2018年11月8日

漢方医学への疑問・懐疑


行きつけの内科医に、再度強い倦怠感、疲労感、無気力を訴えた。
「「だるさ」というのはなんともとらえどころがなくて、「咳」とか「下痢」とかいった症状とは違うんですね。だから現段階で私が考えられる方法としては、徹底的に検査して原因を探るか、あとは、「漢方」という手もあるかな。でも私は漢方に関しては全く知識が無いんで、何処そこを紹介するということが出来ないんですよ。」

そこで、インターネットで、いくつかの漢方医のホームページを閲覧してみた。
何故かどれもしっくりこない。わたしが「漢方医学」に無智であることももちろんだが、いくつかの医院、クリニックのサイトに共通する「健康観」というものに、「漢方」というのは、患者その人の「生き方」「ライフスタイル」ひいては人生観のようなところにまで踏み込んでくるような印象を受けた。

これも何度も書いているが、わたしにとって「健康」というのは、「わたし」と「わたしを取り巻く周囲の環境(=外界、生活圏)との融和・調和」に他ならない。言い換えれば人は戦場で決して健康であることはできない。

ライフスタイルとか生活習慣とかいうが、皆がみな飲みたくて酒を飲んだり、クスリ(ドラッグ)を飲んでいるわけではない。現代社会に於いては、健康に悪いとされているものを摂取することで、辛うじて精神の安定を保つ、というパラドクスから逃れることはできない。

わたしはこの現代社会、21世紀のこの日本という国(及びその国の人々)、そして東京という都市と、「友好的な関係を結ぶ」ことは不可能だと思っている。ということは、わたしは言葉の本来の意味で「健康」になることはないのだ。

昼夜が完全にひっくり返った生活にしても、それが快適だからやっているわけではない。
歪んだ社会の中に生きながら、個人の生活の背骨の歪みのみを無理矢理矯正しようとすることはナンセンスだ。

もし「漢方」が、人間が人間らしく生きるということを治癒の理念としているなら、それは最早時代遅れであろうし、絵に描いた餅と言わざるを得ない。
21世紀の東京に生きながら「健康である」ということ自体が、そもそも矛盾した状態なのだから。
わたしは「だるさ」が取れればいいと思っているが、それがないことイコール健康な状態だとは考えない。

人間、とりわけ現代社会に生きる者にとって、「健康」とはいかなる概念か?
漢方医との間で、そのような議論を交わすことなく、一方的に深酒を止めよ、規則正しい生活をと言われるのは正直鬱陶しいのだ。
あなたはわたしの哀しさの、わたしの孤独の、わたしのアンニュイの、わたしの厭世観の、いったい何を知っているのか?「哀しさ」や「孤独」「アンニュイ」「ペシミズム」、それ自体が不健康だというのだろうか?

いずれにしても、病んだ世界の中で健やかでいること、そのことについて、漢方医学はどのように考えているのだろう。

蛇足乍わたしは「生活習慣病」という呼び方が好きではない。その生活習慣は、半ば以上、社会の在り様によって強いられたものであると思っているから。
病気の原因の大半を個人の責任に転嫁するようなこのような呼称は好きではない。

以上、「漢方医学」に無智なまま、無責任に思うところを述べた。
ただ、東京という濁った海の中で、健康である、乃至健康になるということはどういうことかという根本的な疑問は、漢方と離れた部分でも、わたしの中に大きな疑問として留まり続けている。そして基本的には、「全人的な健康」などという「大いなる理想」を求めることなく、日々、あちらこちらとバンド・エイドを取り替えつつ、刹那主義的に生きるしかないのではないか、と。







6 件のコメント:

  1. 正常、と云う事に付いて。上下、左右、前後と云うものに両端があるとするならば、その真ん中を一定の幅を持って、その中に“存在”する事。これを正常と云うのだろうと思いました。

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    1. こんばんは、yy8さん。突然フェイスブックを辞めてしまいすみませんでした。
      ただ、ひょんなことから新しい日本人のフレンドができて、彼女及び彼女の友人の書き込みを読まざる得ないことになり、また、いくら自分が好き勝手に投稿しようとしても、やはり暗黙の了解として、「友達の投稿にも目を向ける」ということもあり、
      もう潮時かなと思い、アカウントを削除しました。やはりSNSにはどうしても合わなかったですね(苦笑)



      「中庸」ということでしょうか。
      けれども「前後・左右・上下」というと単なる抽象的な位置関係でしかありません。
      ときには偏ることによってバランスをとることもあると思います。
      例えば皆がどちらかに偏った時に反対側に足場を持つとか。

      前にも言ったように、「正常」「異常」というのは関係性によって常に反転の可能性を孕む相対的なものです。「固定した正常なるもの」というものは存在しないと思います。

      各々の「正常」があっていいと思います。

      コメントをありがとうございました^^

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    2. と云う事は、NikoさんにはNicoさんの正常、というものがあると云う事ですよね。そうなると、共通の基準と云うものが持てなくなる、と云う事になってしまうのではないでしょうか。それでは、会話は成り立たなくなると思うのですが。

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    3. もちろん、わたしの正常と安倍政権を支持する人の「正常」は全く異なるし、会話は成立しないですね。
      戦争を(一応)反対という基準を持つわたしと、戦争は必要と思っている人との基準はズレていますから。話す必要もないのではないでしょうか。

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    4. 多分、わたしの云う“正常”と云うのは「最大公約数」的な事なのだと思います。

      人それぞれの独自の正常の集まりを見て、共通点の多いところ、と云う事になるのかも知れません。

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    5. 「常識」という言葉に置き換えてもいいのかもしれませんね。
      ただもう既にご承知の通り、天邪鬼であるわたしは「最大公約数」的なるものが非常に苦手、嫌いですので、どうしても、「はみ出して」しまうのです。それが意識的なものなのか、なにかもっと自動的、というか、そういう性質を持っているのか、自分でもよくわかりませんが(苦笑)

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