2020年10月30日

言葉と社会

 
以前から読んでいるブログの最新の投稿が気になったので、以下その記事を全文引用する。

引用元のブログは「ひとりしずか




ポトンと音がした。

見るとボタンが落ちている。

直径2cmくらいの大きめのボタン。

失くしたことに気づいた時には補填が難しい品。


教えようかなどうしようかなと、一瞬迷った私。

でもやめておこうと思った私。


ところが、

「落ちたよ」と大きな声をかけた人がいる。

おじさんだった。


ボタンを落とした若い女性は黙って拾った。

そして、

そのまま電車を降りて行った。

「ありがとうございます」も言わずに・・・


それが想定できたから私は教えてあげるのをためらったのかもしれない。

おじさん、あなたは偉いよ、実に偉い。

何の反応も返ってこなくても呟かなかったもの。

おじさんって言いがちだよね「礼も言わないのか!」って。

あなたは言わなかった。


今朝の電車での一コマ。


些細な社会的言語さえ発語しない人が増えている。

オ・マ・エは機械か。

次第に血の通わぬ機械になりつつある人間。

不気味だ。


仮にわたしがこのブログの筆者である露草さんの立場であったら、おそらくはわたしも彼女同様、落とし物を拾うことも「落としたよ」と声を掛けることもしなかっただろう。
落とし物を拾ってくれた人にお礼を言うこと。これを「些細な社会的言語」とは言い得て妙だと感じた。

以前愛読していたブログに書かれていた言葉が印象に残っている。

「俺は年上を敬えと言う時代に会社に入り、年上を敬わなくてもいい時代に、年下の上司のパワハラに遭っている」と。

わたしは上記の露草さんの文章に何も言うことができない。

露草さんは、「どうせ声を掛けてもお礼を言ってもらえないから」声を掛けなかったのではないだろう。わたしより少し年上で、今も電車通勤をしている露草さんは、「わたしたち」の「あたりまえ」が「今のあたりまえではない」ということを知っていたから、関わらなかったのだ。ボタンを落としたのが年配の方であれば、わたしも露草さんも、当たり前のように、「あ、ボタン、落ちましたよ」と拾ってあげるだろう。
そこには、「わたし」の「あたりまえが」相手にも共有されている(筈)という、曖昧で不確か乍らもある種の前提を持つことができる。

ボタンを拾ってあげた男性には、いつでも変わらない「あたりまえがある」という気持ちがあったのかもしれない。「お礼を言う」というあたりまえではなく、「人が物を落としたら教えてあげる」という「あたりまえ」である。

わたしや、おそらくは露草さんも、人に声を掛けることで、却って現代人との距離を痛感させられるのが厭なのだ。

声を掛けた男性の気持ちも、敢えて声を掛けなかった露草さんの気持ちもどちらも真っ当だと思うし、共感できるのだ。同時にわたしのスタンスとしては、基本的に「若い者」とは関わり合いたくないという側に傾斜している。


「社会的言語」という表現を露草さんはされた。

では果たして「社会的言語」とは如何なるものなのだろう?

今日、立川駅から約20分ほどバスに乗った、『うるさい日本の私』で中島義道も言っているように、最悪なのがバスである。

バスに乗っていられるギリギリの時間が20分である。それ以上は絶体に御免だ。駅からバスで40分などという場所には決して行けない。

バスの中で、エンドレスで流されるアナウンスは、果たして「社会的言語」なのだろうか?
もしそれを「社会的言語」と言い得るのなら、この国は社会的言語の洪水である。
そしてその洪水の中であえぎ、溺れているのは、現実にはごくごく少数の者たちだけである。


最近、偶然、メンタルヘルスのブログの中に興味深い記事を見つけた。
今年、2020年の、イグ・ノーベル賞、医学賞に「ミソフォニア」(=音嫌悪症)
の研究が受賞したという。


ざっとこのブログを読んでみて、わたしは「ミソフォニア」ではないと感じている。
それにしても、バスの車内の騒音で七転八倒している身には、「音嫌悪」「音恐怖」の苦痛は凄まじいもの=地獄であろうということは容易に想像がつく。

イグノーベル賞はノーベル賞のパロディーといわれますが、それでも知名度は抜群ですよね。
その医学賞がミソフォニアの研究なのですから、全世界のミソフォニアはこの受賞を知ったら大喜びですよね。
多くの人に、音嫌悪症というものがあるのだということを知ってもらい、咀嚼音や鼻すすりや様々な音が嫌悪の対象になっているんだということを理解してもらいたいですね。

みんなが一度でもそのことについて考えたならば、きっと世界はもう少し住みやすくなる、はず。

この言葉に深く頷くとともに、イグ・ノーベル賞医学賞に心からの拍手を送りたい。

わたしは外界の様々な音、臭い、光、色、などの刺激=信号に堪えられずに外出が困難なのだが、一方で、所謂聴覚過敏であるとか、ましてミソフォニアというものとは違う理由から音への憎悪がある。

おそらく「聴覚過敏」や「ミソフォニア」の方たちは、「刺激そのもの」「音自体」が苦手なのだろうと推測する。

けれども、わたしは、またおそらくは中島義道も、「何故このような音(アナウンス)が必要なのか?」というところで社会の中の(ノイズ=言語)との軋轢を生じている。

何故バスの中で、「横断歩道を渡るときは・・・」などという説明を繰り返し聴かされなければならないのかが理解できない。

以前にも書いたことだが、美術館でのど飴は禁止。何故ならば、咳やくしゃみで飴が飛び出して、作品を損ねるから・・・その話を窮極まで突き詰めてゆけば、何故そもそも「生き物」を美術館に入れるのかという話にはならないか?
めまい、立ちくらみで、思わず、壁や展示ケースに寄りかかってしまう可能性はほんとうにないと言えるのか?
美術品を毀損する意図を持った人間が入場していることは絶対にありえないという保証はどこにある?

バスで執拗に、「危険物の持ち込みはお断りします・・・」では、仮にほんものの危険物(爆弾など)を持ち、何処かを爆破しようとしている者がそれを聞いて「え?だめなのか・・・」と乗るのを止めるのか?

ほんとうに危険だと思うのなら、何故乗客全員のボディーチェック、所持品チェックをしないのか?


