2018年9月4日

いくつかの断想


昨年暮れより精神科への通院を中断しているので、話し相手、(メールや電話も含め)は母以外にはいない。
最近は「いのちの電話」に週に3~4回電話をして、話をしている。話し相手は皆ボランティアで、わたしの知る限りほとんどが女性だ。みな時間を気にせず、こちらの話に根気よく付き合ってくれる。

そうした中で、「ああ、わたしはこういうところの相談員にはなれないな」と思った。一番大きな理由は、予め話す時間を30分なら30分と決めておくことも、また話の途中で「申し訳ないけど、そろそろ時間だから…」と会話を中断させることも出来ないと感じたからだ。
話を聴く以上、聴き手は、話し手が納得するまでとことんまで付き合うべきだと思っている。けれどもわたしにはそんな根気も思い遣りもなく、際限なく話を聴いてあげることができない。そのような理由で、聴き手としての能力以前に「相手との時間」という点に於いて、わたしは「いのちの電話」に限らず、相談員にも、またカウンセラーにも向いていないと感じた。

自分が相談する立場に立てば、時間を機械的に分割できる人と話したい、悩みを聴いてもらいたいとは思わない。そこには「仕事臭」がプンプンしている。
もちろん医師も、カウンセラーも職業である。どこかで線引きをしなければならない。けれども、そのことに心のいたみを感じない者は論外である。

随分以前、ある会社のサービスセンターに勤めていたことがある。客の評判は良かったのだが、トップが、「○○は対応が丁寧なのはいいが、一人一人に時間をかけ過ぎる。もっと捌け捌け!」と注意された。

わたしは時に(心の中で)人を裁くけれど、相談してくる人を「捌く」ことはできないので程なくしてそこを辞めた。



「痛々しさをかんじることはよいことだ。それがむきだされることは、すこしも悪いことではない。わたしも参加者も友人たちも、ありていに言うなら、怒るよりも先に、どうすればよいのか、途方に暮れている。それをみんなが隠さずにすんだ。痛々しく途方に暮れている者には、アジ演説、説教、クリシェ、虚勢、正義の押し売り、知ったかぶり、安手の箴言……はまったくなじまない。傷をいっそう深めるだけだ。じぶんの言葉をしぼりだすしかなかった。疵口からやっと声を発するしかない。 」

ー辺見庸 2014年4月のブログより、
「茅ケ崎で行われた講演会についての記述より抜粋」


傷口から滴り落ちる血のように、言葉を、気持ちを発したからといって誰かが足を止めて、耳を傾けてくれるわけではない。

ある人の傷と、別のある人の傷は、決して同じ深さをもってはいない。
ある人の血と、別のある人の血は、決して同じ重さをもってはいない。

目に見えて血を流しているものにはみな駆け寄るだろうが、
目に見えない傷口から血を滴らせている者には、だれも気付かない。

著名作家の傷と、その他「雑民」の傷の価値は、決して同じではない。
作家の「傷口」は金鉱だ・・・


もしわたしの言葉が誰にも理解も共感もされないとしたら、わたしが存在している理由はいったいなんだろう?


わたしは知りたいのだ。親友を失ってから、この10年間、外の世界はいったいどのように変わったのかを。そこはまだわたしが生きる余地を残しているのか?それとも最早わたしの寄る辺はどこにもないのか?

わたしは食堂で、隣に座った人がタバコを吸うのが耐えられない。けれども店がそれを許しているのなら、こちらが席を立つしかない。
同じように、わたしは喫茶店や食堂で、近くの人がスマートフォンを取り出して、出てきた食べ物の写真を撮ることに強烈な嫌悪感がある。けれども店がそれを注意しないのなら、そこを去るしかない。


昨日マドンナのルイ・ヴィトンの広告の写真を投稿した。

わたしが20代中頃、巷はルイ・ヴィトンを持った若い女性たちで溢れていた。
誰も彼もが「ヴィトン」を持ち、また持ちたがっていた。

わたしはどうしても、細かい点での違いはあっても、「ルイ・ヴィトンのバッグ」という、「誰もが持っているものを自分もまた持ちたい」という心理が理解できなかった。
わたしにとって「人と同じである」ということは「恥ずべきこと」であり「嫌悪すべきこと」でしかなかった。彼女たちは「軽蔑すべき人々」だった。
残念ながら、当時彼女たちのひとりに「皆と同じものを持っていて恥ずかしくはありませんか?」と尋ねる機会はなかったが。


わたしは屡々「親友がいた頃」と書いている。
けれどもほんとうにわたしは親友を持っていたのだろうか?

恋人同士が6年間付き合った後に別れる。するとその6年間はどうなるのだろう?お互い、相手への変わらぬ愛情友情を抱きながら、仕方なく別れなければならない場合を別にして、憎み合って別れた後、その6年間は、現実に存在していたと言えるのだろうか?


「作業所」とか「デイケア」というのは、障害者に対する、ある種の「厚生」ならざる「更生施設」なのだろうか?
竹とんぼ作りにしても、ポスティングにしても、封筒貼りにしても、それらの労働に対する対価が100円を下回るとは、いったいどういう理由なのか?


 
ある臨床心理士のブログに、村上春樹の「普通というのは普通じゃないところを含んでこそ普通という発言と、それを受けた精神分析医北山修(元フォーククルセイダーズ)の、「正常は異常を含んで初めて正常」というようなことが書かれていたが、「普通」も「正常」も「非・普通」「異常」も、相対的な概念で、普通とか正常という固体・実体(像)があるわけではないので、そもそも上のような言説は成り立たない。
「お汁粉に塩をほんの少し入れると甘さが引き立つ」という話と同じではない。だれも「普通」とは何かを知らず、また定義もできないのだから。
ブレヒトの「ファシズムはファシズムと反ファシズムによって構成される」は意味が通じる。誰がファシストであるかはわかる。けれどもそのファシストが「普通であるのか」「異常であるのか」は分らない。



「自殺」というのは、ある意味で、精神医学に対する「人間の精神」の勝利と言えないだろうか。科学でこころを解明できると考える人間の嗤うべき傲慢さに対する勝利だと。











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