先月、デイケアで「絵を描く」プログラムに参加した時のことを書いた。
そのときに、まだお互いのブログ上でしか言葉を交わしたことのない、おそらく同い年の男性の「友人」(と、わたしが勝手に思っているだけだが)からもらったコメントが印象に残っている。
「もし今、自分が何か絵を描くなら、うつくしい絵よりも、ドイツ表現主義のような、いびつにゆがんだ、今の自分の崩れた内面をそのまま表出するような「醜い絵」を描きたい」と、わたしはいった。
彼はわたしの知らないドイツの画家の絵について話してくれた。以下、彼の許可を得て、コメントを引用する。
「私はドイツ表現主義や抽象表現主義の画家を詳しく知っているわけではありません. ですが, 頽廃芸術とされた画家の一人であるオットー・グリーベル (Otto Griebel) というドイツの画家が好きです. と言っても一作しか知らないのですが. 坂崎乙郎さんの『絵とは何か』という本の中で, グリーベルの《日曜日の午後》という鉛筆画の写真が載っていて強く惹き付けられたのです. この絵の実物を観たことはありません. 坂崎さんの本でしか観ていません. これは, 傷痍軍人が部屋で寛いでいる様子を描いたらしい絵で, 彼はおそらく失明していて義足です. 部屋が半地下で狭く, 彼の生活は困窮しているのかも知れない. この絵の読み方, 感じ方は人それぞれだと思いますが, 私はこの絵を (坂崎さんの本をめくって, ですが) 観る度に幸福になります. この絵は私にとって必要な絵なのです. 《日曜日の午後》の中に「美と眞實」があるのか, あるいはグリーベルの世間での評価がどうなのかも私は知りません. ただグリーベルのこの一枚の絵は私のところまで届きました. こんなところに絵の力というか本質があるような気もするのですが, 考え続けてみます. 」
わたしは寡聞にして、オットー・グリーベルという画家も、また彼がその絵を見つけたという本の著者、坂崎乙郎さんという人も知らなかった。
ただ、ここに描かれた、彼が唯一知っていて、またこよなく愛する一枚の鉛筆画の描写に心を動かされた。
盲目隻脚の傷痍軍人が、貧しい自分の部屋で、日曜の午後を過ごしている。おそらくは穏やかな心で。
「彼」はこの絵はインターネットで観ることができると教えてくれたが、なぜかわたしはこの絵・・・いや、「この絵の描写」に惹かれれば惹かれるほど、「それ」をみたいと思わなくなった。わたしの心の中には、すでに、「グリーベルの本物」とは別の、Sさんが言葉で描き出した、さびしいほどに静謐で愛(かな)しい一枚の画が着床している。
彼がこころから愛する「その絵」に関心がないというのは、Sさんにとっては遺憾なことであるかもしれない。しかし、わたしの心のなかに収められているグリーベルの絵は、単にSさんによる「本物の」説明でしかないのだろうか。
否。おそらくわたしはその絵をネット上で見ることができたとしても、上記の、Sさんの語った「その絵」のようには心動かされることはないだろう。
例えば友達が昔展覧会で観た絵について話してくれる。或いは、旅先で出逢った状景について。子供のころのある日の出来事について。わたしは決してその場面を「検索」して、見ることはできない。それでも見ることができないものは(わたしにとって)存在していないのと同じではない。
わたしは「Sさんの絵」と同じように、旧友が語ってくれた場面を活き活きと鮮明に想像することができる。
そのイメージは実際とはかなり違ったものであるだろう、しかしその差異に、何の問題があるだろうか。
わたしは確かにSさんと、グリーベルの絵を共有し、旧友と、その昔日の時を共有したのである。
わたしは何故かその絵のタイトルを『平和な日曜日』と勘違いしていた。彼のコメントに『日曜日の午後』と書いてあるのに。
傷ついて帰還した兵士と、ある日曜の午後の描写を聴いているうちに、自然とこの絵が「平和」という言葉に結びついたようだ。
光を失い、脚を奪われた軍人が、何故心穏やかな日曜の午後を迎えることができるのか。
わたしにはそれを説明する能力はない。殊に「喪われたもの」「理不尽に奪われた何ものか」そしてそれによって失われた未来・・・
そのような「過去」に執拗に拘泥するわたしのような人間にとって、何故彼は「喪われた今」に充足することができるのか、その心を計り知ることはできない。
それでも、この絵が、わたしに心の静けさ、穏やかな感覚(Calm and Quiet Feeling)を齎すこともまた事実なのだ。
長年つらいうつ病に苦しめられているSさんが、何故この絵をこよなく愛するのか、
この絵が必要とさえ思うのか。比較しては失礼だが、それは、例えばわたしのブログを読んでくれた人が、世の中への怨嗟に満ちたこのブログに「居心地の良さ」を感じてくれているということと同じくらい不思議なことだが、敢えてそれに対して、答えらしきものを求めようとは思わない。それはわたしが何故実際のグリーベルの絵ではなく、Sさんの物語った絵の方を愛し、重んじるのかということとと同じくらい、いわくいいがたい感情の領域なのだろうから。
いづれにしても、わたしの胸の中には、Sさんから手渡された『平和な日曜日』即ち『日曜日の午後』という静かな絵が一枚、確かにある。
不悉
この記事には、拍手を送るしかない!