露草さんは書いている
オ・マ・エは機械か。

次第に血の通わぬ機械になりつつある人間。

機械ならぬ「生き物」である人間を電車やバスに乗せて運び、美術館で展示品を公開するということは、人間が未だ完全に機械になりきっていない以上、考え得るあらゆる危険をいちいち読み上げて、おやめください、ご注意くださいと言っていたのでは単に音の洪水が生まれるだけではないのか?そしてそれ以上に、人間が言葉(忠告・警告)で完全に制御可能という発想はどこから生まれてくるのか?換言すれば、およそ犯罪を犯すものは、自分の行為が「犯罪(=違法行為)であるということを知らなかった者たちばかり」なのか?

バスの降り際に、「どのバスもこんなにうるさいんですか?」と尋ねるわたしに運転手は、あたりまえのように「決まりごとがいろいろあるんだからしょうがないでしょう」とわたしの顔を不思議そうに眺めていた。

どこまでも愚鈍な国民・・・

「近代都市」というのは、誰もが、幼児をのぞくだれしもが、文字通り行く先々で手取り足取り乗り方降り方を教えてもらわずとも、公共の交通機関を「まったくあたりまえに」「自然に」利用できることであり、わからないで困っている人には、誰もが「あたりまえに」声を掛けてあげられる都市の、国民の在り方を指すのではないのか。仮にそれを「理想論」であるというのなら、この国に「先進国」を僭称する資格はない。また人間の成熟というのは、自分で状況を判断し、そして良きにつけ悪しきにつけ、自分の行動に責任を持つことだ。
毎日街の至る所で、「ああしましょう」「こうしましょう」と躾られている人間だらけの国が、所詮未熟な「子供の国」であることは言を俟たない。

ひとりしずか

ミソフォニアの日常

加えて

KITAISM


以上のブログの筆者に深く感謝いたします。








 


2020年10月29日

疑問

 
「差別主義者に人権はあるか?」

他者の人権を認めない者の人権の根拠は、果たして何に依拠しているのか?







2020年10月28日

駄々・・・

 
冷静で善良、そして「言論の力」を何よりも重んじる日本人諸賢にとって、時折海の向こうから聴こえてくる「数百万人規模のデモ」(一部暴徒化)だとか「数日間にわたるゼネスト」(医療、消防ほか生命の維持に関する諸機関を除き、都市機能ほぼ完全麻痺)などというニュースは、結局いい大人たちが、まるで小さな子供か、さもなければ反抗期の学生の様に「クニ」のやることに対して「駄々」をこねている、としか映らないのかもしれない。

それを「駄々」と呼ぶのならそれでもいい。けれども、「言論こそが正義」と信じて已まない日本の優等生たちが「駄々」と呼び冷笑する行為が、実は「民主主義の要」なのだということを知るべきだ。

古代中国に曰く

「上に政策あれば 下に対策あり」

決して

「上に政策あれば 下に弁論アリ」ではないのだ。









2020年10月27日

ペソア

 

”人を遠ざけるのは簡単だ。近づかなければ十分だ。”
ーフェルナンド・ペソア

*

”人を遠ざけるのは簡単だ。近づけばいい・・・”
ーTakeo 








全体主義の恐ろしさ

 
全体主義に於いては「正義」がはびこる。どのような形で?「正義に反する」という名の下での「処罰」が蔓延るのだ。
ところが正義の源をたどってみれば、「多数派」=「正常」=「正義」という虚構に過ぎない。









無思考と狂気

 ここ数日、東京は半袖の人も見かけるほどの気温が続いている。十月も末近いからなどと、季節で厚着をしていくと、ハンカチで汗を拭うことになる。

鹿児島の川畑さんも気温の変化で体調を崩されていたらしい。組織の代表だけに、今日は多少無理をして出勤されたのだろうか?川畑さんからのメールが届いていたが、返信は書かないでおく。返事を書かなければ、という負担(?)を多少でも減らしたい。

今日は用事で立川に行ってきた。月曜の午後。立川駅周辺はいつもと変わらぬ混雑ぶり。朝夕のラッシュも「いつもと」変わらないのだろうと想像する。
昨年の今頃と変わらないのは、皆がマスクをしているということだけ。

駅前の携帯ショップの近くで、目的の店は何処かときょろきょろしていたら、店から制服姿の若い女性店員が現れて、客が去った後、いつまでも、いつまでも、最敬礼をしていた。最敬礼とは身体を直角に曲げる姿勢で、最大限の敬意を表す姿勢だ。

それを見て感じたのは、さすが日本。さすがに若者。さすがにソフトバンクだな、ということ。その姿形の延長線上には当然ながら「全体主義」-ファシズムの影が見え隠れする。
改めて断るまでもなく、これは全く個人的な印象だが、いつまでも客の後ろ姿に最敬礼をしていた女性にわたしは微塵も客への敬意を見ることはできなかった。おそらく1時間前には別の男性が全く同じ姿勢で客を見送っていたのだろう。


わたしと川畑さんが「狂気」と「他者性」について話を始めたときに、真っ先に挙げられた「狂気」が、「無思考状態での服従」であった。
プリーモ・レーヴィがもっとも恐れた「モンスター」=「疑うことをしない多数」である。

また仮に、ちょっと考えにくいことだが、その店員が、自分の意思で、上司や会社(本部)の支持とはまったく無関係に、40秒近く最敬礼をしていたのだとすれば、「彼女」はわたしの理解を超えた「完全なる他者」である。

たとえば電話というものは基本的に、掛けた方が切ってから受けた方が切る。要件が終わってすぐ切られるのは不愉快だ。
一方いったい誰が、いつまでも自分の背後で最敬礼をされて平気で、平静な気持ちでいられるだろう?

「他者性」とは単なる相違をいうのではない。それは自分がどんなに想像力を働かせても、ついていけない他者性のことである。例えばわたしにとって『家畜人ヤプー』のようなスカトロマニアの気持ちは最大限の想像力を働かせても生理的な拒否反応以外なにものも見出すことはできない。無論スカトロジーという嗜好自体にいいも悪いもない。
いいわるいを言うのならば、「糞便を食したい」という嗜好よりも、「家畜になりたい」という思考/志向である。

わたしには折からの逆光の中、いつまでも最敬礼をする影が人間には見えなかった。
・・・家畜・・・


プリーモ・レーヴィを恐れさせた「家畜」は決して、決して「無害」ではないということを強調しておく。


ー追記ー

「群れ」ることによって思考が一元化される。それが「全体主義」である。一方、スカトロジーであれネクロフィリアであれ、それはあくまでも本来的にマイノリティーである。
そして「全体主義」が最も嫌うものが、「異質性」であり「例外的存在」である。つまり法則的に、また避けようもなくスカトロジーはファシズムの敵になる。故にわたしは好悪を超えて、常に少数派=異端の側に立っていたいと思う。何故なら「全体主義」を最大最悪の「狂気」であると見做す視点から見れば、必然的にその対極に位置する「極個別的嗜癖」は「非・狂気」ということになるからだ。










