以下は先日の投稿「恥知らず」に寄せられた「ふたつ」さんのコメントへの返事に仮託して、例によって、わたしの現在の気分を書いたものです。
以下ふたつさんのコメントより
◇
ふたつ 2018年11月23日 1:02
Takeoさん、こんばんは。
私には、スマホをいじっている人たちが滑稽に見えるんですよねぇ。
だから、あまり怒りを感じることはありません。
(まぁ、時々『チッ!』って思うくらいですね)
要するに、空虚なモノに見えるわけですね。
「スマホ」=「空虚」ではないですが、「みんな持ってるからスマホ」=「空虚」ってことですね。
そして、そういう「空虚」に対して「怒り」を感じると、そこに「意味」を与えてしまうような気もするわけです。
やはり「空虚」に対しては、もう少し希薄な感情で十分なような気がしてしまうわけです。
だから、私の場合は、「空虚」を「滑稽」として扱っていくという意味で、そこに自己欺瞞は発生しないと思っていますよ。
つまり、ごく自然に「笑える」と思っているわけですね。
でも、たとえば、「図と地の反転」って言うのがあるでしょ?
ある画像をパッと見たときに、はじめは風景にしか見えなかったのに、しばらく見ているとそこに人の顔が浮かんで来て、その後は人の顔にしか見えなくなってしまうというやつですね。
Takeoさんがスマホ族の方々に「怒り」を感じているとしても、そういう反転が起きる可能性はあると思ったんですよね。
それは、必ずしもTakeoさんにとっても、自己欺瞞には成らないかなと。
でも、もちろん強くそう言うことをおススメするということではありませんよ。
まぁ、いってみれば、「アソビ」ですか?
「スマホ族」はそういうくらいのもんだと思っていますよ。
それから、私にとって「幻想の世界」と「現実の世界」は、ほとんど拮抗しているモノで、どちらかが「実体」でどちらかが「隠れ家」ということではなく、両立しているモノだと思ているんです。
まぁ、言い換えれば「精神的な世界」と「物質的な世界」と言ってもいいと思いますよ。
だから、当然、両方ないと成り立ちません。
まぁ、敢えて、どちらかを選択するかと聞かれれば「精神的な世界」の方を選択するかもしれませんね。
しかし、これは私にとっては、「肉体の死」を意味しません。
なぜなら、「肉体」がないと「精神」も存在できないわけですから、「精神性」を尊重すれば当然「肉体」を存続させなければならなくなるわけで、それはTakeoさんが言うところの「自己の尊重」とほぼ同じように思っていますよ。
では、また。
「わたしはどのように生きるか?」と自らに問うことは、如何にして既存の社会に入り込むかということと同義ではなく、「世界との距離の取り方」を知ることであり、また、自己を(形而上的に殺してしまう)社会から、いかに離脱するかを考えることでもあります。
「今、ここにある社会(世界)」で、まともに生きられる人間は限られています。人間は「この社会」に合わせて、「この社会用」に作られたものではないのだから。
◇
◇ ◇
こんばんは、ふたつさん。
ある対象よりも、自分が優位にあると感じる時に、それが「滑稽」に見えるという、批評的・批判的な眼差しを持つことが出来るのではないでしょうか。
「あいつバカだなぁ」といった優越感のようなもの。
わたしはスマホを眺めている者たちを「滑稽」と感じることはできません。
人間には美意識というものがあり、なにかを美しいと感じたり、醜いと思ったり、クサイ、マズい、うるさいと感じることを自分で止(と)めることはできません。
それは昨日書いた西行の歌と同じです。
この身はもはや意識の上では、捨て去ったも同然、無きに等しいと思いながらも、
冬の夜には身体は正直に「寒い」と感じて震え、春になって花がほころべば自然と心が浮き立ってくる。
同様に、美しいものをそうでないと感じることも、醜いという感情を抑え込むこともできません。(「身体」も「感覚」も「感情」も、「理性」の制御の埒外にあります)
ふたつさんは、意識せずに、自然に、スマホ馬鹿たちを「滑稽だ」と思えるのでしょう。わたしが彼ら / 彼女らを同じように眺めるには、意識の変革が必要です。そしてわたしはそのような「作為」を厭います。
わたしにとっては、スマホに溢れる世界=外界は醜い。それがシンプルな、そして唯一の事実であり、現実です。
「空虚」なものに対して無用な意味付けをしてしまうと仰るが、そもそもふたつさんとわたしとでは、外の世界に対する感覚が異なるので、そこに包摂されている意味が違うのは当然のことです。わたしにとっては、スマホ馬鹿が跳梁跋扈するこの世界は、端から「醜悪で俗悪」という強烈な色彩を伴ってわたしと対峙しています。
