2018年11月27日

「ぼく自身」そして「極めて困難な状況」


古人(いにしえびと)曰く「敵を知り己を知れば百戦するとも危うからず」。
このところブログに「スマホ」の文字が見当たらない日がないくらい来る日も来る日もスマホに対する呪詛を書き綴っている。「スマホ」は今更言うまでもなくわたしの「天敵」である。けれども、その「怨敵」がどういうものであるのか、未だによくわからない。そしてまた自分のことも。

しかしわたしは拘らずにはいられない。わたしをここまで苦しめるモノについて思いを巡らさずにはいられない。誰しも痛いところ、痒いところがあれば、そこに気が行くだろう。その度合いが強ければ、それだけその他の事柄への関心は薄くなり、意識はその痛みかゆみに収斂してゆく。

「スマホ」を「ハーケンクロイツ」や「旭日旗」に譬えたり、正気とは思えないし、そもそもこんなものがブログと呼べるのか?という声はわたしには届かない。
既に2018年9月15日付け投稿1及び投稿2において、これは最早通常の意味でのブログではないと断っている。これ以降わたしは基本的に「読者」を想定していないし、
たまさか毛色の変わった投稿をしても、それはちょっとしたブレイクに過ぎない。

それでも、たとえばqさんやFさんのように、この、ブログとも呼べない狂人の戯言を読んでくれている人がいることに今更ながら驚く。そしてできることなら、わたしもこんな形ではない文章を書きたいと思う。しかし残念ながらそれは無理な相談なのだ。

奇しくも、qさんFさんから、自己の内面と外界との境界線というようなことを異口同音に言われた。(それはわたしのミスリードかもしれないが)
彼らは、また一般に人は、自分の外側での出来事に無関心でいられるものだろうか?
なぜそのようなことが可能なのだろう?一歩外に出れば、そこはわたしにとってはスマホ馬鹿たちの世界である。とりわけ駅のホーム。電車の車内。
前にも書いたが、うるさければ耳栓をするなりイヤーマフを着けるなりすれば、不快なノイズは「ある程度」は軽減されるだろう。マスクをすれば悪臭を「ある程度」は防げるだろう。けれども目隠しをして外を歩くことはできない。そして「彼ら」の姿を見ることはわたしにとって、鋭利なカミソリで、心を切りつけられることと同じほどの苦痛なのだ。
ご存知だろう、サルバドール・ダリとルイス・ブニュエルの映画『アンダルシアの犬』で、若い女性の目をカミソリで切り裂くシーンを。外に出るということはわたしにとって、それに近い「精神的苦痛」を受けることなのだ。
けれども、わたしがいかに彼らの行為によって苦痛や不快感を蒙ろうと、それはなんら彼らの責ではない。

先日Fさん、qさんとクルマの話をちょっとしたが、運転ができなくてよかったと今更ながら思う。仮にわたしが今、街中を運転していて、目の端に歩きながらスマホを凝視している者の姿がチラとでも映ったら、わたしはその瞬間にハンドルを切り、その者に突っ込んでいくかもしれない。その可能性を否定できないどころか、ありそうなことだと思う。
兇器を手にしていながら、見過ごすことが出来るかどうか。まったく自信がない。
今のわたしにとって、外に出るということは、いつ血を見るかわからないということだ。
以前からわたしは自らを「狂人」と称してきたが、この点に於いては正に正真正銘の狂人である・・・

「スマホ」とはなにか?なぜこれほどまでにわたしの暴力性を駆り立て、憎しみを燃え立たせるのか?先にキューブリックの『博士の異常な愛情・・・』のラストシーン、核兵器によって地球が滅びるシーンのビデオを載せたが、誇張ではなく、スマホが、タブレットが消滅するなら、地球など滅びても構わないと思っている。

「いのちの電話」の相談員は、自分はスマホを持っていないと言った。けれども、当たり前のことだが、わたしのような憎悪を「それ」に対して持ってはいなかった。彼女は、「スマホで写真を撮るのをあなたは嫌だというけれど、じゃあそれがカメラだったらどうですか?」と尋ねた。
「カメラなら構いません」
「でしょう?あなたはスマホだと思っているけど、あれはスマホの機能のひとつであるカメラを使っていると思えばいいんですよ」
それはそうかもしれない、みなが「スマホ」をやっていると見るのは本当は正確ではなく、ある人はゲーム機を使っていて、ある人は通信機器を、ある人はカメラを使っている・・・
「だからみなそれぞれ別々のことをしているのであって、決してあなたの言うように、『皆が同じことをしている』わけじゃないんですよ」