2020年10月24日

関係性の障害と治癒

 
「治療者は患者にとって、さしあたってはまず、自己を侵害し、自己の自由を制約する他者の代表者とみなされる。
このいわば倒錯した治療構造を助長しているのが、精神病は ── 自殺を重大な例外として ── 原則としては放置しても死に至らない、したがって患者という個別的な有機体だけを視野に入れる場合には、治療の必然性が成立しないという事実である。個体の死への方向性を示さない「疾患」について、医学はどのようにしてみずからの基本構造を維持できるだろうか。
 (略)
精神科治療を必要とする理由が患者自身の内部にないという構造の中では、治療の対象となるべき病苦の座を患者個人の有機体器官の病変に置く自然科学的医学のパラダイムは、たちまちその有効性を失う。それにかわって、患者が家族の一員であり、学校や職場の一員であり、結局は社会の一員であるという仕方で、逃れ難く自他関係の網の目に取り込まれている構造そのものが、精神科治療の、そしてそこから派生する臨床精神医学の研究の本来的な関心事となる。
 

人間を含むあらゆる生物は、種の保存と個体の生存のために、絶えず環境との間に必要な関係を維持し続けている。その場合、生物の側の内部事情も環境の側の外部事情も、それぞれ刻々に変化し続けているのだから、両者の関係もけっして安定した恒常的なものではありえない。関係は常に致命的な断絶の危機にさらされている。生物はそのつどこの危機を乗り越えて新たな関係を再建するという仕方でこの関係を維持しなければ、生を保全することができない。生物が種全体としても個体ごとにも生きつづけているということは、要するに環境との関係が保たれているということ、関係が存続しているということである。生物の存在の意味が生存ということに集約される以上、生物の行動の支配する究極の意志は、環境との境界面に於ける関係の維持に向けられている。

ー木村敏『分裂病の詩と真実』第2章「関係としての自己」3「自己と他者」及び  4「自他関係の生命論的構造」(初出1995年)より


エリクソンが「精神疾患とは関係性の障害である」というように、そしてここで、木村敏が指摘しているように、わたしに関して言うならば「精神科治療を必要とする理由が患者自身の内部にない」ということがあてはまる。
木村敏の言葉を借りれば、「環境」は「わたし」という個体とも、また、種としての「ヒト」とも全く無関係に、自己目的的に勝手に変容を続けている。
しかし、わたしの視界に入ってくる「種としての人類」は個体としてのわたしの環境との軋轢・葛藤をよそに、やすやすと、環境の変化に即応しているように見える。
だとすれば、環境の変化に容易に適応できる者たち(=種)と「わたし」という個体との共通項とはいったいどこにあるのだろうか。
人間(乃至生物)は常に自己を取り巻く環境とともに生きる存在である。では、ひとたび損なわれ、喪われた(不可逆的な外部環境との)関係性の修復とはどのような形で可能なのだろう。


ー追記ー

ここで木村敏が言っている「環境」とは、例えば「地球の温暖化・寒冷化」そして今回のような「世界規模の感染症の流行」のような、主に、生物の「生体」に危機を及ぼす「環境の変化」である。
けれども、わたしは「街の景観」「社会構造の変化」といった「心理面に影響を及ぼす環境」をも含めて、広義の「環境」と言っている。人間が身体と精神を持つ存在である以上、「環境」との関係性に於いて、その「心理的側面」を無視することはできない・・・











2020年10月23日

負が背負う唯一性

 川畑さんとのやり取りをブログに用いることについて、川畑さんは、自分にとって貴重な体験をインターネットという「匿名の海」に投ずる事はできないと仰った。
その気持ちは非常によくわかる。

そのような極個的な関係に踏み込まなくとも、他者性を語る方法はあるはずです。

というわたしの返答に対して、

極個的な関係の「極個」という言葉にハッとさせられました。
そして、私がなぜ固有名にこだわるのか、他者性の文脈で分かりました。
それは、固有名は取り替えがきかない、ということです。
すなわち、私の「メール仲間」(という言葉)は取り替えがきくけれど、
「武雄」は取り替えがきかないということです。
他者性を前提にしたとき、この取り替えのきかなさ(極個性)が倫理の土台に必要、と考えました。

一般に健常者と対比して、障害者は欠損、不良品、無価値、無用という評価を与えられる傾向にある。けれども、欠損を抱える者、壊れてしまった者にこそ、その欠損ゆえに、「唯一性」ー「極個」性が備わっているという逆説が成り立つ。

すなわち
「健康でノーマルな人間はつまるところ、「群れ」に過ぎない」
ーアントン・チェホフ






 

断想

 
川畑さんとの対話の中で、「痴呆老人」や「重度の知的・精神障害などを持った人たち」のいのちの尊厳とは、という話が出た。

パスカルは人間の尊厳は「考えること」にあると断言した。しかしわたしはそうは思わない。

最早パスカルのいう「人間の尊厳」すら喪っている痴呆老人にも、いのちの尊厳はある。

その根拠となるのは、他ならぬ、わたしたちが、感情移入できるか?ということ。
誰かがその人間に対し感情移入することによって、命の尊厳は保たれるのだと思う。

この考えは以前からわたしには親しく、例えば二階堂奥歯の「ピエロちゃん」の話、
そして、マルセル・デュシャンのいう「アートというものは予めあるものではなく、私の眼差しが創り出すものだ」という考え方はとても親しみやすい。
眼差しが、「眼差す者」と「眼差される者」との関係性が、対象を「生成」すると考えるのだ。

このことについて川畑さんの言われたことが印象に残っている。

以前、教えてくれた言葉、
「不幸な人にしてあげられるただ一つのことは、彼(ら)に関心を向けることだ」(シモーヌ・ヴェイユ)は心に残っています。
ただ、「関心を向けること」は、「してあげること」ではなく、他者性とむき合うときの倫理(姿勢)のような気もします。
内側から湧いてくるものでなくては、嘘くさく(「福祉的に」「傲慢に」?)なってしまう気がします。
「嘘くさく」「傲慢に」という表現と「福祉的に」という形容句が同一線上に並んでいることに川畑さんの姿勢を垣間見た気がした。