それはわたしが色づけたものではなく、(わたしという個人の美意識にとって)「予めの意味」として、既にそこにあるのです。
繰り返しますが、「スマホ」を「空虚」だというのは、あくまでもふたつさんの美意識に他なりません。わたしがそのように感じるためには意識の操作が必要になるのです。
「だまし絵」というのがありますね。『ルビンの壺』とか、エッシャーの版画のような。
ある瞬間このように見えていたかと思うと、次の瞬間にはまったく逆に見えている。
けれども残念ながらわたしはスマホ馬鹿をそのように違ったふうに見ることはできません。
世界はわたしのあるようにある。ですから、わたしがわたしである以上、「世界は醜悪である」という意識・感覚から逃れることはできないのでしょう。
無論年齢の変化や様々な契機によって、感じ方が変化する可能性はあります。
しかし今の時点でわたしがスマホを平気になってしまうこと、それを醜悪だと感じなくなるということは、わたしにとって、わたしの美意識にとって、明らかな「堕落」だと感じます。
以前書いたように「美」は、わたしの「信仰」です。
ですから世の中には、どうしても、狎れ合ってはならない物(者)があり、どうしても慣れてはいけない物(事柄・風景)があると思っています。
カミュは「人は幸福になるのに忙しく、自分自身になる閑がない」と言っています。
「わたしがわたしであること」を取るか「幸福になること」を選ぶかは、それぞれの判断に依ります。それは「幸福であること」と「自分が自分であること」とは屡々背馳するからです。とくにこのような国では。
いまわたしたちは「幸福であること」の意味とはどういうものか、再検討する必要があります。それは同時に「不幸」ということについて問い直すことでもあります。
(例えば「殉教者は不幸か?」「志半ばにして斃れた革命家は不幸であるか?」或いは「全ての自殺は不幸(不如意不首尾)に起因するのか?」・・・等)
カミュは「人は幸福になるのに忙しく、自分自身になる閑がない」と言っています。
「わたしがわたしであること」を取るか「幸福になること」を選ぶかは、それぞれの判断に依ります。それは「幸福であること」と「自分が自分であること」とは屡々背馳するからです。とくにこのような国では。
いまわたしたちは「幸福であること」の意味とはどういうものか、再検討する必要があります。それは同時に「不幸」ということについて問い直すことでもあります。
(例えば「殉教者は不幸か?」「志半ばにして斃れた革命家は不幸であるか?」或いは「全ての自殺は不幸(不如意不首尾)に起因するのか?」・・・等)
「わたしはどのように生きるか?」と自らに問うことは、如何にして既存の社会に入り込むかということと同義ではなく、「世界との距離の取り方」を知ることであり、また、自己を(形而上的に殺してしまう)社会から、いかに離脱するかを考えることでもあります。
「今、ここにある社会(世界)」で、まともに生きられる人間は限られています。人間は「この社会」に合わせて、「この社会用」に作られたものではないのだから。
◇
最後に、わたしの内面世界と外の世界という二元論をわたしは採りません。
世界はわたしの内側にあると思っています。
わたしの外側に別の世界、わたしの世界と拮抗対峙するもう一つの世界があるとは考えていないのです。「スマホ」というのもわたしの中にあります、「醜さ」そして「ファシズム」の表象として。
コメントをありがとうございました。
またお話ししましょう。
平和な週末をお過ごしください。
Takeoさん、こんにちわ。
返信削除まず、私の弁解から述べさせていただきますね。
私は、「滑稽なこと」を「悪い」とは思っていませんし「低い」とも思っていませんよ。
ただ、「滑稽」だから「滑稽」だと思っているわけです。
「滑稽」が「好きなモノ」や「オモシロイモノ」である場合もたくさんありますし、『ちょっと、イヤっ!』ということもけっこう有りますね。
Takeoさんが言うところの「スマホ馬鹿」というのを、わたしは「スマホ滑稽」と言ったのに近いかも知れません。
(違うのは、Takeoさんの場合「スマホ嫌悪」が絶対的なモノだということかもしれませんね。私は、そこまでは思いません。)
