2018年9月26日

再び 心を病むとはどういうことか?


昨今のわたしの心を占めているのは、「心を病む」とは、そして「健康である」とはどういうことか?依然としてこの答えは見つからない。

木村敏でもいい。中井久夫でもいい。或いは市井の無名の知恵者でもいい。
誰かに訊いてみたい。「心を病む」とはどういうことですか?
「健康である」とは・・・



これまで繰り返し書いてきたことだが、わたしにとって「健康である」ということは、わたしという個人の身体に異常がないということではなく、精神(こころ)をも含めた健康とは、「わたしをとりまく環境・世界との「調和」「融和」」に他ならない。
心身と外界が軋轢なく溶け合っている場合には、その融和した状態が意識に上ってくることもないだろう。つまり「健康」とは「健康であることを意識しないでいられる状態である」ということもできる。
逆に言えば、一個の身体の何処にも「病気」がなくとも、彼が外界と友好的に調和できていない場合、その不調和が「心の病」と言われるのではないか。
だからわたしは「健康な囚人」や「戦場での健康」「(動物園の)檻の内での健康」という概念はありえないと思っている。何故なら彼の心は完全なる自由を、その環境によって剥奪されているのだから。
仮に「刑務所」「戦場」「動物園」の中からひとつを選べと言われれば、わたしは戦場を選ぶだろう。おそらく唯一、自死(の自由)が可能な場所であるから。



わたしがより知りたいのは、病んだ心が「癒える」とはどういうことか、ということだ。人が上記のように、自己をとりまく環境と融和し得ず、友好的関係を結べない場合、心が癒えるということはあり得ないはずだ。
無論多くの場合、会社、学校、家庭、その他の不協和音を生じる場所から、融和しうる場へ生活の基盤を変えることによって、「癒える」ことが多いのだろう。
けれども、たとえば自国(自国民)と合わない。時代と合わない。といった場合、いったい何処へ身を移すことが可能だろうか?
過去へ戻ることは言うまでもなく、移住すら容易ではない。



詳しい知識のないままに憶測で言うのだが、わたしは「認知行動療法」というものに懐疑的だ。世界の認識の方法に「正しい認識」と「誤った認識」というものがあるはずがない。もしそうであるなら、ゴッホやターナーの世界を見る視点は明らかに狂っている。
つまり世界はわたしたちが認識する仕方で存在しているのであって、世界という客観的な実体が、わたしの認識とは別個に存在しているわけではない。
けれども同時に、わたしは世界は「穢土」であると考えている。そしてこのような「世界中どこへ行っても東京のようなものだ」という認識乃至思い込みは、まったくの的外れではないにせよ、ひょっとしたらまだ地上には「東京的ではない、日本的ではない」場所があり、文化があり、生活があるのかもしれない。それが必ずしもアラスカやアフリカではなくとも。
それを知ることは無駄なことではないだろう。
わたしを苦しめるのは世界の、人間の同質性であって、異質であること、「いま・ここ」と違うことが、せめてもわたしを慰めるのだ。



わたしは自分を「狂者」だとおもっている。
「狂者」と「こころを病んでいるもの」とは似ているようで違う。
こころを病んだ者は、きっと「修繕」の可能性を持っている。
けれども「狂者」はそれ自身全い実存であって、何らかの欠損の結果ではない。
つまりそれは「壊れてしまった人間」とは異質の存在だ。


 あの老者と、
 また遇いたい。
 遇ったら問いたい。
〈壊れゆく者に惹かれるのはなぜ〉
〈逝く者に憧れるのはなぜ〉
〈失意のために残された活力のみでも
 じゅうぶん生きられるのはなぜ〉
〈狂える者に神を感じるのはなぜ〉
〈まったい正気をこうまで憎むのはなぜ〉
〈いみじき過誤ある者に敬意をおぼえるのはなぜ〉と。
 ー 辺見庸 詩文集『生首』より「夜行列車」(2010年)


わたしは辺見庸に聴きたい、
あなたは、ふたりの「親友」をこの2年のうちに亡くしたはずだ。
ひとりは約40年に及ぶ確定死刑囚としての獄中生活の末の拘置所内での病死。
そしてもう一人はあなたが最も忌むはずの死刑という形で。
彼らのいない世界に、なぜまだ生きられるのか?
なぜあなたは憤死しないのか。
なぜあなたは愧死しないのか。
なぜ書けるのか?
なぜクスとでも笑えるのか?
それは彼らに対してではなく、あなた自身に対する背信行為ではないのか?
いったいあなたは何を、或いは誰を喪った時に真に狂い、死するのか?

「喪失後の世界」になぜ、あなたは生き永らえることができるのか?

わたしの苦しみはすべてそこにある。
失った友人。
失った風景。
それゆえ失った自分自身・・・

Everytime we say goodbye I die a little...

「さようならを言うたびにわたしのなかで何かが少しづつ死んでゆく。」

古いラブソングの歌詞だが、この言葉のみを取り上げれば、何かを喪うたびにわたしは少しづつ死に近づいてゆく。あなたの散文詩(?)のタイトルを借りれば、「解体」されてゆく。

俗に「親亡き後」などという話題を時々目にする。
わたしは「親亡き後」のことを考えたことはない。

世界に唯一人の味方もなく、どうして生きて行けるのか?
「味方」とは「友人」「親友」以上の存在だ。つまりわたしを力強く抱きしめてくれる存在のことだ。

わたしはいつも「親亡き後」ということばを聞くたびに、
いったい彼らには尚生きるに価する何があるのかと訝る。
それほどまでに彼らは「味方」に恵まれているのか、と。


いまについても明日についてもおのれについても問わないことは幸せである。
なにも問わずに、答えのない問いごと、この身体と心を溶暗すべき時が来た。
まず、両の義眼をぽろりぽろりと外そう。耳もどき、鼻もどきもべりべり剥がしてしまえ。声もどきも棄ててしまえ。おまえは全体として一個の窩(くぼみ)になれ。失われた五体を追憶するだけの幻影躰となれ。そして、闇に溶けろ。闇の〈だま〉となれ。やがて、より昏い闇のとしておのれを完成せよ。
ー 同上『生首』より「解体」
      「解体」- Everytime we say goodbye I die a little...  


 












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