同時代に生きたカミュや神谷美恵子が指摘したように、シモーヌ・ヴェイユの弱者への共感は一種常軌を逸していた。=「狂気を帯びていた」
川畑さんの言葉を借りるならば、シモーヌ・ヴェイユの虐げられし者達への姿勢は、「してあげる」とは対極ともいえる。彼女は常に、(存在の在り方として)「共にあろうとしてきた」それは単に「寄り添う」ということではなく、現実に「共に飢える」ことであった。ここにもひとつの、「狂的な」「魂」があった。

昨夜のメールの結びに「わたしは根っからの勉強嫌いですが、こういう対話そして議論は人一倍好きです。」

と書いたことに対して、川畑さんは再びヴィトゲンシュタインの言葉で応えてくれた。

「新しい言葉は、新鮮な種子に似ている。それは、議論という土地にまかれる。」




 


 


2020年10月22日

「他者性」について、思いつくままに

 
最近は、先日何回かブログで紹介した、鹿児島のラグーナ出版の川畑さんとメールでやり取りをしている。今「他者性」と「狂気」というテーマで話しているが、川畑さんはご自身の体験から導き出された言葉を語り、わたしはアカデミックな知識も、もちろん医療・福祉の仕事に携わったこともないので、いつものように、自分の直感で言葉を発している。

アメリカのフォト・ジャーナリスト、W・ユージン・スミスの「水俣」の写真を何枚か見たことがある。全身が硬直したような息子とともに湯船に浸かる母親の姿を見ると、自分の持ち合わせの言葉が ── 晩春の風に花が散るように ── 言葉という言葉が自分の身体から剥離してゆく感覚を覚える。そして気付くのだ。「自分はことばをもたない」と。
同じようなことは、ジェイコブ・リース Jacob Riis (1849 - 1914) やルイス・W・ハイン Lewis Wickes Hine (1874 - 1940) の写真を前にした時にも言える。

それらの写真について、「言葉で」表現することが、そこに写されている人間の在り方を「冒瀆」するように思えてならない。


「他者性」乃至「他者」という言葉は余りにも多様で、重層的で、且相反する命題を包含しているので、とても一筋縄ではいかない。

「他者」と言う時「異質性」「異物」「理解不能」「隔たり」といった言葉たちがシノニムとして挙げられるだろう。けれども同時に、「わたし」という個人にとって、「母」「親」「恋人」「親友」と言った存在もまた、紛れもなく「他者」なのだ。

では「他者」のアントニム(対義語)とは何だろう?他者の対義語は他ならぬ「我」だろうか?


川畑さんとの対話の中で「他者性の極北」という言葉が出てきた時、以前ここに書いた言葉を思い出した。

「わたしにとって熊が人間より優れている点は、ことばが通じないこと。
人間が熊よりも面倒なのは、ことばが通じないこと・・・」

嘗て「暴風雨の夜に思うこと」で書いたように、わたしは、「言葉が通じない」ことを以て他者性の極北とは思わない(無論川畑さんも同じだ)

わたしはクマやシカなどの動物=非・人間(ヒトでない生き物)を「他者」という範疇には入れることができない。

川畑さんが引かれた(惹かれた)ヴィトゲンシュタインの言葉を借用する。

「中国人がしゃべるのをきくと、わたしたちはそれを、ガラガラゴロゴという、分節化されていないうがいの音かと思ってしまう。
中国語のわかる人がきけば、それは言語であることがわかるだろう。
おなじように、わたしはしばしば、人間のなかに人間の姿をみつけることはできない
(ヴィドゲンシュタイン『反哲学的断章』丘沢静也訳、青土社、1988)

それに対しわたしは、

この話を聴いてすぐに思い出したのが、ディオゲネスの逸話です。もちろんご存知と思いますが、白昼アテネの街をランタンをぶら下げたディオゲネスが歩き回っています、みなが面白がって、何をしてるんだと訊くと、「人間を捜している」と。

ことばを共有し得ない存在。確かにこれも「他者性の極北」と言えると思います。

一方で、ディオゲネスやヴィトゲンシュタインは、まったく普通の人中に混じりながら、自己と周囲の間に隔たりを、異質性を感じていた。

何故、彼らは、現実に言葉が通じ、場に応じた衣服を着ることができる者たちに「他者性」を感じたのでしょう?
ディオゲネスやヴィトゲンシュタインの「狂気」が、彼らに「ごく普通の人たち」に「他者」を想起させたのでしょうか?

わたしはそれを離人症だとか、分裂病の前駆症状と簡単に片づけてしまいたくはないのです。

ディオゲネスやヴィトゲンシュタイン、さらに「わたし」が「彼ら」と「共有できていないもの」とは何でしょうか?

これは今では死語になっている感のある「群衆の中の孤独」というものとはちょっと違うと思うのです。そのような詩的でロマンティックなものではなく、「彼ら」は「わたし」にとって「他者」でしかあり得ず、同時に「わたし」は「彼ら」にとって、同様に、「異質の他者」でしかありえないという強い疎外感です。

先程の言葉をもう一度繰り返す。

「わたしにとって熊が人間より優れている点は、ことばが通じないこと。
人間が熊よりも面倒なのは、ことばが通じないこと・・・」

一方で「ヒト」以外の「動・植物」そして「重度の知的乃至精神障害者」のような「ことばが通じない存在」を、「こちら側」の存在であると見做し、(逆から見れば、わたし自身が、「彼ら彼女らの側」(狂気の側)に属し)、一方で極めて知的な人間、殊に人並み以上に言葉を巧みに操る人間に、「他者性の極北」(乃至「究極の嫌悪」)を見る。

これはいったいどのような心性なのだろうか・・・

「他者という存在」については、マルティン・ブーバーのいう「ME - YOU - IT」という関係性が何かしらヒントを与えてくれるのではと思っている。

存在を、Youでもなく Sheでも Heでもない’IT’と見做す瞬間に、「他者性」が発現するのではないだろうか。

ここで繰り返し繰り返し述べている「言葉の不通性」についても考えてみたい。





 








2020年10月21日

このブログについて

 
このところ文章を書くことが難しい。言葉を紡いでゆくことが出来なくなっている。
わたしにとっての「ブログ」というものは、「その時々に感じたこと、考えていること等を記してゆく」ものであった。プロフィールにも書いてあるように、「内面の記録」であった。
けれども、その時々に何を感じ、何を考えているのかが見えにくくなった。ときどきの「気分」はあるが、言葉にできるようなまとまった「気持ち」というものが見当たらない。
それは或いは、意識的・無意識的に「見ないように」しているのかもしれない。

