2019年2月15日

人生は無頼不逞なもの、芸術は無慚なもの・・・


昨年の今頃だろうか、竹中労 - 原作・絵コンテ、画 - かわぐちかいじの傑作・怪作、『黒旗水滸伝・大正地獄篇』を夢中になって読んでいたのは。
最近「不逞鮮人」と自ら称した朴烈と金子文子の映画が公開されていることを新聞で知ったことからそんなことを思いだした。

当時はその影響で、中島貞夫監督の1969年作品、『日本暗殺秘録』も観た。無論映画館でではない、海外の人がYou Tubeに投稿していたものを観たのだ。

不逞・無頼に生きる。それがわたしの本懐ではなかったか。


現在わたしの読みたい本のリストには次のような作品が挙げられている。

● 死の懺悔 完全版 古田大次郎遺書 古田 大次郎/著 黒色青年社

● 現代日本思想大系 31 超国家主義 橋川 文三/編 筑摩書房

● 獄中手記 磯部 浅一/著 中公文庫 中央公論新社

● 難波大助の生と死 〔増補版〕 原 敬吾/著 国文社

● 彼方より 増補新装版 中井 英夫/著 潮出版社

● 美は一度限り 落日の美学闘いの美学 野村 秋介/著 21世紀書院


そしてわたしは辺見庸はもとより、西部邁、野村秋介、大杉栄、辻潤、竹中労、若松孝二のような人物を愛する「不逞の輩」だ。



今回ブログの「メンバー制」について悩み、「いのちの電話」に相談した。
珍しく男性の相談員で、詳しくは訊かなかったが、その人は学者らしく、様々な学会での50~60代の大の大人たちの醜悪さグロテスクさを嫌というほど見てきたといっていた。そして結論として、自分(彼)ならブログは「当然」「メンバー制」にする、と。

しかし「清潔で正しく、誰からも拍手を以て受け入れられる思想」ばかりではつまらない。
無頼で、不逞な輩が異端邪説を吼えて何が悪い。蛆虫にも言論の自由はある筈。

タイトルの「人生は無頼不逞なもの、芸術は無慚なもの」── これは実際は、
「作家は無頼不逞に生き、芸術とは無慚なもの」という画家鶴岡雅男の言葉だ。

人生とは無慚なものだ、そしてわたしは無頼不逞な生に憧憬を覚える・・・

ひとまず不逞ブログの「メンバー制」は保留にする。

最後に映画『日本暗殺秘録』のレヴューを。

これは昨年の2月13日に書かれたものだ。



◇    ◇


「テロリズムとは心優しき者の心に宿る思想である・・・」(竹中労)

先日、IRA、「アイリッシュ共和軍」の公然組織の政党名「シンフェーン」というゲール語の意味が「我らのみ」であると知った。そしてわたしは「我ら」という「等」を持たない孤絶した「我のみ」であると思った。昨夜観た映画で、主演の千葉真一演じる血盟団員「小沼正」は同志(村井国男)に向かって。「俺、わかったよ。「革命」ってのは「俺たち」でやるんじゃないんだな。「俺」がやるんだ・・・」

監督中島貞夫、脚本笠原和夫の1969年作品『日本暗殺秘録』は、先日かわぐちかいじの『テロルの系譜』を読んだ折りに知り、是非観たいと思っていた。
若山富三郎、片岡千恵蔵、高倉健、鶴田浩二、菅原文太、田宮二郎、里見浩太郎、藤純子といったオールスター・キャスト。それだけでエンターテインメントとして第一級の作品だが、微瑕を言えば、冒頭、桜田門外の殺陣のシーンで、黒澤ー三船や、今井正ー中村錦之助ほどの凄まじいまでの迫力が感じられなかったことだろうか。

タイトルの通り、この映画は日本の暗殺ーテロルの歴史をオムニバス形式で描いている。
143分。登場する暗殺事件は、 幕末桜田門外の変から昭和11年の2.26事件まで九つ。140分で九つの暗殺事件を描くなら、ひとつのエピソードあたり15分ほどになってしまって、事件の背景などは描きようもないのではないかと思っていたが、この映画のメインは、昭和7年に起こった血盟団事件で、次に2.26事件と、ギロチン社事件に多少の時間をかけているが、その他は、単に何時何処で誰が誰によって殺されたというシーンのみである。だったら初めから井上日召と血盟団事件の作品にすればいいのではと思うが、やはり、幕末ー明治ー大正、そして戦前と、連綿とつづく権力の支配・圧迫と被支配・屈従の「歴史」が続いていることを示唆する必要があったのだろう。
暗殺の前にも暗殺があり、テロルの後にもテロルがある。その変わらぬ国の風景の背後に何が潜んでいるのかを暗示する必要があった。

興味深かったのは、「ギロチン社」の古田大次郎も、血盟団の小沼正も、また2.26事件の磯部浅一も、異口同音に「革命」というタームを用いること。大杉栄虐殺の復讐に起ち上がったギロチン社の面々は、言うまでもなくアナキストであり、血盟団は右翼と言っていいだろう。
作品が作られた当時、「政治の季節」と言われた60年代後半~70年代にかけての時代の精神というものも影響しているのだろうが、そもそも竹中労が指摘するように、「左右を弁別せざる」思想にわたしは共鳴する。
戦いは左右の水平上の闘いではなく、上下の垂直方向の戦いであるべきなのだ。

政治的なスタンスをいうなら、わたしは勿論右ではないが、だからといって、左派かというとそうでもないような気がする。そもそも現在のこの国で、言葉の正確な意味での「右翼・保守」或いは「左翼・革新」というものが如何なるものであるのかがよくわからない。

戦後、俳優山村聰は映画『蟹工船』(1953年)を監督し、また国鉄下山総裁の轢死事件に材を取った、井上靖原作の映画『黒い潮』を撮っている。同時期、佐分利信は、2.26事件に取材した『叛乱』(1954年)の監督をしている。これこそ正に「左右を弁別せざる」時代背景ではなかったろうか。

わたしには「右」も「左」もないように思える。ただ、上(かみ)と下(しも)、富裕の貧困の対立があるのみだと。

映画は最後に

「そして現代
 暗殺を超える思想とは何か?」

と問いかけている。
けれどもそもそも「暗殺」或いは「テロル」とは「思想」だろうか?
転覆に転覆を重ねても、またいかなる体制であろうとも、国家がある限り権力があり、権力のあるところには支配がある。映画の中で田宮二郎の言う「我々の革命は、失敗はもとより、成功もまた死のはずだ。生きて二階級特進など、貴様ら、本気で革命をやろうと思っておるのか!・・・連夜紅灯の下に酒を飲み、女を抱き、自己の栄達のために革新を語る。たとえ成功してもそれでは単なる政権の交代、自分たちが権力を握るためのさもしい権力抗争に過ぎんではないか!」という心情に心打たれる。

狂気(兇器)の沙汰と言われ「思想以前」と言われても、それが故に、わたしはそこに人間性の哀しき美の発露を見る。

働けば血を吐き働かなければ喰えなくなる現在(いま)の俺の態(ざま)を見てくれ

喰うために全力をあげてなお足らぬこの世になんの進歩があろう

ー 渡辺順三 (1929年 昭和4年)


◇ 蛇足乍、わたしが、辺見が、西部が、竹中が「然り!」とするテロルとは、虐げられし者たちの、下から上へ向けた抵抗の謂いである。


































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