2019年2月14日

「狂気の愛」とはトートロジーである…


嗚呼、わたしがほんとうに書きたかったのは、もっと別のことだ。

仮に精神障害者手帳1級であろうと、複数回閉鎖病棟に入院させられたことがあろうとも、基本的に「まとも」な人とわたしは友達になれない。わたしの真の友になれるのは、いわゆる「狂人」だけだ。つまりわたしのために「狂うことのできる人」だ。「正気の人」とは友達にはなれない。

以下2年前の2月に書いたフランソワ・トリュフォー監督作品、『黒衣の花嫁』のレヴューだ・・・


◇   ◇

『黒衣の花嫁』

フランソワ・トリュフォー1968年の作品。

ある晴れた結婚式の日、教会の向かい側のビルで、酒を飲みカードをしていた5人の男がライフルを弄んでいて誤って新郎を撃ってしまう。
愛する人を突然失った新婦、ジャンヌ・モローは自殺を図り窓から飛び降りようとするが止められてしまう。その日から彼女は「黒衣の花嫁」になった。「黒」は、死との婚礼、或いは死んだ者との契り、そしてその日から彼女自身が死んだことを意味しているように思える。

5年をかけて5人の身元を探り出した彼女は、ひとり、また一人と愛する人を殺した男たちを殺めてゆく。男たちはみな5年前の出来事など忘れている。

一人目の男は婚約したてのプレイボーイ。デートの時にテーブルの下にテープを仕掛けて、女性が足を組み替えるときのストッキングの擦れる音を録音しているような男だ。「ナイロンだ。絹のストッキングじゃこういう音はしない」と、呆れる友達に笑いながら話す。
ウィリアム・アイリッシュの原作を読んだことはないが、なかなか洒落たシーンだ。
その他にも、ジャンヌ・モローが時折レコードをかける時に使うポータブル・レコードプレーヤのデザインもいい。

二人目はすこぶる人のいい小市民といった男。これも彼女の美しさに惹かれて罠に陥る。

最終的に彼女は目的を達するのだが、一連の彼女の「復讐」を、「狂気」であるとか「常軌を逸した行為」と裁くことが出来る者がいるだろうか?

三人目を殺した後で彼女は教会の告解室で神父と話す。
神父は「憎む心で愛せるのか?」と彼女の行動を非難するが、「愛するからこそ憎める」のだ。

「あなたのために狂えるのは、わたしだけ」...誰の言葉か忘れたが、それが、真の愛なのだろう。

この映画を観て思い出すのは、小津安二郎監督の『東京物語』。
戦争で夫を失って8年、今もひとりで暮らしている紀子(原節子)に対して、義理の父親である笠智衆はいう、「もうわすれてくれていいんじゃ」すると紀子は「わたしずるいんです」という。
「彼のことを忘れている時がある」「思い出さない日もある」のだと。

いなくなって8年経った夫を忘れることがあるというのを「ずるい」と思うか「ずるいということはない」と思うかはそれぞれだろう。けれども「黒衣の花嫁」は忘れることが出来なかった。
複数とはいえ特定できる誰かに殺されたのと、戦争で死んだのでは違うというかもしれない、しかし例えば山上たつひこの『回転』などは、愛する人を戦争で失い、ある日彼女の愛を奪った「戦争」に「復讐」する話であった。

「黒衣の花嫁」も『回転』の女性も、紀子と違って「このままではいけない」という将来への漠然とした不安を抱いてはいない。紀子は「ずるい」といいながらも未来への希望も持っている。希望があるから不安があるのだ。
けれども上記のふたりにとって、人生は愛する人を失った瞬間から止まっている。一度止まった針は再び動き出すことはないのだ。

「黒衣の花嫁」も、おそらくは『回転』の女性も死刑になるだろう。けれどもそれよりも先に彼女たちの生命はすでに息づくことを止めているのだ。


2019年2月14日 ヴァレンタインズ・デーに記す。











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