ああ!しかしもうそういう理路整然とした理屈で封じ込めることができるようなものではないのだ。わたしには、わたしの目には、そのような正論(?)を超えて、「皆が同じことをしている」としか映らないし感じられないのだから。

そのような筋の通った説得にもかかわらず、わたしにとって、外の世界は依然として地獄絵図である。そしてそこには血しぶきが付き物だ。

わたしは最早外に出ることはできないのか?生きながら外に出ることができないということは、わたしのすべき事を果てしなく母が肩代わりするということだ。
けれども今の状態で外に出れば、血を見る可能性が高い。逮捕ー拘束ー檻の中での自殺の失敗ー拘禁反応による発狂・・・空想はとめどなく続く・・・

どうすればいい。やはり死ぬしかないのだろうか?

外は地獄、家に居れば母の重荷・・・わたしはいったいどうすればいのか・・・

最近は死ぬことを真剣に考えるようになった。シェイクスピアはどこかで書いている。
「胸に深い悲しみがある時に、肉体の痛みは感じないものだ」と・・・
母はわたしが死ぬなら一緒に死ぬと言い、わたしは母の命が尽きた日にこの世から去るつもりでいる。この決心は何があろうと決して揺るぐことはない。

そう長くはない。母を悲しませたくはない。





7 件のコメント:

  1. Takeoさん、こんばんわ。

    まず、お母様に対する「罪の意識」というか「自己嫌悪」みたいな部分は捨てられるんじゃないでしょうか?
    少なくとも、お母様は、それを「生き甲斐」にしているところがあるんでしょうから。
    (もしかしたら、今後「長寿の源」に成っていくかも知れませんよ。まぁ、推測ですけど)

    もちろん、だからと言ってTakeoさんの「罪の意識」が消えることは無いのでしょうが、そこは外して考えていいような気がするんですが、どうでしょうか?
    少なくとも、別の問題だと思いますから。

    Takeoさんの中で起きていることが、Takeoさん自身にすこし見えやすく成るなら、その方がいいような気もするんですが。

    それから、Takeoさんに聞いてみたかったんですが、スマホを持っている人で、その他の部分がけっこうイイ人だなぁと思うような人が居ても、その人がスマホを持っているのを見た途端に、大嫌いになるということなんでしょうか?

    それとも、大嫌いなのは、あくまでスマホで、その人ではないんでしょうか?

    それから、80歳くらいの人はスマホを持ってない人がけっこう居ますけど、そう言う人が多い地域に居ればけっこう楽なんでしょうか?

    くだらない質問で、スイマセンけど、よかったら、お願いします。

    ちなみに、ぼくの数人しかいない今も付き合いがある友人の中には、少なくともケイタイもスマホも持っていない人が二人いますよ。
    Takeoさんは三人目ですね。
    (ケイタイを持っているのかどうかは知りませんけど)
    それから、ケイタイだけの人が、妻を含めて二人います。
    テレビを持ってないのは僕と妻だけですけどね。
    妻は、仕事の時はテレビを持っていないことを隠していて、それを「隠れキリシタン」と呼んでいます。
    でも、ぼくもパソコンは持ってますから、なかなかグランド・スラムは達成できないですよね。

    あと、自分のことで言えば、「スマホ自体」には特にナニも感じませんが、スマホでもケイタイでもSNSでも、すごく内向きの閉鎖的なコミュニケーションがあるみたいですけど、ぼくはそういうのがすごく嫌ですね。
    これに関しても、ある程度世界的なことのような気もしますが、日本は特にそういう「島国根性」が強いような気がしますね。

    これに関しては、ぼくもTakeoさんの「スマホ嫌い」と同じくらいに嫌悪していますよ。
    たぶん、憎悪に近いと思います。

    でも、けっこう、そういう閉鎖的なコミュニケーションの環から外れている人って少ないですね。
    もしかすると、スマホを持っていない人よりも少ないかも知れませんよ。

    ぼくは、そう言う人は100人に一人くらいだと思います。
    そして、更に、そう言うことに何らかの形で対抗している人と成ると、1000人に一人くらいだと思っていますよ。

