2018年11月6日



Photo by Jim McHugh 


「モノクロームの世界は、われわれに〈想像〉の余地を与えてくれる。いや、余地どころか、モノクロームは〈想像への入り口〉であり、それに着色するのはわれわれの内的な仕事である。
(略)
そしてモノクロームであることによって、圧倒的に魂に訴えてくる作品が生まれた。事実、白という無限の虚無と黒という無限の傷跡の組み合わせで織り成される映像の方が、さまざまなカラーで想像力を限定してくる映像よりイメージを喚起する力があったのである。
ジャコメッリは2000年に75歳で死んだ。デジタルカメラが登場し、モノクロームフィルムがカメラ屋の店頭からほとんど姿を消し、世界が色で溢れかえる時代まで彼は生きたが、しかし最後まで色を使うことはなかった、実験的に試みたことすらあったかどうか。かくも色の氾濫する時代にあって、彼は頑固なまでにモノクロームにこだわり、白と黒の世界に「時間と死」を閉じ込めつづけ、そうすることで「時間と死」を想像し思弁する自由を保ち続けた。「時間と死」はジャコメッリにより息づいたのである。」
ー『私とマリオ・ジャコメッリ・〈生〉と〈死〉のあわいを見つめて』(2009年)

と辺見庸は書いているが、この写真の息をのむような深度、悲しいほどの静謐さはどうだ。

チェット・ベイカーを聴きながら、このわびしい写真を30分ほど眺めていた。
何とも言えない懐かしいさびしさがある。
〔寂〕は〔錆び〕であり〔荒び〕である。
そしてこんな何の変哲もないネオンサインを被写体にするセンス。

この写真はそれほど古いものではないだろうが、わたしは最近、20世紀中葉、
40年代~60年代に撮られたカラー写真の魅力に惹かれ始めている。
ドアノーやブラッサイはもとより、世界中から写真家たちが集まり、モノクロームで記録し続けた往時のパリの街並みを、カラーで撮影した、木村伊兵衛の写真の喚起力と、カラーであるが故のノスタルジー・・・

辺見庸の意見に全面的に同意した上で、尚、優れたカラー写真には、想像力の入り込む余地は充分にある・・・いや、おそらく(わたしにとっての)カラー写真の魅力のほとんどは、被写体(モチーフ)の古びか、或いはそれが既に数十年前に撮られたものであるかのどちらかにあるのだろう。裏を返せは、なべて新しいモノはおもしろみがない、ということだ。


Chet Baker - Every Time We Say Goodbye

チェット・ベイカー「エブリタイム・ウィ・セイ・グッドバイ」






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