2018年9月29日

秋、感興なし


自治体の行っている無料健康診断は明日まで。
「健康であること」の意味もわからず、また「健康になれるはずもない」身でありながら、天気もいいということもあって、久しぶりに自転車に乗って、行きつけの内科に行ってきた。

秋の空の下、比較的木々の多い公園を抜け、金木犀の香る広場の横を自転車を漕いで医院に向かったが、何の感慨もない。久しぶりに外の空気を浴びたのに。太陽の光の下で金木犀の匂いを感じたのに。わたしのこころはまるで何も感じていないようだった。

検診は20分ほどで終わった。待合室のテレビがニュースを流している。
普段テレビを見ないわたしは、見るともなくぼんやりと眺めていたが、動く画面を見ているのは疲れる。
行きも帰りも同じ道で、わたしの好きな、昭和時代の、最早あまり住人のいない都営住宅の並ぶ道の脇を走ったが、ここでも心の針は幽かに動いた程度だった。

やはりわたしは既に失われた過去と共に立ち去る方がいいのかもしれない。と、健康診断を受けた帰路にそんなことを思っていた。


Danny Kaye - I'll take you dreaming

ダニー・ケイ「アイル・テイク・ユー・ドリーミング」(1955年)

この歌を聴いていると、ジュディー・ガーランドの「虹の彼方へ」'Somewhere over the rainbow' を思い出す。自由に外に出ることもままならないわたしにとって、
「此処ではない何処か」ーSomewhere は、いつも「夢の中」にしかない。













2018年9月28日

手帖より


●これ前に書いたことだが、「本が無ければ世の中は地獄だ」というブコウスキーの言葉を裏返せば、「この世は地獄だ、だから本が必要だ」ということになるだろう。
そして更に敷衍すれば、世の中を憂しとやさしと思わぬ者たちにとって、何故文学や哲学が必要あるのか?という疑問符に行きつく。

エミリー・ディキンソンだったか、アリストテレスであったか、「教養とは富めるときは身の飾り、病めるときは心の避難所」という言葉をのこしている。「身の飾り」を否定はしないが、心身共に健康で壮健な者たちが手慰みに語る文学や哲学・・・それは単に「虚栄」でしかないのではないか。
真に哲学を必要としているのは篤く病める者、深く傷ついた者、悩み多き者たちだ。
健康な者が「嗜好品」として「遊戯」として、「飽食」「美食」として哲学を語ることが、何故かとても不健康なことのように思える。何故なら、彼らは「知」という一片のパンに飢えているようには見えないのだ。


●わたしは自分の読みたいようなブログを書きたいと思う。今書いているようなものは、決して好んで書いているわけではない。本当はもっと映画や音楽、アートや文学について語りたい。そう、10年前、まだ友達がい、自由に外に出られていた頃に書いていたような。・・・けれどもいまのわたしは、このような、日々の悲嘆をぼそぼそと綴ることしかできない。簡単に言えば、「生きるとはどういうことか?」がわからないからだ。


●先日引用した薬師寺天膳のブログ、 混ぜるな!危険!ネガティヴが感染しますに、再び共鳴する。 

9月24日の投稿より引用する

しかしどうしてこんなにも仕事が嫌なのか。
我ながら不思議で仕方ない。
仕事なんてそんなものか。
皆が一様に同じことを思っていて、
その気持ちを休日に切り替えられるか、
できないのか。
その違いだけかもしれない。

俺の休日の睡眠時間はとてつもなく長い。
酷いときは12時間くらい寝ている。
寝ている時だけは幸せ。
正確に表現すると「不幸せではない状態」
要するに起きている時は、
嫌な事しか考える事ができない。
寝ている時は「無」
何も考えていない。

結局のところ「心の病」なんだな、
と痛感させられる。
起きている時に楽しい事を考えたり、
感じることができないのだから。
だから死にたいのだと思う。
考えることをやめたい。放棄したい。
そういう事なのだろう。
本当にこの話はとりとめがなく、
ずっとループしている。
下らない。詰まらない。
(下線Takeo)

世の中にほんとうに仕事が楽しいと思っている人なんて、万にひとりいるかいないかではないのか?およそほとんどの人間は「生きるためだけに生きている」(芥川龍之介)「楽には死ねないから仕方なく生きている」のではないか?
だとすれば、「生まれてきたことが既に敗北なのだ」というエミール・シオランの言葉こそ、正に真実ではないか。

わたしの思いも薬師寺と変わらない。生きていておもしろい事なんて何ひとつない。
けれどもわたしはそれを「心の病」とは考えない。寧ろ、それが人間の本来の姿なのだと思っている。


●わたしや薬師寺が不幸なのは、単に「無智」で「愚か」で「馬鹿者」だからだろうか?
「心の病」また「不幸」とは、畢竟「無智」或いは何らかの「知の欠如」の謂いなのか?
早稲田大学文学部哲学科を卒業し、老舗出版社で編集者として働いていた二階堂奥歯は、25歳で自ら死を選ぶまで、その直前まで、文字通り、「万巻の書」を読んだ。そして自殺した。それは彼女が出会わなかったただ一言ゆえか?読まなかったただ一冊の本の故か?


●「生きるとはどういうことか?」・・・人間は答えのない問いを永遠に抱き続けていられるほど強い存在であるとは思えない。
答えのない問いであっても、誰かに訴えかけずにはいられない。そして人間にその任は勤まらない。だから「神」が必要なのだ。何故なら答えのない問いとは、わたしだけの「秘密」だから。ひとは重大な秘密を、自分一人の胸に、いつまでも隠し続けてはいられない。


●人間は答えのない問いを放棄する権利を持つ。なぜなら人間は答えのない問いを永遠に抱き続けていられるほど強くはない。ところで「答えのない問い」とは他ならぬ自分自身だ。自分自身の実存であり、自身の生の在り方だ。故に彼は時宜により自己であることを放棄する権利を有する。方途は自死から回心まで・・・























2018年9月27日

引きこもり雑考


二階堂奥歯は『八本脚の蝶』の2003年1月8日の日記にこのように書いている。

「新井素子『くますけと私』は優れたぬいぐるみ小説である。破綻した親子関係による社会不適応の少女成美とそのぬいぐるみを描いたこの小説はぬいぐるみホラー、サイコホラーと呼ばれ、確かにぬいぐるみの持つこのような面をあらわしている。
しかし、彼女の違和は社会に向けられたものであり、その違和は状況の変化によって解消しうるものである。また、仮に成美の精神が崩壊しても、成美のいる世界は崩壊しないだろう。彼女は家庭や学校に居場所がないだけで、世界に居場所がないわけではない。
このような状態は確かに深刻なものである。しかし、深遠なものではない。」

探しているのは社会に対する違和感ではなくて、世界に存在することへの違和感を持つ者とぬいぐるみの物語。
世界に対する違和感を感じる主人公はより抽象的な存在だ。それは社会の中の一個人ではなく、世界があらわれでる場としての主体という性格を強く帯びている。
従って主人公が変容するとき世界は変容し、私が崩壊するとき世界は崩壊するのだ。
そのような人物にとってぬいぐるみは極論すれば自我の崩壊と世界の崩壊をくいとめる者、世界守護者とさえ言えるのではないか。
(下線Takeo)



二階堂奥歯は「社会」と「世界」は別のものだと言っている。しかしわたしにはその相違がよくわからない。
「社会」と「世界」はどのように違うのか?この両者について、例えばどのような類比が可能だろう?

わたしは、自分にとっての「外の世界」-「外界」を、「社会」と「世界」とに分けて考えたことはない。また両者を分けて考える必要を感じたことがない。これは社会と世界とは同じものだと言っているのでも、二つを敢えて分ける必要はないと言っているのでもない。単にわたしにはこの相違が解らないだけだ。

彼女が15年前に考察した「社会」と「世界」との相違は、今現在も、明らかに存在しているのだろうか?
ある文化、習慣、生活様式、思考様式を包摂した「社会」に馴染めない者が、まったく別の「社会」で生きることができるという可能性はあるだろう。けれども、仮に世界中どこへいっても均質であるとしたら、社会=全世界ではないだろうか?
またもし、やはりそれぞれに特徴があり、異質であるとしても、現実のレベルでの「移住」「亡命」は誰にでも出来るわけではない。引きこもりを抱えた家庭、或いは引きこもっている本人が、「異なる社会」つまり単純に言えばこの国以外の場所に移住し、そこに根を張って暮らせる比率は1000人にひとり(一所帯)くらいのものではないだろうか?
少なくともわたしは国外へ移住できるような財力も、語学力も、また特別な能力才能も持ち合わせてはいない。更にその新天地がスマートフォンやipadに溢れていないという保証もない。
そしてなによりも、デジタル機器が遍く行き渡っているとすれば、社会と世界の境はとっくに消滅しているはずだ・・・


世界或いは社会とわたしを融和させることができるのは、唯一心を許せる友人の存在だ。
彼 / 彼女は、わたしにとって、鎧にも、楯にもなって、世界からわたしを守護してくれるだろう。
いや・・・わたしには今の時代、わたしにとっての「新世界」というものがどういうものであるのか、まるで見当もつかないのだ。もちろん「そこ」で暮らしている人たちがどういう存在であるのかも。見知らぬ世界である以上、「友人」の概念もおそらくわたしの持つそれとは異なっているのだろう。

