以下は先日の投稿、「ふたつ」さんのコメントに託したひとり語り、其の二への、再度のふたつさんの応答に対して、わたしなりの考えを述べたものです。
最初にふたつさんの本文へのコメントを引用します。
◇
ふたつ 2018年11月24日 17:10
Takeoさん、こんにちは。
まず、私の弁解から述べさせていただきますね。
私は、「滑稽なこと」を「悪い」とは思っていませんし「低い」とも思っていませんよ。
ただ、「滑稽」だから「滑稽」だと思っているわけです。
「滑稽」が「好きなモノ」や「オモシロイモノ」である場合もたくさんありますし、『ちょっと、イヤっ!』ということもけっこう有りますね。
Takeoさんが言うところの「スマホ馬鹿」というのを、わたしは「スマホ滑稽」と言ったのに近いかも知れません。
(違うのは、Takeoさんの場合「スマホ嫌悪」が絶対的なモノだということかもしれませんね。私は、そこまでは思いません。)
私が、スマホ族の人たちに対して思うことは、『スマホなんかやめろ!』と言うことではなくて、「スマホを持っていること」がスタンダードで、「スマホを持っていないこと」はイレギュラーであると言う一種の差別意識は持って欲しくないなぁというようなことですね。
だから、そういう差別意識がほとんど無いような人は、嫌だと思わないですね。
私がスマホをいじっている人を見たときに「滑稽」と感じるのは、自分の「優越感」からではなく、彼らの中に「優越感」が見える時があるからだと思いますよ。
(だから、すべてのスマホ所有者に対して「滑稽さ」を感じるわけではありません)
そして、その「優越感」に実体があるとも思えないので、「滑稽なモノ」に見えて来るんだと思いますね。
私は、人間が人間に対して「優越感」を持つということ自体が「滑稽なこと」だと思いますよ。
また、少なくとも私の中に「作為」はありません。
それから、一種の「精神操作」をおススメしようと言う話でもありません。
「図と地の反転」に意図はありませんし、ごく自然にそう見えてしまうだけですから。
(でも、「やや強引に」という説明にそういう意味が含まれてしまっていたかもしれませんね)
それから、Takeoさんのいう所の「美=信仰」ということも否定するつもりはありませんよ。
ただ、私自身は「信仰を持つことは出来ないというだけです。
「美」に限らず、どんなものも「信仰」することは出来ないと思うんですよね。
「自分」でも、同じです。
「自分」を「信じること」も出来ません。
つまり、私は絶対的なモノを設定するということが出来ないということです。
Takeoさんは、「自分」や「自分の美意識」を「絶対的なモノ」として考えているということなんでしょうか?
もしも、「信仰」ということであれば、そう言うことなんだと思いますが、私にはそういう「自分に対する自信」は無いかもしれませんね。
だから、Takeoさんから見ると、私が言っていることが「作為的」に見えるのかも知れません。
でも、それは、私自身の中では「作為」ではなく、「曖昧さ」や「不完全性」と言った人間的なものなのだと思っていますよ。
ただ、それが「信仰」の対象となるような「絶対性」を持っていないということですね。
でも、「不完全性」を含めた意味で言うのであれば、「確信」くらいは持っているかもしれません。
(それを「信仰」ということは不可能ではないのかも知れません)
私の場合、「完全であること」を望む気持ちが、あまり無いんだと思いますよ。
どちらかと言うと「不完全主義者」です。
『「不完全主義者」としての頂点を目指す!』みたいな感じですね。
Takeoさんは「世界」や「自分」に対する姿勢が、より厳しいんじゃないかと思いますよ。
それは辛いことだと思いますね。
私には、とても耐えられないと思います。
それは、このブログのどの記事を読んでも伝わってきますが、私には耐えられないと思ってしまいますね。
ただ、そういうTakeoさんが、醜悪な世界と感じている世界をご自分の内に抱えながらも、ご自分の「美意識」を貫こうという姿勢は、十分に美しいと思いますよ。
私は、自分に対してそこまで厳しくできませんから、その点で尊敬いたしますね。
『世の中には、どうしても、狎れ合ってはならない物(者)があり、どうしても慣れてはいけない物(事柄・風景)があると思っています。』
これを言う人は沢山いますが、実践する人はわずかですね。
いちおう、私自身もそういう方向に向かってやっているつもりです。
ただ、私の場合は、はじめからそこに「不完全性」を取り込んでいるわけです。
これも「作為」して取り込んでいるわけではなく、自分の中にあるから仕方なくそれを認めているということだと思います。
ところで、Takeoさんは、「絶対性」が「全体主義」につながってしまうという危険性を感じることはありませんか?
