2018年9月27日

引きこもり雑考


二階堂奥歯は『八本脚の蝶』の2003年1月8日の日記にこのように書いている。

「新井素子『くますけと私』は優れたぬいぐるみ小説である。破綻した親子関係による社会不適応の少女成美とそのぬいぐるみを描いたこの小説はぬいぐるみホラー、サイコホラーと呼ばれ、確かにぬいぐるみの持つこのような面をあらわしている。
しかし、彼女の違和は社会に向けられたものであり、その違和は状況の変化によって解消しうるものである。また、仮に成美の精神が崩壊しても、成美のいる世界は崩壊しないだろう。彼女は家庭や学校に居場所がないだけで、世界に居場所がないわけではない。
このような状態は確かに深刻なものである。しかし、深遠なものではない。」

探しているのは社会に対する違和感ではなくて、世界に存在することへの違和感を持つ者とぬいぐるみの物語。
世界に対する違和感を感じる主人公はより抽象的な存在だ。それは社会の中の一個人ではなく、世界があらわれでる場としての主体という性格を強く帯びている。
従って主人公が変容するとき世界は変容し、私が崩壊するとき世界は崩壊するのだ。
そのような人物にとってぬいぐるみは極論すれば自我の崩壊と世界の崩壊をくいとめる者、世界守護者とさえ言えるのではないか。
(下線Takeo)



二階堂奥歯は「社会」と「世界」は別のものだと言っている。しかしわたしにはその相違がよくわからない。
「社会」と「世界」はどのように違うのか?この両者について、例えばどのような類比が可能だろう?

わたしは、自分にとっての「外の世界」-「外界」を、「社会」と「世界」とに分けて考えたことはない。また両者を分けて考える必要を感じたことがない。これは社会と世界とは同じものだと言っているのでも、二つを敢えて分ける必要はないと言っているのでもない。単にわたしにはこの相違が解らないだけだ。

彼女が15年前に考察した「社会」と「世界」との相違は、今現在も、明らかに存在しているのだろうか?
ある文化、習慣、生活様式、思考様式を包摂した「社会」に馴染めない者が、まったく別の「社会」で生きることができるという可能性はあるだろう。けれども、仮に世界中どこへいっても均質であるとしたら、社会=全世界ではないだろうか?
またもし、やはりそれぞれに特徴があり、異質であるとしても、現実のレベルでの「移住」「亡命」は誰にでも出来るわけではない。引きこもりを抱えた家庭、或いは引きこもっている本人が、「異なる社会」つまり単純に言えばこの国以外の場所に移住し、そこに根を張って暮らせる比率は1000人にひとり(一所帯)くらいのものではないだろうか?
少なくともわたしは国外へ移住できるような財力も、語学力も、また特別な能力才能も持ち合わせてはいない。更にその新天地がスマートフォンやipadに溢れていないという保証もない。
そしてなによりも、デジタル機器が遍く行き渡っているとすれば、社会と世界の境はとっくに消滅しているはずだ・・・


世界或いは社会とわたしを融和させることができるのは、唯一心を許せる友人の存在だ。
彼 / 彼女は、わたしにとって、鎧にも、楯にもなって、世界からわたしを守護してくれるだろう。
いや・・・わたしには今の時代、わたしにとっての「新世界」というものがどういうものであるのか、まるで見当もつかないのだ。もちろん「そこ」で暮らしている人たちがどういう存在であるのかも。見知らぬ世界である以上、「友人」の概念もおそらくわたしの持つそれとは異なっているのだろう。

今のわたしはさながら1970年代に作られたSF映画『SF / ボディスナッチャー』の登場人物のようだ。

そうであるにしても、わたしは二階堂奥歯の考えた「社会と世界との相違」とはどういうものであるのか知りたいと思う。


ー追記ー

● 一般に、引きこもりに対する「引きこもる理由」についての議論には、「審美観に由来するもの」そして「社会乃至世界に自分が存在していることに対する違和感」という観点が抜け落ちている気がする。


●「引きこもりからの生還」或いは「脱引きこもり」といった表現を見聞きするたび、
彼らはいったい「何処から」ー「何処へ」、「生還」または「脱出」したのかを訝る。
少なくともわたしにとっての「引きこもり」=「外界との不調和」とは、自己が、「わたし」が、この世界に存在していること自体に対する違和感であり、惑乱に他ならない。



この人生は一の病院であり、そこでは各々の病人が、ただ絶えず寝台を代えたいと願っている。
ある者はせめて暖炉の前へ行きたいと思い、ある者は窓の傍へ行けば病気が治ると信じている。
私には、今私が居ない場所に於いて、私が常に幸福であるように思われる。従って移住の問題は、絶えず私が私の魂と討議している、問題の一つである。

「私の魂よ、答えてくれ、憐れな冷たい私の魂よ、リスボンヌに行って住めばどうであろう?
あそこはきっと暖かだから、お前も蜥蜴のように元気を恢復するだろう。あの街は水の滸りにあって、人のいうには、それはすっかり大理石で造られていて、そこの住人たちは、樹木をすっかり抜き棄ててしまうほど、植物を憎んでいるということだ。だからその、光線と鉱物と、それらを映す水とばかりで出来ている風景こそ、お前の趣味にも合うだろう!」

私の魂は答えない

「お前は運動するものを眺めながら休息するのが、それほど好きな性分だから、和蘭へ行ってあの至福の土地に住みたくはないか?美術館でその絵を見てさえ、屡々お前の感嘆したあの国では、恐らくお前の気分も紛れることだろう。林立するマストや家並の下に繋がれた船の好きなお前は、ロッテルダムをどう思う?」

私の魂は黙っている

「バタビアの方がお前の気に入るだろうか?あそこでは、熱帯地方の美と融合した、欧羅巴の精神が見られるだろうが。」

一言も答えない。── 私の魂は死んだのだろうか?

「それではお前は、もはや苦悩の中でしか、楽しみを覚えないほどに鈍麻してしまったのか?もしそうなら、いっそそれでは、死の相似の国に向かって逃げ出そう・・・。憐れな魂よ!私がすべてを準備しよう。トルネオに旅立つべく、我らは行李を纏めよう。そしてなお遠くへ、バルチックの尖端へ赴こう、更になお遠くへ、出来るなら、人生から遠ざかって、我らは極地へ赴こう。
そこでは太陽が、斜めにのみ地上を掠め、緩慢な昼と夜との交替が、変化を減じて、虚無の半身なる単調を増している。そこで我らは、暗黒の永い浴みに涵ることができるだろう。そしてその時、我らを慰める北極光が、地獄の煙火の反映のような、その薔薇色の花束を、時々我らに贈るだろう!」

終いに私の魂が声を放ち、いみじくも私にむかってこう叫んだ、
「どこでもいい、どこでもいい・・・ただ、この世界の外でさえあるならば!」

『巴里の憂鬱』より「この世界の他ならどこへでも」  'Anywhere Out Of The World' C. ボードレール 三好達治訳 新潮文庫











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