今のわたしはさながら1970年代に作られたSF映画『SF / ボディスナッチャー』の登場人物のようだ。

そうであるにしても、わたしは二階堂奥歯の考えた「社会と世界との相違」とはどういうものであるのか知りたいと思う。


ー追記ー

● 一般に、引きこもりに対する「引きこもる理由」についての議論には、「審美観に由来するもの」そして「社会乃至世界に自分が存在していることに対する違和感」という観点が抜け落ちている気がする。


●「引きこもりからの生還」或いは「脱引きこもり」といった表現を見聞きするたび、
彼らはいったい「何処から」ー「何処へ」、「生還」または「脱出」したのかを訝る。
少なくともわたしにとっての「引きこもり」=「外界との不調和」とは、自己が、「わたし」が、この世界に存在していること自体に対する違和感であり、惑乱に他ならない。



この人生は一の病院であり、そこでは各々の病人が、ただ絶えず寝台を代えたいと願っている。
ある者はせめて暖炉の前へ行きたいと思い、ある者は窓の傍へ行けば病気が治ると信じている。
私には、今私が居ない場所に於いて、私が常に幸福であるように思われる。従って移住の問題は、絶えず私が私の魂と討議している、問題の一つである。

「私の魂よ、答えてくれ、憐れな冷たい私の魂よ、リスボンヌに行って住めばどうであろう?
あそこはきっと暖かだから、お前も蜥蜴のように元気を恢復するだろう。あの街は水の滸りにあって、人のいうには、それはすっかり大理石で造られていて、そこの住人たちは、樹木をすっかり抜き棄ててしまうほど、植物を憎んでいるということだ。だからその、光線と鉱物と、それらを映す水とばかりで出来ている風景こそ、お前の趣味にも合うだろう!」

私の魂は答えない

「お前は運動するものを眺めながら休息するのが、それほど好きな性分だから、和蘭へ行ってあの至福の土地に住みたくはないか?美術館でその絵を見てさえ、屡々お前の感嘆したあの国では、恐らくお前の気分も紛れることだろう。林立するマストや家並の下に繋がれた船の好きなお前は、ロッテルダムをどう思う?」

私の魂は黙っている

「バタビアの方がお前の気に入るだろうか?あそこでは、熱帯地方の美と融合した、欧羅巴の精神が見られるだろうが。」

一言も答えない。── 私の魂は死んだのだろうか?

「それではお前は、もはや苦悩の中でしか、楽しみを覚えないほどに鈍麻してしまったのか?もしそうなら、いっそそれでは、死の相似の国に向かって逃げ出そう・・・。憐れな魂よ!私がすべてを準備しよう。トルネオに旅立つべく、我らは行李を纏めよう。そしてなお遠くへ、バルチックの尖端へ赴こう、更になお遠くへ、出来るなら、人生から遠ざかって、我らは極地へ赴こう。
そこでは太陽が、斜めにのみ地上を掠め、緩慢な昼と夜との交替が、変化を減じて、虚無の半身なる単調を増している。そこで我らは、暗黒の永い浴みに涵ることができるだろう。そしてその時、我らを慰める北極光が、地獄の煙火の反映のような、その薔薇色の花束を、時々我らに贈るだろう!」

終いに私の魂が声を放ち、いみじくも私にむかってこう叫んだ、
「どこでもいい、どこでもいい・・・ただ、この世界の外でさえあるならば!」

『巴里の憂鬱』より「この世界の他ならどこへでも」  'Anywhere Out Of The World' C. ボードレール 三好達治訳 新潮文庫











2018年9月26日

再び 心を病むとはどういうことか?


昨今のわたしの心を占めているのは、「心を病む」とは、そして「健康である」とはどういうことか?依然としてこの答えは見つからない。

木村敏でもいい。中井久夫でもいい。或いは市井の無名の知恵者でもいい。
誰かに訊いてみたい。「心を病む」とはどういうことですか?
「健康である」とは・・・



これまで繰り返し書いてきたことだが、わたしにとって「健康である」ということは、わたしという個人の身体に異常がないということではなく、精神(こころ)をも含めた健康とは、「わたしをとりまく環境・世界との「調和」「融和」」に他ならない。
心身と外界が軋轢なく溶け合っている場合には、その融和した状態が意識に上ってくることもないだろう。つまり「健康」とは「健康であることを意識しないでいられる状態である」ということもできる。
逆に言えば、一個の身体の何処にも「病気」がなくとも、彼が外界と友好的に調和できていない場合、その不調和が「心の病」と言われるのではないか。
だからわたしは「健康な囚人」や「戦場での健康」「(動物園の)檻の内での健康」という概念はありえないと思っている。何故なら彼の心は完全なる自由を、その環境によって剥奪されているのだから。
仮に「刑務所」「戦場」「動物園」の中からひとつを選べと言われれば、わたしは戦場を選ぶだろう。おそらく唯一、自死(の自由)が可能な場所であるから。



わたしがより知りたいのは、病んだ心が「癒える」とはどういうことか、ということだ。人が上記のように、自己をとりまく環境と融和し得ず、友好的関係を結べない場合、心が癒えるということはあり得ないはずだ。
無論多くの場合、会社、学校、家庭、その他の不協和音を生じる場所から、融和しうる場へ生活の基盤を変えることによって、「癒える」ことが多いのだろう。
けれども、たとえば自国(自国民)と合わない。時代と合わない。といった場合、いったい何処へ身を移すことが可能だろうか?
過去へ戻ることは言うまでもなく、移住すら容易ではない。



詳しい知識のないままに憶測で言うのだが、わたしは「認知行動療法」というものに懐疑的だ。世界の認識の方法に「正しい認識」と「誤った認識」というものがあるはずがない。もしそうであるなら、ゴッホやターナーの世界を見る視点は明らかに狂っている。
つまり世界はわたしたちが認識する仕方で存在しているのであって、世界という客観的な実体が、わたしの認識とは別個に存在しているわけではない。
けれども同時に、わたしは世界は「穢土」であると考えている。そしてこのような「世界中どこへ行っても東京のようなものだ」という認識乃至思い込みは、まったくの的外れではないにせよ、ひょっとしたらまだ地上には「東京的ではない、日本的ではない」場所があり、文化があり、生活があるのかもしれない。それが必ずしもアラスカやアフリカではなくとも。
それを知ることは無駄なことではないだろう。
わたしを苦しめるのは世界の、人間の同質性であって、異質であること、「いま・ここ」と違うことが、せめてもわたしを慰めるのだ。



わたしは自分を「狂者」だとおもっている。
「狂者」と「こころを病んでいるもの」とは似ているようで違う。
こころを病んだ者は、きっと「修繕」の可能性を持っている。
けれども「狂者」はそれ自身全い実存であって、何らかの欠損の結果ではない。
つまりそれは「壊れてしまった人間」とは異質の存在だ。


 あの老者と、
 また遇いたい。
 遇ったら問いたい。
〈壊れゆく者に惹かれるのはなぜ〉
〈逝く者に憧れるのはなぜ〉
〈失意のために残された活力のみでも
 じゅうぶん生きられるのはなぜ〉
〈狂える者に神を感じるのはなぜ〉
〈まったい正気をこうまで憎むのはなぜ〉
〈いみじき過誤ある者に敬意をおぼえるのはなぜ〉と。
 ー 辺見庸 詩文集『生首』より「夜行列車」(2010年)


わたしは辺見庸に聴きたい、
あなたは、ふたりの「親友」をこの2年のうちに亡くしたはずだ。
ひとりは約40年に及ぶ確定死刑囚としての獄中生活の末の拘置所内での病死。
そしてもう一人はあなたが最も忌むはずの死刑という形で。
彼らのいない世界に、なぜまだ生きられるのか?
なぜあなたは憤死しないのか。
なぜあなたは愧死しないのか。
なぜ書けるのか?
なぜクスとでも笑えるのか?
それは彼らに対してではなく、あなた自身に対する背信行為ではないのか?
いったいあなたは何を、或いは誰を喪った時に真に狂い、死するのか?

「喪失後の世界」になぜ、あなたは生き永らえることができるのか?

わたしの苦しみはすべてそこにある。
失った友人。
失った風景。
それゆえ失った自分自身・・・

Everytime we say goodbye I die a little...

