2018年9月21日

とりとめもなく


先日、このブログの方向転換を告知して以来、もともと少なかったブログへの訪問者が急速に減っている。それほど悪い気分ではない。なんとなく、自分が少しづつ、現世から遠のいていくような感じがして、わるくない。それにしてもこんな奇形ブログでも、毎日読みに来てくれる人がいるのだろうか?いるとしたらいったい何が面白くて?
真剣に捉えるほどのことはなにひとつ書いていない。なにひとつ。



昨年秋ごろこんなことがあった。

先日地下食品街に行き、なにか買ってゆくものはないかと自宅に電話を掛けようと、地下トイレ横の公衆電話に行きましたが、そこには既に見慣れたピンク色の電話の姿はありませんでした。
わたしも家族も、携帯電話を持つ習慣がなく、食料品の買い忘れなどの連絡に、しばしばあの公衆電話を利用していたので、電話が無くなってとても不便な思いをしています。

全ての利用客が携帯電話を持っているという前提はどこから来るのでしょうか?
また持ってない少数派は、あるところまで足を運んでもらうさという怠慢・傲慢な態度はどこから来るのでしょうか?
別にうちは「すべての客」に満足なサービスを提供するつもりはないし、そもそも遺漏のないサービスなど絵に描いた餅だと開き直るつもりでしょうか?

脚の悪い方も少なくない高齢の利用者の多い食料品街から、公衆電話を撤去することは、従来のサービスの切り捨て、廃止ではありませんか?
これは酷薄ではありませんか?
月に数回の利用しかない?それは撤去の妥当性になりますか?」

これに対して、「駅ビル」から返答があった。

「この度は公衆電話の撤去によりご不便をおかけいたしまして、誠に申し訳
ございません。

当社店舗内の公衆電話につきましては、NTTが管理をしておりました。
以前から公衆電話撤去のお話があり、延長をお願いして設置をしており
ましたが、本年正式に撤去が決定したとのお話があり、西国分寺レガの
1階に1台を残し、にしこくマイン内の公衆電話は全て撤去となりました。

お客様にはご不便をおかけいたしますが、当社で設置・撤去をおこなう
ことは出来ませんので、何卒ご理解賜りたく存じます。」云々・・・

誰もがこんな些細なことと思うだろう。けれどもこんなことが、わたしには、ああ、もう自分は今の時代の人間ではないのだという想いを強く感じさせ、いよいよ厭世観を募らせる大きな、本当に大きな契機となるのだ・・・


最近は一日中ほとんど横になっている。夕方、静かに横になっていると、痛みも、苦しみもなく穏やかな気分で、「ああ、これが末期の床であったら、自分のこれまでの人生を振り返って、何も思い残すことはないなぁ・・・」という、実に穏やかな平静な気分になっていた。
恋をしたこともなく、飛行機に乗ったことも、海外へ行ったことも、仲間と楽しく飲んだことも、車を運転したことも、心から幸福を感じたこともなかったけれど、そもそも何かの間違いで偶々人間に生まれてきた。何にもなかったけど、それでいいじゃないか、という想いにしばし柔らかく包まれていた。
こんな風に死ねれば、素晴らしいのにな・・・





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