようにわたしの傷として尾を引いてゆくのか?









2019年9月17日

溺れるものと救われるもの・・・


「おまえはだれか別の者に取って代わって生きているという恥辱感を持っていないだろうか。特にもっと寛大で、感受性が強く、より賢明で、より有用で、おまえよりももっと生きるに値するものに取って代わっていないか。おまえはそれを否認できないだろう。お前は自分の記憶を吟味し、点検するがいい……いや、はっきりした違反はないし、誰の地位も奪っていないし、誰も殴らなかったし……誰のパンも奪わなかった。しかしそれを否認することはできない。それは単なる仮定だし、疑惑の影である。すべてのものが兄弟を殺したカインで、わたしたちのおのおのは……隣人の地位を奪い、彼に取って代わって生きている。これは仮定だが、心を蝕む。これは木食い虫のように非常に深い部分に巣食っている。それは外からは見えないが、心を蝕み、耳障りな音を立てる」
ープリーモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』(八四ー八五頁)

散文では「心を蝕み、耳障りな音を立てる」と書かれている部分を詩で書くと、
「下がれ、ここから立ち退け、溺れたものたちよ……」というような表現になるのだ。この詩を読んで分かるのは、1984年の時点で、レーヴィの心は明らかに「むしばまれて」いたことだ。「予期せぬ時に」現れたのは、レーヴィが生き残ったことを非難し弾劾する死者の群れだった。これは恐ろしいことだったろう。そしてそれを詩に書くのは、この恐ろしさに形を与えることで、更なる精神的負担がかかっただろう。だが彼はあえてこの詩を書き、その冒頭にある「予期せぬ時に」という言葉を詩集のタイトルにした。


プリーモ・レーヴィ「生き残り」解説

『プリーモ・レーヴィ全詩集ー予期せぬ時に』竹山博英訳(2019年)より





わたしに向けられる如何なる悪罵、中傷、批判に対しても、わたしの心はこうささやく、

「おまえはそれを否認できないだろう」・・・

プリーモは別の詩の最後で

「私が今こうして生きているのは私の罪ではない!」と叫んでいる

しかしプリーモが敢えてそう叫んだのは、叫ばずにいられなかったのは何故か?

そしてわたしは、わたしを「罪人」と呼んだ者に、わたしの生を「罪」と断じた者たちに対して

「わたしが今こうして生きているのはわたしの罪ではない!」と抗弁できるだろうか?

わたしを傷つける者は常に正しい。わたしの「傷」がそれを証ししている・・・

わたしの心が耳元で囁く

「おまえはそれを否認できないだろう」・・・









夜の花たち


Illustrations for Sir Orfeo (a Middle English narrative poem related to the ballad "King Orfeo") and Thorn Rose by British book artist Errol Le Cain (1941 - 1989).
Via

英国のイラストレーター、エロール・ル・カイン(1941-1989)の作品です。
メキシコのシュールレアリスト、レメディオス・ヴァロやレオノーラ・キャリントンを思い起こします。
(画像をクリックすると大きなサイズで見ることができます)



詳しくはわかりませんが、15世紀に端を発するスペイン系ユダヤ人たちの音楽のようです。いわばフォークロアです。



2019年9月15日


9月に入って、「群れ」という投稿を最後に、PV0か1の日が続いています。
これはまったく現在のわたしの体調及び精神状態(の悪化)と軌を一にしています。
今、わたしは本気で「認知症」ではないかと疑い始めています。でなければ「分裂病」か。

他者と話が、或いは気持ちが噛み合わない。それもまったく噛み合わないということは、差し当たり、(すでに複数の人格障害及び広汎性発達障害という(一応の)診断は受けていますので)これまでになかった症状の発症ということが考えられます。

幸いデイケアに通っている精神科病院で、「認知症外来」をやっているので、問い合わせだけでもしてみたいと思っています。


ブログについても、最早メンバー制などという段階ではなく、ブログを書き続けること自体の意味を見失いつつあります。つまりわたしの文章が誰かしらの心に届いているのか?
いや。「心に届く」などという段階以前に、そもそも文章としての体裁を成しているのか?ひょっとして、真夜中に「おはようございます!」と本気で言っているようなことを、毎日このブログに書き続けているのではないかという不安が強くあります。

パソコンに向かっている時間も日ごとに短くなっています。

その分寝ている時間がまた増えるわけです。

デイケアについても、プログラムに参加する度に、他の参加者との見えない溝が広がってゆくのが感じられます。彼らはみな「今の状態を改善したい」「少しでも良くなりたい」という気持ちで参加しているように思えて仕方がありません。── もし今この文章を読んで、「当たり前じゃないか」と思われたなら、わたしがデイケアに参加する意味は何でしょう?
「良くなりたいなどと思っていない」、とは言いませんが、何度も繰り返すように、
「改善」「快癒」の意味がまったくわからないのです。

例えば、月曜日から金曜日まで毎日5時間、コンビニでバイトすれば、月に200万円といわれても、お断りします。わたしには「老後」も「親亡き後」もないのですから、今現在、最低限の衣食住に困っていなければ、金などいくらあっても使い途が無いのです。唯一の使い途と言えば「寄付」でしょうか。

欲しいものも、食べたいものも、やりたいことも、行きたいところもないのです。
今、ここに、なんとか生存している。それだけで精一杯なのです。
わたしにとって、「治癒」或いは「よくなる」ということは、現在の生からの解放以外にないのです。













つづき


下で悪態をついた人たちはしかし、わたしなどよりも遥かに(これも非常に稚拙な表現だが)「利口な」「賢い」人たちだ。

わたしが数日前に残した子供染みた疑問、

「西行が秋の夜空に見上げた月と、彼がそれを詠んだ歌とはどう違うのか?」

「ゴッホが描き、そして枯れ朽ちて棄てられたひまわりと、彼の絵の中のひまわりとはどう違うのか?」

「月と歌、花と画、それらの関係はいかなるものか?」

「美とアート(藝術作品)とは分かち得るものなのか?」

等々・・・

わたしの稚な過ぎる疑問について、彼らはとうにその答えを知っている。

けれどもわたしはかように「無智」な自分を恥ずかしいとも思わないし、殊更居直るつもりもない。

ただ、彼ら/彼女らとは所詮異質の存在であるという認識を持つだけだ。

上記の疑問はわたしの愚かな頭に浮かんだ、朧な謎であるに過ぎず、

これについての「答え」(?)を知りたいと思っているわけではない。

どころか、「検索」しても答えが得られない「愚問」「奇問」で頭を充たしたいとさえ思う。

それとも現在(いま)はどんな疑問にも答えが得られてしまう時代なのだろうか?



