2018年11月30日

「敵」(たったひとりのフォビアとたくさんのフィリアたち…)


わたしの症状は、所謂「フォビア」=「恐怖症」と言われるものなのか?
しかし自分の感情を分析してみると、それは「恐怖」や「不快感」というよりも、寧ろ「憎悪」に近い。ある対象を激しく「嫌悪し」「憎悪する」ことも「フォビア」の範疇なのだろうか?

いずれにしても、自分のブログが「あれ」で読まれることを想像しただけでも気分が悪くなるという状況は深刻だ。とはいえ、何故わたしが「あれ」をそうまで嫌い、憎むのか、それを説明できる者はいない。

電車内での「彼ら / 彼女ら」は、明らかにわたしにとって「敵」である。
このブログに時々コメントをくれるYさん。彼は多分「あれ」でこのブログを見ているだろう。Yさんは「あれ」を持ち、「あれ」でわたしのブログを読んでいるからという理由で、やはりわたしの「敵」なのか?今日コメントをくれたOさんは?
いや、YさんもOさんもわたしの「敵」ではない。
ではわたしにとっての明らかな「敵」と、そうではない者の違いはいったいなんだ?
その境界線はどこにある?
わたしの明確な敵とは?



もう外に出られそうにない。出たくもない。
一昨日届いたmp3プレーヤーも開封すらしていない。
12月18日、新宿紀伊国屋ホールで行われる辺見庸の『月』出版に合わせた講演会、
母と二人分のチケットを買ったが、これも払い戻しをしようかと迷っている。

いずれにせよ、来月も、年が明けても、「あれ」と、あれに溢れる外の世界への呪いを書き続ける毎日などまっぴらだ。

「あれ」を平気になるには、医学的な「治療」ではなく、「あれ」があっても我慢できるくらいの人物、または行き場所、それらの存在以外には考えられない。
その存在によって「あれ」を相殺できる何か、何処か、誰か・・・
けれども、デイケア参加はおそらく拒否されるだろうし、そもそも外に出ることすら出来ないわたしに「何処か」も「誰か」も現れる可能性は、ない。

どうしても共存できない者同士であるなら、どちらかが消えるしかない。
そして「世界を消す」ことができない以上、消えるのはどちらかは誰の目にも明らかだ。

ただ最後に知りたかった。「外の世界が醜くて外出ができない」という人間は、世界中でわたしただひとりなのか?ということを・・・

いかなる精神科医にも解明できない「謎」を持った者として自分を誇るべきだろうか?(苦笑)


◇      ◇

 =追記=

YさんもOさんも(そしてひょっとしたら、今でもまだ、たまにこのブログを覗いてくれているかもしれない女性Cさんも)「あれを持っていても」「敵ではない」と書いた。
けれども、もし仮に、わたしとYさんがどこかに行って、電車で移動中、隣に座ったYさんが、徐に「あれ」をとりだして何か操作を始めたら・・・その瞬間、おそらくYさんも(OさんでもCさんでも)「彼ら / 彼女ら」と同類ー即ち「敵」になるのだろう・・・いや・・・どうだろう・・・わからない・・・なにもわからない・・・

(だいたいこんなシチメンドクサイ奴と友達になろうなんて者が居るわけがない!!)















2018年11月29日

お願い





当ブログの、スマートフォン(またはタブレット)での閲覧はご遠慮ください



(※ 疑問反論のある方はコメントをください)















なぜ生きる?






生きていて、やりたいことがなにもない。
けれどもじつは誰もがそうで、
ただ、やるべき一つの事のためにみなが生きているのだろうか?
そのやるべきこととは、「生きること」・・・






















2018年11月28日

「ふたつ」さんのコメントに託したひとり語り、其の三


以下は先日の投稿、「ふたつ」さんのコメントに託したひとり語り、其の二への、再度のふたつさんの応答に対して、わたしなりの考えを述べたものです。

最初にふたつさんの本文へのコメントを引用します。



ふたつ 2018年11月24日 17:10

Takeoさん、こんにちは。

まず、私の弁解から述べさせていただきますね。
私は、「滑稽なこと」を「悪い」とは思っていませんし「低い」とも思っていませんよ。
ただ、「滑稽」だから「滑稽」だと思っているわけです。
「滑稽」が「好きなモノ」や「オモシロイモノ」である場合もたくさんありますし、『ちょっと、イヤっ!』ということもけっこう有りますね。

Takeoさんが言うところの「スマホ馬鹿」というのを、わたしは「スマホ滑稽」と言ったのに近いかも知れません。
(違うのは、Takeoさんの場合「スマホ嫌悪」が絶対的なモノだということかもしれませんね。私は、そこまでは思いません。)

私が、スマホ族の人たちに対して思うことは、『スマホなんかやめろ!』と言うことではなくて、「スマホを持っていること」がスタンダードで、「スマホを持っていないこと」はイレギュラーであると言う一種の差別意識は持って欲しくないなぁというようなことですね。
だから、そういう差別意識がほとんど無いような人は、嫌だと思わないですね。

私がスマホをいじっている人を見たときに「滑稽」と感じるのは、自分の「優越感」からではなく、彼らの中に「優越感」が見える時があるからだと思いますよ。
(だから、すべてのスマホ所有者に対して「滑稽さ」を感じるわけではありません)

そして、その「優越感」に実体があるとも思えないので、「滑稽なモノ」に見えて来るんだと思いますね。
私は、人間が人間に対して「優越感」を持つということ自体が「滑稽なこと」だと思いますよ。

また、少なくとも私の中に「作為」はありません。
それから、一種の「精神操作」をおススメしようと言う話でもありません。
「図と地の反転」に意図はありませんし、ごく自然にそう見えてしまうだけですから。
(でも、「やや強引に」という説明にそういう意味が含まれてしまっていたかもしれませんね)

それから、Takeoさんのいう所の「美=信仰」ということも否定するつもりはありませんよ。

ただ、私自身は「信仰を持つことは出来ないというだけです。
「美」に限らず、どんなものも「信仰」することは出来ないと思うんですよね。
「自分」でも、同じです。
「自分」を「信じること」も出来ません。 

つまり、私は絶対的なモノを設定するということが出来ないということです。

Takeoさんは、「自分」や「自分の美意識」を「絶対的なモノ」として考えているということなんでしょうか?
もしも、「信仰」ということであれば、そう言うことなんだと思いますが、私にはそういう「自分に対する自信」は無いかもしれませんね。

だから、Takeoさんから見ると、私が言っていることが「作為的」に見えるのかも知れません。
でも、それは、私自身の中では「作為」ではなく、「曖昧さ」や「不完全性」と言った人間的なものなのだと思っていますよ。
ただ、それが「信仰」の対象となるような「絶対性」を持っていないということですね。

でも、「不完全性」を含めた意味で言うのであれば、「確信」くらいは持っているかもしれません。
(それを「信仰」ということは不可能ではないのかも知れません)

私の場合、「完全であること」を望む気持ちが、あまり無いんだと思いますよ。
どちらかと言うと「不完全主義者」です。
『「不完全主義者」としての頂点を目指す!』みたいな感じですね。

Takeoさんは「世界」や「自分」に対する姿勢が、より厳しいんじゃないかと思いますよ。
それは辛いことだと思いますね。

私には、とても耐えられないと思います。
それは、このブログのどの記事を読んでも伝わってきますが、私には耐えられないと思ってしまいますね。

ただ、そういうTakeoさんが、醜悪な世界と感じている世界をご自分の内に抱えながらも、ご自分の「美意識」を貫こうという姿勢は、十分に美しいと思いますよ。
私は、自分に対してそこまで厳しくできませんから、その点で尊敬いたしますね。

『世の中には、どうしても、狎れ合ってはならない物(者)があり、どうしても慣れてはいけない物(事柄・風景)があると思っています。』

これを言う人は沢山いますが、実践する人はわずかですね。

いちおう、私自身もそういう方向に向かってやっているつもりです。
ただ、私の場合は、はじめからそこに「不完全性」を取り込んでいるわけです。
これも「作為」して取り込んでいるわけではなく、自分の中にあるから仕方なくそれを認めているということだと思います。


ところで、Takeoさんは、「絶対性」が「全体主義」につながってしまうという危険性を感じることはありませんか? 

はじめから「自己」が「内的な世界」に限定して存在しているので、「全体主義」になってしまうことは有り得ないということなんでしょうか?

もしよかったら、お答えお願いいたします。


それでは、また。


◇      ◇


こんばんは、ふたつさん。お返事が遅れてすみませんでした。
頂いたコメントが、なかなか咀嚼できずもたついておりました。
また、わたしたちの間で交わされている「認識論」を超えて、「スマホ問題」・・・もっと広くは現代都市の景観問題は、最早わたしにとって、現実に生きるか死ぬかの問題にまで高まってきており、どうしても、昨日の投稿を優先する必要がありました。けれども、一日経って、昨日の投稿のPVは僅かに1.いかにわたしにとっての大問題が、世間の人たちにとって全く理解の枠外にあるか、この閲覧者1人という数字が物語っています。だいたいこの「1人」だって、実はわたし自身のアクセスがカウントされているだけかもしれませんしね(苦笑)

さて、正直言って、未だにふたつさんの仰っていることが完全に理解できたというわけではありません。「理解できない」というのは、この場合、わたしはそう思わないという意味ではなく、純粋に「わからない」ということです。
(実は先日qさんのところでのわたしのコメントへのqさんの返事。これもふたつさんのコメント同様、わたしには「よくわからない」のです)

それから、予めお伝えしておきたいのですが、わたしの意見が、反論のように聞えるかもしれませんが、それはわたしの表現力の不足であって、わたしはあくまでもふたつさんの意見に触発された自分の意見を述べているつもりです。


わたしは誰に対しても「スマホを止めろ」と思ったことはありません。また「スマホ馬鹿」と言っていますが、スマホをやっていることが「愚かしいこと」「軽蔑すべきこと」という意識も左程ありません。実際、他人が何をやろうと、わたしの与り知らぬ事なのです。私的空間で、ノイズを出されたり悪臭を振りまかれたりすれば、「静かにしてください」「その匂い、苦手なんですが・・・」くらいは言いますが、駅のホームや電車内は公共空間です。(公共空間についての考察は今は割愛します)。
「スマホを止めろ」と思ったことはありませんが、いつも思うのは、「へんな時代に紛れ込んでしまったなぁ・・・」という思いです。

また「スマホ馬鹿」たちが、自分たちがスタンダードで、わたしやふたつさんのような「持たざる者」を下に見ているのでは?という感覚もありません。
わたしは彼らが、スマホごときを持つことで優越感を持っているとは思わないのです。だって100人中120人が持っているものを所有していることが、どうして「優越」の根拠足り得るでしょう?「優越感」の根拠となるのは、一般に「人より抜きんでている」という意識であるはずです。他よりも「高みに居る」或いは「皆が持っていないものを持つこと」であるはずです。

『人間が人間に対して「優越感」を持つということ自体が「滑稽なこと」』
それはまったく同感です。

もちろんふたつさんが、わたしに「精神の操作」や「作為」を勧めていると思ってはいません。
ただ、これは先のqさんの発言にも感じましたが、わたしには、ふたつさんやqさんの発言が、人は意識の持ちようで、世界の見方=認識方法を変えることができると言っているように聞こえてしまうのです。(おそらくこれはわたしの理解不足、ミスリードでしょうけれど)

目の前の7人掛けのシートに座っている7人が7人ともスマホを眺めいじっている。
これはわたしにとってはいかようにも動かしがたい現実です。
そしてその光景がわたしには耐えがたく不快である。
であれば、その不快を避けるには電車に乗らない以外に方法はないはずです。