返信削除前の記事の「ジェームス・カー』の歌声と同じように!!
※「ジェームス・カー」がキャリア半ばにして不自然とも思える形で引退したのは、何らかの精神障害を患っていたかららしい(個人情報のため明言されてはいませんでしたが)と言うのを何かで読んだ記憶があります。
その後、周囲の協力を得て、確か2000年前後だったと思いましたが、カムバックしていました。
ぼくなどは、予想をはるかに超えて「昔のまま」だったその歌声に驚いたものです。
それでは、また。
こんばんは、ふたつさん。
削除昨夜これを書き終えてから、コメントを寄せてくれたSさんに報告しました。
といっても、彼にも言いましたが、自分でもなんだかよくわからない文章のような気がします。
わたしは彼に「教えてくれた絵の感想を、短い感想を書いてみたいが構わないですか?」と聴いて、彼は自分の言葉の引用・編集など、自由に書いてくださいと言ってくれました。
でも出来上がってみれば、絵の感想でも何でもない。Sさんだけでなく、この文章を理解できる人がいるのかと、訝っておりました、(実はいまでも)、Sさんには、具合のいい時に感想を聞かせてくださいといいましたが、このような文章にどのような「感想」が書けるでしょう。早速撤回せねば。
けれども、ふたつさんが、なにかを感じて、好感を持ってくれたことはとてもうれしいです。ありがとう。
わたしは、絶頂期のソウルシンガーたちの「その後」をほとんど知りまん。
2000年頃というと、もう70代だったのでしょうか?
やっぱりいいですね。60'sのソウルは、ある意味鬼気迫るところがありますもんね。
ヴァン・モリソンは、ロックですね。
いつもコメントをありがとうございます。
私はあなたのことが好きです。
返信削除以前からこちらを拝見していましたが、なぜか今ふっとそう感じました。
メンバー制はできればおやめになってください。
かなしいですし、この場所に似合わないように思います。
こんばんは。
削除コメントをありがとうございます。
今後もメンバー制にはしないと確約はできませんが、ここにコメントをくれる数人の人たち以外にも、読んでくれている人がいるかもしれないと、まだ思うことができているようです。
わたしは自分の狂った文章が肯定的に読まれることに慣れていませんが、わざわざコメントを書いてくださってありがとうございました。
追伸。
削除年齢性別、障害を持っているかいないか・・・そういうことを一切無視して、わたしを好きだといってくださる人がいることに感謝しています。
どうもありがとうございます。
こんばんは, Takeo さん.
返信削除Takeo さんが書かれたこの文章は, 何ものかを指し示していると思います.
私に喜びや若干の苦痛を含んだ感情を抱かせる, その何ものかを書き留めておきたいけれども, どうすればいいのか.
オットー・グリーベルの《日曜日の午後》という絵には, 光と片方の足を失った傷痍軍人が狭い部屋で寛いでいる姿が描かれています. 鉛筆による少し戯画化されユーモラスにも思える傷痍軍人の様子が, 彼の失ったものの大きさを際立たせているようです.
一方で, 彼は微笑んでいるようにも見え, 全体として何とも言えない静かで穏やかな雰囲気を伝えてきます.
私が感じたのは, 光を失い動くこともままならなくなり, 彼は部屋で空想と思索の内的世界に喜びを見出だしているのではないだろうか, ということが一つ.