はじめから「自己」が「内的な世界」に限定して存在しているので、「全体主義」になってしまうことは有り得ないということなんでしょうか?
もしよかったら、お答えお願いいたします。
それでは、また。
まず、私の弁解から述べさせていただきますね。
私は、「滑稽なこと」を「悪い」とは思っていませんし「低い」とも思っていませんよ。
ただ、「滑稽」だから「滑稽」だと思っているわけです。
「滑稽」が「好きなモノ」や「オモシロイモノ」である場合もたくさんありますし、『ちょっと、イヤっ!』ということもけっこう有りますね。
Takeoさんが言うところの「スマホ馬鹿」というのを、わたしは「スマホ滑稽」と言ったのに近いかも知れません。
(違うのは、Takeoさんの場合「スマホ嫌悪」が絶対的なモノだということかもしれませんね。私は、そこまでは思いません。)
私が、スマホ族の人たちに対して思うことは、『スマホなんかやめろ!』と言うことではなくて、「スマホを持っていること」がスタンダードで、「スマホを持っていないこと」はイレギュラーであると言う一種の差別意識は持って欲しくないなぁというようなことですね。
だから、そういう差別意識がほとんど無いような人は、嫌だと思わないですね。
私がスマホをいじっている人を見たときに「滑稽」と感じるのは、自分の「優越感」からではなく、彼らの中に「優越感」が見える時があるからだと思いますよ。
(だから、すべてのスマホ所有者に対して「滑稽さ」を感じるわけではありません)
そして、その「優越感」に実体があるとも思えないので、「滑稽なモノ」に見えて来るんだと思いますね。
私は、人間が人間に対して「優越感」を持つということ自体が「滑稽なこと」だと思いますよ。
また、少なくとも私の中に「作為」はありません。
それから、一種の「精神操作」をおススメしようと言う話でもありません。
「図と地の反転」に意図はありませんし、ごく自然にそう見えてしまうだけですから。
(でも、「やや強引に」という説明にそういう意味が含まれてしまっていたかもしれませんね)
それから、Takeoさんのいう所の「美=信仰」ということも否定するつもりはありませんよ。
ただ、私自身は「信仰を持つことは出来ないというだけです。
「美」に限らず、どんなものも「信仰」することは出来ないと思うんですよね。
「自分」でも、同じです。
「自分」を「信じること」も出来ません。
つまり、私は絶対的なモノを設定するということが出来ないということです。
Takeoさんは、「自分」や「自分の美意識」を「絶対的なモノ」として考えているということなんでしょうか?
もしも、「信仰」ということであれば、そう言うことなんだと思いますが、私にはそういう「自分に対する自信」は無いかもしれませんね。
だから、Takeoさんから見ると、私が言っていることが「作為的」に見えるのかも知れません。
でも、それは、私自身の中では「作為」ではなく、「曖昧さ」や「不完全性」と言った人間的なものなのだと思っていますよ。
ただ、それが「信仰」の対象となるような「絶対性」を持っていないということですね。
でも、「不完全性」を含めた意味で言うのであれば、「確信」くらいは持っているかもしれません。
(それを「信仰」ということは不可能ではないのかも知れません)
私の場合、「完全であること」を望む気持ちが、あまり無いんだと思いますよ。
どちらかと言うと「不完全主義者」です。
『「不完全主義者」としての頂点を目指す!』みたいな感じですね。
Takeoさんは「世界」や「自分」に対する姿勢が、より厳しいんじゃないかと思いますよ。
それは辛いことだと思いますね。
私には、とても耐えられないと思います。
それは、このブログのどの記事を読んでも伝わってきますが、私には耐えられないと思ってしまいますね。
ただ、そういうTakeoさんが、醜悪な世界と感じている世界をご自分の内に抱えながらも、ご自分の「美意識」を貫こうという姿勢は、十分に美しいと思いますよ。
私は、自分に対してそこまで厳しくできませんから、その点で尊敬いたしますね。
『世の中には、どうしても、狎れ合ってはならない物(者)があり、どうしても慣れてはいけない物(事柄・風景)があると思っています。』
これを言う人は沢山いますが、実践する人はわずかですね。
いちおう、私自身もそういう方向に向かってやっているつもりです。
ただ、私の場合は、はじめからそこに「不完全性」を取り込んでいるわけです。
これも「作為」して取り込んでいるわけではなく、自分の中にあるから仕方なくそれを認めているということだと思います。
ところで、Takeoさんは、「絶対性」が「全体主義」につながってしまうという危険性を感じることはありませんか?