「美はわたしの信仰である」とわたしは言いました。
それはわたしの魂の唯一の拠り所なのです。
けれども、「普遍的な美」というものが存在しないとすれば、美が信仰であるということは、とりもなおさずそれは、自身の美意識への信仰ではないのか?と。
そうかもしれません。そう解釈していただいていいと思います。
わたしはわたしの美意識・審美観に忠実でありたいと思っています。
ただそれは、わたしの美意識が優れているという意味ではなく、それが他ならぬ「わたしの美意識」だからです。

相対主義とは、個々人が絶対であるということです。自己の外に絶対を認めないということです。言い換えれば、わたしの絶対は、わたし以外の者にとっての「絶対」ではあり得ないということです。

わたしにとっての、「わたし個人の」「絶対性」、しかしそれは当然主観的なもので、プラトンの「イデア」のように、客観的に存在しているものではありませんので、常に変化し得る「曖昧さ」と「不確実性」を孕んでいます。何を「美」とするかは、その時々によって変化します。

『「不完全主義者」としての頂点を目指す!』
ははは、これはいいですね。わたしも共感します。人間、不完全だからこそ人間なんだと思います。しかしマシンが不完全では困ります。Googleがわたしたちのように「曖昧で不完全」だと困るのです。そこがわたしの不快感の源かも知れません。「正解を求める姿勢」に違和感・嫌悪感を覚えるのです。

最後に、

「絶対性」は「全体主義」への親和性を強く持っていると思います。
わたしはあくまでも「相対主義者」です。繰り返しますが、相対主義とは、「わたしが(わたしの)基準である」というスタンスです。
「アンチ・スマホ」はわたしの絶対的な主義ではあっても、それを人に強制するつもりはありません。わたしは強制すること、されることを最も嫌います。
ですから、相容れない世界からは出てゆく。それだけです。

お答えになったでしょうか?また疑問・質問あれば、お気軽に書き込んでください。



※「ふたつ」さんのブログ『芸術の20世紀 喪失宣言
  わたしは個人的に「いま思いついたこと」のコーナーがおもしろいと思っています。











2018年11月27日

「ぼく自身」そして「極めて困難な状況」


古人(いにしえびと)曰く「敵を知り己を知れば百戦するとも危うからず」。
このところブログに「スマホ」の文字が見当たらない日がないくらい来る日も来る日もスマホに対する呪詛を書き綴っている。「スマホ」は今更言うまでもなくわたしの「天敵」である。けれども、その「怨敵」がどういうものであるのか、未だによくわからない。そしてまた自分のことも。

しかしわたしは拘らずにはいられない。わたしをここまで苦しめるモノについて思いを巡らさずにはいられない。誰しも痛いところ、痒いところがあれば、そこに気が行くだろう。その度合いが強ければ、それだけその他の事柄への関心は薄くなり、意識はその痛みかゆみに収斂してゆく。

「スマホ」を「ハーケンクロイツ」や「旭日旗」に譬えたり、正気とは思えないし、そもそもこんなものがブログと呼べるのか?という声はわたしには届かない。
既に2018年9月15日付け投稿1及び投稿2において、これは最早通常の意味でのブログではないと断っている。これ以降わたしは基本的に「読者」を想定していないし、
たまさか毛色の変わった投稿をしても、それはちょっとしたブレイクに過ぎない。

それでも、たとえばqさんやFさんのように、この、ブログとも呼べない狂人の戯言を読んでくれている人がいることに今更ながら驚く。そしてできることなら、わたしもこんな形ではない文章を書きたいと思う。しかし残念ながらそれは無理な相談なのだ。

奇しくも、qさんFさんから、自己の内面と外界との境界線というようなことを異口同音に言われた。(それはわたしのミスリードかもしれないが)
彼らは、また一般に人は、自分の外側での出来事に無関心でいられるものだろうか?
なぜそのようなことが可能なのだろう?一歩外に出れば、そこはわたしにとってはスマホ馬鹿たちの世界である。とりわけ駅のホーム。電車の車内。
前にも書いたが、うるさければ耳栓をするなりイヤーマフを着けるなりすれば、不快なノイズは「ある程度」は軽減されるだろう。マスクをすれば悪臭を「ある程度」は防げるだろう。けれども目隠しをして外を歩くことはできない。そして「彼ら」の姿を見ることはわたしにとって、鋭利なカミソリで、心を切りつけられることと同じほどの苦痛なのだ。
ご存知だろう、サルバドール・ダリとルイス・ブニュエルの映画『アンダルシアの犬』で、若い女性の目をカミソリで切り裂くシーンを。外に出るということはわたしにとって、それに近い「精神的苦痛」を受けることなのだ。
けれども、わたしがいかに彼らの行為によって苦痛や不快感を蒙ろうと、それはなんら彼らの責ではない。

先日Fさん、qさんとクルマの話をちょっとしたが、運転ができなくてよかったと今更ながら思う。仮にわたしが今、街中を運転していて、目の端に歩きながらスマホを凝視している者の姿がチラとでも映ったら、わたしはその瞬間にハンドルを切り、その者に突っ込んでいくかもしれない。その可能性を否定できないどころか、ありそうなことだと思う。
兇器を手にしていながら、見過ごすことが出来るかどうか。まったく自信がない。
今のわたしにとって、外に出るということは、いつ血を見るかわからないということだ。
以前からわたしは自らを「狂人」と称してきたが、この点に於いては正に正真正銘の狂人である・・・

「スマホ」とはなにか?なぜこれほどまでにわたしの暴力性を駆り立て、憎しみを燃え立たせるのか?先にキューブリックの『博士の異常な愛情・・・』のラストシーン、核兵器によって地球が滅びるシーンのビデオを載せたが、誇張ではなく、スマホが、タブレットが消滅するなら、地球など滅びても構わないと思っている。

「いのちの電話」の相談員は、自分はスマホを持っていないと言った。けれども、当たり前のことだが、わたしのような憎悪を「それ」に対して持ってはいなかった。彼女は、「スマホで写真を撮るのをあなたは嫌だというけれど、じゃあそれがカメラだったらどうですか?」と尋ねた。
「カメラなら構いません」
「でしょう?あなたはスマホだと思っているけど、あれはスマホの機能のひとつであるカメラを使っていると思えばいいんですよ」
それはそうかもしれない、みなが「スマホ」をやっていると見るのは本当は正確ではなく、ある人はゲーム機を使っていて、ある人は通信機器を、ある人はカメラを使っている・・・
「だからみなそれぞれ別々のことをしているのであって、決してあなたの言うように、『皆が同じことをしている』わけじゃないんですよ」

ああ!しかしもうそういう理路整然とした理屈で封じ込めることができるようなものではないのだ。わたしには、わたしの目には、そのような正論(?)を超えて、「皆が同じことをしている」としか映らないし感じられないのだから。

そのような筋の通った説得にもかかわらず、わたしにとって、外の世界は依然として地獄絵図である。そしてそこには血しぶきが付き物だ。

わたしは最早外に出ることはできないのか?生きながら外に出ることができないということは、わたしのすべき事を果てしなく母が肩代わりするということだ。
けれども今の状態で外に出れば、血を見る可能性が高い。逮捕ー拘束ー檻の中での自殺の失敗ー拘禁反応による発狂・・・空想はとめどなく続く・・・

どうすればいい。やはり死ぬしかないのだろうか?

外は地獄、家に居れば母の重荷・・・わたしはいったいどうすればいのか・・・

最近は死ぬことを真剣に考えるようになった。シェイクスピアはどこかで書いている。
「胸に深い悲しみがある時に、肉体の痛みは感じないものだ」と・・・
母はわたしが死ぬなら一緒に死ぬと言い、わたしは母の命が尽きた日にこの世から去るつもりでいる。この決心は何があろうと決して揺るぐことはない。

そう長くはない。母を悲しませたくはない。





2018年11月25日

No Country for Old Man...



Eric Vloeimans & Holland Baroque Society — Mine Own King Am I & Joel




THE END.


Amazonでmp3プレーヤーというものを注文した。
とにかく屋外で音楽を聴く装置がなければ、いつまでたっても外に出ることはできない。
けれども、どのような音楽再生装置があったとしても、もう以前のように自由に出歩けるようにはならないことも知っている。
わたしが自由に東京という街を闊歩していた10年前に比べ、世の中はあまりにも、あまりにも変わり過ぎた。
当時は日本中・・・東京のどこを歩いても、スマホを眺めている人など、ただの一人もいなかった。そしてわたしには親友と呼べる人がいた。
スマホもタブレットも存在しなかった世界。今思えばそれはまるで天国ではないか。

わたしは現実に会って話せる気の合う友達が欲しいが、スマホを持っている人と友達になれる自信がない。そもそもわたしの「天敵」であり、現政権と共に最大の憎悪の対象たる「スマホ」を持つ者とわたしと、気が合うということが考えられない。ハーケンクロイツや旭日旗のバッジを堂々と胸に付けた者と、どうして意気投合できるだろう?
驚かれるかもしれないが、わたしにとって「スマホ」という記号は、誇張ではなく、それらと等価なのだ。
何度でも繰り返すが、わたしはアンチ・ファシストだ。そしてファシズム=全体主義とは例外のないこと、ひとつの文化、ひとつのイデオロギーを、ほぼ全員が支持すること。「スマホ」の「イデオロギー」とはなんだろう。「便利であれ」「手軽であれ」「皆に遅れるな」・・・とはいえ、「スマホ」自体は単なる入れ物に過ぎないのだが・・・

いまやスマホを持っているかいないかが、わたしの友だち選びの最大の基準になっている。そして今の時代、わたしに合った友達を持つことが、最早絶望的であることも知っている。

繰り言のように呟くことは・・・永く生きすぎたようだ・・・



2018年11月24日

Blues


Peter Green - Feeling Good

Another weekend and I feel so low All dressed up but nowhere to go There's just a voice on the radio To make me feel good inside It seems so long since those crazy days Hot summer nights and long lazy days Then we both went our own separate ways Trying to feel good inside I got so close, I had you here in my hand I'd turn back time but I'm only a man I'd give this right arm if I could see you again But that can't be done
​Now I don't know if you're alive or you're dead All I've got of you is this picture of in my head If I knew you were happy, at least I could accept And try to feel good inside I think about those times again and again But there ain't no use in just remembering when We can't control time, the hand or the pen Having written it just moves on Another week and I feel so low Just passing time and time moves so slow How things could have been, I guess we'll never know But I want to feel good inside Just to feel good inside I want to feel good inside




「ふたつ」さんのコメントに託したひとり語り、其の二


以下は先日の投稿「恥知らず」に寄せられた「ふたつ」さんのコメントへの返事に仮託して、例によって、わたしの現在の気分を書いたものです。

以下ふたつさんのコメントより



ふたつ 2018年11月23日 1:02

Takeoさん、こんばんは。

私には、スマホをいじっている人たちが滑稽に見えるんですよねぇ。
だから、あまり怒りを感じることはありません。
(まぁ、時々『チッ!』って思うくらいですね)

要するに、空虚なモノに見えるわけですね。
「スマホ」=「空虚」ではないですが、「みんな持ってるからスマホ」=「空虚」ってことですね。
そして、そういう「空虚」に対して「怒り」を感じると、そこに「意味」を与えてしまうような気もするわけです。
やはり「空虚」に対しては、もう少し希薄な感情で十分なような気がしてしまうわけです。

だから、私の場合は、「空虚」を「滑稽」として扱っていくという意味で、そこに自己欺瞞は発生しないと思っていますよ。
つまり、ごく自然に「笑える」と思っているわけですね。

でも、たとえば、「図と地の反転」って言うのがあるでしょ?
ある画像をパッと見たときに、はじめは風景にしか見えなかったのに、しばらく見ているとそこに人の顔が浮かんで来て、その後は人の顔にしか見えなくなってしまうというやつですね。