ところで西行と言えば、昨夜パラパラとめくっていた母の本、中井久夫の『最終講義』に、このような言葉を見つけた。

西行法師は歳老いてなお、去年に通って再び通る時の道知るべに枝を折っておいた道を通ることを止めて、新しい方角の花を見ようと言っています。
*吉野山去年(こぞ)の枝折(しを)りの道かへてまだ見ぬ方(かた)の花を訪ねむ。ー山家集ー

なるほど、(本のページの端を折って目印にする。)「しおり」とは「枝折り」からの転用だったのか。

確か英語では、話が脇途に逸れ、本題に戻るとき「ところでどこまで話したっけ?」というのに" Where am I ? "(Where are we ?) 「えっと、いま何処にいるんだっけ?」と言うのじゃなかったか?
これも朧気な記憶・・・

道に迷わないように、というと「アリアドネの糸」を思い出す。
(同書の最後に、中井久夫がみすずから出している書籍の一覧があり、中に『アリアドネからの糸』というエッセイが出版されていることが記されていた。)



わたしは立ち止まっている。小枝を折る必要も、アリアドネの糸を引いてゆく必要もない。そして自分が何処にいるのか、わからない。

目の前の折れた枝が何を意味するのか、わからない・・・

当たり前だ。寝ている間にベッドごと急流に流されるように居場所が変わり、眼覚めたらまるで見知らぬ土地。目の前の木の枝をポキリと折ったところで、自分が何処にいるのか、わかるわけがない。アリアドネの糸も、どこかでブツリと切断されてる。
「切れた」のではない、「時空」が異なるのだ。

・・・それが、わたしが「引きこもり」である理由だ。

元いた場所と、今現在との連続性が、無いのだ。

わたしのような重度の精神障害を持たない者にはこの感覚は理解できないだろう。簡単に言うと、「竜宮を持たない浦島」だ。
けれども、重度の精神障害がこの失見当識を齎したのか?
時の流れの急激な速さが、わたしの精神に変調を齎したのか?
ここにもまた謎が残る。






いやな感じ…


わたしは本質的な部分で誰とも違う。その部分を大事にすべきなのだ。

「その部分を・・・」しかし「相違点」というには、わたしという存在は余りにも「異形」であり「畸形」だ。仮に似せたいと願っても、似せることは叶わない。



「本好きな優等生」たちのブログやSNSには耐えられない。

何故だろう。知的障害による劣等感もあるだろうが、そのせいだけではないような気がする。

引き合いに出して申し訳ないが、このブログ そして同じ人によるツイッター

更に別の「文学・文科系」ツイッター Here そして Here 

彼ら/彼女らに・・・ではなく、そのブログやSNSに対するこの暴力的ともいえる嫌悪感はどこから来るのだろう。

二階堂奥歯の『八本脚の蝶』では決して感じることのなかった違和感と嘔気・・・

それが単にSNSへの忌避感でないことは、上記で示したように明らかだ。

この「いやな感じ」はどこから来るのか・・・

彼らと似るくらいなら、わたしは白痴でいい、狂人でいい。

否。正確に言い直そう。

「白痴」がいい。「狂者」がいい、と。






2019年9月13日

愚者よりの問いかけ


下の投稿を読んで、感じたことがあれば是非お聞かせください。

西行法師が見た夜の空にかかる月と、それを基に作られた歌との違い。

ゴッホが描き、やがて枯れ萎れて棄てられたひまわりの花と、彼の画との関係。

「美」と「藝術作品」とは分けられるものなのか?

わたし個人は、同じ時間があれば、ルーブルで人をかき分けて絵を観るよりも、

誰もいない荒地で、崩れかけた飛行機を眺めていたい。

美とアートの関係についてお聞かせいただければ幸いです。

またよろしければ、「何故差別は悪いことなのか?」を教えてください。

わたしには矛盾があります。差別というものを生理的に受け付けないこと。

そしてどうしようもなく生理的に受け付けない物・人たちがいるということ。

わたしは前者を憎むと同時に、後者へ憎悪を向けることも躊躇しません。

そのことに関してもご意見を伺えればと思います。









2019年9月12日

おそらく・・・


おそらく真の「美」とは「反・藝術」であることを必然的に志向している。

美術館に恭しく陳列された「藝術作品」は、それが「藝術」であるという意味に於いて避けがたく「有用性」を、そして「社会性」「公共性」を担っている。

美は、「藝術」の刻印を推された瞬間に「有用性」へと転落する。

「モナ・リサ」は「藝術作品」ではあっても「美」ではない。

真の美とは何か?

それは嘗て西行が、宗祇が、芭蕉、蕪村、一茶、そして尾崎放哉が、山頭火が、路傍で、即ち「生の途上で」「自らの生の内部に」「見出したもの」に他ならない。

美は、「私一個の眼差し(=生(き)の感覚)」以外一切の根拠を持たない。

ゆえにそれは「全き無名性」の裡にこそ秘められている。

譬えるなら「藝術作品」が「宝石」なら「美」とは「路傍の石ころ」である。

では何故路傍の石が美しく見えるのか?それは「美」が「悲しみ」と同じ等高線上に位置するものだからだ。

「美と悲しみを知る者のみを私は愛する」とワイルドは言った。

美を知る者は悲しみを知る。悲しみを知る者は美を知っている。

どちらか一方のみということは、あり得ない。

しかし深い悲しみを知らない者は美に盲目である。仮に「藝術作品」を分厚い目録が作れるほどに「鑑賞」していたとしても・・・


ー追記ー

下の投稿「廃墟」に於いて、真の美は言うまでもなく、朽ちゆく飛行機そのものである。
フェデリコ・パテッラーニの「写真」と、そこに写されている飛行機とを並べた時、「美」がどちらにあるのかは言うまでもない。
写真はあくまでも「メディア」=「媒介」に過ぎず、「美」そのものではない。

しかし「美そのもの」と「写真」「絵画」「音楽」のような「藝術作品」との明確な違いが、わたしには分からない。

西行が見た月は明らかに「美」そのものである。そして彼がそれを三十(みそ)一文字の「歌」に詠んだもの=「作品」との間の「美」の在り方の違いがはっきりとわからない。

わたしはおそらく二度と美術館に行くことはないだろう。
美が無ければ生きられないと言った。けれども、美術館が無くても生きてゆける。
しかし図書館が無ければ生きてゆくことは遥かに困難だろう。
インターネットが無くても生きていけるが、本なしでは生きてはゆけないだろう。
無論本とは「紙を閉じて作られた物」の謂いである。それ以外の本というものをわたしは知らないし、それ以外を「本」とは呼ばない。