はじめから「自己」が「内的な世界」に限定して存在しているので、「全体主義」になってしまうことは有り得ないということなんでしょうか?
もしよかったら、お答えお願いいたします。
それでは、また。
◇ ◇
こんばんは、ふたつさん。お返事が遅れてすみませんでした。
頂いたコメントが、なかなか咀嚼できずもたついておりました。
また、わたしたちの間で交わされている「認識論」を超えて、「スマホ問題」・・・もっと広くは現代都市の景観問題は、最早わたしにとって、現実に生きるか死ぬかの問題にまで高まってきており、どうしても、昨日の投稿を優先する必要がありました。けれども、一日経って、昨日の投稿のPVは僅かに1.いかにわたしにとっての大問題が、世間の人たちにとって全く理解の枠外にあるか、この閲覧者1人という数字が物語っています。だいたいこの「1人」だって、実はわたし自身のアクセスがカウントされているだけかもしれませんしね(苦笑)
さて、正直言って、未だにふたつさんの仰っていることが完全に理解できたというわけではありません。「理解できない」というのは、この場合、わたしはそう思わないという意味ではなく、純粋に「わからない」ということです。
(実は先日qさんのところでのわたしのコメントへのqさんの返事。これもふたつさんのコメント同様、わたしには「よくわからない」のです)
それから、予めお伝えしておきたいのですが、わたしの意見が、反論のように聞えるかもしれませんが、それはわたしの表現力の不足であって、わたしはあくまでもふたつさんの意見に触発された自分の意見を述べているつもりです。
わたしは誰に対しても「スマホを止めろ」と思ったことはありません。また「スマホ馬鹿」と言っていますが、スマホをやっていることが「愚かしいこと」「軽蔑すべきこと」という意識も左程ありません。実際、他人が何をやろうと、わたしの与り知らぬ事なのです。私的空間で、ノイズを出されたり悪臭を振りまかれたりすれば、「静かにしてください」「その匂い、苦手なんですが・・・」くらいは言いますが、駅のホームや電車内は公共空間です。(公共空間についての考察は今は割愛します)。
「スマホを止めろ」と思ったことはありませんが、いつも思うのは、「へんな時代に紛れ込んでしまったなぁ・・・」という思いです。
また「スマホ馬鹿」たちが、自分たちがスタンダードで、わたしやふたつさんのような「持たざる者」を下に見ているのでは?という感覚もありません。
わたしは彼らが、スマホごときを持つことで優越感を持っているとは思わないのです。だって100人中120人が持っているものを所有していることが、どうして「優越」の根拠足り得るでしょう?「優越感」の根拠となるのは、一般に「人より抜きんでている」という意識であるはずです。他よりも「高みに居る」或いは「皆が持っていないものを持つこと」であるはずです。
『人間が人間に対して「優越感」を持つということ自体が「滑稽なこと」』
それはまったく同感です。
もちろんふたつさんが、わたしに「精神の操作」や「作為」を勧めていると思ってはいません。
ただ、これは先のqさんの発言にも感じましたが、わたしには、ふたつさんやqさんの発言が、人は意識の持ちようで、世界の見方=認識方法を変えることができると言っているように聞こえてしまうのです。(おそらくこれはわたしの理解不足、ミスリードでしょうけれど)
目の前の7人掛けのシートに座っている7人が7人ともスマホを眺めいじっている。
これはわたしにとってはいかようにも動かしがたい現実です。
そしてその光景がわたしには耐えがたく不快である。
であれば、その不快を避けるには電車に乗らない以外に方法はないはずです。
「美はわたしの信仰である」とわたしは言いました。
それはわたしの魂の唯一の拠り所なのです。
けれども、「普遍的な美」というものが存在しないとすれば、美が信仰であるということは、とりもなおさずそれは、自身の美意識への信仰ではないのか?と。
そうかもしれません。そう解釈していただいていいと思います。
わたしはわたしの美意識・審美観に忠実でありたいと思っています。