「さようならを言うたびにわたしのなかで何かが少しづつ死んでゆく。」

古いラブソングの歌詞だが、この言葉のみを取り上げれば、何かを喪うたびにわたしは少しづつ死に近づいてゆく。あなたの散文詩(?)のタイトルを借りれば、「解体」されてゆく。

俗に「親亡き後」などという話題を時々目にする。
わたしは「親亡き後」のことを考えたことはない。

世界に唯一人の味方もなく、どうして生きて行けるのか?
「味方」とは「友人」「親友」以上の存在だ。つまりわたしを力強く抱きしめてくれる存在のことだ。

わたしはいつも「親亡き後」ということばを聞くたびに、
いったい彼らには尚生きるに価する何があるのかと訝る。
それほどまでに彼らは「味方」に恵まれているのか、と。


いまについても明日についてもおのれについても問わないことは幸せである。
なにも問わずに、答えのない問いごと、この身体と心を溶暗すべき時が来た。
まず、両の義眼をぽろりぽろりと外そう。耳もどき、鼻もどきもべりべり剥がしてしまえ。声もどきも棄ててしまえ。おまえは全体として一個の窩(くぼみ)になれ。失われた五体を追憶するだけの幻影躰となれ。そして、闇に溶けろ。闇の〈だま〉となれ。やがて、より昏い闇のとしておのれを完成せよ。
ー 同上『生首』より「解体」
      「解体」- Everytime we say goodbye I die a little...  


 












2018年9月24日

きみに夢中さ

パリ、1953年 エド・ヴァン・デル・エルスケン




パリ、1953年 エド・ヴァン・デル・エルスケン


I've got a crush on you - Stacey Kent
「アイヴ・ガット・ア・クラッシュ・オン・ユー」(君に夢中さ)
ステーシー・ケント


2018年9月23日

或る哲学的告白


昨年暮れからフォローしているブログがある。「ブログ村」では『ダメ人間』のカテゴリーに自らを置いている。

今日は久しぶりに「哲学的」「思索的」な内容で、大いに共感するところがあったので、
以下に全文を引用する。

混ぜるな!危険!ネガティヴが感染しますより

「浮世離れ」

平成2018年9月22日(土)
ブログがどんどん凡庸でありきたりな内容へと
変化してしまったことに気づく。

俺は嫌いだった。
世間の話題に合わせて下らないブログを書くことが
何よりも嫌いな筈だった。

そういった意味では仕事をしていない時に
書いたブログの内容の方が今より刺激的で、
良い意味なのか悪い意味なのか分からないが
尖っていたように思える。

無職のころは世の中と強制的に引き離され
いわゆる「孤独」で、世間の流行とか
話題となってることから、大きく遠ざかり、
自身の世界が全てであった。
自身の世界は世間一般のそれと
著しく乖離しており、自身の考えこそが解となるため、
その全ての文章が浮世離れしていたと思う。

しかしいくら障害者枠だからと言っても
「働いている」今の状況では、
世間に合わせざるを得ないといったところか。

どれだけ俺自身が本来「狂気の沙汰」のような
人間であるといっても、
会社に行けばそれなりに猫を被る。
そして世間とか一般とか常識とかいう安い毒が
全身に巡り、脳にまで達し、下らない思考を生み出す。

実に詰まらない。
自分の書いている文章を読み返し
「何と陳腐な内容か」とガッカリする。
文章力がなくても、頭が悪くても、
「自身の世界」は少なからず「独特」だったと思う。
今のこんなありきたりのブログに何の意味があるのか。

休日に独りでいると、我に返る。
即ち、会社にいる俺は全て演じられた自分。
呼ばれれば「はい」と返事をするし、
多少、上司と揉めたりしても、
所詮は「常識の範疇」程度。
本来の俺は常識から逸脱した「狂人」なのだから。




一読、「う~ん」と唸ってしまった。これだけの内容のある投稿には滅多にお目にかかることはない。
わたしにしても、このブログの筆者である薬師寺天膳にしても、屡々自分自身を「狂人」或いは「キチガイ」と呼ぶけれども、それは決して卑屈になっているわけではなく、寧ろ「狂(たぶ)れ人」であることに矜持を抱いている。

彼は今日、ふと「正気」に戻ったのだ、「『狂者』である自己」という本来の自分に。
連休が明ければ彼もまた否応なく「一般人」「正常者」に戻らなければならない。
そう。「喰っていく」ためには「正常」であることを、すくなくともそのように「装う」ことを余儀なくされる。
「狂人」即ち「表現者」であることは許されない。

束の間ではあっても真っ当な人間ー狂者に戻った表現者薬師寺。
この投稿に拍手を送る。















2018年9月22日

嫌なものは嫌


昨年のこと。ふだんあまり出慣れないので、電車で二駅のクリニックに行くのに、余裕をもって出かけたつもりがぎりぎりだった。
駅に着いた時には、すでに予約時間の5分前だった。クリニックは駅から歩いて10分から15分。ちょっと遅れそうだ。
わたしは「今駅ですが、10分ほど遅れるかもしれません」という電話をクリニックに入れたかった。しかし電話が何処にも見当たらない。以前は駅前に2台ほど電話ボックスッがあったはずだが・・・

結局「10分ほど遅れます」ということを伝えるための電話を探すのに15分もかかってしまった。
こういう理不尽で、不条理な世界に生きることが、たまらなく嫌なのだ。

こうして現代人は疑うこともなく、導かれるままに隘路に入り込んでゆく。
そして隘路のアナロジーとして真っ先に思い浮かぶのはベルトコンベアーだ。

なるほどわたしの「抵抗」など所詮は徒労に過ぎない。しかし徒労と知りつつ、拘ることが、わたしには必要なのだ。

携帯電話やスマートフォンを持つ持たないに、いったいどこのだれが気が狂うほどにこだわるだろう。そんなことにいったいだれが命をかけるだろう。
しかしわたしはそうありたいのだ。真実や誇り、虚栄や意地のためではなく、ただ己一個の美意識のために・・・

徒労に賭さずして、なんのわたしの人生か。












2018年9月21日

とりとめもなく


先日、このブログの方向転換を告知して以来、もともと少なかったブログへの訪問者が急速に減っている。それほど悪い気分ではない。なんとなく、自分が少しづつ、現世から遠のいていくような感じがして、わるくない。それにしてもこんな奇形ブログでも、毎日読みに来てくれる人がいるのだろうか?いるとしたらいったい何が面白くて?
真剣に捉えるほどのことはなにひとつ書いていない。なにひとつ。



昨年秋ごろこんなことがあった。

先日地下食品街に行き、なにか買ってゆくものはないかと自宅に電話を掛けようと、地下トイレ横の公衆電話に行きましたが、そこには既に見慣れたピンク色の電話の姿はありませんでした。
わたしも家族も、携帯電話を持つ習慣がなく、食料品の買い忘れなどの連絡に、しばしばあの公衆電話を利用していたので、電話が無くなってとても不便な思いをしています。

全ての利用客が携帯電話を持っているという前提はどこから来るのでしょうか?
また持ってない少数派は、あるところまで足を運んでもらうさという怠慢・傲慢な態度はどこから来るのでしょうか?
別にうちは「すべての客」に満足なサービスを提供するつもりはないし、そもそも遺漏のないサービスなど絵に描いた餅だと開き直るつもりでしょうか?

脚の悪い方も少なくない高齢の利用者の多い食料品街から、公衆電話を撤去することは、従来のサービスの切り捨て、廃止ではありませんか?
これは酷薄ではありませんか?
月に数回の利用しかない?それは撤去の妥当性になりますか?」

これに対して、「駅ビル」から返答があった。

「この度は公衆電話の撤去によりご不便をおかけいたしまして、誠に申し訳
ございません。

当社店舗内の公衆電話につきましては、NTTが管理をしておりました。
以前から公衆電話撤去のお話があり、延長をお願いして設置をしており
ましたが、本年正式に撤去が決定したとのお話があり、西国分寺レガの
1階に1台を残し、にしこくマイン内の公衆電話は全て撤去となりました。

お客様にはご不便をおかけいたしますが、当社で設置・撤去をおこなう
ことは出来ませんので、何卒ご理解賜りたく存じます。」云々・・・

誰もがこんな些細なことと思うだろう。けれどもこんなことが、わたしには、ああ、もう自分は今の時代の人間ではないのだという想いを強く感じさせ、いよいよ厭世観を募らせる大きな、本当に大きな契機となるのだ・・・


最近は一日中ほとんど横になっている。夕方、静かに横になっていると、痛みも、苦しみもなく穏やかな気分で、「ああ、これが末期の床であったら、自分のこれまでの人生を振り返って、何も思い残すことはないなぁ・・・」という、実に穏やかな平静な気分になっていた。
恋をしたこともなく、飛行機に乗ったことも、海外へ行ったことも、仲間と楽しく飲んだことも、車を運転したことも、心から幸福を感じたこともなかったけれど、そもそも何かの間違いで偶々人間に生まれてきた。何にもなかったけど、それでいいじゃないか、という想いにしばし柔らかく包まれていた。
こんな風に死ねれば、素晴らしいのにな・・・





2018年9月20日

沈黙…


「生きたい」のか? 「生きたくない」のか?

自分自身で全く、まったく、わからなくなった時、誰に訊けばいいですか?

そして

「生きたくないのだ」という答えの時。どうすればいいですか?

「生きたいのだ」という答えの場合。どうすればいいですか?



誰かが言う「己の心に訊け。」

自分の心に静かに耳を傾けてみても、心は黙している。

なにを訊いても心は沈黙し続けている。

胸のあたりを黒い緘黙が支配している。

もはやこころはわたしに何も語りかけてはこない。

心は夙に揮発してしまっているのか?

