● 適応とは「生き残る」ことであり、さらにそれ以上に、人間として確実に堕落して行くことである。生き残ることは至上命令であり、そのためにこそ適応しなければならないのであり、そのためにこそ堕落はやむをえないという論理を、ひそかにおのれにたどりはじめるとき、さらに一つの適応の段階を私たちは通過する。
このような環境をはるかに遠ざかったいま、安んじて私たちはそれを堕落と呼ぶかもしれない。だが、任意のいかなる時期にそう呼びうるにせよ、私たちが堕落の過程を踏んだのは事実であり、それに責任を負わなければならないのは私たち自身である。ある偶然によって私たちを管理したものが、規定にしたがって私たちを人間以下のかたちで扱ったにせよ、その扱いにまさにふさわしいまでに私たちが堕落したことは、まちがいなく私たちの側の出来事だからである。
● 何かに気をまぎらわせることが、生きることだと思っている人間。自分が生きていることに気づかないことが生きていることだと思っている人間。それでも彼は人間である。
但し、他の何かにとって人間なのであって、自分自身にとって人間であるわけではない。
● 実存とは、いわば私自身のことである。私はついに私自身を一歩も離脱できず、結局この私自身を生きてこそ本当に生きたということができるのだ、という意識から、何かの価値の転倒(私にとっての)が起こらないだろうか。生きるということは、この世界の何を生きるというのでもない。ただ現実の中の現実、レアリテの極限としての自分自身を生きることに他ならない。
それはロジックではない。走り出したらあとをふり向かない決意としてである。生きることが虚無であるなら、とりもなおさず私自身が虚無であるということであり、生きることが救いであるなら、とりもなおさず私自身が救いであるということだ。
● <立ちどまる>ということは重要なことだ。とある街角の敷石の上であれ、書店の店先であれ、その時私は立ちどまらねばならない。私は階段を一つ降りる。生きることがそれだけ深くなるのだ。なぜなら、立ちどまる時だけ私は生きているのだから。
● 自分の現実の姿を承認することなしには、私にはどんなささやかな前進もありえないだろう。私はこういう人間である。私はこういう人間であるよりほかに、ありようがないのだという確かな認識以外の場所から、私は出発してはならない。ありえざる理想像の高みから、自分を見おろし、叱責し、絶望するほど不毛なことはない。そういう<前のめり>の姿勢から一時も早く立ち去ることこそ、私にとって今、最も必要なことなのだ。私が希望をつかもうとあせるのは、実は逃避にほかならないからである。
● 一人の思想は一人の人間の幅で迎えられることを欲する。
不特定多数への語りかけは、すでに思想ではない。
● 日常は本来脱出不可能なものである。といって、腰を据えるには到底耐えうるものではない。
● 生き場所のみがのがれがたくのこった。死に場所を得られぬままに。
●「生きることを正しとすれば、死が誤りとせらる」(カール・バルト)
● ひとと共同でささえあう思想、ひとりの肩でついにささえきれぬ思想、そして一人がついに脱落しても、なにごともなくささえつづけられてゆく思想。おおよそそのような思想が私に、なんのかかわりがあるか。
●「ことばは人に伝わるか」(講演のタイトル)
『石原吉郎全集Ⅱ』(1980年)より
◇ ◇
わたしは勿論彼のすべての言葉を愛するわけではない。
「うしなったものを取りもどすべきではない。それが出発というものだ。」
或いは
「もし私が何ごとかに賭けなければならないのであれば、私は人間の<やさしさ>にこそ賭ける。」
このような言葉は、わたしの横を黙って素通りしたり、またわたしを鼻白ませたりする。
「ことばは人に伝わるか?」・・・同じ人の同じ傷口、同じ魂の深みから発せられた言葉でも、わたしには伝わらなかった言葉が、ある・・・それは何故か?
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