2019年2月23日

デイケアについて


デイケアに行ってきた。ここ数日春めいた陽気が続いている。今日は歩きで病院まで。
普通に歩けば10分以内で着く。けれども、月に3回ほど、ここに来るくらいしか外を歩くことがないので、脚が非常に重い。歩くことが大変に感じられる。
これでは夏の暑さの中ではとても10分も歩くことはできないだろう。
先の話をしても仕方がないが・・・

デイケアでは徐々に、参加者、スタッフとの溝を感じ始めている。
次第次第に居心地の悪さ・・・というか、主治医のいうように、「敬遠されている」感じがする。無論悪いのはこちらである。

今日は例によってディスカッション系のプログラムで、今回初参加のWRAP(ラップ)というプログラムだった。わたしはこのデイケアで初めて聞いた言葉だが、これはW=Wellness(健康)・R=Recovery(回復)・A=Action(行動)そしてP=Planning(計画)
の略で、わたしの勝手な解釈では「いつもげんきでいるためには」といった感じだろうか。

正直な感想を言うと、まったくわたしとは相容れない考え方のような気がしてならなかった。
「健康維持」「いつも元気でいるために」の方法論のようだが、他の参加者たちの間ではいわずもがなの前提として共有されているのかも知れないが、わたしにはそもそも「健康」とは「元気である」とはどのような状態を指すのか?そこのところがスッポリ抜けている気がする。

今日の話し合いについての詳しい話は省くが、当初の、心の病んでいる人たちに囲まれているという「安心感」というのは既に揮発してしまっているようだ。それに代わって、デイケアへの参加を重ねるにつれ、ああ、結局彼らも「心を病んだ普通の人」なんだ、という認識を深めつつある。

例えば彼らは、プリーモ・レーヴィの「人間であることの恥」
或いは石原吉郎の「生き残るためには「適応」しなければならない。そして「適応」とは「堕落」である」という言葉、さらには、「『正常』であることが即ち『異常』を意味するこの現代社会・・・」という辺見庸のやりきれなさに、どのように反応するだろう。
「この社会に絶望する人が一人でも増えること、それが私の希望です」という、最晩年に残した西部邁の言葉を、WRAPの参加者たちはどう聞くだろう?

これらのことばをひとまずこっちによけておいて、「健康維持」「いつも元気であるためには」・・・といわれても、わたしはとても話に加わることはできない。なぜならこれらの言葉こそが、まさにわたしの気持ちを表しているのだから。

今日は具体的には「あなたをサポートしてくれる人」について話したが、「サポーターは5人はいた方がいい」とか。例えば市の障害者福祉課の保健師、保健所の保健師、精神保健福祉センターの相談員と話しても、彼らはわたしがいったい何に困っているのかを理解してくれない。彼らが訊きたいのはひとつだけ、「健康に、元気になりたいのか?」それだけだ。

WRAPにしても「そもそも人間にとって健康とは何か?何故健康である必要があるのか?」そのような基礎中の基礎である「定義」があるのだろうか?健康とは何かという検証・考察・思索はなされているのだろうか?

このようなことが重なり、わたしは次第に発言をしなくなるだろう。何故って、そもそもの前提を他の参加者との間で共有できていないのだから。

このままデイケアを続けて行けば、否応なく「普通の人」との隔たりを実感させられ、孤立を深めるだけではないか?既にそんなことを考え始めている。
そして彼らをみていると、「心を病む」ということがどういうことかもわからなくなってくる。あの中で、言葉の本来の意味で「真に病んでいる」のはわたしだけではないのか、と。

「健康になりたくない」と言っているのではない。健康とはどういうことかと訊いているのだ。そして今現在この国で、この都市で、「健康である」ということは可能か?可能であるというのならそれはどのような形でか?と訊いているのだ・・・















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