「電子書籍」とやらを「本」と同一視している愚者を、わたしは「阿呆」と言って憚らない。








廃墟




Federico Patellani, Acquapendente (Viterbo), 1945
Gelatin silver print, cm 31.1 x 45.8 on paper cm 40.3 x 50.1,




イタリアの写真家、フェデリコ・パテッラーニの「アクアペンデンテ」(ヴィテルボ)(町の名前)撮影は1945年。

航空機の廃墟である。

滅びゆくもの、朽ちゆくもの、傷ついたもの、最早誰からも顧みられることのなくなったものたちは、なぜこうもわたしの心を捉えて離さないのか、何故こうも美しいのか・・・

夕風が心地よい野原に寝転んで、いつまでも眺めていたくなる。いつまでも傍にいたくなる。

いま、彼は一切の有用性から解放されて、ひとつの純粋な美であることのみを以て、そこに、在る。



詩人の立原道造は東大で建築を学んだ。彼は設計するときに、廃墟になったときの姿を思い描いて図面を引いたという。

「有用性と、価値と、意味に抗して」

彼が真の詩人である所以である。










2019年9月11日

デイケア、「睡眠」について


今月のデイケアのプログラムに「睡眠について」をテーマにした話し合いがあることは知っていた。はじめは参加の予定はなかった。急に参加してみることにしたのは、今現在のわたしにとって、「睡眠」=「眠ること」とはどういう意味を持つのかのヒントになる意見が聞けるかもしれないと思ったからだ。

いつものように、プログラム開始の前に、参加者一人一人の名前と、その時のテーマに沿った一言がある。今日は「寝る前に何をしますか?」
いろいろな習慣のある中、今更ながら、ああそうかと思わされたのは、「睡眠薬を飲んで・・・」という発言が多かったことだ。もちろんわたしも、1種類だが、睡眠薬を飲んで寝る。ただ、わたしの「寝る前に何をしますか?」についての答えは、就寝前の決まり事に関してではなく、「みなさん、寝る前に、あれをする、これをすると仰っていますが、わたしの場合、「寝る前」というのが、あるのかないのか・・・つまりこの時間からこの時間までが「起きている時間」で「ここからが寝る時間」と分けられない気がするのです・・・一日中寝ているともいえるし、一日中起きているとも言える。その辺り、みなさんにとって、睡眠とはどういうものかを参考にしたくて参加しました」

しかし例によって話は、「より良い睡眠のための工夫」「不眠に悩まされている」
といった「眠り」についての一般的な話題を中心に進められていった。

わたしが知りたいのは、現代人の「生活」にとっての睡眠とは、ではなく、現代の大都市に生きる者の「生」にとって、睡眠とはどのように位置づけられるのか?ということであった。

わたしは毎日ほぼ一日の半分を寝て過ごしている。けれども十時間寝ようと、十二時間寝ようと、スッキリしたとか、よく寝た、という感覚を味わったことがない。そして何故寝るのかというと、起きていてもやることがないからに他ならない。こう書くと、家の手伝いでもすればいいじゃないかと言われるだろう。
しかし、家事であろうと、仕事であろうと、一体わたしは「これ」をするために生きている(生まれてきた)のか?という気持ちになる。おわかりだろうか?

つまり食器洗いに全人生を掛けても悔いはないと、言い切ることができない。

とすればあとは寝るしかないじゃないか?

やることがなければ寝るか、さもなければ死ぬしかない。死ぬ踏ん切りがなかなかつかない。だから仕方なく寝る。寝るといっても、5時間6時間と持続して寝ているわけではない。ほぼ2時間おきに目が覚める。寝る、また2時間後に目が覚める。また寝る、2時間後に目が覚める・・・そんなことに一日の半分を使っている。それが何時間の睡眠であろうと、いつでも起きた時にはグッタリ疲れている。倦怠感が身体に覆いかぶさっている。何をする気も起きない。しかしもうこれ以上寝られない・・・



今日のデイケアでもこのような感じの発言である。
デイケアに通ってわかったことは、やはり彼ら、彼女らは、「心を病んだ正常人」だということ。そのことを改めて強く感じた。

ここでも、あそこでも、いい加減自分の変人ぶりに嫌気が差してきた。

デイケアに参加している人たちは(今のところ)みな友好的だ、けれども、一歩デイケア室を出て、心の病気以外の話になれば、おそらく誰とも普通に口を利くことはできないだろう。共通の話題がないという以前に、そもそもわたしには「話題」というものが無い。

外に出ない。友達がいない。テレビを見ない。新聞を読まない。インターネット依存症ではあるが、動画を視ない。ネットニュースを視ない。SNSをやらない。ネットでやることと言えば、主に海外のアート系サイトを観ること、それをTumblrやブログに投稿することと、ここに書くこと、そして2~3のブログを不定期にのぞくこと。

You Tubeの動画を視ないのも、ネットニュースを視ないのも、まとめサイトとかいうものを視ないのも、特に理由があるわけではない、アニメやゲームやスポーツ同様に、単に関心がないだけだ。

本を読み始めるとすぐに眠くなる。映画も今はほとんど観ていない。これでは「話題」があるはずがない。

主治医も、デイケアのスタッフも、デイケアに参加していることを良しとしている。母も同じ意見だ。けれども、プログラムに参加する度に自分の異形振りを改めて再確認しているようで、ちょっとやりきれない。



ちゃんとした睡眠のためには規則正しい生活が土台である。けれども「規則正しい生活」とはそもそもどういうことだ?