ただそれは、わたしの美意識が優れているという意味ではなく、それが他ならぬ「わたしの美意識」だからです。
相対主義とは、個々人が絶対であるということです。自己の外に絶対を認めないということです。言い換えれば、わたしの絶対は、わたし以外の者にとっての「絶対」ではあり得ないということです。
わたしにとっての、「わたし個人の」「絶対性」、しかしそれは当然主観的なもので、プラトンの「イデア」のように、客観的に存在しているものではありませんので、常に変化し得る「曖昧さ」と「不確実性」を孕んでいます。何を「美」とするかは、その時々によって変化します。
『「不完全主義者」としての頂点を目指す!』
ははは、これはいいですね。わたしも共感します。人間、不完全だからこそ人間なんだと思います。しかしマシンが不完全では困ります。Googleがわたしたちのように「曖昧で不完全」だと困るのです。そこがわたしの不快感の源かも知れません。「正解を求める姿勢」に違和感・嫌悪感を覚えるのです。
最後に、
「絶対性」は「全体主義」への親和性を強く持っていると思います。
わたしはあくまでも「相対主義者」です。繰り返しますが、相対主義とは、「わたしが(わたしの)基準である」というスタンスです。
「アンチ・スマホ」はわたしの絶対的な主義ではあっても、それを人に強制するつもりはありません。わたしは強制すること、されることを最も嫌います。
ですから、相容れない世界からは出てゆく。それだけです。
Takeoさん、こんばんわ。
返信削除まず、「優越感」についてですが、ぼくは『みんなが持っている、そして、自分も持っている』ということに「優越感」を持っている人はいるような気がしますよ。
それは、本当の意味での「優越感」ではないのかも知れませんが、実際に「本当の意味での優越感」を持てる人はいないんじゃないか?と思います。
たとえば、スポーツの世界記録保持者も、いつ自分より優れた人が現れないかと思っているはずですし、スポーツが得意でも、頭は『そーでもないかな?』と思っていたりするかもしれませんし、そのすべてにおいて自分が「優越」であると思える人はいないでしょうから、どんな「優越感」も「その場的なモノ」なんじゃないかと思います。
「神」=「全知全能」であると思える人は、あまりいないということでしょうね。
(言うだけの人はけっこう居たりしますけど)
それから、ここでのお話からすると、Takeoさんの「スマホ嫌悪」は「水玉模様がゆるせない」というような生理的な嫌悪感に近いのかなと思ったんですが、そういう感じでしょうか?
確かに、「水玉模様」が生理的にダメな人が、「水玉模様だらけの世界」に閉じ込められたら、かなりつらいと思います。
あとは『慣れるか?慣れないか?』しかないでしょうが、Takeoさんの場合、そこは『慣れない』に決まっているわけですからね。
そこで、もしも、「スマホ」に限らず、「みんな(全体)的なモノ」が気に成らないレベルにまで少なく成れば、Takeoさんにとってのほとんどの困難な状況が解消されるということなんじゃないでしょうか?
自分だけのことで言えば、ぼくはそういう時代が絶対に来ないという風には思いませんよ。
ただ、自分が生きているうちには、来ないかも知れないというだけで。
今の時代の中にも、その片鱗があれば、それを見続けることが出来るように思っています。
それは、現実を直視しないということではなく、現実の一部始終を見極めるということに近いですね。
見極めることで、わずかに残っている片鱗を見つけ出すことが出来れば、きっと少しは気分が晴れると思っていますよ。
Takeoさんが、お気に入りのアートや音楽を探しているのも、そういう作業じゃないかと思うんですが、どうでしょう?
少なくとも、Takeoさん自身の中の「美意識」は、Takeoさんにとっての「美しいモノ」を提供してくれるでしょうから、それを見つめて、外に出る時は、『まぁ、我慢する』というスタンスで行けばいいんじゃないかと思うんですけど、そんな単純なもんでもないでしょうか?