ここ数日、或る人とメールのやり取りをしている。その人の本職は様々だが、ベテランのPSW(精神保健福祉士)でもある。あるきっかけから今は「他者性」と「狂気」について話している。長いやり取りではないが、対話を通じて考えさせられるところが大きい。

以前も書いたと思う。(主に海外のアート・ブログについてだが)「とても敵わないなあ」と感じさせられるブログに出逢えた幸運、と。メールのやり取りをしている人はブログを書いているわけではないが、学ぶところ多いという点で、出逢えてよかったと思わせる人であった。

ポール・ヴァレリーが、「友だち(他人)がわたしから引き出してくれるものが無かったら、我々は何と貧しいことだろう」と書いている。

このブログも一時、秀抜なコメントが多く寄せられていた時期があったが、今はもう見る影もない。そしてわたしは自分の中に何があるのかを自分で見つけることができない。

ふと、「その人」とのやり取りをこのブログに転載してみてはどうだろうかという考えが浮かんだ、そのことを先方に伝え、まだお返事は頂いていないが、その間にも「月にむら雲 花に風」の如く、コロコロと気持ちが変化する。

わたしにとって・・・現在のわたしにとって、ブログとはなにか?

「わたし」という特異な個人の考えをわざわざ公にする意味とは?

読者の多寡の意味するものは?SNSで多くの「いいね」や「スキ」をつけてもらうこと、少なからぬリツィートがあるということと、「わたし=書き手」との間にどのような関係があるのか?

「わたし」と、実際に会ったことはないが、声も顔も知っている人との個人的なやり取り、それが如何にわたしにとって実り多いものであったとしても、それが、このブログの読者にとってどのような意味を持つのだろう?

またその人とのやり取りに限らず、「わたしの内面」を「見知らぬ人たち」(Totally Strangers) に対して公にする意味が、わからなくなっている・・・


仮にその方の許可が得られて、ここに二人のやり取りを転載したとして、その他にわたしが個人的に書くことがあるのだろうか?

個人的な生活ではわたしの日々は風雲急を告げている、しかし、それと、「他者」である読者との間に何のかかわりがあるのだろう?

わたしに必要なのは「対話」であって、ここでの孤独なモノローグではないような気がしている。


ー追記ー

半年以上の猶予の後ではあるが、9月から「ブロガー」全利用者のダッシュボードの完全なリニューアルが終了した。そのことにより、ひょっとして頂いたコメントが表示されないどころか、コメントがあったことさえこちらには分からない場合もあると思います。

コメントが確実に届いているか不安に思われる方は、お手数ですが、コメント全文をコピーしていただき、右側のメールアドレスにメールを頂ければ幸いです。
コメントとの重複は問題ありません。











2020年10月11日

救いとはなにか?

 
生きていることの苦しさが、現世に於いて軽減改善されることはないと思えば、心は自ずと、「救い」ということを考えるようになる。しかし天国も地獄も信じておらず、自殺を肯定し、死ねば無に帰すると考えるわたしにとって「救い」とは何か?魂が救われるとはどういうことか?
わたしにとって救いとは、何処に、どのような形で存在するのだろうか?

10数年前、当時のSNSで、アメリカの10代の女性に、あなたはキリスト教も、宗教についても知らなすぎると言われた。その通りだと思った。

そして今のわたしは

「私たちがどれほど遠く信仰から離れ去っていようとも、話相手として神しか想定できぬ瞬間というのはあるものだ。そのとき、神以外の誰かに向かって話しかけるのは、不可能とも狂気の沙汰とも思われる。
孤独は、その極限にまで達すると、ある種の会話形式を、それ自体極限的な対話の形を求めるものである。」というエミール・シオランの言葉に深く頷く。










2020年10月10日

モノローグ -2-

 
「座右の銘」・・・なんてないな。好きな言葉もあるような無いような。
ドロシア・ラングの ' How to see the world without a camera' って言葉は好きかな。
「カメラなしで世界を見る術(すべ)」

一枚の病葉も、きょうび物思い誘うものではなく、単なるSNS投稿用の被写体になっているように思える。

「カメラなしで世界を見る術」を学んだ方がいい。







モノローグ  -1-

 
「自由と責任は背中合わせ」・・・
じゃあ責任の伴う「自由」って何だろう?
わたしたちはどこまで自由だろう?

そもそも自分の意思でこの世に生まれてきた人がいるだろうか?

性別も、容姿も、身長も、様々な能力才能も、生まれてきた時代も国籍も環境も親の人柄も、幼稚園小学校も、あれやこれやの遺伝因子も・・・すべては「有無を言わさずに与えられたもの」だ。

リストラされたのも、働きすぎて鬱病になったのも、美人じゃないからって振られたのも、事故に遭ったのも、天災に遭ったのも、全ては「偶然の不運」だ。

高の知れた自由・・・





2020年10月8日

受診(信)不能

 
昨冬から今年3月3日まで、約1年間デイケアに通っていた精神科単科病院の「認知症外来」への受診は結局沙汰止みになった。

病院側の説明によると、今現在いづれかの精神科にかかっている場合には、「同時にニか所」ということはできないので、「現在の主治医に紹介状を書いてもらった上での転院」になるという。
「認知症の疑いを持っているので、認知症外来で話を聴いてもらいたい」ということだけなのに、「転院」が必要なのか。

更に「もし転院ではなくセカンド・オピニオンとして受診希望の場合は、自費扱い(保険適応外)になります」

けれども、若年性認知症の疑いがある場合には、脳のMRIや血流の具合を調べる検査が必要となるという。当然一日で済むものではない。それを考えると、とても病院のいう8千円で済むはずはない。(おそらくはこれも、最低限8千円から。検査内容に応じて違ってきます、と言うべきなのだろう)けれどももうそれ以上は訊かなかった。「言葉が通じない」と感じたからだ。

以上の理由から、わたしは認知症の疑いを持ちながらも、検査を受けることはできない。
転院の意思もなければ、経済的な余裕もないからだ。


(わたし)は(あなた)ではない。

(あなた)は(わたし)ではない。

この絶対的な「他者性」「異質性」の中で、如何にして「正常な人たち」は意思の疎通を可能ならしめているのか?