朝早く起きる、きちんと朝食をとる。で?何をする?
この世界に「したいこと」など何もないのだ。またできることもない。
大田区で生活保護を受けていた頃、ケースワーカーに言われたことがある、「作業所でやっているようなこと?あなたにああいう根気の要る仕事が勤まると思いますか?同じ作業を1時間でも続けられますか?」

嘗てケースワーカーにも、精神科医にも、こういうこと(=仕事)はどうですかと言われたことがない。無論母にも。そして主治医と母と、最終的に辿り着いた結論が、「生きていることを仕事にすること」だった。






    しゃがんだ

がりがりに痩せた人

一人の遊行僧(サドゥー)が向こう岸から

ぼくをじっとみて笑った

     はるか遠くから

動物のように聖者のようにぼくをじっと見ていた

裸で髪は乱れ汚れたたままで

じっと動かない視線 彼の鉱物の眼

ぼくは喋りたかった

かれは腹をごろごろ鳴らして答えて

       行って しまった

何処へ

    どんな生存の領域へ

          どんな世界の戸外の

どんな時間の

どんな生存へ



ーオクタビオ・パス「ウリンダバン」(※インド中央部の町)













2019年9月9日

暴風雨の夜に思うこと


外は激しい風雨が吹き荒れている。こんな夜はひとりの人はさぞ心細いだろう。

特にお年寄りなどは。

20年近く前の新聞の切り抜きから。当時55歳の女性看護師の投稿。



老健施設に勤めて5年。雨の多かった今年の夏、こんなことがあった。8月15日、沼津は大雨で、施設の周囲が冠水し孤立した状態になった。勤務が終わっても帰宅できず泊まることになり、毎晩不安がる100歳の女性の畳部屋で添い寝することにした。夜間見回りの時にはいつも注意しているお年寄りのひとりだ。
 おばあさんは眠りにつくまで、私の方を向いて、私の顔や頭をなで、「おかあさん、おかあさん」と言った・・・

やがておばあさんは、安心して眠りに就いたと書いてある。



シモーヌ・ヴェイユや神谷美恵子に教えられるまでもなく、より弱い者こそ尊く、気高い存在だと思っている。逆につよい者、力のある者、成功した者は何故かわたしの目には醜悪に映る。


人間はひとくきの葦に過ぎない。自然の中で最も弱い者である。だがそれは考える葦である。
 (略)
だから我々の尊厳のすべては、考えることの中にある

ー パスカル『パンセ』断章 三四七 (前田陽一 由木 康 訳)


人間の尊さは「考えること」の中にあるのではない。
「人間はひとくきの葦に過ぎない。自然の中で最も弱い者である。」
もうそれだけで充分ではないか。「だがそれは・・・」以下はあらずもがな。
「おかあさん」とつぶやく老婆は、最早パスカルのいう「人間の根源的な尊厳」すら失っているだろう。
けれどもわたしは彼女の姿に、ルネサンスーバロック時代の画家たちの描いた「聖母子像」や「ピエタ」に勝る愛と哀しみの美を見る。
「聖母子」ー「聖母マリア」と「神の子キリスト」・・・すなわち選ばれし人たち。

繰り返すが、名も無き者であること、弱き者であること、そこに真の美は宿る。



わたしの気持ちはいつも揺れ動き、引き裂かれている。

名も無き者こそ最も尊く美しいものであるという美意識。

路傍の石の如く、限りなく(「天」ではなく)「地」に近く「無」に等しい存在への憧憬と拝跪。
同時に、人は何者かに愛されることによって初めて「何者か」になる。その「ノーバディ」から「サムバディ」への(上昇)志向、欲求。

何者でもない「無価値」と呼ばれる人たちへの愛情と、「何者でもない」「無価値」な自分への絶望、苛立ち・・・

不幸な人がいる(または不幸な人たちを生み出してゆく)社会への怒り。

幸せな人たちばかりの社会を想像したときのおぞましさ。

ホームレスの悲しみ、痛み、唾棄すべき政治の棄民志向。

ホームレスのいない「クリーンでハッピーな社会」への生理的な違和感。

「幸福」は何故かく見苦しく「不幸」はなにゆえ美しいのか・・・

それは所詮わたしが、この世界に属する者ではなく、外部から来た束の間の「旅行者」の眼差ししか持たぬ無責任な「ツーリスト」にひとしい存在だからなのだろうか・・・


みなさんのご無事をお祈りします。








2019年9月8日

群れ…

      
        黒い群れ


これほど馬鹿げた道を選ぶことなど、あり得るだろうか?

サン・マルティーノ通りにアリの巣がある

市電のレールから五十センチほどのところに、

そしてまさしくレールの上に

長くて黒い群れが列をほどき、

相手のアリと鼻面をこすり合わせて

おそらくその行き先や幸運のありかを探っている。

要するに、この風変わりで、勤勉で、執拗な

我らの愚かな姉妹は、

その町をわれらの都市の中に掘り、

我らがレールの上に自らのレールを敷き、

そこを何の疑いも持つこともなく、

疲れを知らずに、取るに足らぬ商売を追いかけて、

いささかも考えが及ばないのだ

   わたしがこれについて書きたくないことを

この群れについて書きたくないことを、

いかなる黒い群れについても書きたくないことを。



(1980年8月13日)

『プリーモ・レーヴィ全詩集ー予期せぬ時に』竹山博英訳(2019年)




「群れ」というだけで、蟻にさえ嫌悪感を示すプリーモの心情がわかる気がする。

群れていいのは子供たちと人間以外の生き物だけだ。それにしたところで、「はぐれ者」
「仲間はずれ」が、より愛おしいことは言うまでもない。






2019年9月7日

石川九楊の「逆説」について


(下記投稿より続く)

石川九楊は「逆説」と繰り返す。世界は夙に美を失っており、そこは廃墟であり、価値のあるものはなにもない。だから、自分のような無価値なものでも生きられる、生きていてもいい、何故なら、私同様世界もまた無価値なのだから。そこに残されたのは「希望」だけだ。
価値ある世界にとって、無価値である自分の居場所はない。世界が美しければ、そこに花一輪添えることも出来ない自分の存在意味はない。世界が「ゼロ」乃至「マイナス」だからこそ、私も、そして、「生き難さ」を抱えている現代の若者たちも生きられるし、生きる希望を見出せるのではないか。

石川九楊はその「逆説」の中で、生きる意味を見出すことが出来た。

翻ってわたしの場合はどうだろう。確かに世界は昨日までのように美しくはない。
そして今、世界は廃墟と成りつつある。石川九楊にとって、その状態は、正に無である己の生の起点であった。けれども「昨日のようにはもはや美しくはない世界」は、わたしにとっては終点だ。若き日の石川氏同様、無である自分は、唯一「美」の存在によって支えられ、生かされていた。「自分は無であり、自己を取り巻く世界もまた無に等しい。故にわたしは生きてもいい」と考えた石川氏の考え方は、概念としては理解できても、彼と同じように感じることはできない。いや、そもそも概念としてさえ、わたしの理解を超えている。果たして人は美のない廃墟に生きられるものだろうか。