    これは、スマホだけの話じゃなくて、立派なことを言っている人でも、そういう数のチカラに対立している人は、ほとんど居ませんね。

    だから、どんな形でも、そう言うことをやっている人は、ぼくの中では意味があります。

    Takeoさんは、このブログを見ている人が居ることを、不思議だとおっしゃっていますけど、ぼくは、そう言うTakeoさんの「戦い」を見せてもらっているんだと思っていますよ。

    だからこそ、「世界全部」を敵に回したら、ヤバいんじゃないですか?と思うわけですね。

    ただ、それは「一番愚かではあっても、一番美しい戦い」かも知れないので、見てしまうんだと思います。
    「戦い」は愚かであればあるほど、つまり、負けるとわかっていればいるほど、美しいわけですから。
    そして、出来れば、Takeoさんに、そういう自分の「戦い」の美しさに気づいて、酔いしれてほしいなと思ってしまうんですね。
    つまり、それをTakeoさんの「美意識」に加えることは出来るんじゃないのかなと、そんな風に思ってしまうわけです。

    というか、それがTakeoさんの「美意識」に反するとは、ぼくには思えないわけです。

    それは、自己中心的なことではあるのかもしれませんが、決して「ただ単なる自己中心的なこと」ではないわけで、もしも、そうなら、、もっとたくさんの人がやっているはずですから。

    話が長くて、どうもすいません。

    それでは、また。

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      >まず、お母様に対する「罪の意識」というか「自己嫌悪」みたいな部分は捨てられるんじゃないでしょうか?
      少なくとも、お母様は、それを「生き甲斐」にしているところがあるんでしょうから。

      母には母の人生があります。もとよりわたしたち(兄弟)がそれを、その時間を奪っていいという権利はありません。わたしは母に自由に自分の時間を使ってほしいのです。
      「特にやることが無い」のならそれでもいいのです。のんびりしていてくれれば。
      「子供が(親の)生きがいである」というのは、わたしには何処か違和感があります。

      更に言えば、喰えない者、障害者、ホームレス・・・所謂社会的な弱者と言われている人たちは、社会の世話にはなっても、家族の負担になってはいけないと思っています。「社会」は彼らの面倒を見る義務があるのですから。(「家族」にその「義務」があるとはわたしは思っていません)
      ですからわたしの罪悪感は払拭されることはありません。

      >Takeoさんに聞いてみたかったんですが、スマホを持っている人で、その他の部分がけっこうイイ人だなぁと思うような人が居ても、その人がスマホを持っているのを見た途端に、大嫌いになるということなんでしょうか?
      それとも、大嫌いなのは、あくまでスマホで、その人ではないんでしょうか?

      難しい質問ですね(苦笑)先ずわたしの中では、依然として「スマホ」というものの位置づけが確定していませんから。
      それはわたしにとって、旭日旗のバッジを胸に付けているいい人をどう思うか?という問いかけと同じに聞こえます。安倍政権を支持するいい人、とも。

      その人の好ましい部分と、一方で、「スマホを持つ」という心性を持つその人とを、どう分離したらいいのかがわかりません。

      >80歳くらいの人はスマホを持ってない人がけっこう居ますけど、そう言う人が多い地域に居ればけっこう楽なんでしょうか?

      そう思います。あとは子供たちですね。

      >妻は、仕事の時はテレビを持っていないことを隠していて、それを「隠れキリシタン」と呼んでいます。
      でも、ぼくもパソコンは持ってますから、なかなかグランド・スラムは達成できないですよね。

      ははは(笑)、隠れキリシタンはおもしろいですね。わたしはもちろん携帯も持ちません。

      >、スマホでもケイタイでもSNSでも、すごく内向きの閉鎖的なコミュニケーションがあるみたいですけど、ぼくはそういうのがすごく嫌ですね。

      それは何もスマホやインターネット上にのみ現れているわけではありませんよ。
      現実の世界でも、基本的に日本人は村意識=仲間か異分子か・・・そういう意識が非常に強い民族だと思います。それがもともとの民族性なのか、近代以降に培われたものなのかはわかりませんが。だた、インターネットやSNSによって、そもそも潜在的な陰湿な民族性が顕在化したということだと思います。

      >Takeoさんは、このブログを見ている人が居ることを、不思議だとおっしゃっていますけど、ぼくは、そう言うTakeoさんの「戦い」を見せてもらっているんだと思っていますよ。

