2018年9月9日

幾つかの「?」 即ち「狂気」と「フォビア」


外出困難
誰かに訊かれる「引きこもりから治りたいのか?」「外に出られるようになりたいのか?」
「わからない。わからない!」頭が混乱する・・・
「治る」とはどういうことか?
「外に出られるようになる」ということは、わたしにとっていったいどのような意味を持つのか?

「わからない・・・」



「理解されたいのか?共感を得たいのか?」
理解され、共感されたいと思う。けれども(あり得ないことだが)あまりにも共鳴者が多すぎると、却って戸惑ってしまう。
「こんなに多くの人たちに理解できるほど(また愛されるほど)わたしは凡庸なのか?」

「非凡」・・・という言葉は「才能」と同義に使われるので、できるだけ、「ヘン」でありたいと思う。小さな小さな蟻の穴に潜り込んでいくように。



「ヘン」でありたいという思いと、孤独でありたくないという気持ちのジレンマ。
「ヘン」でありながら誰かと気持ちを共有し、共感しあうということが、そもそも矛盾しているのだろうか?



「時流に乗り遅れる」或いは「時流に乗る」とはどういうことか?
わたしは大勢の乗るバスには乗りたくない。



「考え方を変えることで生き易くなる」というのはどういう意味だろう?
例えば「認知行動療法」(その内容についてはほとんど知らないが)のように、
自分の都合のいいように物事を解釈する(=自己欺瞞)ということか?



「わたしがわたしである」ということは「わたしはあなたのしらないわたしを持つ」ということと同義ではないだろうか。
言い換えれば「わたしがわたしのすべてを知り得ないのと同様に、あなたもわたしの全部を知っていると思うことは誤りだ。」



何かに躓いたり、ひっかかりを、違和感を覚えたとき、ひとはその考え方や現象について思いを巡らす。それを「考える」と呼んでいるのではないか?
「生き易くなる」ということが「あれこれ考えなくなる」ということと同じだとしたら・・・



わたしの場合「外に出られない」最も大きな原因は(何度も言っているが)「審美的な理由」からだ。
悪臭がプンプン漂っている場所に、誰が好き好んで出てゆくだろう?



主治医から「あなたと話が合うのは千人にひとり」と言われている。本人はそれ以上だと感じている。そんな人間がそもそも仕事をしたり友達を作ったりすることが可能なのだろうか?



見知らぬ誰か(精神科医、カウンセラー、各種相談員など)に援けを求めるということが、そもそも愚かな、滑稽な、迂闊な、嘲うべきことなのかもしれない。



「蛇が嫌い」「ナメクジが嫌い」「納豆がダメ」・・・仮に自分がそれらのものを嫌いでも怖くもなくても、そう聞いて、「信じられない!」と感じたり、或いは相手の言っていること「=ヘビガキライ」が理解できないという人はおそらくいないだろう。
けれどもきょうび、「スマートフォンが嫌い」「タブレットが嫌い」(=それらを目にすることを生理的に受け付けない)という言葉を、多くの人たちはそもそも理解することができないだろう。彼らの多くは「フィリア」なのだから。
けれども世の中にはじつに多種多様な「フォビア」があるのだ。



外出困難Ⅱ
誰かに訊かれる「引きこもりから治りたいのか?」「外に出られるようになりたいのか?」

もし1970年代に戻れるのなら。いや、70年代と言わずとも90年代・・・せめて2000年前後なら。
しかし仮に明日、目覚めたら、外の世界が70年代や2000年前後になっていたら、そもそも「引きこもりを治す」必要などない。最早わたしは自由に外に出られるのだから。

◇◇


上記のわたしの「躓き」を改めて読み返してみると、やはりそこには、「ココロノヤマイ」とは異なる、もっとわたしという実存に根差した「狂気」を感じずにはいられない。
狂っている・・・と。






4 件のコメント:

