2018年11月9日

世界との軋み…


●「心身ともに健康」なんて、取るところがないばかりか、有害ですらあるのではないかと思う。「健康(健全)であることの避けようのない暴力性(鈍感さ)」はもちろん、世界には病むことによって見えてくること(病むことによってしか見えてこないもの)が幾らもある。
先日家族会の会長と話したときに、主治医は親切だが、どうも今のように話がスムーズに通じている感じ、意思の疎通が成立しているという実感があまりないと言うと、彼は言下に、「だって、先生病気になったことないもの」

医師またはあらゆる医療関係者には、その第一の資格(或いは資質?)として、持病があることー自身別の医師にかかっていること、嘗て篤く病んだことがあること、家族に病人や障害者がいること、等を挙げたいと思う。

とはいえ、「俺も昔は散々苦労してきたから、少しは人の痛みもわかるようになった」という言葉をわたしは信用しない。それはある程度事実ではあろうけれど、少なくとも、そのように公言する人を信用することができないのだ。


●「引きこもり」の人のブログを読んでいると、「人がこわい」「人中が怖い」「人と接することがこわい」という訴えをよく目にする。だからなかなか外に出ることができないのだと。けれども彼らの口から「世界の醜さ」についての嘆きを聞いたことが無い。
わたしは別に人が怖いとは思わない。わたしが外に出られないのは、ひとえにこの世界=人間社会の醜さ、言い換えれば極端な審美眼の欠如に他ならない。
仮にSFのように、今この町からすべての人が忽然と消え去っても、やはり町は醜さを保ち続けている。それでも「スマホ」を持った人たちが消滅してくれるだけでも、随分せいせいするだろうが。


●「わたしが理想とする世界とは、すべての人が苦行者のように、重い憂愁と忍苦の表情を浮かべている世界である」と、かつて詩人石原吉郎は書いた。
『一九五六年から一九五八年までのノート』より

今日、隣駅の国立まで行って、クリニックの待合室で1時間ほど待って、診察を受け、
また電車に乗って帰ってくるまでに見た笑顔は、マクドナルドの店員のスマイルだけだった。
確かに世界は、嘗て石原吉郎が望んだようになっているように見える。
しかし人々の顔から笑顔が消えたのは、不幸だからかといえばそうでもないような気がする。かといって幸福という感じではもちろんない。
ただ人びとが、歩きながら、電車の中で、駅のホームで、病院の待合室で、(中には小さな子供を抱っこしながら)・・・みなうつむき、無表情で、手に持ったなにかを一心に見つめている姿だけが印象に残っている。


● ああ、思い出した、もうひとり。帰りにわたしの降りた駅の改札を出たところで、一人の年配の女性が辺野古基地反対、横田基地への、オスプレイ配備反対(だったのか?)のビラを配り署名を集めていた。わたしは署名をしたが、何故か彼女の屈託を感じさせない笑顔に気を取られて、肝心の話、横田基地の「何に」反対なのかすら聞き洩らした。

わたしは疲れていたのだ、今年初めて電車に乗って隣の駅に行くまでに。診察前に待合室で人びとの姿を視ていて。そしてその後の診察では医師の説明がよく頭に入らず、診察室から出て、会計の時に、先生の話がよくわからなかったのですが、先生はこんなことを話していたのでしたか?と尋ねた時の、20代くらいの若い受け付けの女性の、無表情の中に垣間見える鬱陶しそうな表情に・・・

怒りも悲しみも感じさせず、陽気に基地建設反対を訴える老女、にこりともせず、胡乱(うろん)な者を見るように患者の顔を見つめる若い受け付けの女性・・・

どこかが、なにかが少しづつ、ズレ始めている・・・

わたしの中でか?それとも外の世界でか・・・







2 件のコメント:

  1. 思いどうりの世界、なんて在るわけないのです。人間、人それぞれなのだから。
    不快に思ったからと云って、それを間違い、だなんて云える人はあの辺見何とかさんぐらいではないでしょうか。

    返信削除
    返信
    1. 「戦争」を「死刑」を「いじめ」を「オリンピック」を間違いと言わなければならないと思います。誰も言わないから。

      とはいえ、わたしは別に戦争が起きても構いませんけどね。それで日本が、世界が滅びるなら。

      削除