Takeoさんがスマホ族の方々に「怒り」を感じているとしても、そういう反転が起きる可能性はあると思ったんですよね。
それは、必ずしもTakeoさんにとっても、自己欺瞞には成らないかなと。

でも、もちろん強くそう言うことをおススメするということではありませんよ。
まぁ、いってみれば、「アソビ」ですか?
「スマホ族」はそういうくらいのもんだと思っていますよ。


追伸

それから、私にとって「幻想の世界」と「現実の世界」は、ほとんど拮抗しているモノで、どちらかが「実体」でどちらかが「隠れ家」ということではなく、両立しているモノだと思ているんです。

まぁ、言い換えれば「精神的な世界」と「物質的な世界」と言ってもいいと思いますよ。
だから、当然、両方ないと成り立ちません。

まぁ、敢えて、どちらかを選択するかと聞かれれば「精神的な世界」の方を選択するかもしれませんね。
しかし、これは私にとっては、「肉体の死」を意味しません。
なぜなら、「肉体」がないと「精神」も存在できないわけですから、「精神性」を尊重すれば当然「肉体」を存続させなければならなくなるわけで、それはTakeoさんが言うところの「自己の尊重」とほぼ同じように思っていますよ。

では、また。


◇    ◇


こんばんは、ふたつさん。

ある対象よりも、自分が優位にあると感じる時に、それが「滑稽」に見えるという、批評的・批判的な眼差しを持つことが出来るのではないでしょうか。
「あいつバカだなぁ」といった優越感のようなもの。

わたしはスマホを眺めている者たちを「滑稽」と感じることはできません。
人間には美意識というものがあり、なにかを美しいと感じたり、醜いと思ったり、クサイ、マズい、うるさいと感じることを自分で止(と)めることはできません。
それは昨日書いた西行の歌と同じです。

この身はもはや意識の上では、捨て去ったも同然、無きに等しいと思いながらも、
冬の夜には身体は正直に「寒い」と感じて震え、春になって花がほころべば自然と心が浮き立ってくる。
同様に、美しいものをそうでないと感じることも、醜いという感情を抑え込むこともできません。(「身体」も「感覚」も「感情」も、「理性」の制御の埒外にあります)

ふたつさんは、意識せずに、自然に、スマホ馬鹿たちを「滑稽だ」と思えるのでしょう。わたしが彼ら / 彼女らを同じように眺めるには、意識の変革が必要です。そしてわたしはそのような「作為」を厭います。

わたしにとっては、スマホに溢れる世界=外界は醜い。それがシンプルな、そして唯一の事実であり、現実です。

「空虚」なものに対して無用な意味付けをしてしまうと仰るが、そもそもふたつさんとわたしとでは、外の世界に対する感覚が異なるので、そこに包摂されている意味が違うのは当然のことです。わたしにとっては、スマホ馬鹿が跳梁跋扈するこの世界は、端から「醜悪で俗悪」という強烈な色彩を伴ってわたしと対峙しています。
それはわたしが色づけたものではなく、(わたしという個人の美意識にとって)「予めの意味」として、既にそこにあるのです。

繰り返しますが、「スマホ」を「空虚」だというのは、あくまでもふたつさんの美意識に他なりません。わたしがそのように感じるためには意識の操作が必要になるのです。

「だまし絵」というのがありますね。『ルビンの壺』とか、エッシャーの版画のような。
ある瞬間このように見えていたかと思うと、次の瞬間にはまったく逆に見えている。
けれども残念ながらわたしはスマホ馬鹿をそのように違ったふうに見ることはできません。

世界はわたしのあるようにある。ですから、わたしがわたしである以上、「世界は醜悪である」という意識・感覚から逃れることはできないのでしょう。
無論年齢の変化や様々な契機によって、感じ方が変化する可能性はあります。
しかし今の時点でわたしがスマホを平気になってしまうこと、それを醜悪だと感じなくなるということは、わたしにとって、わたしの美意識にとって、明らかな「堕落」だと感じます。

以前書いたように「美」は、わたしの「信仰」です。
ですから世の中には、どうしても、狎れ合ってはならない物(者)があり、どうしても慣れてはいけない物(事柄・風景)があると思っています。

カミュは「人は幸福になるのに忙しく、自分自身になる閑がない」と言っています。
「わたしがわたしであること」を取るか「幸福になること」を選ぶかは、それぞれの判断に依ります。それは「幸福であること」と「自分が自分であること」とは屡々背馳するからです。とくにこのような国では。
いまわたしたちは「幸福であること」の意味とはどういうものか、再検討する必要があります。それは同時に「不幸」ということについて問い直すことでもあります。
(例えば「殉教者は不幸か?」「志半ばにして斃れた革命家は不幸であるか?」或いは「全ての自殺は不幸(不如意不首尾)に起因するのか?」・・・等)

「わたしはどのように生きるか?」と自らに問うことは、如何にして既存の社会に入り込むかということと同義ではなく、「世界との距離の取り方」を知ることであり、また、自己を(形而上的に殺してしまう)社会から、いかに離脱するかを考えることでもあります。
「今、ここにある社会(世界)」で、まともに生きられる人間は限られています。人間は「この社会」に合わせて、「この社会用」に作られたものではないのだから。



最後に、わたしの内面世界と外の世界という二元論をわたしは採りません。
世界はわたしの内側にあると思っています。
わたしの外側に別の世界、わたしの世界と拮抗対峙するもう一つの世界があるとは考えていないのです。「スマホ」というのもわたしの中にあります、「醜さ」そして「ファシズム」の表象として。

コメントをありがとうございました。

またお話ししましょう。

平和な週末をお過ごしください。










2018年11月22日

断想


「失うものがない者ほど強い者はいない」というようなセリフはなかっただろうか。
しかしそもそも「失うものなど何もない」と言える人間が存在し得るだろうか?

捨て果てて 身は無きものと 思へども
雪の降る日は寒(さぶ)くこそあれ
花の咲く日は浮かれこそすれ (西行)

空腹を感じ、夏の暑さに汗を垂らし、寒さに震え、切れば痛みを感じる「身体」を持ち、美醜、好悪、喜怒の「感情」を持つ存在である以上、生きながらすべてを失うということは不可能だ。

「失うものがない者」とは、生命活動のない者、即ち死者に他ならない。




2018年11月21日

Ballad After Midnight


Cannonball Adderley - Now I Have Everything

キャノンボール・アダレイ「ナウ・アイ・ハブ・エブリシング」




2018年11月20日

もうノアはいらない…


世界中の核兵器と、世界中のスマートフォン、タブレットそしてそれに類するもの、
どちらを完全にこの地球上から消滅させたいですか?と聞かれれば、言下に後者と答えるだろう。

それでも後者を消滅させることが無理なら、せめて前者を使用して欲しいと願う。


Dr. Strangelove, Or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb

スタンリー・キューブリック監督 『博士の異常な愛情、または私は如何にして心配する
のを止めて水爆を愛するようになったか?』(1964年)エンディングシーン 







引きこもりの外出、または親切な人たち


先週あたりから徐々に外に出るようになった。といっても、主に必要に迫られて医者に行く程度だが。

昨日は先ず自転車で20分ほどのヤマダ電機へ。先日の新宿の量販店とは違い、
店内は静かで、広いフロアにもレジカウンターにも、客の姿は見えなかった。
わたしはDVD+R / DVD-Rの違いや、屋外で音楽を聴く装置について店員と30分ほど話した。空いていることもあり、店員は終始丁寧に説明してくれた。
DVD±Rと、スピンドルに入っているディスクを収納するケースを買って外に出た。
酒を買いたいと思い、食材を扱っているような店に入った。第一候補のグランマルニエはおいてなかったが、その次に求めていたコアントローが、有名な(?)酒の安売りの店と同じ価格で買えた。
レジで40代くらいの店員に、「ここはスーパーのようにも見えませんが、お酒安いですね」と話しかけると、この店は主に業者が利用する店で、大量に仕入れていく客が多いんですよと答えてくれた。
コアントローは、以前有楽町駅前の外国人記者クラブのレストラン兼バーでアルバイトをしていた時、たまたまバーカウンターにいたときに、傍でひとりで飲んでいた老紳士に、「香りがいいから、ひとくち飲んでみなさい」と勧められたものだ。
年配の男性がバーのカウンターでひとりで寡黙に飲んでいる佇まいの良さを感じた。

その後いったん家に帰り、休む間もなく、今度は全く反対の方向の眼科に行って検査をした。検眼をし、目の奥の写真を撮る女性のスタッフも、いつものように笑顔で感じがいい。
診察が終わり、会計を済ませ処方箋を受け取る。次は髪を切りに行きつけのカットの店へ。ここも今日はめずらしく空いている。いつもの人を指名してカットを頼む。伸びきった髪がバサバサと床にこぼれていく。「あ、襟足のところ、もう心持ち短く。ココロモチがココロモチじゃなくなっても構いませんから(笑)」などと注文を付けても「ハーイ」といってチャカチャカと鋏を動かしてくれる。
店を出ると雨が降っていて、外はもう暗くなっていた。

量販店の販売員も、プロの食材の店の店員も、眼科のスタッフも、美容師も、誰もが親切に見えた。世の中には、仮にこの日本と言えども、まだ親切な人はいるのかもしれない。
きっとわたしが考えている以上に。
けれども、あちこちいって、店員や医者や美容師と話した疲れのせいではなく、わたしの厭世観は目減りするどころか水位が上昇していた。

わたしに対し親切でないのは、寧ろ攻撃的でさえあるのは、店に売られている見慣れぬ聞き慣れぬ「新製品」。眼科や美容室の待合室でプラスティックの板に釘付けになっている善男善女たち。

静かで空いている店、親切な応対、安い商品・・・それらもわたしにはあまり良薬には成らなかったようだ・・・


恥知らず


11月も末になった。
あと10日で師走、年末、そして年始・・・?
今年クリスマスが来て、正月が来て、またいつものような1年が始まる。
ヴァレンタイン、恵方巻、ホワトデー、ああ!もううんざりだ!
こんなことがいつまで続くのか?

更になおこの世界に生き続けることにいったいどんな意味が、必要が、またたのしみ、よろこびがあるのか?

わたしが友としたモノたちは、わたしが好きだった風景は足早に過ぎ去って往き、最早二度と再び戻ってはこない。生涯に持ったただ一人の親友も、重い病に臥せって最早自分の足で歩くこともできないと聞いたのがすでに3年ほど前だったろうか。

もう何もないのだ。
わたしの見知った、わたしの親しんだ顔はもうどこにも見つけることはできない。
みな往ってしまった。

カセット・ウォークマンも、裸電球も、タオルシーツも、ブラウン管テレビも、ソニービルも、プランタン銀座も、有楽町マリオンも、ホテル・オークラも、松坂屋も・・・そして目を背けたくなる醜悪なものだけが残った。醜悪なわたしとともに。

今、良くなろう、元気に、健康になろうということは、それ自体が自己自身への背徳ではないのか?
いなくなってしまった者(モノ)たちへの裏切りではないのか?
時代の変化と共に小賢しく、小器用に、そして見苦しく乗り換えて行けばいいのか?