「ブレッド・アンド・ローズ」=「パンと薔薇」これなくして人は生きてゆけない。

もちろん、何が「パン」であり、何が「バラ」即ち「美」であるかは人それぞれだ。
わたしにとってのバラの花は、例えば、昨日載せた背中を丸めて小銭を数える老人の姿であり、ダイアン・アーバスがカメラに収めたような人々であり、「名もなく貧しく美しく」生きている人たちだ。

わたしはどこかで石川九楊の「逆説」の意味を取り違えているのだろうか?
石川九楊は、世界は廃墟であり、美は消え去ったと「思うこと」が必要だと言っているのか?現実に世界は廃墟ではなく、美しいものがあると「思ってしまえば」「無価値」である「私」はとても生きることはできない。世界の価値に、世界の美に押し潰されてしまう。だから、吉本や田村の詩の中の言葉を援けにして、私(石川)やキミ同様に、「世界もまた無価値であると」「思おう」と?そうすれば楽になるはずだと?しかし、だとすれば、そこには「そのように思おう」と自己を欺いていることを知っているもう一人の自分がいるはずだ。

だがもしそうでなく、本当に世界は廃墟であり、美しいものは消え去ったということを主観的な事実として認識しているなら、それでも人(たとえば石川氏)は何故生きるのか?何故生きることができるのか?

高村光太郎のように「ぼくの前に道はない ぼくの後に道はできる・・・」と誰もが思い、そのように実行すれば、至る所新たな道だらけという「逆説」が生じはしないか。



石川九楊の倫理・論理を極限にまで突き詰めれば、「世界は美しくあってはならず、廃墟であり続けなければならない」ということになりはしないか?
「私同様に世界も無価値」であり続けるためには。そして「世界」と等価であることを生存の条件とするなら、世界同様に、わたしもまた「無価値」であり続けなければならないはずだ。どちらかに価値が生じれば、生存を辛うじて支えている均衡が崩れるからだ。
「私同様に世界も無価値」── ここでいわれる「私」は、永遠に後続する「私」である。
今石川氏が自足していたとしたら、この「生きるための逆説」=「世界には生きる価値など無いから生きられる」── は破綻する。
石川九楊は自らの存在を以て、永遠にこの「逆説」を「逆説」たらしめ続けなければならない。



世界が廃墟であることを知った、或るいはそのように考えるようになった石川氏はそこから「再起した」。しかし今、正に美の最後の残照のなかにいて、わたしは終わりを迎えようとしている。

わたしは「廃墟」に美を見出す者である、と書いた。しかしそれは、石川九楊の言う廃墟とはまるで別のものだろう。
19世紀ロマン主義の画家たちは好んで廃墟をモチーフにした。それは「現代の廃墟」(或いは「廃墟である現代」)とは似ても似つかぬものだ。





「廃墟の画家」と呼ばれたフランスのユベール・ロベールの2枚の絵。

「もし世界が廃墟であるなら、わたしは生きることができる」ここに石川九楊とは違ったもう一つの「わたしの逆説」がある。


The Barn,  ca 1760, Hubert Robert. French (1733 - 1808)

「納屋」ユベール・ロベール(1733-1808)
A Hermit Praying in the Ruins of a Roman Temple, ca 1760, Hubert Robert. French (1733 - 1808)

「ローマの廃墟で祈りを捧げる隠者」(1760年頃)ユベール・ロベール(1733-1808)








2019年9月6日

「言葉」は騙り「沈黙」は語る…



Untitled, c.1970, Leon Levinstein. American (1910 - 1988)
Gelatin silver print; printed c.1970
『無題』レオン・レヴィンスタイン(1910-1988)
メディア:ゼラチン・シルバー・プリント(1970年前後)


この写真のどこに惹かれるか?大袈裟に言うなら「人間の姿」が写し出されているから。
わたしは「キャッシュレス社会」とかいう時代に生きていけるとは思えない。
更に言えば、中上哲夫の「今夜わたしは渋谷「千両」の節穴からわたしの世代の幻をみる」の第5連に羅列されている


暗い

われわれの時代の

性病者、精神病者、夢遊病者

酒精中毒者、薬物中毒者

虞犯者、犯罪者、犯罪予定者

漁色者、色情狂者、同性愛者、両性愛者

意志薄弱者、希望喪失者、人格喪失者

フェティシスト、トランスヴェスティスト・・・


このような人たちの存在しない世界にも。

書家の石川九楊は嘗てこう書いた

けふから ぼくらは泣かない / きのうまでのようにもう世界は / うつくしくもなくなったから……(吉本隆明「涙が涸れる」)
自堕落な日々を自責の念にかられつつ送り、いつ破滅してもおかしくないほどであった私の精神は、この詩に出逢って再起した。

 世界はすでに廃墟なのだ。

美しいものなど何もなく、守るべきものなどひとつもない。おそれ、おののき、たじろぐ必要はない。生きるとは、ただ廃墟に石を積むだけのことに過ぎないと解釈した私は、私でも生きられる、私でも生きていてもいいという希望が湧いた。以来「荒地」の詩人たちをはじめ、次々と詩集を求め、聖書の如くに読み、精神の過激と逆説を知った。

わたしの屍体を地に寝かすな/・・・・わたしの屍体は立棺の中におさめて/直立させよ/地上にはわれわれの墓がない/地上にはわれわれの屍体を入れる墓がない
(田村隆一「立棺」)

いまもしこの時代に、言葉を静かに受けとめるだけの真摯さと余裕が残っていれば、同じような生き難さに直面しているに違いない若者も、この時代が何もない廃墟であることに気付き、そこを生きる知恵を得ることができるのではないだろうか。神戸の少年Aのように人を殺すことなどない。すでに世界は死者の群れであり、拒絶されているのだから。オウムの青年たちのように焦って破壊する必要もない。すでに廃墟なのだから。
  (略)
高校時代、私は高村光太郎の「孤独の痛さに堪えきった人間同士の/黙って差し出す丈夫な手と手のつながりだ」(「孤独が何で珍しい」)を愛唱していた。だが大学時代に手にした詩集は、世界は廃墟、関係は拒絶、個は絶望から出発する以外になく、そこにのみ無限の希望があることを教えてくれた。
  (略)
いつの日か、十分な時間が与えられれば、静かに詩集を繙きたい。聖書は要らない。逆説の宝庫である詩集が最期の枕元に残る本のように思われる。
(下線Takeo)



けれどもわたしは石川九楊の言葉に同意することはできない。

何故なら人は変わる。
最晩年の吉本隆明は原発を容認した。
後に国家から「文化勲章」とやらを拝領した大岡信も「荒地」の同人ではなかったか?

