2018年9月20日

人間であることの恥


最近はYou TubeでTom Waitsばかり聴いている。彼は優れたバラード・シンガーだ。
もちろん歌詞は解らないけれど。
デヴィッド・ボウイの(曲の)良さは解らないが、トム・ウェイツはいい。
しかしボウイは英国国家からの勲章授与を拒否した。それだけでも拍手に価する。
一見どんなに哀し気な「人間の哀歓」とやらを歌っているようでも、その一方で「国家」「お上」から紫綬褒章など有り難く頂戴しているようじゃ・・・そんな偽善者の歌など聴くには価しないね(ト、肩をすくめる・・・)
受勲者とは畢竟「罪のない恥知らず」の謂いに他ならない。

ボウイの歌は馴染みがなくとも聴く価値はあるが、
後者は、仮にいかに心地よくとも耳を塞ぐべきだ。
日本には一匹狼の美学、強いものにまつろわぬ意気地(いきじ)というものがないのだから仕方がないと言えばそれまでだが。



T.Wを聴きながらHのブログを読む。

「恥」ということについて考える。

「レーヴィはナチズムと強制収容所という時空間から「人間であるがゆえの恥辱」をあぶりだした。不正に妥協し、暴力に屈する恥辱。屈辱。余儀なかったのだ、生きのびるためにはだれでもそうしただろう、と自己を正当化するときに走る恥。卑劣。卑怯。それらを多少なりともかんじることのできた時代はまだしもさいわいであった。」
〔2013年11月2日〕

「生き延びるために」・・・「余儀なく」・・・「恥辱と屈辱にまみれ」・・・

昨夜観たブニュエルの『銀河』のワンシーンを思い出した。
異端審問の場面である。
「自分の主張を誤りであったと認めるなら助けてやる。もし拒むなら火刑に処す。」
けれども、「異端者」は最後まで自分の主義主張を曲げずに刑場に曳かれていった。

「自分は時代に適応する必要のない「一個の遺民」なのだ」と言ったのは誰であったか?
誰であろうと、そんな悠長なことが言えるはずはない。

生き延びるために「恥辱」にまみれるか、自己の価値観・美意識に殉ずるか・・・

21世紀の日本、東京に生きるということは、即ち「恥」の感覚と共に生きることに他ならない。
それは自己への裏切りという「恥」である。
けれどもそれは本当の意味で「わたしが生きている」と言えるのだろうか?
レーヴィは何故最後に自ら命を絶ったのか。
西部邁は?

またもやニーチェの言葉を思い出した。

「いつの日か、最早自分自身を軽蔑することすらできないような、最も軽蔑すべき人間たちの時代が訪れるだろう」





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