友なき後も生きているわたし・・・この恥知らず。滑稽な道化よ!友を見捨てた者よ・・・



2018年11月19日

現代社会に生きる意味


高校時代の友人に、最近のAV機器について訊きたいと思い、随分前に彼とMSNメッセンジャーを使って何時間も話したことを思いだした。
今はもうメッセンジャーはないらしく、彼がチャットルームを探してくれた。

最近はパソコンにカメラがついていることを知らなかった。
先日そのことを初めて知って、わたしは先端の尖ったもので、パソコンのカメラを破壊した。無用であるばかりでなく、不快だからだ。

1対1で、面と向かってなら、どんな美女とでも平気で話すことはできる。
けれどもテレビ電話のようなものでは、相手が家族であろうと、同性の友人であろうと絶対ダメだ。おそらくそれは、同じ空間を共有せずに、何かを話しているカオだけが、それぞれ別々の空間に写っているという不自然さに因るものだろう。



最近やっと少しづつだが、外に出られるようになった。しかしその度に、今の世の中で引きこもりから脱却するとか、生活を立て直すということがどういうことか、わからなくなる。
外に出るたびに、「外界」との違和感、軋轢を強烈に感じる。
人は怖くはない。ただ、人が嫌いだ、人が不快だ・・・いや、厳密には、わたしの考えている(20世紀まで存在していた)「人間」というものと、(21世紀以降の)「現代人」とは、そもそも全く異質の存在と言った方がいいのだろう。

古い型の人間であるわたしには、嘗て遭遇したことのない社会・世界に生きる意味というものが、外界=「いま・現在」と接触を持つほどにわからなくなってくる。
引きこもっていても何もない。けれども、自由に外に出られるようになったからといって、いま、外の世界に何があるというのか?

ヴァージニア・リー・バートンの『ちいさなお家』を読みながら、深い絶望の溜息をついている古い人間が、今、世界にどれほどいるのだろうとふと思う。






2018年11月18日

「ふたつ」さんのコメントに託したひとり語り


以下は一昨日のわたしの投稿に、はじめてコメントをくださった「ふたつ」さんとのやりとりを元に、最新の彼のコメントへの返信の形を借りてのひとりがたりです。

先ずどのようなやりとりが行われていたのか、ここに引き写します。
(最初の「ふたつ」-「Takeo」「Takeo」-「ふたつ」の4つのコメントは省略します。上記リンクを参照してください)

その後に続く「ふたつ」さんへのわたしの返信から。


こんばんは、ふたりさん。

さて、早速いくつかのオールド・ファッションド・ブルースをおしえてくださってありがとうございます。
わたしにとっての音楽って、基本的にはBGMなんです。音楽と正面から対峙して、という聴き方はほとんどありません。
例えば、モダン・ジャズを聴きながら、ブログに貼る写真を探すと、どうしてもニューヨーク、モノクロ、50年代、という感じで、逆にバッハやヴィヴァルディを聴いていると、ドイツロマン派とか、或いは大自然を描いた、主にドイツやオーストリアの風景画を探してみたくなります。
じゃあどんな音楽にもそれにふさわしい視覚的なイメージがあるかというとそうでもないようです。(その辺りは全く曖昧ですが)ただ、やはりわたしは視覚的イメージと音楽との組み合わせが好き、というか、それを求めます。
教えていただいた戦前のブルースに合うイメージってなんだろうって考えました。
『ゴーストワールド』のイーニドは何故あの歌に心惹かれたんだろうと。
ただ、高校卒業したばかりのティーンが、戦前のブルースに惹かれるってところが気に入っています。「文化」が連綿と引き継がれていくところや、彼女個人の感性に惹かれます。

ソウル・シンガーで私が好きなのは、そう、確かにカーティス・メイフィールドも好きです。
ジェリー・バトラーと一緒にやっていた頃から、彼の独特のメロディーはすぐわかりますね。
OVライト、いいですねえ。わたしはスタックスよりもHIレーベルのアーティストが好きかもしれません。オーティス・クレイとか、ドン・ブライアントとか、キャンディー・ステイトン。わーなつかしいなあ。白人の太った女性ですよね。女性なら、アーマ・トーマスなんかもいいですね(カーラだったかな?)、ミリー・ジャクソンとか。
あとはソロモン・バーク、ジェームス・カーと言った濃いいところから、チャック・ジャクソン、アーサー・アレキサンダーなど、ポップな感じ。リトル・ウィリー・ジョンのバラード、もちろんサム・クック・・・こちらもキリがありません。

ゴスペルもたまに聴きますよ。基本的にコーラスが好きなんです。
インク・スポッツ、ミルス・ブラザース、デルタ・リズム・ボーイズとか。

ドク・ワトソンとか、エリザベス・コットンという人達はどういうジャンルなんでしょうね。

でもやっぱりブラックミュージックで一番好きなのはDoo-Wopですね。



絵は観るだけです。それこそ嫌いな絵ってほとんどありませんが、特に好きなのはドイツロマン派、ラファエル前派、ヴィクトリア朝の絵画、主に19世紀ヨーロッパ絵画が好きですが、印象派にはそれほど惹かれません。それならドイツ表現主義の面々の方が好きですね。
基本的に陰気ですから(苦笑)
夜の絵が好きです。

抽象画はほんとうにそれぞれですね。フランツ・クラインやサイ・トゥオンブリー(?)なんてどこがアートだ!と思いますが、右側に彼の絵を貼っていますし(笑)
アナーキーな感じはいいと思います(笑)



わたしのブログ、好きとか嫌いとか以前にそもそも読者が存在することが驚きです。
ただ世の中が気に入らないとひたすら愚痴っているだけですから。
だから「他人が読んで共感できる」ブログをかける人が羨ましいですね。

ふたりさんのブログ、検索で辿りつきました。
わたしが言うのも変ですが、確かにとっつきにくいタイトルが並んでいますね。
一見芸術に関するブログかと思いますがそうではないようです。
お気に入りに入れて、少しづつ読ませていただきます。

しかし今回ふたりさんからコメントを頂いて、改めて、古くからの(他のサイトで知り合った縁以外の人が)純粋にこのブログだけを見つけ、且いくつかでも投稿を読んでいる。ということの不思議さを改めて実感しました。

「うれしい」というよりも、「え!なんで!?」という感じです。
ただ、こういうイレギュラーはあっても、「知り合い」以外で、継続して読んでいる人はいないはずです。

ブログ、拝見します。

また気が向いたら、お立ち寄りください。

では平穏な週末を。


● つづいて最新の「ふたつ」さんのコメントです。

ふたつ 2018年11月17日 17:03

Takeoさんこんにちわ。
キャンディ・ステイトンは黒人の女性シンガーで、そんなに太ってませんよ。サザンソウルの女性シンガーとしては私の一押しです!!
それからアーマ・トーマスとカーラ・トーマスは別人で、アーマはディープなタイプで、カーラの方はカワイイ系です。
それから、私は「ふたり」ではなくて、一人ですが「ふたつ」です。

音楽=BGMということですから、そこの所は私とは正反対の感じです。私の場合はブルースやソウルやゴスペルなどを聞いていると意識がそっちの方に乗っ取られてしまうようなところがあって、とても他のことに集中できないですね。
昔、まだカセット・テープだったウォークマンを聞きながら歩いていて何度か電車を乗り過ごしたり、事故に遭いそうになって、使うのをやめたことがありました。

ちなみに、私も携帯電話を使ったことが無いんですが、スマホをいじっている人を見ると、いったい何が彼らをそこまで惹きつけるのか?という疑問がわてきますね。
あと、この数年来(地上デジタル化してから)テレビも持ってませんが、いまだに見たいと思わないのが何とも不思議な気がしていますよ。
NHKの集金が来たときに追い返すのが小さな快感だったりします。
クルマも乗りません。
というか免許を持ってません。
というか、教習所を途中でやめたことが二回ありますね。

絵の方で、私のおススメは「ザオ・ウーキー」という中国出身のフランスで活躍した人ですね。日本人では池田龍雄(漢字が間違ってるかも?)と言う人も好きですよ。

私のブログは、知り合いには一切教えていないので、読んでる人が居るのかどうかさえも見当がつきませんね。
でも、Takeoさんに取っ付きにくいと言われれば、かなり「ホンモノ」なんじゃないかな?と思いましたよ。
なにが「ホンモノ」なのかわかりませんけど、私はTakeoさんと違って(なのかな?)、読む人を喜ばせたいという気持ちもそれなりに有るんですけどね。
それでも、誰からも相手にしてもらえないわけですが、それでもめげずにやっている自分に、やや感動してしまうんですねぇ。
つまり、私のブログの継続的な読者は私自身です。
私は、自分のブログが大好きなんで、たぶんそこがTakeoさんとの違いなのかも知れませんが、実は、Takeoさんもご自分のブログがけっこう好きだったりするのかも知れませんよ。

それでは、また。


◇    ◇


こんばんは、ふたつさん。先ずお名前を「ふたり」さんと間違えて書いていたことをお詫びします。わたしは人の名前を覚えるのがとても苦手なんです。先日精神病院のデイケアに行ったときに、2回の体験参加の際の講師(スタッフ)に、それぞれお礼を言おうとした時、最初の講師の方はもちろん、その当日に、プログラムが始まる前に自己紹介されたスタッフの名前すら憶えていなくて。帰り際のあいさつの際に、二人に改めてお名前を伺いました。そして今、そのお二方の名前をすっかり忘れています。
ま、言い訳はともかく、「ふたつ」さんに対して、「ふたりさん」を連発したこと、改めてすみませんでした。

キャンディ・ステイトンって太った白人のブルース・シンガーじゃなかったですか。
じゃああれは誰だったんだろう?わたし「彼女」のCDを2枚ほど持っています。
多分ふたつさんのお好きなキャンディ・ステイトンって、わたしの知らない人です。

アーマ・トーマスとカーラ・トーマスもごっちゃになっています。どっちがルーファス・トーマスの娘だったかも忘れてしまったし、ストーンズがヒットさせた「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」がどっちの歌だったかも。
こんな時、普通の人はその辺りを「ケンサク」して確認するのでしょうが、わたしはズボラでものぐさなので、そういうことはしません。
正しく知ってどうする?という気持ちもあります。なにかの時に思い出すこともあるでしょうし、それらが曖昧なままでも一向不便を感じないのです。
例えばわたしとふたつさんがおしゃべりをしていて、こういう話題になった、そしてふたつさんもわたしのようにあまり正確な知識がない。確信がない。そんな時にどちらかが「スマホ」を取り出して、「カーラ・トーマス」なり「アーマ・トーマス」、或いは「キャンディ・ステイトン」という文字を検索ボックスに入れて調べれば「正しい答え」がわかるのでしょう。でもそれを知ってどうなりますか?繰り返します。「それを知ってどうなりますか?」
できればわたしはスマホや「ケンサク」と無縁な人と話したいのです。わからないところはわからないまま、曖昧なところは曖昧なままにしておける人と。


音楽を聴いていると、そちらに意識が集中してしまうというのは、なんだか羨ましい気がします。音楽はBGMと言いましたが、広い意味での生活の、日々のバックグラウンドミュージックです。東京ではしじまを聴くということが、一部の時間帯、一部の場所に限定されていて、我々の耳は、生体は、一日中ノイズに晒されています。ですからせめて、わたしにとって心地好い音楽を聴くことで、この喧噪の中を生き延びていられるのです。
わたしは今カセット / CDウォークマンに代わる屋外での音楽再生装置を探しています。
完全な無音状態になるノンズキャンセラーってありませんからね。

スマホ現象は全く理解できません。いったい何がほとんどすべての人間を惹きつけて放さないのか?そして、この現象を奇怪だと感じる人がおそらく世界中でわたしひとりだということも(苦笑)。もう今の世の中には「天邪鬼」っていなくなってしまったようです。

TVはわたしも観ません。視る価値のある番組が存在するとは思えないし、仮に稀にそんなものがあったとしても・・・う~ん、今のわたしにとっては、TVもスマホも大差ないんでしょうね。

