2018年9月7日

「不時」の病


わたしは東京で生まれ育ったせいか、未だホタルを見たことがない。
子供の頃は夏休みに田舎に行ってひと月ほど過ごしたこともあったが、やはりホタルを見なかった。

歩いて二十分ほどのところに、「武蔵之国国分寺」という寺があり、その傍に湧水で知られた場所がある。10年ほど前に大田区からこちらに引っ越してきたころは、まだそれほどでもなかったが、その後、湧水周辺の散歩道を観光客目当てに「開発」し、「国分寺」の斜向かいには「コーヒーショップ」などもでき、すっかり様子も変わってしまい、それ以来そちらには足を向けなくなってしまった。
湧水の流れに沿って、「蛍が棲息しています、タニシを捕らないで下さい」という表示があるはずだが、周辺の様子が変わる前にも、夏の夜にそこに蛍を見に行ったことはない。



團伊玖磨の『パイプの煙』に、「蛍」という名随筆があるので、ちょっと紹介しよう。


ある夏の夜、彼は夜道を歩きながら仄かな光が点滅しているのを見かけ、それが蛍であると知る。次の日、夕食ののちに、小学校三年生の息子と共に近くの田圃に蛍を見に行く。子供はまだ蛍を見たことがないとわくわくしている。

途中、子供が思い出したように、「団扇がないから取ってくる!」と、家へ引き返してゆく。
何で団扇がいるのかと訊くと、本で見た絵には、みなが団扇で蛍を招いている絵があったからという。
橋の手摺にもたれて子供が戻ってくるのを待っていると、やがて走って来て、団扇はなかったという。彼は、そういえばクーラーを入れてから団扇は使っていなかったと気付く。

「団扇は無くても良いよ。さ、行こう」
僕は仄温かい子供の手を曳いて、橋を渡ると、川向うにひらけている田圃の畦道に向かった。
水を湛えた田には蛙が鳴いていて、その声が近づいてきて、畔を踏んで行く我々の足音に驚くのか、時折、足もとに、蛙が飛び込むらしい水音がした。
田の上には、星明りに透かして、薄い靄がかかっていて、しかし、蛍は見えなかった。
「居ないのね」
「もう少し上の田圃に行ってみよう」
僕たちは畔をたどって上の田に出た。そこに僕達はとうとう待望の蛍の群れを見つけた。どういうわけか、そこに、何も植えてない、半ば沼のようになった抛り出された一枚の田があって、その沼のような荒れた田の隅のあたりに、あるいは草の葉先にとまり、あるいは明滅しながら高く低く飛び交っている小さい光の粒々を僕達はみたのである。
「綺麗だね、綺麗だね、パパちゃん!」
子供は感動した。そして、これ程迄に美しいとは思っていなかっただけに、ぼくも茫然としてこの光の息遣いを見ていた。
一匹が偶然子供の傍を飛んで畔の草に落ちた。子供はそれを掴まえて、
「あちちち、あちちち」と叫んでいる。
蛍の火は熱くないんだよと僕が笑いながら説明しても、子供はなかなか納得しなかった。
「放してやろうね、こんな綺麗なものを捕えては可哀想だ」
懐中電灯を点けて、畔の畔の草の上で掴まえた蛍を調べていた子供は、矢張り平家蛍だった、蛍はにおいがするね、と言いながら、
「さあ、飛んでいけ、飛んでいけ」とその一匹を投げた。光の粒は弧を描き、明滅しながら靄の中に消えた。
僕達は、暫く、小さく息遣いする光の群れを眺めてから、橋を渡って帰ってきた。
橋の上で、一緒になった隣のお百姓さんがいった。
「そうですかね。蛍は農薬を撒くようになってから減ってしまってね、殆どいなくなりましたなあ。昔は、この辺の田圃は蛍の火の海だったもんだがなあ」
農薬のために蛍がいなくなる。米という現実、蛍という情緒、その両者は併存することは難しかろう。
しかしクーラーで団扇が消え、農薬で蛍が絶えることを考えるだけでも、日本人の情感と日本の芸術の基調を成していた”季節感”というものが、我々の周囲から消えて行きつつあることを考えさせられる。
温室栽培と遠隔地からの輸送が可能になったことから、既に花々にさえ季が失われ、昔、夏の季に入れられていた香水も、今はクリスマスのころが最も売り上げが多いという。
蛍消え、団扇消え、花や香水も季を失う時代。
我々の心の中の歳時記はどうなっていくのだろう。
(1965年)

「蛍の火の海」この光景を想像しただけで圧倒される。
今年の夏、この国は「驚くべき力で破壊する自然の姿」を幾たびも目の当たりにした。
昨今は一年の半年近くが「夏」であるような国に、わたしたちは住んでいる。
しかし人間がその気になれば、自然は今でも、わたしたちをその大きな力で優しく包み込み、安らぎを与えてくれるはずだ。時計の針を戻すことはできなくとも、せめてとどめることができれば。







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