2019年2月12日

心傷み申し候…


● 先日デイケアで使った画用紙の残りが、戸棚の上に置いてあったので、母に「これ、邪魔でしょう?」と言った途端、その言葉にヅキッと心が痛んだ。「邪魔」「じゃま」「ジャマ」・・・「邪魔」とはわたしに向けられるべき言葉だ。

● わたしはクリニックの診察室にいた。主治医がなぜかいつもは着ていない白衣(?)を着て、大きな黒い眼鏡をかけていた。相手の目が見えないせいか、なにかロボットのような感じがした。それまで何を話していたのか憶えていないが、彼は不意に、カルテを書く手を休め、黒い眼をした顔をこちらに向けてこう言った。
「正直に言うと、私はあなたが嫌いなんですよ」

これは夢の話だが、そういわれたわたしは、「やっぱり」と思った。
わたしの主訴は「他者(=他の人間)と良好な関係を築けないこと」また「関係を維持できないこと」そして当然のように「医師」もまた「他者(他の人間)」である。例外ではない。


● 自分を定義するなら ──「愛されざる者」「許されざる者」「鞭打たれる者」そして「狂人」

● キリスト教に限らず、「宗教に於ける赦し」というものに関心がある。

 「赦し」=「愛」だろうか?

 「赦される条件」「赦されざる罪」というものがあるのだろうか?

 「神仏」はヨセフ・メンゲレを赦すだろうか? 日本政府がこよなく愛するカーティス・ルメイ(将軍?)はどうか?

 わたしは死後の世界を信じていないが、神はわたしを赦すだろうか?

死後の世界を信じないものには、生きているうちに地獄を味わわせるのだろうか?

「赦す」「赦し」とは、どういう概念か・・・


●「枯れないものは花ではない」「死なないものはいのちではない」・・・わたしはそれに「傷つかないものはいのちではない」と書き加えたい。


汚れて弱った野良犬を棒で容赦なく打ち据える者。

薄ら笑いを浮かべて飢えた野宿者を足蹴にする者。

嗚呼、その犬はわたしだ。

その浮浪者はわたしだ!


汚れて弱った犬をやさしく抱いて連れ帰る者がいる。

野宿者に暖かいコーヒを差し出して、黙って隣に座る者がいる。

しかしその犬はわたしではない。

その浮浪者は、決して、決して、わたしではない。















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