2018年9月11日

「生き易さ」への断念、或いは治癒不能…


わたしは自分を明らかに狂人だと思っている。昔から、「本当の狂者は、自分を狂っているとは思っていない」といわれる。しかし、もしわたしが狂っていない=正常であるとしたら、わたしと、わたしを取り巻く社会、世間との、この甚だしい齟齬・懸隔・不調和は、いったいどのように説明され得るのか?



時計屋で、若い男性が壁に並んだ時計のひとつを指さして言う。
「おじさん、あの時計くるってるよ・・・」と。
他の全ての時計の針が、同じ方角を指している。「今・現在」を指している。
けれども何故かその時計の針だけが、まったく違う方向を向いている。

「狂い」とは「差異」と同義だと思っている。そして「他者」との「相違」「ズレ」こそが、わたしをわたしたらしめている。その意味でわたしは狂っているし、狂っていなければならない。



わたしはいまだに「生き易くなる」ということがどういうことかわからないまま、それが薬物によってであれ、世界認識の変更によってであれ、「生き易さ」というものに胡散臭さを感じずにはいられない。

「生き易くなること」よりも「生きることに必死」であることが、本当に生きることのように思えてならない。
人間が「より生き易くなること」を絶えることなく求め続けた結果、言い換えれば、「手軽で便利」になることが、すなわち「生き易くなる」ことだという錯誤に陥った結果、今現在の、わたしの「生き難さ」があるのではなかったか。



「治療者」ではなく、傷をなめ合う仲間が必要だ。そのために同じように傷を負った者が・・・



「生き易さ」を求めるとは、これほど忌み嫌っている「いま・ここ」と狎れ合うこと、目の前の現実と妥協することに他ならない・・・



友を求めること・・・
仮に「年齢」「性別」「学歴」「職業(無職含む)「障害の有無」「LGBT等様々なマイノリティーであること」などについて一切条件を付けなくとも、友だちである以上は、当然価値観や趣味の共通点は求められる。
言い換えれば、こだわらないのは「肩書」であって、その人の「価値観」「美意識」には徹底的に拘る。

きょうび、デジタル機器を使うことは、「価値観」や「美意識」の次元で語られることはない。それらは最早、嗜好品のように、好きな人もいればまったく関心のない人もいる、使う人もいれば使わない人もいる、といった「趣味の問題」などではなく、殆どの人にとって日常生活に欠かすことの出来ない生活必需品だ。色やデザインを意識することはあっても、箸や茶碗、カップ、靴、バッグ、タオル、ひげそり・・・それらを「否定」する人はいないだろう。そしてそれらを「拒否」することは、なんらかの「狂ひ」乃至「障害」と見做されるだろう。

けれどもわたしは可能な限りデジタル機器を「わたしの人生」から排除する。
それはドン・キホーテ擬きの愚かな負け戦であるのみならず、とりもなおさず、自分が周囲の世界から排除されることと同義なのだが・・・

無論アラスカと言わずとも、まだ世界にはデジタル機器が左程普及していない土地、
あるいはいまだそれが「嗜好品」と見做されている場所だってあるのだろう。
しかし「そこ」へ移住することは、少なくともわたしにとってはあまり現実的ではない。
最後の最期に、そういう土地を見てみたい、という気持ちはあるにしても・・・
























2 件のコメント:

  1. とても素敵です!

    Nicoさんは「狂った時計」だったんです!

    昔、時計仕掛けのオレンジ、という映画があったように思いますが、そして見たかも知れませんが、内容は全く覚えていません。

    覚えているのは、時計仕掛けのオレンジって何?と疑問を持った事。

    全く関係ないとは思いますが、もしかしたらNicoさんはこの映画を知っているかも知れないと思いました。

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    1. こんばんは、yy8さん。

      キューッブリックの『時計仕掛けのオレンジ』は昔一度見ただけで、殆ど憶えていません。ただ、不良グループが拷問によって強制的に「真っ当な」人間にさせられる、といった大まかな筋しか。また観たいと思っているのですが、なかなか借りに出ることが難しいので。
      タイトルの意味も忘れました。
      キューブリックは『シャイニング』も観たことがないんっですよ。

      狂った時計がどう素敵なんでしょうね?(笑)

      コメントをありがとうございました^^

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