2018年9月19日

いくつかの断想


「いのちの電話」に掛ける。約80分ほど話す。
本当は喫茶店や居酒屋でざっくばらんにあれこれと話してみたいけれども、誰もわたしなど相手にしてくれないので、ボランティアに話し相手になってもらうしかないのだ。

電話の向こうで、40代くらいの落ち着いた声の女性が、「・・・たしかに、石牟礼道子さんも「東京は卒塔婆の街だ」と仰ってましたね・・・」高層ビルの林立・乱立を、死の象徴である卒塔婆に見立てたのだろう。しかしわたしはそのアナロジーに違和感を覚えた。
「東京」と「卒塔婆」は、どうしたって対極的な存在に思える。
東京は墓地とは最も縁遠い空間だ、そこには静けさも陰翳もなければ、人間の存在・・・その生と死についての謙虚な沈思さえありはしない。
今の世界は、少なくともこの国の現代に於いては、「死して、なお安らがず」といった印象しか与えない。

「あなたはご自分を「愛されざる者」といって、愛されることだけを求めていらっしゃるようだけど、ご自身は誰かを愛したことがありますか?」と訊かれる。
わたしにはよく彼女の言っていることがわからなかった。
確かにわたしは「愛されること」に渇(かつ)えている。それは嘗て、誰かに愛されたという自覚がないからだ。そして、人は知らず、わたしは「愛されることなくして生きてゆく」ことはできない。

そもそも「無私の愛」などというものがあるのだろうか?
わたしが木を、植物や動物を愛するのは、彼らがわたしに安らぎを与えてくれるからだ。
昨日書いたように、障害を持った者や、弱き者たち、深手を負った者たちを、わたしよりも「上」の存在だと考えるのも、同じように彼らの存在が、わたしに慰安を与えてくれるからだ。
母親が我が子を愛する。彼女にとって、愛情を与える対象が存在するということそのものが「見返り」なのだ。

改めて電話口で訊かれた「あなたは人を愛したことがありますか?」という言葉を繰り返してみる。


彼女たちを「傾聴ボランティア」と呼ぶことは出来ないだろう。わたしは寧ろ向うの疑問、意見、異議を聞きたいのだ。安易に引き下がらず、お互いに意見を述べ合うことに憧れがある。一昔、ふた昔も前の大学生たちのように。議論こそ学生生活の醍醐味といっていい。
一方で、「傾聴者」の何よりの美点は「自分の意見・視点・思考を相対化できなければ勤まらない」という点だ。人の愚昧さの著しい特徴は、自己の視点を相対化し得ないことにある。相対化し得ないのには訳がある。右も左も同じ意見、同じ価値観の者たちでぎゅう詰めになっていて身動きが取れないのだ。大勢の人ではち切れそうな満員電車と同じで、皆が隣に寄り掛かっていれば、誰も自分の足で自分の身体を支える必要もないというわけだ。

石川九楊だったか、「人」という字は、お互いがもたれ(支え)合っている形象ではなく、あれは、人が自分の二本の足で大股に歩いている部分を表していると言っていたのは。無論後者が本当であるに違いない。












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