認知症と狂気

 母が図書館のある市の文化センターでもらってきた「認知症」に関するパンフレットを眺めていると、母以上にあてはまるところが多い。

もっとも当てはまると思うのは、

「人柄が変わる」
● ささいなことで怒りっぽくなった
● 以前よりもひどく疑い深くなった

更に

「意欲が無くなる」
● 趣味への興味がなくなった
● 身だしなみに関心がなくなった
● 家でじっとしていることが増えた
● 日課をしなくなった

そしてなによりも、このパンフレットで、認知症の終末期的症状として記されている「言葉によるコミュニケーションが難しくなる」「家族や身近な人のことがわからなくなる」という点に於いてはまさにその通りの状態である。

「言葉によるコミュニケーションが不可能」・・・わたしは相手が何を言っているのか、何を言わんとしているのかがよく理解できない。また相手に自分の言いたいことが伝わっているという実感が持てない。それが医療関係者であると非常に不都合なのだ。

このブログにめっきりコメントが来なくなったのは、おそらく誰もわたしの言っていることが理解できない・・・言い方を変えれば人が理解できることばを話せなくなっているということではないのか?

怒りっぽくなったというのも、「誰とも言葉が通じない」ということへの苛立ちではないか。

今年春までデイケアに通っていた病院に認知症外来があるので、近いうちに受診しようと思っている。「コミュニケーション不全」というのが、認知症の症状であるのか、或いは狂気の亢進であるのかを知りたい。


ー追記ー

「テレパシー」というのか、言葉を使わずに意思の疎通ができる能力を「超能力」というが、わたしには「言葉」という「目に見えないもの」で別々の人間が通じ合えるということがそもそも「超能力」乃至「オカルト」の領域に思えてしまう。












2020年10月6日

ことば

 
ふたつさんと、先日ひょんなことから知り合いになったEさんからメッセージを頂きました。

不思議な偶然を感じています。

わたしがさびしさを噛み締めている時に、こうさんの「朝」という詩に出逢いました。

「まことに さびしい ときがあり」

そしてEさんが読んでくださったわたしの過去の投稿にはこう書かれていました。

とにかく先ず、わたしは自分が愚鈍で、バカで、無能で、生きている値打ちのない存在であるということを改めて確認しておく必要がある。

ああ、自分で自分を貶める ── 正確には「本来の自分」を直視することだが ──「言葉による自傷」は、時になんと快いのだろう。自分が最早これ以上落ちる(堕ちる)ことのない「どん底」の泥濘の如き存在であるという安堵感、最早人間ですらないという心の解放感。


わたしが

「サビシイデスネ・・・」と書こうとしたときに、こうさんの

「まことに さびしい ときがあり」という言葉に遭遇し、

言葉による自傷行為について、或いは自分を激しく罵る言葉を記そうとしたときに、
まさにわたしが書きたかった言葉がEさん経由で手に届いた。

そしてふたつさん独自のスタイルである、絵と、それに添えられた「詩のような題」から送ってくれた『かなしい ときは なきましょう』の中にある言葉、


この えの まえに いる ときだけはだれも あなたを
みすてないから

だから いまだけ
だまされなさい

昨夜わたしは「人間への信頼について」書こうとしていた。

結局は上手く言葉にすることができなかった。

過日わたしは自分のアート・ブログに




1955年にアムステルダムで撮られたこの写真を使って、そのタイトルに
”Can I trust you ?" 「信じていいのか?」と書いた。

わたしは、彼らが、「なーんちゃって」といって一斉に手を放しても仕方がないと思っているところがある。
自分のいのちが、自分の存在が、羽毛のごとく軽いことを知っているからだ。

何故わたしは下でわたしを助けてくれる人たちを信じられないのか?
ひとつには、自分が無価値であると思っているから。自分が「救うに足る」存在だとどうしても思えないから。


ふたつさん、そしてEさん。

いまのわたしにはこれ以上深く物事を考えることができません。

お二人の気持ちに感謝します。

よかったらまた声を掛けてください。適切な言葉をお返しする頃はできないかもしれませんが。


ー追記ー

欧米では、手紙の結びにXOXOと書きますね。

わたしが残念に思うのは、この国に、HUG &  KISS の文化がないことです。

アメリカの、カントリー&フォークシンガー、ルシンダ・ウィリアムスに”Are You All Right ?” という歌があります。

その歌詞の中に


Do you have someone to hug & kiss you?
 Hug & kiss you
 Hug & kiss you 
Are you all right?


今、わたしが、I'm all right と言うためには
わたしを抱き締め、キスしてくれる存在が必要なのかもしれません。


アリガトウ・・・


[関連投稿] 

ピーター・メイ / Peter May. 








 



