2018年9月14日

わたしに似た人


哲学や文学、映画や音楽、芸術作品などに支えられずとも、自分の足で立っていることができる人は幸いだ。

わたしは今、日々横たわって生きている。横たわって、そこに「在る」。そして「何故生きる?」という問いについて、文学書や哲学書を改めて読み漁る余力は、最早残されてはいない。

世の中に深い悲しみを抱いている人がいるということは救いだ。
けれどもその悲しみは永遠に続くのだろうか?
いつかその傷は癒えて、彼は微笑みを取り戻し、わたしはひとりとり残されるのではないか。

ベケットは言う、「誰かが泣き止めば誰かが泣き出す。世界の涙の総量はいつも変わらない」と。

ならば、決して泣き止むことのない人が必要だ。
決して癒されることのない悲嘆が。
永遠の喪に服する者が。
とこしえに悼み続ける者が・・・

その人こそがわたしに似た人であり、わたしはそのような人が、まだこの世界に存在することを心から祈る。

苦しみ、悲しみ、心痛 ・・・ 懊悩、煩悶、喪失、寄る辺なさ、現世への嘔気、絶望・・・それだけが、この世でわたしが唯一、分かち合えるものだから・・・
そしてわたしが生きているということは、それらと共に在る、ということなのだから。

どこかにいるかもしれないわたしに似た人よ。案ずることはない。
わたしの傷が癒えることはなく、わたしの心痛が消えることはない。

もしもわたしが笑っているところを見たとしても気にしなくていい。

こんなジョークがある。

「道を歩いていたら、向うから胸に槍の刺さった男が歩いて来た。
わたしは彼に尋ねた。それ、痛くないんですか?
男は答えた、いえ、ふだんは大丈夫なんです。ただ、笑う時だけ・・・」




Joy Division ー Passover

「パスオーバー」ー ジョイ・ディヴィジョン(1980年)



















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