およそ彼が受けた傷や仕打ちに報いているとは言えない, 象徴的なまでに狭い半地下の部屋の描き方が一つ.
世の中というものから, 自分の愚鈍さと長く患った鬱病とが原因で少しづつ弾き出されていた私にとって, この絵に抱いた共感は大きなものでした.
苦しい現実世界から距離を置いて, 内的な世界で耽る自由な思索.
そして狭く閉じた部屋, 半地下で外の世界から少し隔絶されていて, 一人だけになれる空間.
これらに憧憬を抱いたのです.
そのために, もう随分前のことになりますが, 雰囲気似た部屋に住み, そこで仕事をする自分の姿を傷痍軍人に重ねていたことがあります.
環境も境遇も全く異なるというのにです.
終の棲家にしようと思っていました.
けれども駄目でしたね. 最も苦手な他人やお金との関わりで煩わされ鬱が悪化し昼間から酒を飲むようになり生活が壊れました.
周囲との連絡を断って, その部屋を夜逃げ同然で引き払って, 間も無く入院しました.
逃げ出すという卑怯で最低なことをしてしまったという罪悪感が激しく, 現在でもお天道様の下をまともに歩ける気がしません.
退院してからは, 通っていたデイケアの絵画のプログラムで, 部屋とそこに居る男の絵を何枚も描いています.
逃げ出した以前の部屋ではなく, グリーベルの《日曜日の午後》をイメージして描いたのです.
描きたくてどうにもならなかったのです.
以前の部屋への未練は無く, 皮肉にもグリーベルの絵そのものに惹かれている私こそが本当だったということです.
治療のために紹介された作業療法のアトリエでも部屋の絵を何枚も描きました.
そのうちの一枚には《幸福 (Happiness)》というタイトルを付けています.
> それでも、この絵が、わたしに心の静けさ、穏やかな感覚(Calm and Quiet Feeling)を齎すこともまた事実なのだ。
そうなのです. 《日曜日の午後》は, 私に静かで穏やかな感覚を与えてくれるのです.
かつての私が愚かにも言語化した「内的世界での思索」や「現実から距離を置いた空間」などではありませんでした.
この絵には「喪失し破壊された者」が描かれている.
Takeo さんの文章はその本質を鮮やかに描き出しています. 美しい文章ですね.
元の絵は見ていないというのに, なぜわかるのですか.
私の描写から想起できたとすれば, 書いた私自身はまるでわかっていなかったということになるでしょう.
絵の力が届いたということでしょうか. わかりません.
どうして気が付かなかったのだろうと思います.
この絵に描かれているのは私です.
そして, 「喪失し破壊された者」が見る世界が, 静かで穏やか (Calm and Quiet) であったというのは大変幸福なことです.
ここに居るのは私自身です.
P.S. 私を「友人」と書いてくれたこと, とても嬉しかったです. ありがとうございます.
こんばんは、底彦さん。
削除すっかりご無沙汰してしまいました。
ご存知かもしれませんが、わたしは昨年初頭、いや、一昨年の暮れあたりに「ブログ村」に登録し、その後ランキングからは離れたものの、数人の、主に心を病んだ人たちのブログを読んでいました。中には既に更新が途絶えて久しいブログもありました。また、突然ブログごと姿を消した人も。
底彦さんを知ったのは確か昨年の夏ごろでしたね。
今年になって、底彦さんのブログの更新が滞っていたことを心配していましたが、
「ブログ村」の「リニューアル」とやらで、フォローしているブログの更新情報が一目でわからなくなり、それ以来、底彦さん、それから、欠かさず読んでいた数人のブログからも遠ざかってしまうようになりました。
同時に、わたしの状態も日増しに悪化して、そもそも当初から底彦さんがわたしのブログを読んでいる、と言うこと自体が不思議だったので、さすがに今年に入ってからのブログは、底彦さんもついてこられないだろうし、こんなブログは底彦さんのような人は読まない方がいいんだという気持ちもありました。
またわたし自身もまたアートの方に方向転換しつつあるので、底彦さんや他の方、一年間ずっと読み続けてきた人たちのことを気にしつつも、自然と遠ざかっていました。
底彦さんとは実際に会って、いろいろ話したいと思っていましたが、それ以上に「こんなわたし」という気持ちが勝っています。