ふたつさんからのメッセージ



『グッド・ラック フォー ハード・ラック』

ハード・ラックな じんせいを おくっている あなたに
グッド・ラックを おくります
ことばだけでも

ハード・タイムな じだいに うまれてしまった あなたに
グッド・ラックを おくります
ことばだけでも


おくれるものは ことばだけ
でも
くちで いってる わけじゃない
たましいを つかって いいましょう


いま ダブル・トラブルの なかに いる あなたに 
グッド・ラックを おくりましょう

あなたの じんせいに なにひとつ いいことが ないとしても

グッド・ラック フォーエバー



Otis Rush- Double Trouble


*

『かなしい ときは なきましょう』
なみだを ながして

うれしい ときは わらいましょう
こえを だして

そうすれば 
きっと だれかが いっしょに なって
ないて くれるでしょう
そうすれば
きっと みんなが あなたに つられて
わらい だすでしょう



そんな ことは うそ ですか
そんな ものは まやかし ですか

あなたは 
そんな ことばには だまされませんか



それならば
しょうじきに いいましょう
それならば
ほんとの ほんねを はくじょうしましょう



あなたの わらいごえは ちゅうに うき
だれにも きづかれずに ただ きえるだけ
あなたの なみだは みすてられ
ふりむきも されずに ただ ゆかに おちるだけ

たとえ あなたが 
まっかな なみだを ながしている ときでも

だれも たすけては くれない 


それが ほんとの ことですが 
それこそ まぎれも なく 
ほんとうの はなし なのですが


それならば
わたしは うそを いいましょう
それならば
あなたに まやかしを きかせましょう
それならば 
いま わたしが あなたを だましましょう



かなしかったら なきなさい
おぼれる くらいの なみだを ながして

うれしかったら わらいなさい
はりさける くらいの おおごえを だして


この えの まえに いる ときだけは
だれも あなたを
みすてないから

だから いまだけ
だまされなさい



Skip James- Hard Time Killin' Floor Blues





最初のGood Luck Forever、

あなたの じんせいに なにひとつ いいことが ないとしても

グッド・ラック フォーエバー

この部分は「ブルース」好きのふたつさんらしさを感じます。
オーティス・ラッシュ、いいですね。

『かなしい ときは なきましょう』

ここにはやはり物事の「本質」を捉えるふたつさんの詩の力を感じます。

ともにふたつさんらしい詩とBluesを、ありがとうございます。










まことに さびしい ときがあり・・・

 
こうさんのブログを読んでいたら、新しい詩が書かれていた。
冒頭から引き込まれた。
日頃の彼女の投稿と違い明朝体で書かれていたのもよかった。

以下こうさんの許可を得て、引用させていただく。



【詩】朝


まことに さびしい ときがあり

それは 人がいても

若いときでも このように年長けてもおなじである


ひとによくないことを 言ってしまったとき

うれしすぎたとき

こころに

稲妻のようなものが走る


姪が朝の仕度をしている

よい匂いが漂ってくる

それでも

こころが沈む


からだをうごかして 振ってみる

かなしみを 振ってみる

それでもやはり

こうべは下に垂れ


起きがけに 母の名を呼んでしまった

あ、まちがえた、と思い、妹の名を呼ぶ

だけれど、階段をとんとん上がって来たのは

洗濯物を干しに来た姪である


さびしいのは

わたしではなく

ちりちり言う眼

点かなくなったスマホの充電ランプ

若い人達に追いつけなかった 夜道



この詩を読んだのは、今朝だったのか。昨夜だったのか。
最近は曜日、日付、そして時間の感覚も曖昧になってきている。

いづれにしても、一行目の

まことに さびしい ときがあり

という言葉が、わたしのその時の気持ちそのままだった。

よい匂いが漂ってくる

それでも

こころが沈む


それでもやはり

こうべは下に垂れ


というのもよくわかるのだ。

もちろん、さびしさ、悲しみの質はこうさんとは異なる。

わたしのさびしさ、かなしみは、こうさんの詩に描かれているようには明確に言葉にできないもののような気がする。無論人は誰でも、具体的に指し示すことのできない「存在の悲しみ」を背負って生きているのだろうけれど・・・

新宿のTSUTAYAが閉店するらしい。あそこにはもう20年以上前から通っていた。
確かめたわけではないが、おそらくはDVDにはなっていない、古くて、日本ではほとんど知られていない名作のビデオはどうなるのかと電話で尋ねてみた。それらはすべて渋谷店に移動するようだ。
それを聞いてひとまず安心した。それにしてもわたしにとっては渋谷店以上に愛着のある店であった、「・・・やっぱりコロナの影響でしょうか・・・」と尋ねると、電話の向こうで、「えっと、ご用件は何でしたっけ?ビデオは渋谷店に移動しております・・・」

言葉が通じない。通いなれた店が何故閉店するのか?そんな会話も遮られる。
たまたまその店員だったからではない。わたしのことばは、通じない・・・

まことに さびしい ときがあり


それは人と、言葉が通じないと感じるとき・・・


点かなくなったスマホの充電ランプ


誰もが当たり前のようにスマホをもっているということに、こころは沈み、肩より深くこうべを垂らす・・・

それは最早この世界、この時代に追いつけなくなっている自分。
追いつくことをはじめから放棄している自分。


まことに さびしい ときがあり


それはこの世の誰とも繋がり合うことが出来ず、
この世界のどこにも属していない自分を見つめる時・・・


そして

まことに さびしい ときがあり

それはこうさんと同じさびしさを共有できないさびしさであり・・・

喜びも分かち合うことが出来ず、さびしさすら分かち合うことが出来ず・・・













2020年10月5日

わたしのブログ・・・

 
このところ、何にも熱心に取り組むことができない。

先日の投稿に書いたように、今、わたしの目はほんとうに見えているのか、或いは盲
いているのかすら、わからない。今年になってからほとんど本を読んでいない。
昨年から、見える方の目が白内障で、楽に本を読むことが出来なくなり、今年4月の手術以降も、「読まない習慣」がついてしまったのか、或いはもっと別の理由かはわからないが、定期的に図書館にリクエストした本を母に借りに行ってもらっては、返却期限になったらまったく一ページも読まないまま返すということを繰り返している。

白内障の手術が失敗したわけではない。しかし目が良くなったという実感がまるでない。無論20代前半の時の緑内障で損なわれた視力・視野が回復することはない。けれども少なくとも、昨年からの白内障は「良くなった」はずだ。それでも本を読む気になれない。映画を観る気になれない。パソコンの画面は、現在は普通に見ることが出来ている。このように文章も書ける。けれども、本が読めないうちは、映画が観られないうちは、ほんとうに「目が見えている」という実感が掴めることはないだろう。
またひとつ、「目が見える(見えている)とはどういうことか?」という形而上学的な疑問が加わったわけだ・・・


今日届いた『シナプスの笑い』にラグーナ出版の書籍目録が同封されていて、中に、『勇気をくれた言葉たち』という一冊があった。本の紹介には 「全国の精神障害体験者から寄せられた、精神病の絶望から救ってくれた言葉を収録。一言で孤独や絶望から救われてゆく体験者の姿は、病を問わす、人生に迷い傷ついた人の心も癒してくれる。人生を変える言葉の力を感じよう」とある。

いつか機会があれば読んでみたい。

けれどもわたしは所謂「明けない夜はない」「止まない雨はない」といった言葉には少しも心を動かされない。「前方」「未来」「希望」といったものにどうしても反発を感じてしまう。

過去にわたしの人生を変えた言葉などあっただろうかと振り返ってみても、何ひとつ思いつかない。
つまり不特定多数に向けられた言葉、本の中の言葉や映画のセリフ、歌詞などに、知的な次元で、感心し啓発され、刺激を受けることはあっても、それらによって勇気づけられるということは、わたしに関してはないようだ。

言い方を変えれば、わたしが励まされるのは所謂「名言」や「前向きで希望を語った言葉」ではなく、他ならぬこのわたしに向かって放たれた言葉によってなのだ。

わたしはこのブログにあまりにもコメントがないので、先日紹介したブログの筆者に、どうすれば「コメント」をもらえるブログが書けるかと、本気で訊こうと思っていた。それほどまでにわたしの書いていることは無意味なのか、やはり「化け物」の言葉は通じないのか・・・と。

そんなことを考えていたところに、前回のコメントから久しぶりにふたつさんからコメントが届いた。

冒頭に書かれていたのは

>どうも、最近、ぼくのコメントはかなりの率で削除されてしまいますね。いや、それをどうこう言うつもりはありませんが、どうやら、ぼくのいう言葉や作品がTakeoさんをイライラさせるようです。