わたしの耳が心の声を聴くことができなくなってしまったのか?

蜘蛛の巣を揺らす幽かな風のそよぎすら聞こえない、

陰鬱な無明無音が、胸を領している。
















人間であることの恥


最近はYou TubeでTom Waitsばかり聴いている。彼は優れたバラード・シンガーだ。
もちろん歌詞は解らないけれど。
デヴィッド・ボウイの(曲の)良さは解らないが、トム・ウェイツはいい。
しかしボウイは英国国家からの勲章授与を拒否した。それだけでも拍手に価する。
一見どんなに哀し気な「人間の哀歓」とやらを歌っているようでも、その一方で「国家」「お上」から紫綬褒章など有り難く頂戴しているようじゃ・・・そんな偽善者の歌など聴くには価しないね(ト、肩をすくめる・・・)
受勲者とは畢竟「罪のない恥知らず」の謂いに他ならない。

ボウイの歌は馴染みがなくとも聴く価値はあるが、
後者は、仮にいかに心地よくとも耳を塞ぐべきだ。
日本には一匹狼の美学、強いものにまつろわぬ意気地(いきじ)というものがないのだから仕方がないと言えばそれまでだが。



T.Wを聴きながらHのブログを読む。

「恥」ということについて考える。

「レーヴィはナチズムと強制収容所という時空間から「人間であるがゆえの恥辱」をあぶりだした。不正に妥協し、暴力に屈する恥辱。屈辱。余儀なかったのだ、生きのびるためにはだれでもそうしただろう、と自己を正当化するときに走る恥。卑劣。卑怯。それらを多少なりともかんじることのできた時代はまだしもさいわいであった。」
〔2013年11月2日〕

「生き延びるために」・・・「余儀なく」・・・「恥辱と屈辱にまみれ」・・・

昨夜観たブニュエルの『銀河』のワンシーンを思い出した。
異端審問の場面である。
「自分の主張を誤りであったと認めるなら助けてやる。もし拒むなら火刑に処す。」
けれども、「異端者」は最後まで自分の主義主張を曲げずに刑場に曳かれていった。

「自分は時代に適応する必要のない「一個の遺民」なのだ」と言ったのは誰であったか?
誰であろうと、そんな悠長なことが言えるはずはない。

生き延びるために「恥辱」にまみれるか、自己の価値観・美意識に殉ずるか・・・

21世紀の日本、東京に生きるということは、即ち「恥」の感覚と共に生きることに他ならない。
それは自己への裏切りという「恥」である。
けれどもそれは本当の意味で「わたしが生きている」と言えるのだろうか?
レーヴィは何故最後に自ら命を絶ったのか。
西部邁は?

またもやニーチェの言葉を思い出した。

「いつの日か、最早自分自身を軽蔑することすらできないような、最も軽蔑すべき人間たちの時代が訪れるだろう」





2018年9月19日

いくつかの断想


「いのちの電話」に掛ける。約80分ほど話す。
本当は喫茶店や居酒屋でざっくばらんにあれこれと話してみたいけれども、誰もわたしなど相手にしてくれないので、ボランティアに話し相手になってもらうしかないのだ。

電話の向こうで、40代くらいの落ち着いた声の女性が、「・・・たしかに、石牟礼道子さんも「東京は卒塔婆の街だ」と仰ってましたね・・・」高層ビルの林立・乱立を、死の象徴である卒塔婆に見立てたのだろう。しかしわたしはそのアナロジーに違和感を覚えた。
「東京」と「卒塔婆」は、どうしたって対極的な存在に思える。
東京は墓地とは最も縁遠い空間だ、そこには静けさも陰翳もなければ、人間の存在・・・その生と死についての謙虚な沈思さえありはしない。
今の世界は、少なくともこの国の現代に於いては、「死して、なお安らがず」といった印象しか与えない。

「あなたはご自分を「愛されざる者」といって、愛されることだけを求めていらっしゃるようだけど、ご自身は誰かを愛したことがありますか?」と訊かれる。
わたしにはよく彼女の言っていることがわからなかった。
確かにわたしは「愛されること」に渇(かつ)えている。それは嘗て、誰かに愛されたという自覚がないからだ。そして、人は知らず、わたしは「愛されることなくして生きてゆく」ことはできない。

そもそも「無私の愛」などというものがあるのだろうか?
わたしが木を、植物や動物を愛するのは、彼らがわたしに安らぎを与えてくれるからだ。
昨日書いたように、障害を持った者や、弱き者たち、深手を負った者たちを、わたしよりも「上」の存在だと考えるのも、同じように彼らの存在が、わたしに慰安を与えてくれるからだ。
母親が我が子を愛する。彼女にとって、愛情を与える対象が存在するということそのものが「見返り」なのだ。

改めて電話口で訊かれた「あなたは人を愛したことがありますか?」という言葉を繰り返してみる。


彼女たちを「傾聴ボランティア」と呼ぶことは出来ないだろう。わたしは寧ろ向うの疑問、意見、異議を聞きたいのだ。安易に引き下がらず、お互いに意見を述べ合うことに憧れがある。一昔、ふた昔も前の大学生たちのように。議論こそ学生生活の醍醐味といっていい。
一方で、「傾聴者」の何よりの美点は「自分の意見・視点・思考を相対化できなければ勤まらない」という点だ。人の愚昧さの著しい特徴は、自己の視点を相対化し得ないことにある。相対化し得ないのには訳がある。右も左も同じ意見、同じ価値観の者たちでぎゅう詰めになっていて身動きが取れないのだ。大勢の人ではち切れそうな満員電車と同じで、皆が隣に寄り掛かっていれば、誰も自分の足で自分の身体を支える必要もないというわけだ。

石川九楊だったか、「人」という字は、お互いがもたれ(支え)合っている形象ではなく、あれは、人が自分の二本の足で大股に歩いている部分を表していると言っていたのは。無論後者が本当であるに違いない。












2018年9月18日

高貴なる人びと


辺見庸の次のような文章にこころが動いた。

彼が旧友と喫茶店に居たときのことだ。「性能のいい補聴器」について友と話す。「最高級の補聴器をしてまで聴きたい話や音がいまあるだろうか。うるさいだけではないかね。」などと頗る不熱心につぶやいている。

「身のまわりで、うまくいっていることなどなにひとつないのだ。みな死を待っている。はっきりそうまで意識しないにしても、おおかたが漠然と「終わり」を待っている。」
そんなことをぼんやり思いながら、お互いに心ここにあらずといった気怠さを纏いながらコーヒーを啜る。


以下、辺見庸〔2014年7月18日ブログ〕より引用


そのとき、高校の低学年か中学の高学年くらいの少年がひとりで入ってきた。カバンを右肩から斜めにかけている。おっとりとした無表情。右足をおもくひきずっている。右手を胸のまえでかたくにぎっている。壁ぎわのスツールに座った。慣れているのだろう、左脚を軸にしたやわらかい動作だった。右脚には意思がつうじていないようで糸が切れたマリオネットのようだった。木瘤のみたいにかたくにぎりしめた右手は開かれることはなく、ずっと胸か腰のあたりにそえられたままである。店員が運んできたケーキを少年は左手のフォークですくい、ときどきケーキの断片に顔を近づけてマジマジとみつめてから、幸せそうにほおばるのだった。幸せそうに、というのは、わたしの一方的な観察であって、本人がどうであったかはさだかではない。より正確にいえば、みていたわたしのほうが幸せなような心もちになったのだ。わたしはじぶんをみるように少年にみいった。かれの右肩、右腕、右手、右腹、右足の痺れを、わたしの痺れとひとつらなりのもののようにかんじることができた。
ふだんは、わたしの身体なのに、わたしのものとはとうていかんじられないときがしばしばあるあるのに。とりわけわたしの右半身はわたしが所有する「他人」である。しばしばどころか、いつもそうなのだ。行為も知覚も、わたしの行為、わたしの知覚であるというリアルな生動性に欠ける。「それらは多かれ少なかれ、本当のわたしではないにせの自己の行動、にせの自己の知覚と感じられる」(市川浩『精神としての身体』)のである。「私はあたかも傍観者のように私の身体とその行動をながめ、生との直接的な接触を失うことによって、しだいに空虚となり、生のすべてが無意味・無目的であるという気分に浸透される」(同)。こうした「症状」は、半身麻痺をともなう脳血管障害者によくあるものなのだが、わたしは『精神としての身体』を脳血管障害者になるはるか以前に読み、ふかく同感したのだった。「あたかも傍観者のように私の身体とその行動をながめ、生との直接的な接触を失うことによって、しだいに空虚となり、生のすべてが無意味・無目的であるという気分に浸透される」というのは、してみれば、脳血管障害者特有の病症(感覚障害)なのではなく、〈ひとはだれしもおのれの存在から疎外される〉という普遍的な感覚と地続きなのかもしれない。世界という器から意味という意味のいっさいがぼろぼろとこぼれ落ち、どのような死も生も、かんがえればかんがえるほど無意味になってしまったこの曠野にむざむざと生き延びてしまったこと。それでもなお〈いまも〉在らねばならないこと。そのことに噴出口のはっきりしない憤りをかんじる。
(下線 Takeo)

