2018年9月28日

手帖より


●これ前に書いたことだが、「本が無ければ世の中は地獄だ」というブコウスキーの言葉を裏返せば、「この世は地獄だ、だから本が必要だ」ということになるだろう。
そして更に敷衍すれば、世の中を憂しとやさしと思わぬ者たちにとって、何故文学や哲学が必要あるのか?という疑問符に行きつく。

エミリー・ディキンソンだったか、アリストテレスであったか、「教養とは富めるときは身の飾り、病めるときは心の避難所」という言葉をのこしている。「身の飾り」を否定はしないが、心身共に健康で壮健な者たちが手慰みに語る文学や哲学・・・それは単に「虚栄」でしかないのではないか。
真に哲学を必要としているのは篤く病める者、深く傷ついた者、悩み多き者たちだ。
健康な者が「嗜好品」として「遊戯」として、「飽食」「美食」として哲学を語ることが、何故かとても不健康なことのように思える。何故なら、彼らは「知」という一片のパンに飢えているようには見えないのだ。


●わたしは自分の読みたいようなブログを書きたいと思う。今書いているようなものは、決して好んで書いているわけではない。本当はもっと映画や音楽、アートや文学について語りたい。そう、10年前、まだ友達がい、自由に外に出られていた頃に書いていたような。・・・けれどもいまのわたしは、このような、日々の悲嘆をぼそぼそと綴ることしかできない。簡単に言えば、「生きるとはどういうことか?」がわからないからだ。


●先日引用した薬師寺天膳のブログ、 混ぜるな!危険!ネガティヴが感染しますに、再び共鳴する。 

9月24日の投稿より引用する

しかしどうしてこんなにも仕事が嫌なのか。
我ながら不思議で仕方ない。
仕事なんてそんなものか。
皆が一様に同じことを思っていて、
その気持ちを休日に切り替えられるか、
できないのか。
その違いだけかもしれない。

俺の休日の睡眠時間はとてつもなく長い。
酷いときは12時間くらい寝ている。
寝ている時だけは幸せ。
正確に表現すると「不幸せではない状態」
要するに起きている時は、
嫌な事しか考える事ができない。
寝ている時は「無」
何も考えていない。

結局のところ「心の病」なんだな、
と痛感させられる。
起きている時に楽しい事を考えたり、
感じることができないのだから。
だから死にたいのだと思う。
考えることをやめたい。放棄したい。
そういう事なのだろう。
本当にこの話はとりとめがなく、
ずっとループしている。
下らない。詰まらない。
(下線Takeo)

世の中にほんとうに仕事が楽しいと思っている人なんて、万にひとりいるかいないかではないのか?およそほとんどの人間は「生きるためだけに生きている」(芥川龍之介)「楽には死ねないから仕方なく生きている」のではないか?
だとすれば、「生まれてきたことが既に敗北なのだ」というエミール・シオランの言葉こそ、正に真実ではないか。

わたしの思いも薬師寺と変わらない。生きていておもしろい事なんて何ひとつない。
けれどもわたしはそれを「心の病」とは考えない。寧ろ、それが人間の本来の姿なのだと思っている。


●わたしや薬師寺が不幸なのは、単に「無智」で「愚か」で「馬鹿者」だからだろうか?
「心の病」また「不幸」とは、畢竟「無智」或いは何らかの「知の欠如」の謂いなのか?
早稲田大学文学部哲学科を卒業し、老舗出版社で編集者として働いていた二階堂奥歯は、25歳で自ら死を選ぶまで、その直前まで、文字通り、「万巻の書」を読んだ。そして自殺した。それは彼女が出会わなかったただ一言ゆえか?読まなかったただ一冊の本の故か?


●「生きるとはどういうことか?」・・・人間は答えのない問いを永遠に抱き続けていられるほど強い存在であるとは思えない。
答えのない問いであっても、誰かに訴えかけずにはいられない。そして人間にその任は勤まらない。だから「神」が必要なのだ。何故なら答えのない問いとは、わたしだけの「秘密」だから。ひとは重大な秘密を、自分一人の胸に、いつまでも隠し続けてはいられない。


●人間は答えのない問いを放棄する権利を持つ。なぜなら人間は答えのない問いを永遠に抱き続けていられるほど強くはない。ところで「答えのない問い」とは他ならぬ自分自身だ。自分自身の実存であり、自身の生の在り方だ。故に彼は時宜により自己であることを放棄する権利を有する。方途は自死から回心まで・・・























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