2019年2月12日

辺見庸のことなど


昨年12月に紀伊国屋ホールで行われた、新作『月』発表に伴う講演会に行くことを止めて以来、辺見庸のブログには暫く訪れていなかった。

「朝日新聞のマーク(?)は旭日旗に似ていないか」等さんざんマスコミをなで斬りにしておきながら、いざ新作の出版となると、薄い微笑を湛えた写真とともに、朝日新聞のインタヴューに応じ、これまた悪口を並べ立てていたNHKの番組にも出演するという変幻自在の「彼」の姿に、ここでもまた「人間であることの恥」を見た思いがしたのだ。

今日、わたしは幸いにして、(というか今更という感ではあるが)自分がみなと同じ「人間であること」から免れている(或いは除外されている)という実感を得る契機があり、久しぶりに辺見のブログを訪れた。

最新の記事が[2018年08月26日]である。確かこのころから、『月』執筆についての投稿が目立ち始めてきたのだった。
10月には、上記の講演会の告知もしていた。

この間どのような経緯があったのかは知らない。また知る必要もない。
少なくとも、今、彼からは「罪のない恥知らず」の臭いは漂っては来ていないようだ。

しばらく様子を見て、いつかまた彼の本を手に取ることもあるだろう。




この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身(うつしみ)は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そして最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。
私は文学のふるさと、あるいは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる ── 私はそう思います。
『坂口安吾全集3』(1993年)より「文学のふるさと」

神でさえ抱擁することを躊躇うこの身。このわたし。「選ばれざる」ことによって「選ばれし者となる」皮肉なアイロニー・・・救いのないこと、孤立無援であることが、そんなさかしまな苦い矜持となることを怪しむ者はいるまい。

「希望を捨てること、という希望がある」そんな石原吉郎の言葉が遠くから耳に届く。














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