いまこの世界に、このような(様々な「障害」)を持った者、貧しい人たち、絶望する者、今宵の寝蔵にも困っている人たち・・・つまり、「ふつう」とか「いっぱんのひと」と言われている存在とは「異質の者たち」がいる。そのことでどれだけわたしの魂が、わたしの実存が、支えられ、慰撫され、救われているか。最近はそんなことを思わぬ日の方が少ないくらいだ。

宿無し、孤独な老人、障害者、狂人、犯罪者・・・彼らはみなわたしよりも尊く高貴な存在であり、わたしの守護天使に違いない。

確かに現代の世界は穢土に他ならない。けれども、障害者も、デラシネも、病み衰えて孤独な老人も居ない世の中を想像してみる。そこはしかし、「浄土」とは程遠い、清潔で、脱臭され、漂泊消毒された、頗る居心地の悪い、別あつらえの穢土ではないか。

「できることでなく、できないことにたいして、しないでいられることにたいして、盲目になっている
ー ジョルジュ・アガンベン「しないでいられることについて」『裸性』より

彼ら、「できない人」「しないでいられることの出来る人たち」の生き方、存在の姿が、「する人」だらけのこの世界で、どれだけ心のオアシス足りえているかを思う。

「こうした無能力=非の潜勢力からの疎外は、何にも増して人間を貧しくし、自由を奪い去る」(同上)

木があるということ、小鳥がいるということ、馬がいるということ、道に石ころがあるということ。そのような多様性のない世界で、どうしてわたしは生きていくことができるだろう。
東京とは正に、樹のない、小鳥のいない、石ころのない世界。人間と、人が利用するために作られたモノだけの世界だ。


ポール・ヴァレリーの『カイエ』から
即ち我々を力づくで単純にする状態、状況、感覚 ── 我々の機能の多様性を使い、我々の諸手段を多様なものとして扱い、語や行為による表現を形作る一切の自由を吸収してしまうあらゆる状態、状況、感覚を私はもちろん嫌悪する。
── 要するに、極端なものは人を貧しくし、その上またそれは後に何も残さない。
 (略)
── 神経に強く働きかけようという意志は新しいものではない。── ギリシャ人にもそれはあった。しかしそれを露骨に利用するのは高貴ではない。他から加えられるそういう暴力に対して、自由を再び取り戻してくれる形態でもって常に償いを付けなければならない。
(太字は元 傍点)

障害をもつ人、宿無したち、死を想う人、衰えた老人・・・彼らが天使であるのは、
このうるわしく汚れた現世・現在の人間の在り方から、みなが一定の「距離」を持っているからだ・・・








2018年9月17日

好きな絵について


Flowers and Fruit, 1918, Chaim Soutine.


ドイツ表現主義の代表的画家の一人、シャイム・スーチンの「花と果物」(1918年)
(下はディテイル)

ああ・・・いいなあ、この厚塗り、ボッテリ感。



同じくスーチン、「人影のある風景」(1922年)

「哲学」(1921年)



もちろん均整のとれた「美しい絵」も大好きだが、ドイツ表現主義や、20世紀の抽象表現主義(ポロック、デ・クーニング、アーシル・ゴーキー等)もたまに見たくなる。

マイルスのクールなジャズも、チャールズ・ミンガスの暑苦しい、土の匂いのする、日向臭いサウンドも同じように好きなように、内なる激しい破壊衝動をキャンバスにたたきつけたような表現主義絵画を見ていると文字通り血が湧きたつ・・・

いうまでもなく、抽象絵画は「解る」「解らない」ではなく、単純に好きか好きでないかだけでしかない。自分の体内の、まだ言語化されていないところに作品が触れるかどうか。
それは頗る直截にわたしたちの本能・感覚に訴えてくるものなので、鑑賞に難しい理屈は寧ろ具象画以上に不要だ。

「わたしは書物(そして「作品一般」について)もっと私であるよう、私を掻き立てる書物しか好まない」と、ポール・ヴァレリーは書いている。
それを読み、観ることで、「わたしを、もっと「わたし」で満たしてくれる作品」・・・殊更言わなくとも、それ以外にいったい何を求めるのか?
スーチンの絵は、わたしの中に眠っていた、「衝迫」を目覚めさせる。

世界をこのように撓め、捩じり、折り曲げ、歪め、不安定にさせる内なる衝動。

ネットでひとしきり抽象絵画を眺めながら、束の間、取り澄まし気取ったスクエアな世界の破砕と意味の剥奪の感覚に身を委ねる・・・












2018年9月15日

イタリアの現代アーティスト、ルシオ・フォンタナ。
同じように傷だらけではあっても、わたしの傷はこんなに「キレイ」じゃない。
黒ずんだ血を滴らせ、傷口は汚れ、膿み爛れて腐臭を放っている。


人がわたしを傷つけるとき、彼らは決して真顔ではない。彼らは無表情だ。
「心が傷つく」という発想すら持ってはいない者たち。傷ついた人間を眺め、口元を緩める者たち。そして彼らにしても、数分後には「誰か」を傷つけた記憶さえも失っている。



デヴィッド’チム’シーモアの撮った少女。(1948年)。強制収容所から解放され、保護された施設で、「あなたの家を描いてみて」と言われて描いたのがこの「絵」だ。
(「家」といっても、「あなたの’ホーム’を描いてみて」と言われたので、建物としての「ハウス」ではなく、寧ろ、「家庭」「ファミリー」「生活」といった広い意味を指すのだろう。これは爆撃に遭った家ではない・・・)

今のわたしの頭、そして胸の中もこれに近い。「混乱」「混沌」「崩壊の予感」「喪失」「悲しみ」「苦痛」「不安」「恐怖」「制御不能」「寄る辺のなさ」「絶対的孤立」「無援」「言語化不能」「説明不能」・・・



「いのちの電話」にかける。1時間かけて繋がらず。
最近はほぼ一日おきに掛けている。
体力がまったくないので、横になって約1時間ほど話してもクタクタになる。

昔から孤独だった。
約20年前、30代の頃、話し相手が欲しくて、年に100回以上「いのちの電話」に掛けたこともあった。








































































































どうもありがとうございました


これまで曲がりなりにも「ブログ」の体裁を保ってきました。
この間わたしの拙い文章、そして「独断と偏見のみ」ともいえる意見(私見)にお付き合いくださった方々に、心よりお礼を申し上げます。

最早ここは一般的な意味でも、またわたしが思っている多様な自己表現の場としてのブログでもなくなりました。

今はまだ未定ですが、(書かれていることが一様に自己と世界への呪詛と懐疑、絶望のみである以上)いづれここは非公開にするかもしれません。
そんなことも含めて、いまのわたしは、この先どうなるのか、まったくわからない状態です。まして「この先どうしたいのか?」などと問われても、ただ項垂れ黙すことしかできません・・・

改めて、長い間どうもありがとうございました。

Takeo

生きられない、そして生きたくない


ブログ村を再び退会した。今回は僅か一週間足らずの登録だった。

今はもう、書くことすべてが「厭世観」と「厭離穢土」に結びつくことばかりで、
最早他人が読むようなものではなくなっている。

まいにちが苦しい。何もできない。一週間前に出来ていたことができなくなっている。
緩い坂道を少しづつ下ってゆくというよりも、急勾配を転がり落ちてゆく感じだ。

秋のことはわからないどころか、来週には寝たきりになっているかもしれないのだ。

くるしい・・・けれども精神科に行く意味がどうしても見つからない。
今、この時代に「健康になる意味」が、どうしても、どうしてもわからない。

戦場で兵士がこころを病むことは異常ではない。
しかし、ある人にとっての「戦地」が、必ずしも現実の「戦場」であるとは限らない。
彼の生、彼の内面、彼の感受性にとっての戦地がどこであるのか、誰も傍から推し量ることはできない。

精神医療やカウンセリングとは、彼が生きている「いま・そこ」にいることに無感覚になることを目指しているのだろうか?
つまり平気で(彼にとっての)「バトルフィールド」或いは「地獄」に留まって居られることが「治癒」の謂いなのか?