わたしのスマホ嫌いは何度も言うように、全体主義への嫌悪です。
今日、クリニックに行く途中で、黒いスーツを着た20代くらいの若者が4~5人、集まって話していました。多分就職活動中なのでしょう。
あの姿を見ても虫唾が走ります。どうして頭の先からつま先まで、ああまで皆そっくりなのか。ああいう「なり」をしなければ仕事に就けないというのなら、それで結構。こっちからお断りします。どうしても食えなきゃ餓死するまでです。
少なくとも、何故皆同じスタイルでなければならないのか、合理的に納得のいく「根拠」が聞きたいですね。「そういうのは理屈じゃないんだ」ということは「不合理」であるということです。「不合理」をどう納得せよというのでしょう。

クルマはね、わたしも免許を持っていませんが、免許は取っておけばよかったと思います。ただわたしは極端に物覚えが悪いので、交通法規がどうしても覚えられないんです。
若き日、免許の本(?)を見て、覚えなければならないことの多さに圧倒されて断念しました。(苦笑)
運動神経もリズム感もいい方ですが、野球とか陸上競技など個人でやるものに限られます。
チーム(集団)でやるスポーツは全然ダメです。人との連携プレイというものがまるで出来ないのです。


わたしはそもそも「知り合い」というものがほとんどいませんので、(ブログの存在を)教える人もいません。
わたしも、読んでいる人がいると仮定して、「読者を愉しませたい」という気持ちはあります。しかし残念ながら、わたしと、多くの人たちとでは、おもしろいと感じる対象がずいぶんと異なるようです。またわたしはオタクでもマニアでもコレクターでもないし、何かについて深い造詣があるというわけでもない。ですから結局誰も愉しませるには至りません。

「ふたつ」さんは書くのが好きなんだろうなと感じます。わたしなどよりもブログで自己完結できるのだろうなと。
わたしが自分のブログを好きか?それは敢えて問わないでおきます。
ただ、読者がいなくても書いているわけですから、書くこと、つまり考えることが好きなんだと思います。

最後に、お好きな画家で、「日本人では池田龍雄(漢字が間違ってるかも?)」と書かれていましたね。わたしは基本的に存命の芸術家というものに関心がないのです。それは多分「現在」というものが好きではないからだと思います。そして古い人たちが好きなのは、「現在」と距離を保っているからではないか、と思っています。
「字が間違っているかも?」と書かれているということは、「正しい名前をケンサクで確認しなかった」ということですね。字が違っていたら、なにか不都合がありますか?少なくともわたしとあなたとの会話で。

あなたを「ふたり」と呼んだ不都合は、重ねて謝ります(苦笑)

ではまた。よい日曜日を。


=追記=

「実は、Takeoさんもご自分のブログがけっこう好きだったりするのかも知れませんよ。」
これを
「実は、Takeoさんもご自分がけっこう好きだったりするのかも知れませんよ。」に置き換えてみます。

あまりにも自分の感受性に忠実であるがために「社会」からはじき出されるキャラクターを描いた二本の映画を紹介します。一本は例の『ゴースト・ワールド』。彼女、イーニドは何処へいっても=社会へ出ても、イーニドであり過ぎました。
もう一本は実話に基づいた作品『リチャード・ニクソン暗殺を企てた男』あまりに自分の気持ちに誠実であり正直であり過ぎたため、何もかも失った男のストーリーです。
共にわたしの好きな映画です。

ふたりは決して社会を舐めているわけではありません。ただ、それ以上に自分自身に忠実であろうとした。いや、無意識にそのように生きていた。そのようにしか生きられなかった。
そのような意味で、嘗てわたしが「自己愛性人格障害」と診断されたのも、あながち見当違いではないのかもしれませんね、と、今日、主治医と話したのでした。




















2018年11月16日


月に叢雲 花に風 明るすぎますおいらには・・・はてさて暴力とは? 攻撃性とは?








Blues


John Mayall & The Bluesbreakers - The Mists Of Time






「暴力」と「攻撃性」について追記


東京という街は殴る蹴る刺す等の暴力は、例えばアメリカの大都市などに比べて少ないかもしれないが、ここは暴力的で攻撃性に溢れた都市だ。
先日書いたように、氾濫するLEDの照明、コンビニの照明、駅の照明、屋内屋外至る所に溢れる騒音・・・これらの音、色彩、光、匂いは紛れもなくわたしに向けられた「暴力」なのだ。




「暴力」と「暴力性」(乃至「攻撃性」)について


ここから自転車で10分ほどの精神科単科の病院、即ち「精神病院」の2回のデイケア体験が終わった。出来れば継続して参加したいと思う。
今後は主治医の紹介状を持参し、病院側から主治医へいくつかの質問、そしてデイケアに受け容れるかどうかの「審査」がある。
「選別される」ことが極端に苦手なわたしは既に悲観的だ。
今は作業所に通っている高校時代の友人は、「デイケアは基本的に粗暴で暴力的な人以外は受け容れるはずだから心配ないと思うよ」と言ってくれるが、懸念は払拭されない。
その大きな理由は、「暴力を振るわない」ことと「暴力的でないこと」とは同じではないからだ。
現に1回目のプログラムの時に、30代くらいの男性から、「あなたの物腰、声の大きさに威圧感を感じる」と言われている。その言外にあるのが、「ある種の粗暴さ」と同じ意味であっても、わたしは反論することはできないし、その言い分は間違っていないと思う。

わたしが暴力的ではないと誰が言えよう。声=音の大きさが一種の暴力性を持つことであり、それを苦痛に感じる人がいるということは、わたし自身よくわかっていることではないか。単に音の大きさだけではない。スマホ中毒者たちの姿を目にすることで、わたしは精神的なダメージを蒙っている。疲弊させられている。わたしにとっては、彼らの存在自体が「暴力そのもの」なのだ。
であるなら、わたしの存在に暴力性を感じる者がいたとしても、それを「理不尽」だと抗議することはできない筈だ。

主治医の言う、「堂々とした態度と明快な自己主張」精神障害者家族会の会長の言う「話し方の迫力」── 健常者であるスタッフにはわからなくても、わたしを疎ましく思う利用者は少なくないだろうと想像される。
なにしろわたしは「型通りの精神障害者」ではなく、型破りの(不良品の)障害者だから(苦笑)
そういう点をも見越して、先に家族会の会長は、(デイケア)に受け容れられないということも充分考えられると言ったのだろう。

誰かより少し健康であるということは、誰かより少し暴力性を帯びているということ。
誰かより少し健常であるということは、誰かより少し鈍感であるということ。

一見全くの健常者のようであるが故に障害者から受け入れられず、
障害者であるという事実から健常者とも反りが合わない。

如何なる型にも嵌らない。いかにもわたしらしい。









2018年11月15日

人は如何にしてトラヴィスになるのか?


約1年ぶりに、新宿歌舞伎町のTSUTAYAにビデオを借りに行ってきた。
もちろん割引クーポンを提示する「携帯用端末」はない。パソコンに送られてきたクーポンメールを近所のコンビニでプリントアウトする。1枚20円。

厭世観、厭離穢土の思いは、いや増して強まってゆく。

どうしても、スマホ馬鹿たちと反りが合わない。奴らを見ていると「殺意」すら湧いてくる。
いったい彼らは駅で、電車内で、何を見ているのだろうという疑問を消すことができない。

何が厭と言って、皆がみな揃って同じ事をしているのを見るほど嘔気を催すものはない。
何故「例外」というものが(ほとんど)いないのだろう?
そして、こういう光景を心底不気味だと感じる者が皆無と言っていいのは何故だろう?
誇張ではなく、ホームで、車内で、アホ面をしてスマホを眺めている奴らを見ていると、身体の髄から暴力的な衝動が湧き上がってくる。
何故か?わたしはアンチ・ファシストだから。知的障害者ではない、正真正銘掛け値ナシのバカが大嫌いだから。

再度繰り返すが、ファシズム=全体主義とは例外のいない(いてもごく僅か)ことであり、ひとつのメインストリーム、主流をなす文化の在り方に異を唱える者が限りなくゼロに近いことだ。

人がみな
同じ方向に歩いてゆく
それを横目で見ているこころ (啄木)



わたしは騒音に敏感だが、特別に過敏な訳でも、ましてや繊細過ぎるというようなことはない。
新宿の量販店の店内、店頭のやかましさに平気でいられるという方がおかしいのだ。

わたしはどこかで、何らかの事情で外に出られない人を、平気で「新宿ビックロ」で買い物ができる人よりも「マトモ」だと思っている。
さらにそれを推し進め、極端な言い方をするなら、現代社会で、心を病んでいない方がおかしいとさえ思っている。だからわたしは、どこかで、病んだ人たちに対して、Stay! Just a little bit longer... 「もう少しそのままで」という気持ちがある。
けれども彼らは現実に苦しんでいる。
「あなたたちは一般の鈍感な人たちよりも高貴な、上位の存在なのだから、そのままでいてください」とは言えない。どうかそのまま苦しみ続けてくださいと誰が言えよう・・・

「人生生きるに価するか?」という昔ながらの抽象的な哲学的命題に対しては、「価すると思う人には価するし、そう思わない人には生きるに価しないもの」としか答えることができない。
けれども、個人的には、具体的で特定し得る場所、即ち現代の日本、特に東京は、生きるに価するどころではないとすら感じている。
そんな中で、この都市で心を病んだ人たちが、少しでも「良くなること」「苦しみが軽減されること」を願う。そこに大きなジレンマとアイロニーが存在する。
何故なら、誰もが笑顔でハッピーな世の中、そんな世界を思い描いただけでもゾッとするからだ。わたしはとてもそんな世界に生きることは出来ない。悩みもなく、悲しみもなく、血の滴る傷口もなく、深い嘆息もこぼれる涙もない世界が、わたしの口癖である「厭離穢土」に続く「欣求浄土」であるというなら、そこは決してわたしの浄土ではない。というより、わたしはこの穢土を厭い、そこから立ち去りたいとは思っているが、「浄土」など求めてはいない。



わたしは歩きながらスマホを眺めているおバカさんに足を引っかけて、その手に持っているモノもろとも地面に叩き付けたい衝動にいつもかられる。そしてホームレスとすれ違えば、自然と会釈をしてしまう。なんでそのような野蛮なことを考えるのかと訊かれて、わたしが言えるのは、「どうしても前者を「人間」乃至「生命活動・感情を伴った内面を持った動物」であると感じられないから」

外界の呪わしい騒音は何とか工夫して防ぐことはできても、目隠しをして外に出ることはできない。プリーモ・レーヴィの言った文脈からは全く離れて、「人間であることの恥」ということをつくづくと感じる。

わたしがある種神格化し、偶像化してる人たち。彼らはみなわたしの理想である人間像=力弱き存在から一日も早く抜け出したいと願い日々格闘している。彼らをそのようにあらしめている何かと。

繰り返し問う。

現代日本に於いて、「平気でいられること」「外に出られること」「健康であること」「仕事ができること」そして「幸福であること」とは、果たしてどういうことか?


"We don't even ask happiness, just a little less pain" 
- Charles Bukowski.