若き日「犬猫も鳥も樹も好き人間は うかと好きとは言えず過ぎきて」と書き、
後に勲章を二つも受勲した女流歌人がいる。(齋藤史)

そして石川九楊自身は、やはり今もなお、世界は廃墟であり、そこには死者のみがいて、生きることは廃墟に石を積み重ねるだけのことだと思っているだろうか?

やはりどこか、根本的なところで、わたしと石川九楊との考え方、世界観は違う。否、
寧ろ「正反対」であり「対極的」といっていい。何故ならわたしは「美のない世界」に生きることはできない。そしてわたしは「廃墟」にこそ「美」を観る者だ。中上の列挙した者たちにこそ美を見出す者だ・・・


誰もが高野悦子のように「挫折」できるわけではない。
誰もがプリーモ・レーヴィのように、アウシュヴィッツの生き残りになれるわけではない。
誰もが石原吉郎のように、シベリアからの生還者になれるわけではない。
誰もがニーチェのように狂人になれるわけではない。
誰もが原民喜のようにヒロシマで被爆し生き残れるわけではない。

「絶望者」になれるのは皮肉にも選ばれた者たちだ。

わたしには若き日の吉本隆明の言った「美」が如何なるものかは知らない。

冒頭の一葉の写真、わたしにとっての「美」の一片だ。名も知れぬひとりの老人だ。
この人たちの姿こそが、わたしにとっての「詩」であり、「希望」なのだ。
わたしがダイアン・アーバスの写真を愛するのは、そこに写された人たちが、
吉本や田村、大岡、齋藤のような「成功者」とは無縁の者たちだからだ。

cf [語る男、黙す女 -ダイアン・アーバスと鬼海弘雄] 2015.11.5 


尚わたしはデジタル時代の写真の価値というものがわからない。

今日、わたしにとって最も優先されるべきは、「何が」「どのように」写されているかではなく、
「何で」写されたかなのだ。

これまではTumblrでも写真家と、タイトルと、撮影された年と場所のみを書き添えていたが、今後は上記のようにそれがデジタルであるかアナログであるかを明記したい。

「言葉」は騙り「沈黙」は語る…騙らざる者こそ詩人だ・・・
















2019年9月5日

夏の或る夜…



Sarah Williams. Balloon Derby II — oil on board


偶然に見つけた絵。そう、これは写真じゃない。

今日は初秋を思わせる陽気だった。

学校は、好きだったけど、(友達がいたから)

高校生くらいまでは、夏が終わるのが寂しかった。

今のように、「秋こそ季節の中の季節」(「季節」という変化がいまだあればの話だが)

のようには感じていなかったし、金木犀の香りにも敏感じゃなかった。

ひと夏中東京にいたということはなかった気がする。

子供の頃には(本当に子供の頃)八ヶ岳の見える田舎に夏休みの間中行っていたし、

家族で(同じ顔ぶれで一緒に住んでいるけど、今は「家族」じゃない)海水浴にも行った。

昔も今も団地住まいで、縁側も、ブタの蚊遣りもなかったけど、大きなスイカを丸ごと買ってきていた。

スイカのない夏なんて夏じゃなかった。

今は夏はただただ早く終わってくれないかと願うだけの季節になった。



秋の虫の音が響いたり、鳴きやんだりしている。

10数年前の夏、17年間住んで、一度も畳を取り換えたことのない八畳のアパートで、

友人と、大きく窓を開け放って、ビリー・ホリデーを聴いた。

そして今、彼女は身体の自由が利かない病気だと聞いた。(それを知ったのはもう3年も前)

ぼくはまだ、なんとかカラダは動くけど、心が自由に動けない病気になった。



以前母に誕生日の「手紙」を書いた。(これも10年前)

母からの返信に、「きみに長い手紙を書くために、少し長い旅に出たいと思うこともあります」と書かれていた。

大事な人だから近くにいるのに、

近過ぎるから、大事なことがつかえてなかなか口に出せない。



「親友」にあなたに会えてよかったと伝えたい。

「アリガトウ」と言わせてほしい。

でもその勇気がない。彼女が今どのような状態なのかさえもわからない。

人はいつも同じではない。ひとは変わってゆく、「主体的に」などではなく、有無を言わさずに変えられてゆく。── 病いによって、加齢(老い)によって、生体に対する生存環境の大幅な変化によって、為政者、権力者の胸先三寸によって・・・



ぼくも、母も、もう、少し長い旅に出ることはできないだろう。

そして本当に長い旅に出る時がそう遠くないことも知っている。(それが「救い」であることも)

どんなに長い手紙も届かない遠すぎる場所への旅・・・



<もし宇宙が敵なら
自分を静かに封印するすべを心得ている。
純白の石灰の幕の背後に。
世界を否定し、自らを世界に否定させて。> (プリーモ・レーヴィ「カタツムリ」より)

長い手紙を書きたい。あなたがいなくなれば、ぼくの声も永遠に封印されるのだから。

「アリガトウ」と言わせてくれて、ありがとう、と。











2019年9月4日

ぼくは生をも死をも渇望している! ー オクタビオ・パス 



ぼくの内部には大きな傷がひとつあるだけで、

行く者とて誰一人いないうつろな場所で、

窓ひとつない現在であり、ひとつの思念が

帰ってきて、繰り返され、反映し、

それ自身の透明性のなかで見失われ、

ひとつの目で立ちすくまされたひとつの意識、

その眼は明晰さの中に溺れるまで、

おのれ自身を見ているものを見る ──

  (中略)

井戸の中に埋められた視線、

原初からぼくを見てきた視線、

大きな息子の中に一人の若い父親を見る

年老いた母親である少女の視線、

大きな父親のなかに息子である少年を見る

孤独な少女である母親の視線、

生命の底からぼくらを見ており、

死の策略である視線、

── あるいは反対に、それらの視線の中へ落ちることが

真の生命に帰ることではないだろうか、

  (中略)

── 何も起こらず、ただ太陽のまばたきひとつ、

何もなく、かろうじてひとつの身ぶり、

贖罪もなく、時間は引き返しはしないし、

死者たちは永遠におのれの死の中に固定され、

そしてふたたび別の死を死ぬことはできず、

彼らは触れられず、ひとつの表情のまま固定され、

彼らの孤独から、彼らの死から、

彼らは顔を見合わせることもなく、

やむをえずぼくらを見て、
 
  (中略)

