2018年11月12日

すべて過ぎたこと(或いは「未開の国」にて)


なにをしたいのかわからない。
なにができるのかわからない。

数日前、今年初めて電車に乗って隣の駅に行き、駅から歩いて10分圏内のクリニックに行って帰ってきた。それだけで、わかった気がする。
わたしの時代はとうに終わっていたのだ、と。


新宿TSUTAYAで、今週水曜日まで旧作・準新作レンタルオール100円というメールが届いた。
けれども、わたしは「割引クーポン」を提示できない。携帯用端末とやらを持っていないからだ。
昔、つまりせいぜい5年ほど前までは、どこのTSUTAYAでも不定期に、月に一回くらいの割合で、「クーポン無しでもレンタル100円(半額)」などとやっていた。

こんな都会で生きている自分が馬鹿に思えて仕方がないが、他に行くところもない。
「こんなところは人間の生きる場所ではない」等とは言わない。わたしの考える「人間」と、わたし以外のほとんどがイメージする「現代人」というものが、そもそもまったく異質のものなのだから。



ある人がブログに書いていた。LEDの光が攻撃的に感じられる。コンビニの照明も・・・
うちではLED電球はひとつも使っていない。名もないメーカーの白熱球を使っている。
東京都では、これまでの電球とLEDを無料で交換しているらしいが、わたしは、昔ながらの電球をくれるなら、LED分のお金を払ってもいいと思っている。
(「白熱球」いわゆる「裸電球」と呼ばれていたものは、単なる光源ではなく、ひとつの「文化財」だと思っている。文化とは即ち「様式美」である。電灯の明りではなく、キャンドルの灯の下で食事をするような。「文化」とは「美」への拘り方である。故に「美意識」のないところ(例えば日本 / 東京)に「文化」は存在しない。)
── 電球1つの寿命が2年だとして、1か所に3個もあればわたしの生きている間は間に合うだろう。

LEDが、コンビニの照明が攻撃的に感じられるという意見に対して、今更同感ですもヘチマもない。あれが攻撃的でなくてなにが攻撃的だというのか?
(人体に優しいデジタルなんてものがあるとでもいうのか。そもそも「プラスティック」という物からして生体(生態系・地球)に攻撃的ではないのか。先日薬局でもらった薬の袋が、これまでの紙の袋から、ジッパー付きのポリ袋に替わっていた。帰って母に見せると、「プラごみを減らそうという時代に逆行してるね」と。まったく同感だ。以後その薬局は利用すまいと決めた)



国立に行く時に切符を買った。券売機の、(切符とお釣りの)「お取り忘れにご注意くださいお取り忘れにご注意くださいお取り忘れに・・・」という音声を1年ぶりに耳にして、既にもうその時点で疲れていたのだ。
昼間だというのに、ホームには、これも「相変わらず」照明が点いている。それも昔の蛍光灯ではない。
いつも感心するのは、国立という駅では日中はホームの照明を点けていない。JRでこういう駅をわたしは他に知らない。昼には電気を点けない。こんな当たり前すぎるくらい当たり前のことが、とても意識の高い見識のある駅のように思わせるほど、東京というところは粗野で野蛮な場所なのだ。

スマホとLEDが跋扈する世界にまだ居続ける自分をつくづく馬鹿だと思う。好きで苦しんでいるのだと。
先の短いことが救いだと思う。

ビートルズに'When I'm 64'という歌があるが、わたしに64(歳)はない。

サイモン・アンド・ガーファンクルの「旧友」Old Friends という歌には、

Can you imagine us years from today,
Sharing a parkbench quietly
How terribly strange to be seventy.

今日から何年も後のぼくたちを想像できるかい?
公園のベンチに一緒に黙って座っている。
ぼくたちが70歳になるなんて、なんて奇妙な感じだろう・・・

もちろんわたしに「70歳」という年齢は存在しない・・・してはいけない、したくもない、させてもいけない。


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