どう考えても、わたしは現代社会で生きてゆくことはできない。
時代の流れは、外の世界は、凄まじい速さでわたしの美意識に逆行している。

今やこの場所(ブログ)は、生きることもままならず、そして自裁することも覚束ないくたばりぞこないの、悲しくも滑稽な独り語りの場でしかない。


「性格とは運命である」






2018年9月14日

わたしに似た人


哲学や文学、映画や音楽、芸術作品などに支えられずとも、自分の足で立っていることができる人は幸いだ。

わたしは今、日々横たわって生きている。横たわって、そこに「在る」。そして「何故生きる?」という問いについて、文学書や哲学書を改めて読み漁る余力は、最早残されてはいない。

世の中に深い悲しみを抱いている人がいるということは救いだ。
けれどもその悲しみは永遠に続くのだろうか?
いつかその傷は癒えて、彼は微笑みを取り戻し、わたしはひとりとり残されるのではないか。

ベケットは言う、「誰かが泣き止めば誰かが泣き出す。世界の涙の総量はいつも変わらない」と。

ならば、決して泣き止むことのない人が必要だ。
決して癒されることのない悲嘆が。
永遠の喪に服する者が。
とこしえに悼み続ける者が・・・

その人こそがわたしに似た人であり、わたしはそのような人が、まだこの世界に存在することを心から祈る。

苦しみ、悲しみ、心痛 ・・・ 懊悩、煩悶、喪失、寄る辺なさ、現世への嘔気、絶望・・・それだけが、この世でわたしが唯一、分かち合えるものだから・・・
そしてわたしが生きているということは、それらと共に在る、ということなのだから。

どこかにいるかもしれないわたしに似た人よ。案ずることはない。
わたしの傷が癒えることはなく、わたしの心痛が消えることはない。

もしもわたしが笑っているところを見たとしても気にしなくていい。

こんなジョークがある。

「道を歩いていたら、向うから胸に槍の刺さった男が歩いて来た。
わたしは彼に尋ねた。それ、痛くないんですか?
男は答えた、いえ、ふだんは大丈夫なんです。ただ、笑う時だけ・・・」




Joy Division ー Passover

「パスオーバー」ー ジョイ・ディヴィジョン(1980年)



















2018年9月12日

Sorry...



「誠に申し訳ありませんが、貴方のオーダーされたライフスタイルは現在在庫切れです・・・」



時代に合った生き方をお求めください。











2018年9月11日

「生き易さ」への断念、或いは治癒不能…


わたしは自分を明らかに狂人だと思っている。昔から、「本当の狂者は、自分を狂っているとは思っていない」といわれる。しかし、もしわたしが狂っていない=正常であるとしたら、わたしと、わたしを取り巻く社会、世間との、この甚だしい齟齬・懸隔・不調和は、いったいどのように説明され得るのか?



時計屋で、若い男性が壁に並んだ時計のひとつを指さして言う。
「おじさん、あの時計くるってるよ・・・」と。
他の全ての時計の針が、同じ方角を指している。「今・現在」を指している。
けれども何故かその時計の針だけが、まったく違う方向を向いている。

「狂い」とは「差異」と同義だと思っている。そして「他者」との「相違」「ズレ」こそが、わたしをわたしたらしめている。その意味でわたしは狂っているし、狂っていなければならない。



わたしはいまだに「生き易くなる」ということがどういうことかわからないまま、それが薬物によってであれ、世界認識の変更によってであれ、「生き易さ」というものに胡散臭さを感じずにはいられない。

「生き易くなること」よりも「生きることに必死」であることが、本当に生きることのように思えてならない。
人間が「より生き易くなること」を絶えることなく求め続けた結果、言い換えれば、「手軽で便利」になることが、すなわち「生き易くなる」ことだという錯誤に陥った結果、今現在の、わたしの「生き難さ」があるのではなかったか。



「治療者」ではなく、傷をなめ合う仲間が必要だ。そのために同じように傷を負った者が・・・



「生き易さ」を求めるとは、これほど忌み嫌っている「いま・ここ」と狎れ合うこと、目の前の現実と妥協することに他ならない・・・



友を求めること・・・
仮に「年齢」「性別」「学歴」「職業(無職含む)「障害の有無」「LGBT等様々なマイノリティーであること」などについて一切条件を付けなくとも、友だちである以上は、当然価値観や趣味の共通点は求められる。
言い換えれば、こだわらないのは「肩書」であって、その人の「価値観」「美意識」には徹底的に拘る。

きょうび、デジタル機器を使うことは、「価値観」や「美意識」の次元で語られることはない。それらは最早、嗜好品のように、好きな人もいればまったく関心のない人もいる、使う人もいれば使わない人もいる、といった「趣味の問題」などではなく、殆どの人にとって日常生活に欠かすことの出来ない生活必需品だ。色やデザインを意識することはあっても、箸や茶碗、カップ、靴、バッグ、タオル、ひげそり・・・それらを「否定」する人はいないだろう。そしてそれらを「拒否」することは、なんらかの「狂ひ」乃至「障害」と見做されるだろう。

けれどもわたしは可能な限りデジタル機器を「わたしの人生」から排除する。
それはドン・キホーテ擬きの愚かな負け戦であるのみならず、とりもなおさず、自分が周囲の世界から排除されることと同義なのだが・・・

無論アラスカと言わずとも、まだ世界にはデジタル機器が左程普及していない土地、
あるいはいまだそれが「嗜好品」と見做されている場所だってあるのだろう。
しかし「そこ」へ移住することは、少なくともわたしにとってはあまり現実的ではない。
最後の最期に、そういう土地を見てみたい、という気持ちはあるにしても・・・
























2018年9月9日

幾つかの「?」 即ち「狂気」と「フォビア」


外出困難
誰かに訊かれる「引きこもりから治りたいのか?」「外に出られるようになりたいのか?」
「わからない。わからない!」頭が混乱する・・・
「治る」とはどういうことか?
「外に出られるようになる」ということは、わたしにとっていったいどのような意味を持つのか?

「わからない・・・」



「理解されたいのか?共感を得たいのか?」
理解され、共感されたいと思う。けれども(あり得ないことだが)あまりにも共鳴者が多すぎると、却って戸惑ってしまう。
「こんなに多くの人たちに理解できるほど(また愛されるほど)わたしは凡庸なのか?」

「非凡」・・・という言葉は「才能」と同義に使われるので、できるだけ、「ヘン」でありたいと思う。小さな小さな蟻の穴に潜り込んでいくように。



「ヘン」でありたいという思いと、孤独でありたくないという気持ちのジレンマ。
「ヘン」でありながら誰かと気持ちを共有し、共感しあうということが、そもそも矛盾しているのだろうか?



「時流に乗り遅れる」或いは「時流に乗る」とはどういうことか?
わたしは大勢の乗るバスには乗りたくない。



「考え方を変えることで生き易くなる」というのはどういう意味だろう?
例えば「認知行動療法」(その内容についてはほとんど知らないが)のように、
自分の都合のいいように物事を解釈する(=自己欺瞞)ということか?



「わたしがわたしである」ということは「わたしはあなたのしらないわたしを持つ」ということと同義ではないだろうか。
言い換えれば「わたしがわたしのすべてを知り得ないのと同様に、あなたもわたしの全部を知っていると思うことは誤りだ。」



何かに躓いたり、ひっかかりを、違和感を覚えたとき、ひとはその考え方や現象について思いを巡らす。それを「考える」と呼んでいるのではないか?
「生き易くなる」ということが「あれこれ考えなくなる」ということと同じだとしたら・・・



わたしの場合「外に出られない」最も大きな原因は(何度も言っているが)「審美的な理由」からだ。
悪臭がプンプン漂っている場所に、誰が好き好んで出てゆくだろう?



主治医から「あなたと話が合うのは千人にひとり」と言われている。本人はそれ以上だと感じている。そんな人間がそもそも仕事をしたり友達を作ったりすることが可能なのだろうか?



見知らぬ誰か(精神科医、カウンセラー、各種相談員など)に援けを求めるということが、そもそも愚かな、滑稽な、迂闊な、嘲うべきことなのかもしれない。



「蛇が嫌い」「ナメクジが嫌い」「納豆がダメ」・・・仮に自分がそれらのものを嫌いでも怖くもなくても、そう聞いて、「信じられない!」と感じたり、或いは相手の言っていること「=ヘビガキライ」が理解できないという人はおそらくいないだろう。
けれどもきょうび、「スマートフォンが嫌い」「タブレットが嫌い」(=それらを目にすることを生理的に受け付けない)という言葉を、多くの人たちはそもそも理解することができないだろう。彼らの多くは「フィリア」なのだから。
けれども世の中にはじつに多種多様な「フォビア」があるのだ。



外出困難Ⅱ
誰かに訊かれる「引きこもりから治りたいのか?」「外に出られるようになりたいのか?」

もし1970年代に戻れるのなら。いや、70年代と言わずとも90年代・・・せめて2000年前後なら。
しかし仮に明日、目覚めたら、外の世界が70年代や2000年前後になっていたら、そもそも「引きこもりを治す」必要などない。最早わたしは自由に外に出られるのだから。

◇◇


上記のわたしの「躓き」を改めて読み返してみると、やはりそこには、「ココロノヤマイ」とは異なる、もっとわたしという実存に根差した「狂気」を感じずにはいられない。
狂っている・・・と。






2018年9月8日

「違い」=「間違い」ではない


2007年、フェイスブックが台頭する以前の世界最大のSNSだった’マイスペース’を始めた。
それまで日本のどんなコミュニティーや掲示板のようなところへいっても、居心地の良さを感じたことがなかったから。そして常に孤立し、対立していたから。

日本語版のマイスペースもあったが、利用者をあまり見たことがない。
そしてわたしにフレンドリクエストを送ってくれるのはほとんど全てが海外のアート好きたちだった。稀に(本当に稀に)日本人からリクエストが来たこともあったが、当時日本人を避けていたわたしは、彼らを遠ざけていた。