── 生命はいつ本当にぼくらのものであったのか、

いつぼくらは本当に存在するのか、

ぼくらは評判がわるくて、

ぼくらには眩暈(めまい)と空虚感(むなしさ)、

鏡に映ったしかめっ面、恐怖と嘔吐しかなくて、

生命は決してぼくらのものではなく、他者のもので、

生命は誰のものでもなくて、ぼくらみんなが、

生命であり ── 他者のための太陽のパンであり、

その他者とはぼくらみんなのことであり ──

ぼくが存在するときぼくは他者であり、ぼくの行為が、

すべての人々の行為であるならば、それらは更に

ぼくのものとなり、

── 存在するためにはぼくは他者でなければならないし、

ぼく自身から脱して、他者の中にぼく自身を探すこと、

ぼくが存在しなければ生存しない他者たちの中に、

ぼくに全存在を与えてくれる他者たちのなかに ──


ぼくではなく、ぼくは存在せず、ぼくらはいつも

ぼくらであり、

生命は他のもので、いつもそこにあり、更に遠くにあり、

きみの彼方に、ぼくの彼方に、いつも地平線にあって、

ぼくらを犠牲(いけにえ)にしぼくらを恍惚とさせる生命、

ぼくらの顔を創造しそれを衰弱させる、

存在への飢餓、 ああ死、 ぼくらのパン、

    (中略)

ぼくはおのれの血が囚われの身で歌うのを聴き

そして海が光のざわめきとともに歌い、

防壁が1枚ずつ崩れ、

すべてのドアが崩れ落ち、

そして太陽がぼくの額を突き破って通り抜け、

ぼくの閉じた瞼をはぎ取り、

ぼくの存在を外皮から取りはずし、

ぼく自身からぼくを引き抜き

この獣の眠りとその石の数世紀からぼくを僕を目覚ませ、

そして太陽の鏡たちの魔法が蘇らせたのだ、

一本の水晶の柳、一本のポプラ、

風がたわめるひとつの背の高い噴水、

根深いが、それでも踊っている一本の樹、

迂回して、絶えずやってくる

一筋の川の道程 ──





オクタビオ・パスの長編詩、『太陽の石』(1957年)より抜粋引用。
2段組みで23ページの長編で、イメージは錯綜し、さながら詩の迷宮を彷徨っているようだが、そこに散りばめられた言葉の数々は喚起力に富み、その中の1~2行だけでも充分に美しい詩句、そして警句足りうる。

これはただ難解なだけの現代詩とは明らかに一線を画している。(実際彼の詩は「難解」ではない)
散文のように、作文のように意味が分からくとも、全文を読んでほしいと思う。
意味を超えて、包み込んでくるものを感じるだろう。
ほんの一言から啓示を受けることもあるだろう。

ちなみに引用したのは、
『続・オクタビオ・パス詩集』真辺博章 訳 土曜美術出版販売 世界現代詩文庫27(1998年)による



 


2019年9月3日

秋・・・



Tumblr に投稿する絵を探していて見つけました。
これは絵ではなく、絹糸による刺繍のようです。

タイルトルは「秋」

ちょっと気が早いようですが、ここに投稿します。


L'Automne, 1905, Hélène Du Ménil et Isidore De Rudder. 
broderie au fils de soie, 200 x 260 cm. Musée du Costume et de la Dentelle de la Ville de Bruxelles

Autumn, 1905, Hélène Du Ménil and Isidore De Rudder. 
- Embroidery with Silk thread, 200 x 260 cm - 



◇    ◇

先の投稿で、このブログを往年の「マリ・クレール」や「フィガロ・ジャポン」のようにしたいという言葉を読んで、抵抗を覚えた人もいるかもしれません。けれども、わたしはそれらを愛読してきました。
今では本当にただのチープなファッション雑誌になってしまいましたが。

インターネット上にはそんなブログはいくらでもある・・・とは思いません。
海外のブログはいざ知らず、日本で、嘗ての、見ていてうっとりするようなブログにお目にかかったことがありません。

素材はわたしが自分で探します。自分で書きます。
ま、たまにタンブラーや昔の仲間、或いは愛読しているブログからパクることもあるかもしれません(笑)

この絵はこちらで見つけました。

これを書きながら、1928-1969、46TracksーWomen Blues Singers という、昔求めた2枚組のブルースのCDを聴いています。(リリースは1999年)。
とてもいいんですが、この絵にはどうも合いません。

音楽なしで、虫の音と、秋のしじまをおたのしみください。





2019年9月2日

ふたつさん、そして底彦さんへ。


ふたつさん、昨夜は接続状況が悪い中、長文のメールを書いてくれてありがとうございました。そして底彦さんにも、改めて、体調のすぐれない中、それこそ「全身全霊を込めて」長いコメントをくださったことに感謝します。

昨夜底彦さんには思ったような返事を書くことができませんでした。底彦さんがコメントを書くのに要した労力の半分にも満たなかったかもしれません。
ふたつさんには何度もメールを書きかけて、途中であきらめました。

これからお二人に何を書くつもりなのか、それすらまだ朧気です。とりとめもなく、けれども、今のわたしのありのままの気持ちを断片的にでも書けたらと・・・
それはお二人から頂いたメッセージへの返事ではないかもしれません。
返信ではなく、今の気持ちをおふたりに伝えたいと思っています。



先程まで寝ていました。昔の友人の夢を見ました。コンピューターの調子が悪くなった時に、大田区にいたころはわたしのアパートまで50CCのバイクで、こちらに移ってきてからは、品川区から電車でやってきてくれて、何時間もかけて、設定のし直しをしてくれました。

夢の中で、わたしは彼と 小さな(といっても例えばわたしが住んでいた蒲田のような)繁華街を歩いていました。高校時代からの付き合いですが、彼と散歩をした経験というのは、一緒に秋葉原の街を歩いたり、また、30代の頃、彼とは、京都や滋賀、そして岐阜などに旅行をしたことがありますが、その時に目的地に向かって歩いたくらいで、都内を、特に当てもなくぶらぶらと散歩したという記憶はありません。もっとも、男性同士で、当てもなく街を歩くということはあまりないことなのかもしれませんが。

わたしはこれまで、基本的にはいつも孤独でした。この友人も、昔から、心の中に立ち入らせない、立ち入らない、という人でした。振り返ると小中高の12年間、そして、40代の6年間、20歳年上の女性と親友として一緒に過ごした時を除いて。このTくんとは継続的に続いていましたが、わたしたちの関係は、「友達」というよりも、寧ろ、機械好きと、機械音痴の関係と言った方がより近いかもしれません。