「幸福をと願っているのではない。ただ、苦しみを減らして欲しいだけなのだ」
ーチャールズ・ブコウスキー


わたしは「彼らの幸福」を願わない。願うことはできない。ただ、彼らに日々の安息をと願うだけだ。



 


2018年11月13日

後悔、その他…


わたしを取り巻く世界が眩めくような速さで変化(悪化)している一方で、変わらないものもちゃんと残っている。
引きこもっている人や、こころを病んでいる人たちが、「普通に会社に就職して、普通に結婚して、子供を持って、両親に孫を抱かせる」ことができなかったことが残念だと口にするのをしばしば聞く。そんなつぶやきに接するたびに、今更ながら、変わらないものは変わらないんだなぁとつくづくと感じる。苦笑交じりに。

わたしは若い頃から結婚を考えたことが無い。そもそも結婚なんかしたいと思ったこともない。
ましてやこのわたしが自分の子供を持つなんて到底想像もつかない。
それは女性にモテるとかモテないの問題ではなく、結婚とか、子供を持つとか、孫を親に抱かせることにいったい何の意味があるのかわからなかったからだ。そしてもし誰かが、そういう「理屈」以前に、これは生物としての人間の当然の営みであり欲求であるとか、ましてやそれが社会貢献だなどと考えているとしたら、そういう「古風」で「旧弊」な考え方には到底納得も同意もできない。

だからわたしは結婚しなかったことも、子供を持たなかったこと、孫を親に抱かせられなかったことも少しも後悔してはいない。

人生に後悔があるとすれば、恋愛というものをしてみたかったことと、仕事をすることの愉しさというものを味わってみたかったということくらいか。
そして恋愛以上に、友だちに恵まれたかった。無論友に恵まれなかったのは、他でもない、わたし自身に人を惹きつける魅力がなかったということに他ならないのだが。



12月、『月』の出版に合わせて、新宿紀伊国屋ホールで行われる辺見庸の講演会に行くのを躊躇っている。行って、講演後に質疑応答があれば、わたしは必ず手を挙げて、発言の機会が与えられれば、「何故、実際に起こった障害者の殺害事件に想を得て書かれた本の出版に際しての講演会場で、サイン本即売会が行われるのか?」と作者を詰問せずにはいられないからだ。

嘗ていろんな講演会に行って、著名な講師に異論を述べなかったことは一度もない。
多くの聴衆=ファン、愛読者、信奉者と一緒になって、ありがたくご高説を拝聴するつもりなどさらさらないのだ。わたしはいつも刺客であった。
しかし今回はなんとなく、そんなことはもうどうでもいいという感じなのだ。
辺見が浮かれようがちゃらけようがどうでもいい。所詮は我々とは別世界に住む名のある作家ではないか。
久し振りに彼のブログを覗いた。つい先日、うじゃじゃけたことを書いていてうんざりしていたところだ。

パウル・ツェランの詩の一節が記されていた。

かれらは世界にはなればなれに立っている
それぞれがそれぞれの夜のもとに
それぞれがそれぞれの死のもとに

・・・まだ、考えている・・・









2018年11月12日

狂的独言


● わたしはあまりに永く生きすぎたようだ。40代の後半、当時のSNSの友達に、
50歳になったら自殺すると言っていて、まだのめのめと生き永らえている。
その間にそのSNSの仲間が4人死んだ。イタリアの男性(50代)と女性(30代)、スペインの女性(40代)、アメリカの女性(40代)・・・みなやさしいいい人たちばかりだった。
55歳、永く生きすぎじゃないか・・・


● 今80歳で重い持病を持つ母といのちを共にすることは、決して変わることのない気持ちだ。仮に母亡き後に数億の財産があったとしても、わたしの気持ちは何も変わらない。
この世に生まれてきて、唯一わたしに親切にしてくれた人、その存在なくしてはただの一日も生きることはできない。
つまりもうあまり長く生きなくてもいいということだ。


● 心を病んだ人たちのブログを読むと、わたしなどよりも遥かに重い症状に苦しみながら、何らかの形で「社会復帰」を成し遂げたいと考えている人が多いことに驚く。
35歳の時、つまり20年前に社会から完全にリタイアして以降、わたしは社会への復帰ということを一度も考えたことがない。母も、その間関わった何人かの精神科医も、現在の主治医も、一言も「社会復帰」などと口にしたこともない。決して「やさしい」とは言えない生活保護担当のケースワーカーでさえ、「作業所?はは、あんたのような根気のない人に単純作業が勤まるわけがないでしょう」と一笑に附した。
わたしに勤まる仕事はないと皆わかってくれていることは助かっている。


● もう本を読めなくなって何カ月にもなるし、観たい映画=ビデオを借りることもままならなくなった。わたしを取り巻く世界はわたしの意思に関わりなく日毎に収縮してゆく。
わたしが外に出たくても、出させない。
昔のように簡単にはビデオ(DVD)を廉価では借りさせない。


● 最近フォローしたブログの筆者の文才に嫉妬する。
彼の読者が口々に言うように、何故彼はものを書く仕事を探さないのだろう?
何度も書いているように、過去に小規模ながら「出版社」に籍を置いて、三度が三度とも「キミはモノを書く仕事には向いていない」と、僅か数カ月で馘になった経験のあるわたしのような者には、彼の巧まざる文才が妬ましい。というよりも、何か一つでも秀でた才を持つ者が、Good For Nothing =いいとこナシのわたしには、単純に羨ましいのだ。
まぁだからこそ、辛い勤めをしなくてすんでいるのだが・・・
「塞翁が馬」。極端に劣っているということも、まんざら悪いことばかりではないということか・・・

孤独中年男の細々生活記


すべて過ぎたこと(或いは「未開の国」にて)


なにをしたいのかわからない。
なにができるのかわからない。

数日前、今年初めて電車に乗って隣の駅に行き、駅から歩いて10分圏内のクリニックに行って帰ってきた。それだけで、わかった気がする。
わたしの時代はとうに終わっていたのだ、と。


新宿TSUTAYAで、今週水曜日まで旧作・準新作レンタルオール100円というメールが届いた。
けれども、わたしは「割引クーポン」を提示できない。携帯用端末とやらを持っていないからだ。
昔、つまりせいぜい5年ほど前までは、どこのTSUTAYAでも不定期に、月に一回くらいの割合で、「クーポン無しでもレンタル100円(半額)」などとやっていた。

こんな都会で生きている自分が馬鹿に思えて仕方がないが、他に行くところもない。
「こんなところは人間の生きる場所ではない」等とは言わない。わたしの考える「人間」と、わたし以外のほとんどがイメージする「現代人」というものが、そもそもまったく異質のものなのだから。



ある人がブログに書いていた。LEDの光が攻撃的に感じられる。コンビニの照明も・・・
うちではLED電球はひとつも使っていない。名もないメーカーの白熱球を使っている。
東京都では、これまでの電球とLEDを無料で交換しているらしいが、わたしは、昔ながらの電球をくれるなら、LED分のお金を払ってもいいと思っている。
(「白熱球」いわゆる「裸電球」と呼ばれていたものは、単なる光源ではなく、ひとつの「文化財」だと思っている。文化とは即ち「様式美」である。電灯の明りではなく、キャンドルの灯の下で食事をするような。「文化」とは「美」への拘り方である。故に「美意識」のないところ(例えば日本 / 東京)に「文化」は存在しない。)
── 電球1つの寿命が2年だとして、1か所に3個もあればわたしの生きている間は間に合うだろう。

LEDが、コンビニの照明が攻撃的に感じられるという意見に対して、今更同感ですもヘチマもない。あれが攻撃的でなくてなにが攻撃的だというのか?
(人体に優しいデジタルなんてものがあるとでもいうのか。そもそも「プラスティック」という物からして生体(生態系・地球)に攻撃的ではないのか。先日薬局でもらった薬の袋が、これまでの紙の袋から、ジッパー付きのポリ袋に替わっていた。帰って母に見せると、「プラごみを減らそうという時代に逆行してるね」と。まったく同感だ。以後その薬局は利用すまいと決めた)



国立に行く時に切符を買った。券売機の、(切符とお釣りの)「お取り忘れにご注意くださいお取り忘れにご注意くださいお取り忘れに・・・」という音声を1年ぶりに耳にして、既にもうその時点で疲れていたのだ。
昼間だというのに、ホームには、これも「相変わらず」照明が点いている。それも昔の蛍光灯ではない。
いつも感心するのは、国立という駅では日中はホームの照明を点けていない。JRでこういう駅をわたしは他に知らない。昼には電気を点けない。こんな当たり前すぎるくらい当たり前のことが、とても意識の高い見識のある駅のように思わせるほど、東京というところは粗野で野蛮な場所なのだ。

スマホとLEDが跋扈する世界にまだ居続ける自分をつくづく馬鹿だと思う。好きで苦しんでいるのだと。
先の短いことが救いだと思う。

ビートルズに'When I'm 64'という歌があるが、わたしに64(歳)はない。

サイモン・アンド・ガーファンクルの「旧友」Old Friends という歌には、

Can you imagine us years from today,
Sharing a parkbench quietly
How terribly strange to be seventy.

今日から何年も後のぼくたちを想像できるかい?
公園のベンチに一緒に黙って座っている。
ぼくたちが70歳になるなんて、なんて奇妙な感じだろう・・・

もちろんわたしに「70歳」という年齢は存在しない・・・してはいけない、したくもない、させてもいけない。


2018年11月11日

ボギー俺も男・・・だ?


最近は絵よりも写真の投稿が多くなった。古いモノクロ写真も大好きだけど、同時期(50~70年代)のカラー写真の味も捨てがたい。

わたしが「フィルム・ノアール」好きだと言ったら驚くだろうか?
「ノアール」=黒、闇、夜、影・・・日蔭者を自称するわたしがそれを好きでも不思議じゃないだろう?
しかし、「フィルム・ノアール」に付き物なのは、「酒」「シガー」「女」「銃」「ヴァイオレンス」「破滅」つまり「ハードボイルド」・・・
非モテの引きこもりにはおよそ縁遠いものばかり(笑)

何でこういうスタイルに惹かれるんだろう?
わからないけど、とにかく「スタイルのあるもの」に惹かれる。
「ポリシー」を持ち、自分の「テイスト」「スタイル」を持っている人たちに興味をそそられる。
もちろんあくまでそれは、わたし好みの「テイスト」であり「スタイル」「ポリシー」であることは言うまでもないことだけど。

ところで、今日コメントをくれたYさん。「わたしに長所なんかない」という言葉に、
「ありのままの自分を表現する姿勢。 これが最大の長所」だと。
なるほどと納得。

レイモンド・チャンドラーに
" There is no bad whiskey. There are only some whiskys that aint as good as others. "

「悪いウィスキーってのはないんだ。ただ、他のウィスキーと同じほどいいのじゃないのがたまにあるってだけさ」
なんて言葉がある。

わたしはこれを、"That aren't as same as others" 「他と同じじゃないのがたまにあるってことさ」と言い換えたい。

◇   ◇


「俺たちはみんな壊れている。だから光が差し込んでくるんだ」
ー アーネスト・ヘミングウェイ


ーPeople Are The Worstー
「人間!最悪だ!」外出時にはこのキャップを。


“I hope to arrive to my death, late, in love, and a little drunk.” 
       ー Atticus.

「願わくば、我が死、恋と、少しの酩酊の後に訪れんことを。」
ー ヘロデス・アッティクス(古代ギリシャのソフィスト)


New York City - 1940's, Weegee (Arthur Fellig) 

ニューヨーク、撮影、ウィージー(1940年代)


New York, 1952, Ernst Haas.

ニューヨークの黄昏時、エルンスト・ハース(1952年)

“I drank to drown my sorrows, but the damned things learned how to swim.”
― Frida Kahlo

悲しみを溺れさせるために飲むんだけど、あいつら、泳ぎ方を覚えちゃてさ」
ーフリーダ・カーロ



Chet Baker - Almost Blue

チェット・ベイカー「オールモスト・ブルー」





 










2018年11月10日

唯一つ



たったひとつ、わたしが胸を張って言えること。それは

「誰もわたしを愛することはできない(わたし自身をも含めて…)」







外の世界


「事実というものはない。ただ、解釈があるだけだ」

というニーチェの言葉をもじっていうなら、

「世界」というものはない。ただ、世界観があるだけだ」

わたしが見、わたしが感じている世界以外に世界は存在しない。無論わたしにとっては。

" We Don't See The World As It Is, We See It As We Are "
ー Anaïs Nin.