  1. >「生き易くなる」ということが「あれこれ考えなくなる」ということと同じだとしたら・・・
    「生き易くなる」も、「考えなくなる」も、
    努力してもできることではないもんなぁ。
    だから、「生き難くなる」も、「考える」も、
    努力してもできることではないし、
    努力してもできなくなることでもないんだw。
    好き嫌いも、同じかな。
    好きも、嫌いも、努力してもなれることではないし、
    努力してもなれなくなることでもないんだw。
    考えるな、と言われても、「考える」が止まらないのは、
    考えろ、と言われても、「考えなくなる」のと同じです。

    知ること(知識)と、考えること(思考)との混同で、
    「考えなくなる」人は多いと思います。
    知識の量が多くなるに比例して考えなくなる。
    知っていれば考える必要はなく、
    分かっていることは知るに及ばないから。
    多数の意見を憶えることで、常識を身につけたとみなして、
    個人の考えを軽視する。

    「生き易くなる」は、
    知ること(知識)と、考えること(思考)と、
    さらに、感じること(感情)の混同かもしれない。
    このへんで、さっそく、「生き易くなる」で検索を始める人なら、
    調べなくてもいいよ、じゅうぶん生き易い人なんだから、
    と言いたくなる♪

    返信削除
    返信
    1. >「生き易くなる」は、
      知ること(知識)と、考えること(思考)と、
      さらに、感じること(感情)の混同かもしれない。
      このへんで、さっそく、「生き易くなる」で検索を始める人なら、
      調べなくてもいいよ、じゅうぶん生き易い人なんだから、
      と言いたくなる♪

      ははは(笑)

      「検索」って結構現代の重要なキーワードなのかもね・・・などと言ってる時点で既に完全に時流に取り残されています。

      先日ね、「友達作り」で検索してみた。興味本位でね。
      で、話題作りが苦手な人に、ということで、10個くらいの「必須」(?)の話題がリストアップされていた。
      よく憶えてないけど、「ペットのこと」「副業について」「最新の商品について」
      ・・・ああ、あとは憶えてないや。

      こんなのこっちが全然関心がないし、知識もない。

      「検索」するとこういうのがいっぱい出てくるんだね。薄っぺらだね。

      生き方の方向性を「検索」で賄えるくらいなら生きる必要なんてないよ。


      削除
  2. >「理解されたいのか?共感を得たいのか?」
    Takeoさんの文章を、読めたり、
    コメントを書いたりする人は、
    多くの人があっさりスルーするところでダメージを受けて、
    ダメージを文章に変換させてます。
    ふつうなら、一生に一度も考えなくてもいいところなのに、
    Takeoさんは、こんなにたくさん書けるんだw。

    読める人は、少ないぞ♪
    理解なんて、さらに。
    まして、共感なんて僥倖は。
    コメントを返すなんて、奇跡的っ!

    返信削除
    返信
    1. う~ん・・・

      前にも書いたかもしれないけど、西部邁が最期まで自分で雑誌を発行していた。

      「この雑誌が仮に5千部売れたとして、最初から最後まで読んでくれる人はまあ500人。きちんと理解してくれる人は50人。まして共感してくれる人となると5人てところか・・・」と。

      5人で充分だよ。500人の読者(アクセス)よりも5人のコメント。
      いや、無理か。(苦笑)

      やはり原因の一つは話題に一貫性がない、ということかと思っています。
      メンタルヘルスの、引きこもりのと、一応謳っているけど、いきなり「恋について」だの「お色気路線」になったりして(苦笑)

      ただこの間かいたように、わたしはその時々に書きたいことを書く。それだけなんだよね。死についても生や性についても。

      ほんとうに一定した読者獲得を目指すなら、こういう、あっちゃこっちゃなやり方はしない方が賢明かもしれないけど、やっぱりあちらこちらと好きなこと書きます。

      2つもコメントをどうもありがとうございます。

      削除