夢を見るときには、たいてい、「仲間」と一緒です。昔の友達の時もあり、夢の中の人の場合もあります。そして場所として、一番多く出てくるのは、わたしが26歳から17年間住んだ、馬込のアパートです。

先程まで見ていた夢も、彼と、中古のアダルトビデオを物色していたような場面がありました。記憶にある限り、わたしは、現代または現在の夢を見ません。それは、約10年前に、「親友」と別れ、相前後して、郊外に移り住んでから、物理的にも、また心理的にも、それまでずっとわたしにとっての「外の世界」であった、「東京」が遠くなったせいでしょう。

夢の中に映し出される東京は、もう20年も30年も前、まだ馬込や山王が、威厳と風格を備えた「お屋敷町」だった頃に見た、それぞれに個性的で、それでいて、奇を衒った浮薄さとは対照的な重厚で時の蓄積のある家並みを保っていた頃の町であり、風景なのです。

a man with a past, clock without hands... 「過去」とはわたしにとって、という言い方はどこか違和感を感じます。「過去とはわたしにとって」という場合、そこには「過去を振り返る、いまに生きる私」というイメージがあります。「針のない時計」とはわたしです。
「過去とはわたしにとって」ではなく、わたしが過去なのです。
「針のない時計」という心象はわたしに安らぎをもたらします。物理学的な「時の流れ」というものに無知なわたしは、時間とは、常に、前に向かって進むもので、それは決して、過去に向かって、遡って流れてゆくことはないという、素朴な時の観念しか持っていません。

「治る」という言葉に常に付きまとう違和感。それはわたしには違和感というよりも、もっと強い「不可解さ」のようなものなのです。「針のない時計」が、或いは「針の動きを止めた時計」が「治る」ということの意味が、わたしにはわからないのです。

大きなノッポの古時計 おじいさんの時計
百年いつも動いていた ご自慢の時計さ、
おじいさんが生まれた朝に 買ってきた時計さ、
いまはもう動かない この時計

百年休まずに チクタクチクタク
おじいさんと一緒にチクタクチクタク
いまはもう動かない この時計

天国に向かうおじいさん 時計ともお別れ
いまはもう動かない この時計

小学校の時に覚えた歌で、歌詞はわたしの記憶にあるものを書き写しただけで、誤りもあるかもしれません。
けれども、この時計は、おじいさんとともに生きてきて、おじいさんがいなくなった時に
時を、針を止めたのです。

これを修理に出してまた動くようにすることにどんないみがあるでしょう。

海に住む生き物たちが、この間急速に生息することが困難になり、また野生動物から野良猫に至るまで、「つい20年ほど前」と比べてさえ、遥かに生き難くなっている今、彼らと同じようにわたしの住む世界も極めて狭く小さくなっています。

先日コンビニ弁当を食べていて、その空の容器を入れると、20ℓ入りのごみの袋がもうパンパンです。みなプラスチックごみです。

エコロジーという点では、わたしの子供の頃は、夢のような時代だったなあと改めて感じました。豆腐は鍋を持って買いに行ったし、牛乳も、ジュースも、ビールも、ガラス瓶に入っていました。
醤油も瓶を持って買いに行きました。魚は魚屋が新聞紙にくるんで渡してくれました。

今の時代、生きることは「選択」の問題です。それは必然ではありません。



さて、ふたつさんが、わたしのショートショートを読んでくれていたとは驚きです。
詩も、数編書きましたが、難しいですね。

詩は大学時代に所謂ロマン派風のペシミスティックな詩を盛んに書いていました。

わたしは、可能ならば、このブログを、往時の、マリ・クレールやフィガロ・ジャポンのような雑誌風にしたいと思っています。1990年前後のそれらの雑誌は、単なるファッション誌の枠を超えた、映画、文学、アート、音楽の貴重な情報源でもありました。
わたしは今は雑誌は、『暮しの手帖』『住む。』くらいしか読みません。



底彦さんの言葉のように、わたしはこのブログの中で「自己を解放させているか」
わたしは嘗てのSNSや、タンブラーのように、ただ黙々と好きなアートを投稿している時、一番自己からの解放感を感じています。

書くという行為は、自分の内面に意識を向ける行為です。
それは求心的な営みであって、タンブラーのような発散行為とは正反対の創造的な営為だと思います。

絵や写真を選ぶということも、クリエイティブな作業には違いありませんが、
あくまでも楽しみとしてやっているので気が向かなければやる必要はないのです。

嘗てミケランジェロが神に祈った言葉

" Lord, free me of myself, so I can please you! "

「神よ、わたしをわたし自身から解き放ってください、そうすればわたしはあなたを喜ばせることができるでしょう」

この言葉を時折考えます。自分から離れた芸術とは何か?と。

昨日のふたつさんのメールから引きます

「ぼくが評価するものとは、「その人・性(さが)」を置いてほかにないのです。
 如何に「その人」であるか、これだけですね。
 Takeoさんは、極限的にTakeoさんなんですよね。
 それが、ぼくが惹きつけられたことです。
 そのことが、「今のブログ」の方が見分けやすかったということだと思います。」

何故ミケランジェロのこの言葉を憶えているか?それはわたしが同じ気持ちを持っていた(る)からだと思います。



昨夜のふたつさんのメールはいつも以上に、哲学的で内容の濃いものでした。
特に印象的なのは、「一般的」と「普遍的」の違いについて言及されている部分でした。

全体的に深く納得できる内容でした。


最後にふたつさんのメールから思わず笑ってしまった一言を

「少し話は違いますが、「ブルース」を聞いていると、よく意味もなく『ブルースって暗いよね』とか、『なんで、わざわざこんな音楽を聴くの?もっと楽しい音楽があるじゃない』などと言われたりします。」

ピアニストのフジコ・ヘミングは、ガーシュインの『サマータイム』を黒人の女性歌手に歌ってもらいたいと言っています。つまりレディー・デイ・・・ビリー・ホリデーのような、という意味でしょう。

ビリー・ホリデーはわたしも大好きなシンガーです。ブルースが暗いというのなら、彼女の「サマータイム」も暗いのでしょうか?そういう人を想像すると、おかしみがこみ上げてきます。


── 以上なにやら要点を得ない様々な想いを、思いつくまま手帳に殴り書きしたもののようになってしまいました。

わたしはふたつさんと底彦さんになにかを伝えようとしたかった。このとりとめのない断想の中から何かを掬い取っていただければ幸いです。