なんとなくですけど、「スマホ」が、Takeoさんが生まれる前からあったモノだとしたら、そこまでの嫌悪感は無かったんじゃないかなと思うんですね。
たとえ、みんなが持っていたとしてもですよ。
たとえば、洋服はみんな着てますけど、そこまでじゃないでしょうし、ちょんまげ結ってる人も居なくなりましたけど、そう言うことが気に成らないんだとすれば、つまり、そこに「全体主義」と言うほどのものを感じないでいられるんだとすればれば、ただ単に『みんなが持ってるから』ではなくて、それプラス『あまりにも急激に普及して、あまりにも当たり前の顔をしているから』ということが有るんじゃないかと思うんですよね。
つまり、自分が生まれたときにはなかったものなのに、いつの間にか『でかいツラしてる』のが、たまたま自分が生理的に受け付けられないようなモノだったということなんだと思うわけです。
生理的に受け付けないモノであっても、はじめからあったモノだと妥協できることは多いと思いますし、唐突に蔓延ったものでも、拒絶反応がないモノもあります。
Takeoさんにとっての「スマホ」は、その両方がセットに成っているので嫌悪感が強いように思いますね。
まぁ、こんなことを言っても救いに成らないでしょうが、「敵を知ること」は損には成らないと思います。
では、また。
追伸:前にコメントで、「ドゥ・ワップ」が好きと書いてありましたけど、よかったら、好きなグループを教えてください。
ちなみに、ぼくは「コースターズ=ロビンズ」の『スモーキン・ジョーズ・カフェ』なんかが好きです。
「ドゥ・ワップ」っぽく無いですけど。
あと、「ドリフターズ」も好きですよ。
(いや、いかりや長介さんの方じゃなくて、あぁ、いや、そっちも嫌いなわけじゃなくて)
(↑このグループのことをいう時は、一応これを言う決まりに成ってるんで、どうもスイマセン。あぁ、これは林家三平さんで大丈夫です)
いや、別に、これを言いたくて「ドリフターズ」が好きと言ったわけではないです。
「クライド・マクファータ―」っていうリード・シンガーが好きなんですねぇ。
それでは、また。
こんばんは。
削除多分ふたつさんの考えている通りだと思います。「全体主義」云々は関係ないとはいえませんが、やはりもっと生理的なレベルでの嫌悪感です。といっても電車内で、2~3人、3~4人がやっている程度では何とも思いません。これは断言できます。車内中ほぼ全員がというのが耐えられないのです。となるとそれは単に生理的な嫌悪感か、もっとイデオロギー的なものへの反感なのか・・・
>「スマホ」に限らず、「みんな(全体)的なモノ」
正にこれですね。わたしが最も嫌うのは。
>わずかに残っている片鱗を見つけ出すことが出来れば、きっと少しは気分が晴れると思っていますよ。
それはそう思います。わたしは全体像をまだ知りません。引きこもっていて、出てきたら、世の中こうなっていた。けれども、アフリカやアラスカではなくても、まだわたしが息を付ける場所がどこかに(行こうと思えば行ける場所に)あるのかもしれない。それを知りたいですね。
>少なくとも、Takeoさん自身の中の「美意識」は、Takeoさんにとっての「美しいモノ」を提供してくれるでしょうから、それを見つめて、外に出る時は、『まぁ、我慢する』というスタンスで行けばいいんじゃないかと思うんですけど、そんな単純なもんでもないでしょうか?
『まぁ、我慢する』ことができるのは、「でもこれがあるから」というものなり場所なり人なりがあってはじめて我慢ができるので、わたしには今そういうものがありませんし、今後そういう存在が出現することに関しても悲観的です。
だからわたしは母が生きている間だけ生きられるのです。それ以降は「全き無」ですから。
>「スマホ」が、Takeoさんが生まれる前からあったモノだとしたら、そこまでの嫌悪感は無かったんじゃないかなと思うんですね。
たとえ、みんなが持っていたとしてもですよ。
ええ、これもそう思います。わたしは基本的になんでもわたしが若い頃にあったものを基準に考えますから。
漱石は「汽車」に対して強い反感を抱いたと何かで読んだことがあります。
>つまり、自分が生まれたときにはなかったものなのに、いつの間にか『でかいツラしてる』のが、たまたま自分が生理的に受け付けられないようなモノだったということなんだと思うわけです。
例えばリニア新幹線(?)なんかはそういう類のものですが、見たくなければ見なくて済むわけですよね。無視できるのです。見たくないものを無理矢理(?)見せつけられる苦痛ですね。
ふたつさんの以上の指摘はほぼ的を射ていますね。
1、生理的な「フォビア」に近い
2、生まれた時には、若い頃にはなかったものが突如世界中を覆った
3、Aを我慢するためのXはどこにあるのか?
