2018年11月16日

「暴力」と「暴力性」(乃至「攻撃性」)について


ここから自転車で10分ほどの精神科単科の病院、即ち「精神病院」の2回のデイケア体験が終わった。出来れば継続して参加したいと思う。
今後は主治医の紹介状を持参し、病院側から主治医へいくつかの質問、そしてデイケアに受け容れるかどうかの「審査」がある。
「選別される」ことが極端に苦手なわたしは既に悲観的だ。
今は作業所に通っている高校時代の友人は、「デイケアは基本的に粗暴で暴力的な人以外は受け容れるはずだから心配ないと思うよ」と言ってくれるが、懸念は払拭されない。
その大きな理由は、「暴力を振るわない」ことと「暴力的でないこと」とは同じではないからだ。
現に1回目のプログラムの時に、30代くらいの男性から、「あなたの物腰、声の大きさに威圧感を感じる」と言われている。その言外にあるのが、「ある種の粗暴さ」と同じ意味であっても、わたしは反論することはできないし、その言い分は間違っていないと思う。

わたしが暴力的ではないと誰が言えよう。声=音の大きさが一種の暴力性を持つことであり、それを苦痛に感じる人がいるということは、わたし自身よくわかっていることではないか。単に音の大きさだけではない。スマホ中毒者たちの姿を目にすることで、わたしは精神的なダメージを蒙っている。疲弊させられている。わたしにとっては、彼らの存在自体が「暴力そのもの」なのだ。
であるなら、わたしの存在に暴力性を感じる者がいたとしても、それを「理不尽」だと抗議することはできない筈だ。

主治医の言う、「堂々とした態度と明快な自己主張」精神障害者家族会の会長の言う「話し方の迫力」── 健常者であるスタッフにはわからなくても、わたしを疎ましく思う利用者は少なくないだろうと想像される。
なにしろわたしは「型通りの精神障害者」ではなく、型破りの(不良品の)障害者だから(苦笑)
そういう点をも見越して、先に家族会の会長は、(デイケア)に受け容れられないということも充分考えられると言ったのだろう。

誰かより少し健康であるということは、誰かより少し暴力性を帯びているということ。
誰かより少し健常であるということは、誰かより少し鈍感であるということ。

一見全くの健常者のようであるが故に障害者から受け入れられず、
障害者であるという事実から健常者とも反りが合わない。

如何なる型にも嵌らない。いかにもわたしらしい。









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