      はは(苦笑)
      別に見世物じゃないんですけどね。

      この国でわたしのような人間が生きるということ、「マス」と同調せずに生きるということは、避けようもなく「対立」という形になってしまうのです。

      >「戦い」は愚かであればあるほど、つまり、負けるとわかっていればいるほど、美しいわけですから。

      うん。これは全く同感ですね。「勝つこと」は醜いですね。

      >出来れば、Takeoさんに、そういう自分の「戦い」の美しさに気づいて、酔いしれてほしいなと思ってしまうんですね。
      つまり、それをTakeoさんの「美意識」に加えることは出来るんじゃないのかなと、そんな風に思ってしまうわけです。

      これは本気で仰っていますか?(いや、ふたつさんは結構冗談が好きだと思うので)

      「自分の「戦い」の美しさに気づいて、酔いしれ」るなんて考えたこともありませんし、率直にいえば馬鹿げていると思います。正に「愚かで」「滑稽」でしかありません。

      >それがTakeoさんの「美意識」に反するとは、ぼくには思えないわけです。

      なにか自分だけが正しくて、そのため負けを覚悟で闘っている自分に酔い痴れるなんて、本当に「馬鹿げて」います。更に言えばグロテスクでさえあります。
      わたしは己に酔い痴れている人間ほど嫌いなもの、醜悪と感じるものはありません・・・
      或いは「自分は正しい」と信じている者も・・・

      わたしは迷っている人が好きです。自分に自信のない人が好きです。弱気な人が好きです。自分が嫌いな人が好きです。
      つまりその逆がキライです。

      言い過ぎたらすみません。

      ただ、この部分に関しては、あまりにもわたしの言っている「美意識」というものを誤解されているようだったので・・・




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  2. Takeoさん、こんばんわ。

    いえ、たぶん、そんなに誤解はしていませんよ。
    ぼくのブログを探してもらえば、『迷うことこそ美しい!』という言葉がたくさん出てきますから。

    たぶん、Takeoさんは、言葉についての意味づけが、ぼくよりも厳格なんだと思います。

    正しいから戦うとは限りませんし、無意味でも戦うこともあります。
    でも、ナニカに対して戦っていること自体に意味を感じるかどうか?ということなんじゃないかと思っていますよ。

    ぼくは、「迷っていて」かつ「自信が無くて」かつ「弱気」でも、その自分を好きに成ることは出来ると思っているんですよ。
    要するに、「いいモノ」や「いい自分」が好きなんじゃなくて、「そんなに良くないけど、ワルイと言うほどではないモノ」や「トルニタラナイかもしれないけど、ナニカしようとしている自分」が好きなわけですね。

    つまり、完全じゃない方が好きなんで、完全である必要もイイ必要も初めから無いということですね。
    むしろ、良すぎちゃ、困るところもあるっていう感じですか?

    まあ、そんなところです。

    では、また。

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      >たぶん、Takeoさんは、言葉についての意味づけが、ぼくよりも厳格なんだと思います。

      それはありますね。言葉にはとても厳格です。ですからちゃらちゃらした言葉遣いは嫌いなんですが、自分でももう少し柔軟でいいのにとも思っています。

      >ナニカに対して戦っていること自体に意味を感じるかどうか?ということなんじゃないかと思っていますよ。

      ふたつさんの目にわたしが何かと戦っていると見えるとしたら、それは少なくともわたしにとっては全く無意味な戦いです。できるなら今すぐにでも放棄したい戦いです。結局戦って負けるか、戦わずして食い殺されるかしかないのです。

      >ぼくは、「迷っていて」かつ「自信が無くて」かつ「弱気」でも、その自分を好きに成ることは出来ると思っているんですよ。

      わたしは「だけどそんな自分が好き」っていうのがダメなんですよ。
      開き直りは許せるけど、「好き」というのには抵抗があります。

      「わたしは取るに足らない存在だ」で、いいんです。「でもそんな自分が好き」というのは、やっぱりダメなんです。

      「それで悪いか!」という居直りならいいんです。

      無論これは価値観の相違であって、ふたつさんの意見がおかしいということではありません。









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  3. こんばんわ。

    もちろん、かどうかは、自身内ですが、たぶん『それで悪いか!』に近い気がしますね。
    それから、『ワルイってのは、こういうのじゃないだろ!』ってな感じですよ。

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  4. 追伸:読み直したら「自信ない」が「自身内」に。
    なんとなく変な意味で通じてしまうので訂正いたします。

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    1. わざわざ訂正をありがとうございます^^

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