私が、スマホ族の人たちに対して思うことは、『スマホなんかやめろ!』と言うことではなくて、「スマホを持っていること」がスタンダードで、「スマホを持っていないこと」はイレギュラーであると言う一種の差別意識は持って欲しくないなぁというようなことですね。
だから、そういう差別意識がほとんど無いような人は、嫌だと思わないですね。
私がスマホをいじっている人を見たときに「滑稽」と感じるのは、自分の「優越感」からではなく、彼らの中に「優越感」が見える時があるからだと思いますよ。
(だから、すべてのスマホ所有者に対して「滑稽さ」を感じるわけではありません)
そして、その「優越感」に実体があるとも思えないので、「滑稽なモノ」に見えて来るんだと思いますね。
私は、人間が人間に対して「優越感」を持つということ自体が「滑稽なこと」だと思いますよ。
また、少なくとも私の中に「作為」はありません。
それから、一種の「精神操作」をおススメしようと言う話でもありません。
「図と地の反転」に意図はありませんし、ごく自然にそう見えてしまうだけですから。
(でも、「やや強引に」という説明にそういう意味が含まれてしまっていたかもしれませんね)
それから、Takeoさんのいう所の「美=信仰」ということも否定するつもりはありませんよ。
ただ、私自身は「信仰を持つことは出来ないというだけです。
「美」に限らず、どんなものも「信仰」することは出来ないと思うんですよね。
「自分」でも、同じです。
「自分」を「信じること」も出来ません。
つまり、私は絶対的なモノを設定するということが出来ないということです。
Takeoさんは、「自分」や「自分の美意識」を「絶対的なモノ」として考えているということなんでしょうか?
もしも、「信仰」ということであれば、そう言うことなんだと思いますが、私にはそういう「自分に対する自信」は無いかもしれませんね。
だから、Takeoさんから見ると、私が言っていることが「作為的」に見えるのかも知れません。
でも、それは、私自身の中では「作為」ではなく、「曖昧さ」や「不完全性」と言った人間的なものなのだと思っていますよ。
ただ、それが「信仰」の対象となるような「絶対性」を持っていないということですね。
でも、「不完全性」を含めた意味で言うのであれば、「確信」くらいは持っているかもしれません。
(それを「信仰」ということは不可能ではないのかも知れません)
私の場合、「完全であること」を望む気持ちが、あまり無いんだと思いますよ。
どちらかと言うと「不完全主義者」です。
『「不完全主義者」としての頂点を目指す!』みたいな感じですね。
Takeoさんは「世界」や「自分」に対する姿勢が、より厳しいんじゃないかと思いますよ。
それは辛いことだと思いますね。
私には、とても耐えられないと思います。
それは、このブログのどの記事を読んでも伝わってきますが、私には耐えられないと思ってしまいますね。
ただ、そういうTakeoさんが、醜悪な世界と感じている世界をご自分の内に抱えながらも、ご自分の「美意識」を貫こうという姿勢は、十分に美しいと思いますよ。
私は、自分に対してそこまで厳しくできませんから、その点で尊敬いたしますね。
『世の中には、どうしても、狎れ合ってはならない物(者)があり、どうしても慣れてはいけない物(事柄・風景)があると思っています。』
これを言う人は沢山いますが、実践する人はわずかですね。
いちおう、私自身もそういう方向に向かってやっているつもりです。
ただ、私の場合は、はじめからそこに「不完全性」を取り込んでいるわけです。
これも「作為」して取り込んでいるわけではなく、自分の中にあるから仕方なくそれを認めているということだと思います。
ところで、Takeoさんは、「絶対性」が「全体主義」につながってしまうという危険性を感じることはありませんか?
はじめから「自己」が「内的な世界」に限定して存在しているので、「全体主義」になってしまうことは有り得ないということなんでしょうか?
もしよかったら、お答えお願いいたします。
それでは、また。
こんばんは、ふたつさん。
削除このコメントへのお返事はちょっとお待ちください。
昨日この長文(?)の投稿をして、エネルギーがありません(苦笑)
また適当な返信はわたしの主義に反しますので(笑)
またこれを元に其の三を書くかもしれません。
ただひとことだけ、上のコメントを読んで、わたしは何の違和感も感じなかった、
冷静に対話出来るなと感じました。
いつも真面目に読んで下さってありがとうございます。
ではお返事、しばらくお待ちくださいね^^
よい日曜日を。