2019年2月24日

追記「健康であること」とは


例えば1920~30年代のドイツで、ドイツ人ユダヤ人であるを問わず、「健康」であるとはどのようなことであったか?
同じ時代の日本、イタリアではどうか?

わたしたちは戦前・戦中の歴史で、多くの「転向者」を見てきた。自分の考えを貫くことはしばしば死を意味したからだ。生き残るためには「適応順応しなければならない」そしてそれは往々にして「堕落」と同義だ。そして生き残ることは「至上命令」だと石原は言う。

そして現代の日本は100年前とそれほどまでに違うのか?
プリーモのアウシュヴィッツ、石原のシベリアと比較にならないほどの別世界なのか?

夜の町でからだを売ることを「堕落」とは考えない。
無宿であることを「堕落」とは思わない。
アル中ヤク中を「堕落」とは見做さない。
しかし、今の時代、何の屈託もなく日々過ごせることは紛れもなく堕落に他ならない。

或いは極論であるかもしれないが、そもそも人は「健康」でありうるのか?

汚れと悲しみを纏わぬ聖性というものがあるだろうか・・・





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