そういう意味では変なところで、底彦さんに似てきているのかもしれませんね。
◇
このコメントは日にちをかけて書かれたもののようですね。
前半と後半とでは書かれている感情が違いますから。
◇
一枚の画を前にして、何を感じるかは、見る者の内面との照応だろうと思います。
わたしはただただ傷つき敗れたものの姿に崇高さと美を見出す。そのような感受性を持っているだけなのでしょう。
もし底彦さんが、最近時々投稿している、アートを使った記事をご覧になっていれば、わたしの言っていることはいつも同じだと気付いているはずです。
わたしが「本質を見抜いた」のではなく、偶然わたしの感想が、今の底彦さんの気持ちに寄り添った、ということだと思います。
わたしは底彦さんのブログに飽きたとか、興味をなくしたということではなく、いつもどうしているだろう、あれから更新されたのだろうか?と気にしています。
繰り返しますが、他の2~3人のブログにも最近は訪れていません。
言い換えれば、この世界から少しづつ離れて行っているのかもしれません。
書いていることもご覧の通りです。
本音を言えば、わたしは底彦さんがわたしのブログを読んで何を感じ何を考えているのかを知りたい。けれども、やはり同じようにこれは底彦さんには毒だ、という思いも同程度にあるのです。
ただ一言だけ言えるのは、底彦さんはわたしにとって、「昔ブログを読んでいた人」「過去の人」ではない、ということです。
まとまりのない文章で失礼しました。
気が向いたら、いつでも声を聞かせてください。
コメントをどうもありがとうございました。
なにかもっと言いたいことがいろいろある気がするのですが・・・
こんにちは, Takeo さん.
削除Takeo さんが仰っているように, 先の私の文章は日にちをかけて継ぎ足しながらまとめました.
一度にまとまった文章を書けず, 思考も継続できなかったためにそうなったのです.
グリーベルの絵に対する心の底での私の思いに変化は無く, 寧ろ文章に変化を起こさせたのは私の鬱状態からの回復による体調の変化, 考え方や感じ方でしょう.
投稿する前に何度も読み返してはいたのですが, あらためて自分の文章を読んでみました.
Takeo さんへの返信を一文づつ付け足していく中で, 私自身が変化していくのが確認できますね.
興味深いことですが, 同時に痛々しくもあります.
> 底彦さんとは実際に会って、いろいろ話したいと思っていましたが、それ以上に「こんなわたし」という気持ちが勝っています。
>
> そういう意味では変なところで、底彦さんに似てきているのかもしれませんね。
Takeo さんと直接会って言葉を交わしてみたいという思いは私にもあります.
ただ, Takeo さんが現在苦しみの中にいるらしいこと, 私も昨年末以来の鬱状態からの回復と共に人と触れ合うことの恐怖や不安が再び強くなってきていることから, 今は希望は持たないようにしています (鬱状態での寝た切りの生活から抜け出せたことは喜んでいますが, コミュニケーション恐怖には未だにとらわれたままです).
> 本音を言えば、わたしは底彦さんがわたしのブログを読んで何を感じ何を考えているのかを知りたい。けれども、やはり同じようにこれは底彦さんには毒だ、という思いも同程度にあるのです。
そうですか. そうかも知れないですね.
でもほぼ毎日, 大抵は一日の始まりの時間のことが多いのですが, Takeo さんのブログを訪れて静かに絵や写真を眺めるのは楽しみです.
いいなあ... と思います. 大切な時間です.
サルバトーレ・フューメの描く石が好きです.
石内都の写真は, かつて現実にあった風景であろうにもかかわらず抽象絵画のようだという印象を持ちました. 本当に美しい.
エリザベス・フリンクの傷ついた馬の絵を見たときには, あまりに愛おしく, 彼らを抱擁し傷にくちづけさえしたいと思いました.
ファーガス・バークの写真には空気の冷たさ, 無音の中のガラスや石塊の音の響き, 靴音や吐く息の白さを感じます.
その他みんな素晴らしいのですが, 私はテリー・タレルの絵が特に好きです.
うまく表現できませんが, 怒りとか嬉しさとか愛情とかが間違った比率で混じり合ったような... こういう歪さを私は愛しています.
この絵と画家を知ることができて良かったと思います.
ありがとうございます.
