2018年9月15日

イタリアの現代アーティスト、ルシオ・フォンタナ。
同じように傷だらけではあっても、わたしの傷はこんなに「キレイ」じゃない。
黒ずんだ血を滴らせ、傷口は汚れ、膿み爛れて腐臭を放っている。


人がわたしを傷つけるとき、彼らは決して真顔ではない。彼らは無表情だ。
「心が傷つく」という発想すら持ってはいない者たち。傷ついた人間を眺め、口元を緩める者たち。そして彼らにしても、数分後には「誰か」を傷つけた記憶さえも失っている。



デヴィッド’チム’シーモアの撮った少女。(1948年)。強制収容所から解放され、保護された施設で、「あなたの家を描いてみて」と言われて描いたのがこの「絵」だ。
(「家」といっても、「あなたの’ホーム’を描いてみて」と言われたので、建物としての「ハウス」ではなく、寧ろ、「家庭」「ファミリー」「生活」といった広い意味を指すのだろう。これは爆撃に遭った家ではない・・・)

今のわたしの頭、そして胸の中もこれに近い。「混乱」「混沌」「崩壊の予感」「喪失」「悲しみ」「苦痛」「不安」「恐怖」「制御不能」「寄る辺のなさ」「絶対的孤立」「無援」「言語化不能」「説明不能」・・・



「いのちの電話」にかける。1時間かけて繋がらず。
最近はほぼ一日おきに掛けている。
体力がまったくないので、横になって約1時間ほど話してもクタクタになる。

昔から孤独だった。
約20年前、30代の頃、話し相手が欲しくて、年に100回以上「いのちの電話」に掛けたこともあった。







4 件のコメント:

  1. なんだよぉ、青梗菜に電話したほうがいいよ♪
    一日おきにかける「いのちの電話」より、
    一週間おきにかける青梗菜だよw。

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    1. これはこれはありがとうございます^^
      でも「赤巻紙・白巻紙・黄巻紙三回な!」とか言われてもできないしなぁ(笑)

      いや、本当に、気遣ってくれて、どうもありがとう。

      いづれそのやうなときもあらうかと思ひます。^^


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  2. こんばんは。
    僕もいろいろ傷ついたな。
    しかし、同時に、いろんな人を傷つけてきた。
    因果応報というか、人を傷つけたら、また、人に傷つくのは当然とも言える。
    内観療法というのをやっていて、要は、過去の自分を見つめるんだけど、父親とか母親とか、親しい人に
    1,して貰ったこと
    2,してあげたこと
    3,迷惑をかけたこと
    の3つを、3〜6歳、7〜9歳、と、だいたい3歳おきに、父親とか母親とか対象を決めて思い出すのだけど〜例えば、今日は、7〜9歳の母親に対してとか〜、1,3は思い出せるけど、2の、してあげたことなんて何にも思い出せないんですよね!
    すると、自分は迷惑ばかりかけた罪深い人間じゃないかと思えてくるんですよ本当に。
    親鸞の「地獄は一定すみかぞかし」とは、本当だなと。
    実際、この、内観療法って、浄土真宗の吉本伊信という人がはじめたんですよね〜〜。
    こんなんで、自分が変わるかどうか分からないんですが、続けてます。

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    1. こんばんは、okiさん。

      わたしはもう既に小学校時代の細かい記憶なんてありません(苦笑)

      これはわたしの誤読だと思いますが、わたしは所謂「いい人」になろうと思ったことはないんです。まぁ「善人」「悪人」の定義も曖昧だし人それぞれだと思いますが。
      ただこれだけは言えるのは「自分は善人だ」と思っている人よりも「自分は悪人だ」と感じている人に魅力を感じます。

      わざわざコメントをありがとうございました^^

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