2018年11月5日

断想Ⅱ


昨日Facebookのアカウントを削除した。今後一カ月の間に再びログインすれば、また復活するようだが、もうSNSは充分だ。
2011年、MySpaceの「瓦解」と共にはじめたが、結局どうしても馴染めず、何度出たり入ったりしたことか。
今回も、昨年11月から約1年間のブランクを経て、数週間前に戻ってみたものの、
未だ形を持たない気持ちや想いを、的確な言葉で丹念に掬い取り、「かなしい」「さびしい」ということを言うにも、どのようにかなしく、どのようにさびしいのか、「かなしさ」や「さびしさ」を表すいくつもの言葉の中から、今の気持ちに合った語彙を選択するという作業を求められるブログという表現形態に関わってきた期間が長い分、4つか5つの「顔文字」で感情を表すことが主流になっている場所で、ひとの気持ちというものがあまりに軽率浮薄に扱われているのを視ているのに最早我慢が出来なくなった。



体調が相変わらずよくない。9月の市の無料健康診断の結果には、わたしの訴えるような強い疲労、倦怠感を示すような数値は見当たらないというのが行きつけの内科医の意見だった。「これは精神科の領域でしょうね」
しかし精神科医に内科の言葉を伝えても、この疲労感、倦怠感の原因は解らないという。
結局どうしてもそれを知りたければ、それこそ人間ドックのような「精密検査」ということになるのだろうが、そこまでするつもりはない。

9月(?)ごろから耳の聞こえもよくなく、2メートルも離れると、人の声がきちんと聴き取れない。

目の状態も芳しくない。もともと右目は20代の頃の緑内障でほとんど見えないところへ、今度はその上に白内障の症状が現れてきているし、やはり緑内障で2度、白内障で1度手術をしている左目に昨年末から再び緑内障の症状が出始めている。

目の状態とは無関係に、本を読むこともできなくなっている。以前から横になって本を読むことが習慣になっているのだが、数行読むと睡魔に襲われる。
今は形だけ、母に図書館から一応わたしが自分で選んだ本を借りてきてもらっているが、ここ数カ月、1冊も読めていない。

こんな状態が・・・ではなく、これから坂道を転がり落ちていく日々がいつまで続くのか?もう楽になりたい、そして母の負担になることを終わらせたいという思いが日増しに強まる。

ところで、先日Hのブログに、戦争(?)中の南京で、都会の学歴のある者よりも、農村出身者の方が残酷であったという話を話を聞いたHが、「こころのへんなところにへんな傷をこしらえてしまった」と書いていたが、学歴のある者がそうでない者よりも平静であったというのは解る気がする、何故なら戦前、(大正から昭和初期)当時の大学生の本分は本を読み思索することだったはずだ。その専攻にかかわらず、文学を、哲学書を読むことが即ち学生である証明だったようなものだ。そのような者たちが、戦地で、「殺し、犯し、奪う」ことに抵抗が強かったであろうことは容易に想像がつく。
「学歴」といっても、戦後の高度成長期の「学歴」、況やきょうびの「学歴」などとは全く異質のものだ。
今日であれば、学歴等無関係に、「敵だ!」と吹き込まれれば、皆等しく、殺し、犯し、奪い、火を放つだろう。そういうメンタリティーの醸成に一役も二役も買っているのが所謂SNSの存在である。

体調不良のため推敲せずに投稿する・・・








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