私自身がまだ体調が良くなったとはなかなか言えませんが, Takeo さんの精神状態も少し心配しています.
文章の言葉が, 強く硬直していたり, 萎えて弱々しくなっていたり, 何処となく不安定なように感じています.
Takeo さんの極度の繊細さ (決して悪い意味ではないです) ゆえなのかも知れませんが.
いくつか, もしかしたら Takeo さんにとって気に障ってしまうような文章を書いてしまった気がして不安です.
自分でも自分の文章の全体がうまく掴めないのです.
もし気に障ったようでしたら本当にごめんなさい. お詫びいたします.
文章がおかしかったらすみません.
Takeo さんがくれぐれも静かで平穏な日々を過ごすことができますよう.
こんばんは、底彦さん。
削除ご覧になられたかもしれませんが、久しぶりにコメントをくれたJunkoさん、そして、いつものふたつさん、最近は姿を見かけませんが、ネット上では12年間もの付き合いになる瀬里香さん、そしてyy8さん。
みないつも真摯なコメントをくれます。
決して上辺だけの社交辞令の交換ではない・・・
正直、今は気持ちが、存在そのものが安定しません。
書きたいことがあるのか?しかし書いても書いても同じことの繰り返しではないか。
このブログに関しては、ほんとうにいいと思った絵や写真を投稿していますが、最近、上の記事で底彦さんに、もし今絵を描くとしたら、美しい絵ではなく、自分の醜さ、狂気、不安、孤独、かなしさ、淋しさ、そして「怒り」・・・と言えばなんとなく聞こえがいいが、「憎」とか「怨」といった文字で表現される自分の内面を表出したような、=表現主義の絵を描きたいといいました。
わたしは底彦さんやふたつさんのように、自分で絵を描くということができないので、最近新たに作ったブログで、自分の今を表現しているつもりですが、自分でも驚いているのは、ここで自分の気持ちを書くことに関しては何の抵抗もないのに、別のブログで、自分の気持ちを表現するためにアートを選んでいると、こんな絵を投稿したら見る人を不快にさせるんじゃないだろうか・・・これは正確には、こんな絵をポストして、嫌われるんじゃないだろうか?という気持ちが強くあることです。
ここで書いたこと、自分自身の言葉で書いたことで、仮に底彦さん、ふたつさん、更には瀬里香さんJunkoさんに愛想を尽かされても平気のように思われるのに、アートのセレクトには、なんでこんなにナーバスになっているのか、我ながら不思議です。
繰り返しますが、このブログではわざわざ穏当な絵や写真を選んでいるつもりはまるでありません。
単にもう一つのブログの画の選択に限らず、わたしは最近とみに、自分の底知れぬ狂気に、なんというか、圧倒されています。言い換えれば「どこまで人と違うんだ」という感覚・・・
毒食らわば皿まで・・・とは大袈裟ですが、今更嫌われること、孤立することになんの躊躇い怖れがあろうか、という開き直りも確かにあるのですが、なにかそれとは反対の気持ちがあるようです。「完全なる孤立への怖れ」でしょうか。
わたしが昔から感じていることがあります。
決してわたしにたいして油断をしないでくれ、あなたの知らない、そしてあなたが眉を顰めるであろう部分が、必ずいつかあなたは見るだろう、そしてわたしから離れていくだろう。
これはまるで思春期の感覚感情ですが、昔から感じていて、40代の時に出会った親友が的確に表現した(彼女は自分のことをそういったのですが)「愛されざる者」という気持ちが生涯消えることはないでしょう。
服装の乱れは心の乱れ、じゃない。文章の乱れは心の乱れ。端正な文章を綴ることを心がけてきましたが、最早乱れも醜悪さもさらけ出してもいい時節ではないか、などとも思っています。
わたしは何者か?結局思ったよりも卑小でグロテスクなフリークでしかなかったようです。
そしてわたしはそんな「自分」と心中するしかないようです。つまり一心同体、と言うことです。
底彦さんのブログも、最後のコメントを残して以来ご無沙汰していますが、徐々にではあっても回復されているようでなによりです。
そして底彦さんがわたしの過去の投稿にそのように向き合ってくれていたことを知り、とてもうれしく感じています。
少しづつでも確実に回復に向かわれますように。
親切なコメントをどうもありがとうございました。