「わたしたちは「世の中」をありのままに見てはいない。ただ世界をわたしたちのあるがままに見ているだけ」
ー アナイス・ニン

無論これは [See]「見る」を、[Hear]「聞く」、[Smell]「嗅ぐ」、[Taste]「味わう」、[Touch]「触れる」に置き換えることもできる。つまりわたしたちは、その五感+α(第六感)で「世界」と繋がっている。世界に触れることは、即ち「自己」に触れることに他ならない。言い換えれば、わたしたちは、決して「わたし」の外側に出てゆくことはできない。

L.フォイエルバッハの『キリスト教の本質』にとても興味深いことが書かれている。
「太陽系内の星の数だけの太陽がある」と。何故なら、火星にとっての太陽、地球にとっての太陽、そして海王星にとっての太陽は、全く「物理的に」別のものであるから。
「太陽は一つではない」という「発見」は非常に大きな衝撃であった。








2018年11月9日

現実


「生きている価値がない」とかあるとか、そんなことどうでもいいし、誰もそんなこと知っちゃいない。思いたいように思うがいいさ。
道端の草や土を喰って、人に迷惑をかけさえしなければ、人の目に入りさえしなければ、お前さんが生きていようが死んでいようがわれわれには全く関係はないんだ。

洞穴の中で「生きる価値がない」と100万遍唱えようと勝手だが、自殺だけはよしてくれよな、現実に迷惑がかかるんだからさ・・・塵ひとつ残さず跡形もなく消えてくれるなら話は別だがね・・・



信仰


「わたしには生きている価値はない」「わたしは無価値だ」「いや無価値どころか有害ですらある存在だ」

── どんなに名高い精神科医や臨床心理士がそれを否定しようと試みても、上に書いたことは既にわたしの「信仰」でさえある。

故に何人もこれを否定することはできない。

「不合理故に我信ず」但しわたしの自己否定は決して「不合理」ではないが・・・


ー追記ー

「わたしの自己否定は」ではなく、「わたしの存在は」何よりもわたし自身にとって有害である、という考え方は成り立つだろうか。











世界との軋み…


●「心身ともに健康」なんて、取るところがないばかりか、有害ですらあるのではないかと思う。「健康(健全)であることの避けようのない暴力性(鈍感さ)」はもちろん、世界には病むことによって見えてくること(病むことによってしか見えてこないもの)が幾らもある。
先日家族会の会長と話したときに、主治医は親切だが、どうも今のように話がスムーズに通じている感じ、意思の疎通が成立しているという実感があまりないと言うと、彼は言下に、「だって、先生病気になったことないもの」

医師またはあらゆる医療関係者には、その第一の資格(或いは資質?)として、持病があることー自身別の医師にかかっていること、嘗て篤く病んだことがあること、家族に病人や障害者がいること、等を挙げたいと思う。

とはいえ、「俺も昔は散々苦労してきたから、少しは人の痛みもわかるようになった」という言葉をわたしは信用しない。それはある程度事実ではあろうけれど、少なくとも、そのように公言する人を信用することができないのだ。


●「引きこもり」の人のブログを読んでいると、「人がこわい」「人中が怖い」「人と接することがこわい」という訴えをよく目にする。だからなかなか外に出ることができないのだと。けれども彼らの口から「世界の醜さ」についての嘆きを聞いたことが無い。
わたしは別に人が怖いとは思わない。わたしが外に出られないのは、ひとえにこの世界=人間社会の醜さ、言い換えれば極端な審美眼の欠如に他ならない。
仮にSFのように、今この町からすべての人が忽然と消え去っても、やはり町は醜さを保ち続けている。それでも「スマホ」を持った人たちが消滅してくれるだけでも、随分せいせいするだろうが。


●「わたしが理想とする世界とは、すべての人が苦行者のように、重い憂愁と忍苦の表情を浮かべている世界である」と、かつて詩人石原吉郎は書いた。
『一九五六年から一九五八年までのノート』より

今日、隣駅の国立まで行って、クリニックの待合室で1時間ほど待って、診察を受け、
また電車に乗って帰ってくるまでに見た笑顔は、マクドナルドの店員のスマイルだけだった。
確かに世界は、嘗て石原吉郎が望んだようになっているように見える。
しかし人々の顔から笑顔が消えたのは、不幸だからかといえばそうでもないような気がする。かといって幸福という感じではもちろんない。
ただ人びとが、歩きながら、電車の中で、駅のホームで、病院の待合室で、(中には小さな子供を抱っこしながら)・・・みなうつむき、無表情で、手に持ったなにかを一心に見つめている姿だけが印象に残っている。


● ああ、思い出した、もうひとり。帰りにわたしの降りた駅の改札を出たところで、一人の年配の女性が辺野古基地反対、横田基地への、オスプレイ配備反対(だったのか?)のビラを配り署名を集めていた。わたしは署名をしたが、何故か彼女の屈託を感じさせない笑顔に気を取られて、肝心の話、横田基地の「何に」反対なのかすら聞き洩らした。

わたしは疲れていたのだ、今年初めて電車に乗って隣の駅に行くまでに。診察前に待合室で人びとの姿を視ていて。そしてその後の診察では医師の説明がよく頭に入らず、診察室から出て、会計の時に、先生の話がよくわからなかったのですが、先生はこんなことを話していたのでしたか?と尋ねた時の、20代くらいの若い受け付けの女性の、無表情の中に垣間見える鬱陶しそうな表情に・・・

怒りも悲しみも感じさせず、陽気に基地建設反対を訴える老女、にこりともせず、胡乱(うろん)な者を見るように患者の顔を見つめる若い受け付けの女性・・・

どこかが、なにかが少しづつ、ズレ始めている・・・

わたしの中でか?それとも外の世界でか・・・







2018年11月8日

サムシング・クール・アンド・モア…


East 42nd Street at Night, New York City, 1960s. Alfred Gescheidt.
ニューヨーク、東42番街、1960年代




Chicago, 1963, Vivian Maier.
シカゴ、ヴィヴィアン・マイアー(1963年)

◆  ◆

アンド、サムタイムス、サムシング、ホットスタッフ・・・



Miles Davis - Flamenco Sketches, 1959, From album "Kind of Blue"







漢方医学への疑問・懐疑


行きつけの内科医に、再度強い倦怠感、疲労感、無気力を訴えた。
「「だるさ」というのはなんともとらえどころがなくて、「咳」とか「下痢」とかいった症状とは違うんですね。だから現段階で私が考えられる方法としては、徹底的に検査して原因を探るか、あとは、「漢方」という手もあるかな。でも私は漢方に関しては全く知識が無いんで、何処そこを紹介するということが出来ないんですよ。」

そこで、インターネットで、いくつかの漢方医のホームページを閲覧してみた。
何故かどれもしっくりこない。わたしが「漢方医学」に無智であることももちろんだが、いくつかの医院、クリニックのサイトに共通する「健康観」というものに、「漢方」というのは、患者その人の「生き方」「ライフスタイル」ひいては人生観のようなところにまで踏み込んでくるような印象を受けた。

これも何度も書いているが、わたしにとって「健康」というのは、「わたし」と「わたしを取り巻く周囲の環境(=外界、生活圏)との融和・調和」に他ならない。言い換えれば人は戦場で決して健康であることはできない。

ライフスタイルとか生活習慣とかいうが、皆がみな飲みたくて酒を飲んだり、クスリ(ドラッグ)を飲んでいるわけではない。現代社会に於いては、健康に悪いとされているものを摂取することで、辛うじて精神の安定を保つ、というパラドクスから逃れることはできない。

わたしはこの現代社会、21世紀のこの日本という国(及びその国の人々)、そして東京という都市と、「友好的な関係を結ぶ」ことは不可能だと思っている。ということは、わたしは言葉の本来の意味で「健康」になることはないのだ。

昼夜が完全にひっくり返った生活にしても、それが快適だからやっているわけではない。
歪んだ社会の中に生きながら、個人の生活の背骨の歪みのみを無理矢理矯正しようとすることはナンセンスだ。

もし「漢方」が、人間が人間らしく生きるということを治癒の理念としているなら、それは最早時代遅れであろうし、絵に描いた餅と言わざるを得ない。
21世紀の東京に生きながら「健康である」ということ自体が、そもそも矛盾した状態なのだから。
わたしは「だるさ」が取れればいいと思っているが、それがないことイコール健康な状態だとは考えない。

人間、とりわけ現代社会に生きる者にとって、「健康」とはいかなる概念か?
漢方医との間で、そのような議論を交わすことなく、一方的に深酒を止めよ、規則正しい生活をと言われるのは正直鬱陶しいのだ。
あなたはわたしの哀しさの、わたしの孤独の、わたしのアンニュイの、わたしの厭世観の、いったい何を知っているのか?「哀しさ」や「孤独」「アンニュイ」「ペシミズム」、それ自体が不健康だというのだろうか?

いずれにしても、病んだ世界の中で健やかでいること、そのことについて、漢方医学はどのように考えているのだろう。

蛇足乍わたしは「生活習慣病」という呼び方が好きではない。その生活習慣は、半ば以上、社会の在り様によって強いられたものであると思っているから。
病気の原因の大半を個人の責任に転嫁するようなこのような呼称は好きではない。

以上、「漢方医学」に無智なまま、無責任に思うところを述べた。
ただ、東京という濁った海の中で、健康である、乃至健康になるということはどういうことかという根本的な疑問は、漢方と離れた部分でも、わたしの中に大きな疑問として留まり続けている。そして基本的には、「全人的な健康」などという「大いなる理想」を求めることなく、日々、あちらこちらとバンド・エイドを取り替えつつ、刹那主義的に生きるしかないのではないか、と。







2018年11月6日



Photo by Jim McHugh 


「モノクロームの世界は、われわれに〈想像〉の余地を与えてくれる。いや、余地どころか、モノクロームは〈想像への入り口〉であり、それに着色するのはわれわれの内的な仕事である。
(略)
そしてモノクロームであることによって、圧倒的に魂に訴えてくる作品が生まれた。事実、白という無限の虚無と黒という無限の傷跡の組み合わせで織り成される映像の方が、さまざまなカラーで想像力を限定してくる映像よりイメージを喚起する力があったのである。
ジャコメッリは2000年に75歳で死んだ。デジタルカメラが登場し、モノクロームフィルムがカメラ屋の店頭からほとんど姿を消し、世界が色で溢れかえる時代まで彼は生きたが、しかし最後まで色を使うことはなかった、実験的に試みたことすらあったかどうか。かくも色の氾濫する時代にあって、彼は頑固なまでにモノクロームにこだわり、白と黒の世界に「時間と死」を閉じ込めつづけ、そうすることで「時間と死」を想像し思弁する自由を保ち続けた。「時間と死」はジャコメッリにより息づいたのである。」
ー『私とマリオ・ジャコメッリ・〈生〉と〈死〉のあわいを見つめて』(2009年)

と辺見庸は書いているが、この写真の息をのむような深度、悲しいほどの静謐さはどうだ。

チェット・ベイカーを聴きながら、このわびしい写真を30分ほど眺めていた。
何とも言えない懐かしいさびしさがある。
〔寂〕は〔錆び〕であり〔荒び〕である。
そしてこんな何の変哲もないネオンサインを被写体にするセンス。

この写真はそれほど古いものではないだろうが、わたしは最近、20世紀中葉、
40年代~60年代に撮られたカラー写真の魅力に惹かれ始めている。
ドアノーやブラッサイはもとより、世界中から写真家たちが集まり、モノクロームで記録し続けた往時のパリの街並みを、カラーで撮影した、木村伊兵衛の写真の喚起力と、カラーであるが故のノスタルジー・・・