4、「わずかに残っている片鱗を見つけ出す」ことはどのように可能か?
5、「自分が生まれたときにはなかったものなのに、いつの間にか『でかいツラしてる』のが、たまたま自分が生理的に受け付けられないようなモノだった」
はそうだとしても、問題はやはり何処へいっても見なければならないということ。
安倍晋三でさえ、ニュースを見なければ見ずに済むのに、スマホは外に出る限り見なければならない。
◇
ドゥー・ワップは好きなグループはいくらもありますが、
ザ・ファイヴ・キーズ
リトルアンソニー&ジ・インペリアルズ
ザ・フォー・シーズンズ
ディオン&ザ・ベルモンツ
ザ・キャデラックス
ザ・フラミンゴス
ジ・イノセンツ
・・・こんなところでしょうか。
Doo-Wopのレコード、CDはたくさん持っていますよ。
クライド・マクファーターのドリフターズのCDも彼のソロも。
https://www.youtube.com/watch?v=4w9Xl2Pru8s&index=19&list=LLCN-3or2MgMvTrLdZq_UHxw
https://www.youtube.com/watch?v=8bHZDJhosnI&index=38&list=LLCN-3or2MgMvTrLdZq_UHxw
Takeoさん、こんばんわ。
返信削除ドゥ・ワップですけど、Takeoさんは割と正統派が好きなんですね。
ぼくも好きなグループばかりです。
でも、ぼくは、ちょっと、毛色が変わったグループにいってしまうんですね。
(もちろん正統派も好きですよ)
ファイブ・ロイヤルズなんかも好きですけど、どこか「R&B」っぽくなくて、ゴスペルみたいですね。
それでは、また。
こんばんは。
削除確かに正統派が好きですね。メロディアスな感じのもの。
ファイヴ・ロイアルズもいいですね。「this is dedicated to the one I love」
これはシュレルズでひっとしていますが、ローマン・ポーリングのギターがカッコいいですね。
https://www.youtube.com/watch?v=TkQa2n3bHnw
リード・ヴォーカルはウィルソン・ピケットじゃなかったかな?
おぉ~ローマン・ポーリング!!!
返信削除ピケットはファルコンズと言うデトロイトのグループでリードを取っていたことが有りますよ。
こちらは、ドゥ・ワップと言うよりはプリ・ソウル風の粗削りな感じのグループで、ぼくはけっこう好きですよ。(声でかいけど)
『I found Love』おススメ!
それから、ファンタスティック・ヴァイオリネアーズと言うゴスペル・グループでリードを取らせてもらえずに、やめています。
でも、こちらもおススメです。
では、また。
ファルコンズのLP持ってますよ。今はレコードの再生装置がありませんけど。
削除いろんなグループありますよね。ドゥーワップ。
でもやっぱりわたしはソウルはソウルで、ドゥーワップはメローな感じのものが好きですね。
ザ・ムーン・グロウズはちょっと土臭いかな。
こんにちわ。
返信削除『ソウルはソウルで~』っていうの、よくわかります。
ぼくも、そういうのよくありますよ。
ブルースだと「こういうの」が好きっていうのがあっても、それとほとんど同じような感じのR&Bだと「違うかな?」みたいなこと、よくあります。
いや、それにしてもムーングロウズで泥臭いとは。
ぼくなんかだと、結構メロウなほうかなって印象でした。
(まだまだだな、自分、みたいな)
ファルコンズのLP持ってるなんてうらやましい!
ああ、でも自分もレコードプレーヤー、もうとっくになかったわ。
ぼくは、もうほとんどのアナログ盤を売ってしまいました。
今思うと、ちょっとおしかったかなぁ・・・
ジャケット眺めてるだけでも良かったのかもなぁ・・・
では、また。
こんばんは。
削除結構ホワイト・ドォーワップが好きなので、ムーングロウズなんかが土臭く感じられるのかもしれません。でも嫌いじゃないんです。「チェス」の2枚組のCD持ってます。
それでもリトルアンソニー・アンド・ジ・インペリアルズに比べると遥かに泥臭い。
シェップ&ライムライツなんかも好きです。
昔はテクニクスのDJ用のプレーヤを持っていましたが、今度はもっとコンパクトなポータブルプレーヤーでいいですね。
なんでもポータブルっていうのはちょっとね。LPはジャケットだけでも十分に価値がありましたからね。
ではよい週末を^^