2007年、フェイスブックが台頭する以前の世界最大のSNSだった’マイスペース’を始めた。
それまで日本のどんなコミュニティーや掲示板のようなところへいっても、居心地の良さを感じたことがなかったから。そして常に孤立し、対立していたから。
日本語版のマイスペースもあったが、利用者をあまり見たことがない。
そしてわたしにフレンドリクエストを送ってくれるのはほとんど全てが海外のアート好きたちだった。稀に(本当に稀に)日本人からリクエストが来たこともあったが、当時日本人を避けていたわたしは、彼らを遠ざけていた。
わたしは満足に英語を話せないが、片言でも彼らとやり取りしていると、次第にこれまで隠れていた別の人格が表面に現れてくるようになる。
例えば、わたしは面接の場などで「あなたの長所は?」と訊かれても、口ごもってしまう。自分のなかにどうしても「長所」=「良いところ」を見出すことが出来ないからだ。
けれども、海外の友達と(ネット上で)話していると、別に彼らがわたしを褒めているわけではなくても、わたしにもわたしなりの取り柄があるんじゃないかと思えてくる。
彼らは、その人らしさや個性=「そのひとの良さ」だと思っているように感じる。日本では往々にして「違い」すなわち「間違い」という発想が幅を利かせているが、外国ではそうではない。
日本の面接で「短所」を挙げろと言われれば、いくらでも列挙することができるだろう。けれども、それを海外の彼ら / 彼女らは「それがタケオらしさだよ」と言ってくれる。
人と違うこと、特異なキャラクターであること、変わっていること、皆と違ったモノの見方をすること・・・それらは美点でこそあれ、決して短所などではないと、彼らから教わったような気がする。
わたしに関して言えば、この生き辛さは、主に環境によるものだと思っている。
無論インターネットでいくらか言葉を交わし、彼らのサイトに、日本のそれでは見ることのできない美しさ、カッコよさを感じたとしても、それは所詮ツーリストの感覚と変わらないのかもしれない。
けれども、わたしが自分のなかに「良さ」を見出すことができないのは、自分が生まれ育ち、そして現在も生活しているこの国に、「良さ」を見つけ出すことができないことと同根なのではないかと思っている。
不粋を承知で付け加えるなら、日本では、「日本で一般に『長所』とされているものを、お前はいくつ持っている?」となるが、外国では、その人らしさそれ自体が「長所」足り得るのだ。その人らしさとは、言葉を換えれば他の人との「差異」のことだ。
少なくとも、日本のわたしと、海外のわたしは同じではない。否、殆ど別人でさえあるのかもしれない。
久し振りにTumblrのファッショナブルな頁をため息をつきながら眺めながらそんなことを思った。
「列車の中での読書、イタリア」(1991年)
|
eyes. © KENZO |
ケンゾーの「アイズ」、来てみたいとも思うけど、これはどう見ても「ねじ式」だ。
'LUCKY YOU' (ラッキー ユー)
こんな遊び心も。
上記の写真はみなニューヨーク在住の女性のTumblrから。こういうテイスト大好き!
◇
ネット上とは言え、言葉が通じない者同士が心の繋がりを感じているということを、言葉で説明することは難しい。
それは同じ花を見て、一言も言葉を交わさずとも、「綺麗だね」という気持ちを共有していることと同じだ。
Charles Mingus "Goodbye Pork Pie Hat" from "Mingus Ah Um"
チャールズ・ミンガス「グッバイ・ポーク・パイ・ハット」(1959年)