わたしは満足に英語を話せないが、片言でも彼らとやり取りしていると、次第にこれまで隠れていた別の人格が表面に現れてくるようになる。
例えば、わたしは面接の場などで「あなたの長所は?」と訊かれても、口ごもってしまう。自分のなかにどうしても「長所」=「良いところ」を見出すことが出来ないからだ。
けれども、海外の友達と(ネット上で)話していると、別に彼らがわたしを褒めているわけではなくても、わたしにもわたしなりの取り柄があるんじゃないかと思えてくる。
彼らは、その人らしさや個性=「そのひとの良さ」だと思っているように感じる。日本では往々にして「違い」すなわち「間違い」という発想が幅を利かせているが、外国ではそうではない。
日本の面接で「短所」を挙げろと言われれば、いくらでも列挙することができるだろう。けれども、それを海外の彼ら / 彼女らは「それがタケオらしさだよ」と言ってくれる。

人と違うこと、特異なキャラクターであること、変わっていること、皆と違ったモノの見方をすること・・・それらは美点でこそあれ、決して短所などではないと、彼らから教わったような気がする。

わたしに関して言えば、この生き辛さは、主に環境によるものだと思っている。
無論インターネットでいくらか言葉を交わし、彼らのサイトに、日本のそれでは見ることのできない美しさ、カッコよさを感じたとしても、それは所詮ツーリストの感覚と変わらないのかもしれない。
けれども、わたしが自分のなかに「良さ」を見出すことができないのは、自分が生まれ育ち、そして現在も生活しているこの国に、「良さ」を見つけ出すことができないことと同根なのではないかと思っている。

不粋を承知で付け加えるなら、日本では、「日本で一般に『長所』とされているものを、お前はいくつ持っている?」となるが、外国では、その人らしさそれ自体が「長所」足り得るのだ。その人らしさとは、言葉を換えれば他の人との「差異」のことだ。

少なくとも、日本のわたしと、海外のわたしは同じではない。否、殆ど別人でさえあるのかもしれない。

久し振りにTumblrのファッショナブルな頁をため息をつきながら眺めながらそんなことを思った。



「列車の中での読書、イタリア」(1991年)

eyes. © KENZO
ケンゾーの「アイズ」、来てみたいとも思うけど、これはどう見ても「ねじ式」だ。

'LUCKY YOU' (ラッキー ユー)
こんな遊び心も。

上記の写真はみなニューヨーク在住の女性のTumblrから。こういうテイスト大好き!



ネット上とは言え、言葉が通じない者同士が心の繋がりを感じているということを、言葉で説明することは難しい。
それは同じ花を見て、一言も言葉を交わさずとも、「綺麗だね」という気持ちを共有していることと同じだ。


Charles Mingus "Goodbye Pork Pie Hat" from "Mingus Ah Um"
チャールズ・ミンガス「グッバイ・ポーク・パイ・ハット」(1959年)


2018年9月7日

「不時」の病


わたしは東京で生まれ育ったせいか、未だホタルを見たことがない。
子供の頃は夏休みに田舎に行ってひと月ほど過ごしたこともあったが、やはりホタルを見なかった。

歩いて二十分ほどのところに、「武蔵之国国分寺」という寺があり、その傍に湧水で知られた場所がある。10年ほど前に大田区からこちらに引っ越してきたころは、まだそれほどでもなかったが、その後、湧水周辺の散歩道を観光客目当てに「開発」し、「国分寺」の斜向かいには「コーヒーショップ」などもでき、すっかり様子も変わってしまい、それ以来そちらには足を向けなくなってしまった。
湧水の流れに沿って、「蛍が棲息しています、タニシを捕らないで下さい」という表示があるはずだが、周辺の様子が変わる前にも、夏の夜にそこに蛍を見に行ったことはない。



團伊玖磨の『パイプの煙』に、「蛍」という名随筆があるので、ちょっと紹介しよう。


ある夏の夜、彼は夜道を歩きながら仄かな光が点滅しているのを見かけ、それが蛍であると知る。次の日、夕食ののちに、小学校三年生の息子と共に近くの田圃に蛍を見に行く。子供はまだ蛍を見たことがないとわくわくしている。

途中、子供が思い出したように、「団扇がないから取ってくる!」と、家へ引き返してゆく。
何で団扇がいるのかと訊くと、本で見た絵には、みなが団扇で蛍を招いている絵があったからという。
橋の手摺にもたれて子供が戻ってくるのを待っていると、やがて走って来て、団扇はなかったという。彼は、そういえばクーラーを入れてから団扇は使っていなかったと気付く。

「団扇は無くても良いよ。さ、行こう」
僕は仄温かい子供の手を曳いて、橋を渡ると、川向うにひらけている田圃の畦道に向かった。
水を湛えた田には蛙が鳴いていて、その声が近づいてきて、畔を踏んで行く我々の足音に驚くのか、時折、足もとに、蛙が飛び込むらしい水音がした。
田の上には、星明りに透かして、薄い靄がかかっていて、しかし、蛍は見えなかった。
「居ないのね」
「もう少し上の田圃に行ってみよう」
僕たちは畔をたどって上の田に出た。そこに僕達はとうとう待望の蛍の群れを見つけた。どういうわけか、そこに、何も植えてない、半ば沼のようになった抛り出された一枚の田があって、その沼のような荒れた田の隅のあたりに、あるいは草の葉先にとまり、あるいは明滅しながら高く低く飛び交っている小さい光の粒々を僕達はみたのである。
「綺麗だね、綺麗だね、パパちゃん!」
子供は感動した。そして、これ程迄に美しいとは思っていなかっただけに、ぼくも茫然としてこの光の息遣いを見ていた。
一匹が偶然子供の傍を飛んで畔の草に落ちた。子供はそれを掴まえて、
「あちちち、あちちち」と叫んでいる。
蛍の火は熱くないんだよと僕が笑いながら説明しても、子供はなかなか納得しなかった。
「放してやろうね、こんな綺麗なものを捕えては可哀想だ」
懐中電灯を点けて、畔の畔の草の上で掴まえた蛍を調べていた子供は、矢張り平家蛍だった、蛍はにおいがするね、と言いながら、
「さあ、飛んでいけ、飛んでいけ」とその一匹を投げた。光の粒は弧を描き、明滅しながら靄の中に消えた。
僕達は、暫く、小さく息遣いする光の群れを眺めてから、橋を渡って帰ってきた。
橋の上で、一緒になった隣のお百姓さんがいった。
「そうですかね。蛍は農薬を撒くようになってから減ってしまってね、殆どいなくなりましたなあ。昔は、この辺の田圃は蛍の火の海だったもんだがなあ」
農薬のために蛍がいなくなる。米という現実、蛍という情緒、その両者は併存することは難しかろう。
しかしクーラーで団扇が消え、農薬で蛍が絶えることを考えるだけでも、日本人の情感と日本の芸術の基調を成していた”季節感”というものが、我々の周囲から消えて行きつつあることを考えさせられる。
温室栽培と遠隔地からの輸送が可能になったことから、既に花々にさえ季が失われ、昔、夏の季に入れられていた香水も、今はクリスマスのころが最も売り上げが多いという。
蛍消え、団扇消え、花や香水も季を失う時代。
我々の心の中の歳時記はどうなっていくのだろう。
(1965年)

「蛍の火の海」この光景を想像しただけで圧倒される。
今年の夏、この国は「驚くべき力で破壊する自然の姿」を幾たびも目の当たりにした。
昨今は一年の半年近くが「夏」であるような国に、わたしたちは住んでいる。
しかし人間がその気になれば、自然は今でも、わたしたちをその大きな力で優しく包み込み、安らぎを与えてくれるはずだ。時計の針を戻すことはできなくとも、せめてとどめることができれば。







2018年9月6日

文明あって文化ナシ(美術館嫌いの弁)


ある人のブログで、最近(?)の美術館では、展示会場でメモを取るため使うのに、鉛筆は芯が折れて飛ぶ可能性があるのでダメ。ボールペンはインクが飛ぶ可能性があるからダメ。シャーペンもボールペンと区別がつかないからダメだと書かれていて、本気でこの記事はブラック・ユーモアかと思った。

だいぶ以前、友人と三鷹駅前の美術館に行ったときに、友人が、のどがいがらっぽいからと、バッグからのど飴を出して口に入れたら、係員がすっ飛んできて、「飴は困ります!」というので、訳を訊いたら、咳やくしゃみで飛び出して作品に・・・



中井英夫のエッセイ集『地下を旅して』(1979年)の中に、彼が74年に雑誌の取材でフランスを訪れた時の様子を書いた文章がある。そもそも書名の『地下を旅して』の「地下」とはワインセラーの謂いだが、パリ随一のワインレストランで、地下の酒蔵に眠る18万本(!!)のワインの数と種類に驚嘆し、ひとしきりワインの国の贅沢さに触れ、

