わたしを取り巻く世界が眩めくような速さで変化(悪化)している一方で、変わらないものもちゃんと残っている。
引きこもっている人や、こころを病んでいる人たちが、「普通に会社に就職して、普通に結婚して、子供を持って、両親に孫を抱かせる」ことができなかったことが残念だと口にするのをしばしば聞く。そんなつぶやきに接するたびに、今更ながら、変わらないものは変わらないんだなぁとつくづくと感じる。苦笑交じりに。
わたしは若い頃から結婚を考えたことが無い。そもそも結婚なんかしたいと思ったこともない。
ましてやこのわたしが自分の子供を持つなんて到底想像もつかない。
それは女性にモテるとかモテないの問題ではなく、結婚とか、子供を持つとか、孫を親に抱かせることにいったい何の意味があるのかわからなかったからだ。そしてもし誰かが、そういう「理屈」以前に、これは生物としての人間の当然の営みであり欲求であるとか、ましてやそれが社会貢献だなどと考えているとしたら、そういう「古風」で「旧弊」な考え方には到底納得も同意もできない。
だからわたしは結婚しなかったことも、子供を持たなかったこと、孫を親に抱かせられなかったことも少しも後悔してはいない。
人生に後悔があるとすれば、恋愛というものをしてみたかったことと、仕事をすることの愉しさというものを味わってみたかったということくらいか。
そして恋愛以上に、友だちに恵まれたかった。無論友に恵まれなかったのは、他でもない、わたし自身に人を惹きつける魅力がなかったということに他ならないのだが。
◇
12月、『月』の出版に合わせて、新宿紀伊国屋ホールで行われる辺見庸の講演会に行くのを躊躇っている。行って、講演後に質疑応答があれば、わたしは必ず手を挙げて、発言の機会が与えられれば、「何故、実際に起こった障害者の殺害事件に想を得て書かれた本の出版に際しての講演会場で、サイン本即売会が行われるのか?」と作者を詰問せずにはいられないからだ。
嘗ていろんな講演会に行って、著名な講師に異論を述べなかったことは一度もない。
多くの聴衆=ファン、愛読者、信奉者と一緒になって、ありがたくご高説を拝聴するつもりなどさらさらないのだ。わたしはいつも刺客であった。
しかし今回はなんとなく、そんなことはもうどうでもいいという感じなのだ。
辺見が浮かれようがちゃらけようがどうでもいい。所詮は我々とは別世界に住む名のある作家ではないか。
久し振りに彼のブログを覗いた。つい先日、うじゃじゃけたことを書いていてうんざりしていたところだ。
パウル・ツェランの詩の一節が記されていた。
かれらは世界にはなればなれに立っている
それぞれがそれぞれの夜のもとに
それぞれがそれぞれの死のもとに
・・・まだ、考えている・・・
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