2019年2月11日

「ポイント・オブ・ノー・リターン」


また暫く主治医のところへ行っていない。
「外に出られない」という状態も、ここ数年の感覚とはかなり違う気がする。
これまで何度も書いてきたことだが、医者に行って「よくなる」ということの意味がわからない。「よくなる」とは、今の状態がどのように変化することを言うのだろう?
「つまり簡単に言えば多少とも生き易くなる」「少し楽になる」ということですよ。
ということだろうか?
「多少楽になる」「生きやすくなる」・・・わからない。

高橋三郎という社会学者の『強制収容所における「生」』(1974)という本を、石原吉郎が紹介している。





一般に私たちの間で語られる死とは、死に膚接するまでの過程、生者がついに「沈黙する」までの時間である。死はついに体験ではありえない。『強制収容所における「生」』と題されたこの著述の前提には、発想のこの重大な転換があるように私には思われる。

著者は強制収容所の経験者ではない。だがそれゆえにこそ、駆使し得る限りの資料を駆使し、念には念を入れた追求の回路を経て、強制収容所で生き残ることの意味を問うことができたのではあるまいか。
 
生き残った人びとがのぞかせる心情の翳をさぐることは、あるいは傲慢なことといわれるかもしれぬ。だが、そうすることによってのみ、生きのびた人びとの体験を、われわれ自身の生き方にかかわらせてとらえることができるのである」と冒頭で述べた著者は、「強制収容所におけるこれらの生き方のうち、いづれが正しいとかいった判断は容易に下せるものではない。どの生き方が正しいとか望ましいとかとかいう客観的な基準など存在しないし、また、それは、この小論の範囲を超えた問題である。ただ、われわれがどの生き方を選択するかということがあるだけである」と末尾にのべて、極限の体験から教訓を引き出そうとする誘惑をかろうじていましめている。人は教訓を与えられるために極限に置かれるのではない。

本書は強制収容所を『生きのびる』ということ」「『生』の諸条件」「プロミネント(特権を与えられた囚人)」適者生存(『壊れない』人びとの一類型精神の死と肉体の『生』」の五章と結びの「プロミネントと回教徒」の六つの部分から成っている。

最後に抑留者が肉体的な生を選ぶか、精神的な生を選ぶかの選択へ追いつめられる地点として、「帰還不能点」が設定され、この地点をどのように意識していたかによって、著者は、ナチ強制収容所の抑留者を六つのタイプに分類し、それぞれについてのおそらく救いのない分析によって、その論述を終わっている。
(下線・太字Takeo)




肉体の生を選ぶか、精神の生を選ぶか?── 'Point Of No Return' 「帰還不能点」

── わたしにとって、「今・この時代」に「生きる残る」ことを考えることは、「強制収容所を『生きのびる』ということ」と一体何が違うというのだろう・・・
ナチの強制収容所や、石原が生きのびたシベリアのラーゲリは、わたしのいる現在の東京と、どれほどかけ離れているといえるのだろう。

そして、「ポイント・オブ・ノー・リターン」(=引き返すことのできない一線)を、わたしは既に越えている。









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