わたしにはこの言葉の意味がよくわからない。
先日頂いた画とそれに添えられた「詩のようなタイトル」、それから「差別」に関しての記述は、わたしの「差別主義者に抗す」という投稿ごと削除した旨、10月4日の「ふたつさんへ」という投稿の冒頭でお伝えしている。(それはわたしの投稿に頂いたコメントなので、投稿そのものを削除すれば、そこに寄せられたコメントも一緒に消されることになる。だからわたしは新たに「ふたつさんへ」という投稿をした。)

それ以降は誰からもひとつのコメントもない。つまりブロガーによると、今日のふたつさんのコメントの前に最後にもらったコメントが、わたしが削除した「差別主義者に抗す」に頂いた2件のコメントだ。


わたしはよく母にここの文章を読んでもらっている。そしてまるで反応がないことをボヤくと、母は、こういう極めて個人的な文章に何か言葉をかけるってことはマア難しいでしょうね、と。

わたしにはていめいさんのような名文は書けない。そして母の指摘するように、極めて個人的な言葉しか発することができない・・・


昔日は知らず、現在のこのブログには無用・・・という以上に有害なものとおもわれますのでコメント欄を閉じます。
今のわたしにはたまさかコメントを頂いても、その言わんとしていることを正しく読み取る能力が失われているからです。









2020年10月4日

「こころのやまい」について

 
川畑さま。

本日「シナプスの笑い」が到着しました。ゆっくりと拝読させていただきたいと思います。
ただ、最後に書かれていた「投稿募集」に関しては、わたしは投稿はできないなと感じました。
既にわたしのブログの幾つかの記事をご覧くださった川畑さんならお気付きだと思いますが、わたしには「こころのやまいの回復に役立ち」「人に希望を与えるような」文章を、いかなる形式であっても書くことができません。

その一例が川畑さんが読まれた「心の病との闘い 雑誌に」という東京新聞の見出しに対する「違和感」にも表れていると思います。

関連投稿としてリンクを貼った「まっとうに狂う」ということ」で引用したように、高村智恵子や島尾ミホは、心がより自然であるがゆえに、「空のない」東京で、精神のバランスを失ったのではないでしょうか?

わたしは「正常であることが即ち精神の「異常」乃至「失調」を意味する現代社会・・・」という辺見庸の言葉に共感するものです。

「空のない」東京で、「良くなる」「元気になる」ということは、とりもなおさず「空がない」という「不自然さ」に順応することに他ならないとわたしは考えます。逆説的ですが、「空のない東京」で「正気ではない」「正気でいられない」ということが、正に智恵子の「まっとうさ」を証していると思うのです。

そしてわたしもまた、「まっとうに狂った者」のひとりだという自覚を持つのです。
ですから(わたし個人に関して言うならば)少なくともこの東京という場所に於いて、「元気になる」ということは、逆に「不健康になる」ことだとすら思うのです。

もちろんすべてがわたしのようなケースではなく、現実に「心の病」に苦しんでいる多くの人々がいるということもまた事実です。

わたしは「心の病」及びそれとの「闘い」を否定するものではありません。


全ては当人がどう思い、なにを優先させるかだと思います。「空のない町」に順応することで楽になれるのなら私はそれを選ぶ、という選択があってもいいと思います。無理をしてまで「まっとうに狂って」いる必要はありません。

ただわたしは「わたし」として生まれてきた以上、「わたしの本能」「わたしの感受性」「わたしの美意識」に殉じるつもりなのです。

繰り返しますが決して「元気になる」ことを否定はしません。


なんだか重苦しい文章になってしまいましたね。

わたしの言ったこと、(「孤立と、独特の認識の化け物」としての)わたしの存在、わたしの考えは、ありのままにラグーナ出版の仲間たちと共有し、考えてもらって一向に差し支えありませんが、それはあくまでも、わたしのことばで傷つく者がいないという前提がなければならないと思います。無論この文章も、川畑さんの仲間たちと共有してもらって皆で考える一助になれば幸いです。

いつも気に掛けてくださりありがとうございます。

残りの休日を穏やかに過ごされますように。


追伸

「自明性」ということに関してわたしが思うのは、「心の病」=「治癒すべきもの」という考えが自明のものであるとしたら、それを先ず疑ってみるということでしょうか。
「発熱」「発汗」「寒気」「痛み」等が生体の「自然の反応」であるように、「こころの病」も、それに伴う「症状」もそれ自体を「解熱・鎮痛」的な方法で「治す」ということに、懐疑の目を向けるという考えをわたしは持っています。何故ならまさにそのような「鎮痛・解熱」的な対処こそ、他ならぬ「心の悲鳴」に耳を塞ぐ(或いは心を黙らせる)ことになるのではないかと思うからです。









ふたつさんの作品

 
数日前、過去に投稿した種村季弘氏に関する記事と、「生体の悲鳴が聞こえるか」という文章を読んで、いまさらながら、いったいわたしは誰を相手に話をしているんだと、つくづく嫌気が差し、先日の記事を削除しました。久しぶりにふたつさんがコメントを寄せてくれた投稿でした。



ほんとうの おくりもの

いま きみに おくりものを おくろう
そう きみに ほんとうの おくりものを おくろう


あまっている ものを あげて 
それを おくりものと いえるのか

ぼくは それを おくりものとは よばない

いらない ものを わたして 
それを おくりものと いえるのか

ぼくは それを おくりものとは よばない

それならば
ひとが よろこぶ ものを おくれば
それを おくりものと いえるのか

いや それでも ぼくは それを おくりものとは よばない


たしかに よのなかは うまくいく
いらない ものを あげて
もらった ひとは よろこぶ
すべて まるく おさまるに ちがいない

でも それは ほんとうの おくりものでは ない

なぜなら 
よろこびだけが おくられて
かなしみが おくられて いないから

だから その おくりものが ひとの こころを うごかすことは ない
だから それは ほんとうの おくりものでは ない


いま きみに
ほんとうの おくりものを おくろう

いま きみに

それを うしなえば ぼくが いきて いかれなく なるような 
そういうものを いま きみに あげよう

いま きみに

それを おくれば ぼくが きみに きらわれ ときには にくまれて しまうような
そういうものを いま きみに おくろう


そう きみに 

ぼくの なかみを そっくり きみに てわたそう



おそらく きみを よろこばせることの ない
この 『かなしみの ギフト』を

はたして きみは うけとって くれるだろうか