辺見庸の意見に全面的に同意した上で、尚、優れたカラー写真には、想像力の入り込む余地は充分にある・・・いや、おそらく(わたしにとっての)カラー写真の魅力のほとんどは、被写体(モチーフ)の古びか、或いはそれが既に数十年前に撮られたものであるかのどちらかにあるのだろう。裏を返せは、なべて新しいモノはおもしろみがない、ということだ。


Chet Baker - Every Time We Say Goodbye

チェット・ベイカー「エブリタイム・ウィ・セイ・グッドバイ」






2018年11月5日

サムシング・クール…





わたしは最近の映画については全く知らないが、これは2015年の「キャロル」という映画のワンシーンらしい。
タバコを吸っているようだが、まるで煙が見えないじゃないか。
まったく絵にならないね。


カッコいいのは

New York City, Third Avenue, 1951, Esther Bubley.
雨のニューヨーク3番街、1951年

そして

Smoking brake, New York, 1955. Elliott Erwitt.
ちょっと一服、ニューヨークのダイナー、1955年


Bobby 'Blue' Bland - This Time I'm Gone For Good

ジャズにブルース、フィルム・ノアールにタバコは付き物。
そしてバーとカフェ・・・
ウィスキーを飲みながら傍にタバコがないと何か様にならない。
そしてコーヒー・アンド・シガレッツ・・・

サム・クックで「スモーク・リング」




断想Ⅱ


昨日Facebookのアカウントを削除した。今後一カ月の間に再びログインすれば、また復活するようだが、もうSNSは充分だ。
2011年、MySpaceの「瓦解」と共にはじめたが、結局どうしても馴染めず、何度出たり入ったりしたことか。
今回も、昨年11月から約1年間のブランクを経て、数週間前に戻ってみたものの、
未だ形を持たない気持ちや想いを、的確な言葉で丹念に掬い取り、「かなしい」「さびしい」ということを言うにも、どのようにかなしく、どのようにさびしいのか、「かなしさ」や「さびしさ」を表すいくつもの言葉の中から、今の気持ちに合った語彙を選択するという作業を求められるブログという表現形態に関わってきた期間が長い分、4つか5つの「顔文字」で感情を表すことが主流になっている場所で、ひとの気持ちというものがあまりに軽率浮薄に扱われているのを視ているのに最早我慢が出来なくなった。



体調が相変わらずよくない。9月の市の無料健康診断の結果には、わたしの訴えるような強い疲労、倦怠感を示すような数値は見当たらないというのが行きつけの内科医の意見だった。「これは精神科の領域でしょうね」
しかし精神科医に内科の言葉を伝えても、この疲労感、倦怠感の原因は解らないという。
結局どうしてもそれを知りたければ、それこそ人間ドックのような「精密検査」ということになるのだろうが、そこまでするつもりはない。

9月(?)ごろから耳の聞こえもよくなく、2メートルも離れると、人の声がきちんと聴き取れない。

目の状態も芳しくない。もともと右目は20代の頃の緑内障でほとんど見えないところへ、今度はその上に白内障の症状が現れてきているし、やはり緑内障で2度、白内障で1度手術をしている左目に昨年末から再び緑内障の症状が出始めている。

目の状態とは無関係に、本を読むこともできなくなっている。以前から横になって本を読むことが習慣になっているのだが、数行読むと睡魔に襲われる。
今は形だけ、母に図書館から一応わたしが自分で選んだ本を借りてきてもらっているが、ここ数カ月、1冊も読めていない。

こんな状態が・・・ではなく、これから坂道を転がり落ちていく日々がいつまで続くのか?もう楽になりたい、そして母の負担になることを終わらせたいという思いが日増しに強まる。

ところで、先日Hのブログに、戦争(?)中の南京で、都会の学歴のある者よりも、農村出身者の方が残酷であったという話を話を聞いたHが、「こころのへんなところにへんな傷をこしらえてしまった」と書いていたが、学歴のある者がそうでない者よりも平静であったというのは解る気がする、何故なら戦前、(大正から昭和初期)当時の大学生の本分は本を読み思索することだったはずだ。その専攻にかかわらず、文学を、哲学書を読むことが即ち学生である証明だったようなものだ。そのような者たちが、戦地で、「殺し、犯し、奪う」ことに抵抗が強かったであろうことは容易に想像がつく。
「学歴」といっても、戦後の高度成長期の「学歴」、況やきょうびの「学歴」などとは全く異質のものだ。
今日であれば、学歴等無関係に、「敵だ!」と吹き込まれれば、皆等しく、殺し、犯し、奪い、火を放つだろう。そういうメンタリティーの醸成に一役も二役も買っているのが所謂SNSの存在である。

体調不良のため推敲せずに投稿する・・・








2018年11月3日

断想


おい、俺は骨をごりごりこすりつけるようにして話したいんだよ。俺は汚い肝をでろんでろん絡ませるようにして語りたいんだよ。首から上でへらへら話すんじゃないんだよ。
ー 辺見庸「語ること」

約1年ぶりにフェイスブックに戻って2週間ほどいただろうか。
今のわたしは、もう「ソーシャル・ネットワーク・サービス」とやらで発せられ、交わされる言葉の、風に舞うポリ袋のような軽さ、その人間同士の関係性のあまりの希薄さに堪えられるほど頑丈でも鈍感でもなくなっている。
「首から上で」どころか「口先舌先でべらべらしゃべってるんじゃねえよ!」という苛立ちが強い。「帰るところにあるまじや・・・」



それにしても、わたしはほんとうに誰とも似ていない。人間にも似ていない。
健常者はもちろん、精神障害者とすら似ていない。
と言いながら、最近は逆に、他の人たちは皆どうして左程違わないのだろうという疑問が強まってきた。

昨日、6階建ての精神科単科の病院、文字通り「精神病院」のデイケアのプログラムに体験参加した。「みんなの悩み事相談」ということで、約1時間ほどの時間で、参加者2名の「悩み事」について皆で話し合う。相談の2人目がなかなか現れなかったので、わたしが「他に誰もいないのなら・・・」と、名乗りを上げた。
わたしの相談=「悩み」は「人と繋がれないこと」。
ここのところ、耳の聞こえが悪く、壁際に置かれたホワイトボードを中心に半円形に座った人たちの発言のほとんどを聴きとることができなかったが、わたしは彼らの中にいて、何故か安心していた。その理由はおそらく彼ら、彼女たちが、みな「弱い」からだと思う。「弱いこと」は明らかに「強いこと」よりも上等である。人は強いよりも弱い方がいいに決まっている。「弱さ」とは「柔和さ」である。
30代くらいの男性の参加者から、「あなたの歯切れのいい話し方、声の大きさなどに威圧感を感じる」というようなことを言われ、先日「精神障害者家族会」の会長に何度も言われた、わたしの話し方の「迫力」ということを思い出し、顔の赤らむ思いだった。
強いことは恥ずかしいことだ。品のないことだ。

必ずしも「似ている」必要はないのかもしれない。「弱い人」の傍にいて、安心していられるのなら。



明日11月3日は「文化の日」、かつての高倉健のように、仲代達也のように、山田洋次のように、今年はどこのバカが安倍晋三に最敬礼して勲章を押し頂くのだろう。
名誉とか成功とか、そういった俗で下品なものと一切縁のない人たちこそ真に愛すべき存在だ。少なくとも彼らは、権力に、権力者に、愛されてはいない。
愛され、好かれてはならない者たちに愛されてはいないから。
勲章を貰いながら「戦争反対」なんていっちゃいけないよ。仲代さん。山田さん。
健さん、あなたに憧れる人は多いけど、わたしは駄目だ。
わたしは「強い者」に媚びへつらうものが嫌いだ。また仮に向こうが言葉巧みに媚びへつらって来たら、一言「いえ、不器用ですから・・・」といって、賑やかで晴れがましい場所には出て行かない。そういう寡黙な一匹狼、日蔭者が好きだから。



20代の頃だっただろうか、イヴ・モンタンのコンサートの模様をカセットテープに録音してよく聴いていた。
中でも「ベラ・チャオ」という歌が好きだった。ノリが良かった。モンタンの歌いっぷりもよかった。
今、辺見庸のブログを読んでいたら、偶然この歌について触れていた箇所があった。

・コビトがよそゆきのかっこうをしてきた。銀色のドレスで。これからイタリア語のスピーチ発表会でおおぜいのコビトたちのまえでイタリア語を話すのだという。伊大使館後援とか。唖者がどうやって、と訊きかけたが、コビトについてはなにからなにまでウソと謎だらけなので問わずじまい。コビト、イタリア語のスピーチ草稿と楽譜をもっていた。みんなでうたうのだという。Bella Ciaoを。Una mattina mi son svegliato O bella ciao, bella ciao, bella ciao ciao ciao Una mattina mi son svegliato Eo ho trovato l'invasor O partigiano porta mi via O bella ciao, bella ciao, bella ciao ciao ciao……と、コビトが念波でうたう。ああ、そうか、第2次大戦のイタリア・パルチザンの歌だ。ニッポンではそのむかし、「さらば恋人よ」というタイトルで、よく歌声喫茶や民青の集会などでうたわれていたな。わたしはうたわなかった。すきではなかった。わたしはよく「ワルシャワ労働歌」をうたった。でも、なぜだか、Bella Ciaoの日本語の歌詞はだいたいおぼえている。〈ある朝目ざめて さらばさらば恋人よ 目ざめてわれは見る 攻めいる敵を……われをもつれゆけ さらばさらば恋人よ つれゆけパルチザンよ やがて死す身を……いくさに果てなば さらばさらば恋人よ いくさに果てなば 山に埋めてよ……埋めてやかの山に さらばさらば恋人よ 埋めてやかの山に 花咲く下に……道ゆく人びと さらばさらば恋人よ 道ゆく人びと その花めでん〉。いまおもえば、相当の歌詞ではないか。イヴ・モンタンのBella Ciaoはかっこうよかったよ。中国でも70年代にBella Ciaoを聞いたことがある。北朝鮮でも聞いたな。最近の香港でもデモ隊にうたわれたらしいね。コビトが問う。日本には日本のパルチザンの歌がないの?ない、と言下にわたし。パルチザンがなかったから、パルチザンの歌もない。どうしてパルチザンがなかったの?戦争に反対しなかったの?コビトは知っていて意地わるく訊く。「海行かば」がだいすきだからさ。おおきみのへがすきだからさ。わたしは胸のとおくに聞く。海ゆかば 水漬くかばね 山ゆかば 草生すかばね 大君の 辺にこそ死なめ かへりみはせじ(長閑には死なじ)……。ああ、なんという歌であろうか。かばねとは「屍」だ。気をつけ!バカヤロウ。もとい。満目累々と屍なのだ。恋人だのヘチマだのと言うな、バカヤロウ。いいか、大君の辺にこそ死なめ、だ。気をつけえ!右むけ右い!いいか、かへりみはせじ、だ。バカヤロウ。のどかには死なじ、だ。それだけ。理屈もヘチマもない。文句あっか。コビト笑う。犬の背にのって、しゃなりしゃなりとでかけた。O bella ciao, balla ciao, bella ciao ciao ciaoと、うたいながら。〔2014.11.8〕 
(下線Takeo) 



わたしが聴いていたライブ・ヴァージョンはもっとアップテンポで、もちろん観客も一緒になって唄っていた。

しかし「ベラ・チャオ」がパルチザンの歌とは知らなかった。
そしてイタリアは先の大戦で日独伊3国同盟を結んだ、いわば同じファシズムの国ではなかったか。

いずれにしても「ブンカジン」とやらが権力者にぬかづいて勲章をもらって尻尾を振る日にはもってこいの歌じゃないか。パルチザンやレジスタンスの敵は他国人ではなく、母国のファシストたち。権力とそれにまつろう者たち・・・即ち祖国そのものだったのだから。