中でも自慢の、世界に二十本くらいしか残っていないという千八百六十五年のパ・アルマニャックを棚に戻しながら、こうして動かしたら(澱が浮くため)また一年は寝かしておかなくちゃならないんだというさりげない言葉からも、この国のある途方もない贅沢さを教えられるには充分であった。それはルーブルで国宝というも愚かな美術品の数々をろくに監視員もおかず掛け並べ、写真を撮るのも勝手なら、画架を立てさえしなければ模写も自由、中には手を触れる者がいてさえ知らん顔(実際にミロのビーナスの腰布あたりはだいぶ手垢でくろずんでいる)という太っ腹な贅沢さと相通うもので、いわば国をあげての主(あるじ)もうけに似たものと言えるであろう。
【主(あるじ)もうけ】ー 供応・手厚いもてなし

現在のパリ、ルーブルの事情は知らないが、それにしても、エンピツの芯が折れて飛ぶの、ボールペンのインクがかかるの、飴が口から飛び出すのと、そこまで作品が大事なら、そもそも展示会場に「生き物を入れる」という発想自体が間違っているのではないかとさえ思ってしまう。

誰が呼んだか土人の国。未開の国。文化果つる処・・・



わたしの好きな絵です。ルーブルで模写をする人たち、Louis Beroud (1852-1930)
アート・ミュージアムの本来あるべき姿だと思います。
共に1910年前後の作品ですが、それから約1世紀。今、文化、アートは、当時よりも一層わたしたちの日常生活の身近にあるようになったでしょうか。
少なくともこの国では、「藝術」は、まだまだ高みに奉られているように見えます。いや、新しい機械や芸術作品が高みにいるのではなく、人間存在自体が、その尊厳に対する意識が、途方もなく低い(鈍い)のだろうと思います。

確かにヒトは動植物よりも高等とは思いません。けれども、人間が、みずから作り出した機械・製品・作品の下位に置かれる、または従属するということはあってはならないことです。なによりそれは滑稽でしかありません。


The copyists in the Musée du Louvre, 1909, Louis Beroud. French (1852 - 1930)

Au Musée du Louvre -- les Murillo, 1912, Louis Beroud. French (1852 - 1930)

















2018年9月5日

え?もっと?


" a lot... ? 'lot' is my favorite number"

ウディ・アレンの『マンハッタン』で、ベッドで「もっと・・・」とせがまれた時の彼のうれしそうなセリフです。「’もっと’は、ぼくの大好きな数字だ!」


映画『ファビュラス・ベイカー・ボーイズ』でミシェル・ファイファーが「メイキング・フーピー」をセクシーに歌うシーンです。

※もし曲が終わってもビデオが続くようでしたら、お手数ですが画面左のボタンをクリックして停止してください。



アムール Amour...


恋をしたいのか?それはわからない。
「恋について語り合えるひと」は欲しいと思う。
恋そのものよりも、素敵な女性と「恋について」話したい。


写真はNico Jesse / ニコ・ジェス(1911-1976)。おそらくパリの恋人たちでしょう。
1950年代の写真です。

スコット・ハルグレン「フィルム・ノアール」(2010年)

「フィルム・ノアール」といえばつきものなのが「ファン・ファタール」=「悪女」です。「悪女」に憧れるかって?いえいえ、滅相もない。映画の中だけで充分。

マレーネ・ディートリッヒは悪女の典型のような女優のひとりですが、1930年の『嘆きの天使』では堅物の中年教授をその色香で滅ぼす役。逆にビリー・ワイルダー監督の『情婦』(1957年)では色男に騙される役。共にフィルム・ノアールの名作ですね。

ところで、セックスについては、こんな名言(?)があります。

“If you want to get laid, go to college. If you want an education, go to the library.”
「もし女と寝たかったら大学へ行け。もし学びたいなら図書館へ行け」
ー フランク・ザッパ

少なくとも、大学は「就職のため」に行くところではないようです。





2018年9月4日

「寂」


さび【寂】古びて趣があること。枯れて渋みのあること。
特に芭蕉一門の俳諧で根本理念とする、閑雅・枯淡の美。
▽「荒(さ)ぶ」に由来し、「錆(さび)」と同語源。
『岩波国語辞典 第二版』より

「錆びる」=「寂(さ)びる」

なんという心惹かれる美意識であることだろう・・・

辺見庸は日本を「土人の国」と呼んでいて、わたしも全く同感だが、近世まではこのような上質の「美意識」を持っていたのだなあ・・・





いくつかの断想


昨年暮れより精神科への通院を中断しているので、話し相手、(メールや電話も含め)は母以外にはいない。
最近は「いのちの電話」に週に3~4回電話をして、話をしている。話し相手は皆ボランティアで、わたしの知る限りほとんどが女性だ。みな時間を気にせず、こちらの話に根気よく付き合ってくれる。

そうした中で、「ああ、わたしはこういうところの相談員にはなれないな」と思った。一番大きな理由は、予め話す時間を30分なら30分と決めておくことも、また話の途中で「申し訳ないけど、そろそろ時間だから…」と会話を中断させることも出来ないと感じたからだ。
話を聴く以上、聴き手は、話し手が納得するまでとことんまで付き合うべきだと思っている。けれどもわたしにはそんな根気も思い遣りもなく、際限なく話を聴いてあげることができない。そのような理由で、聴き手としての能力以前に「相手との時間」という点に於いて、わたしは「いのちの電話」に限らず、相談員にも、またカウンセラーにも向いていないと感じた。

自分が相談する立場に立てば、時間を機械的に分割できる人と話したい、悩みを聴いてもらいたいとは思わない。そこには「仕事臭」がプンプンしている。
もちろん医師も、カウンセラーも職業である。どこかで線引きをしなければならない。けれども、そのことに心のいたみを感じない者は論外である。

随分以前、ある会社のサービスセンターに勤めていたことがある。客の評判は良かったのだが、トップが、「○○は対応が丁寧なのはいいが、一人一人に時間をかけ過ぎる。もっと捌け捌け!」と注意された。

わたしは時に(心の中で)人を裁くけれど、相談してくる人を「捌く」ことはできないので程なくしてそこを辞めた。



「痛々しさをかんじることはよいことだ。それがむきだされることは、すこしも悪いことではない。わたしも参加者も友人たちも、ありていに言うなら、怒るよりも先に、どうすればよいのか、途方に暮れている。それをみんなが隠さずにすんだ。痛々しく途方に暮れている者には、アジ演説、説教、クリシェ、虚勢、正義の押し売り、知ったかぶり、安手の箴言……はまったくなじまない。傷をいっそう深めるだけだ。じぶんの言葉をしぼりだすしかなかった。疵口からやっと声を発するしかない。 」

ー辺見庸 2014年4月のブログより、
「茅ケ崎で行われた講演会についての記述より抜粋」


傷口から滴り落ちる血のように、言葉を、気持ちを発したからといって誰かが足を止めて、耳を傾けてくれるわけではない。

ある人の傷と、別のある人の傷は、決して同じ深さをもってはいない。
ある人の血と、別のある人の血は、決して同じ重さをもってはいない。

目に見えて血を流しているものにはみな駆け寄るだろうが、
目に見えない傷口から血を滴らせている者には、だれも気付かない。

著名作家の傷と、その他「雑民」の傷の価値は、決して同じではない。
作家の「傷口」は金鉱だ・・・


もしわたしの言葉が誰にも理解も共感もされないとしたら、わたしが存在している理由はいったいなんだろう?


わたしは知りたいのだ。親友を失ってから、この10年間、外の世界はいったいどのように変わったのかを。そこはまだわたしが生きる余地を残しているのか?それとも最早わたしの寄る辺はどこにもないのか?

わたしは食堂で、隣に座った人がタバコを吸うのが耐えられない。けれども店がそれを許しているのなら、こちらが席を立つしかない。
同じように、わたしは喫茶店や食堂で、近くの人がスマートフォンを取り出して、出てきた食べ物の写真を撮ることに強烈な嫌悪感がある。けれども店がそれを注意しないのなら、そこを去るしかない。


昨日マドンナのルイ・ヴィトンの広告の写真を投稿した。

わたしが20代中頃、巷はルイ・ヴィトンを持った若い女性たちで溢れていた。
誰も彼もが「ヴィトン」を持ち、また持ちたがっていた。

わたしはどうしても、細かい点での違いはあっても、「ルイ・ヴィトンのバッグ」という、「誰もが持っているものを自分もまた持ちたい」という心理が理解できなかった。
わたしにとって「人と同じである」ということは「恥ずべきこと」であり「嫌悪すべきこと」でしかなかった。彼女たちは「軽蔑すべき人々」だった。
残念ながら、当時彼女たちのひとりに「皆と同じものを持っていて恥ずかしくはありませんか?」と尋ねる機会はなかったが。


わたしは屡々「親友がいた頃」と書いている。
けれどもほんとうにわたしは親友を持っていたのだろうか?

恋人同士が6年間付き合った後に別れる。するとその6年間はどうなるのだろう?お互い、相手への変わらぬ愛情友情を抱きながら、仕方なく別れなければならない場合を別にして、憎み合って別れた後、その6年間は、現実に存在していたと言えるのだろうか?


「作業所」とか「デイケア」というのは、障害者に対する、ある種の「厚生」ならざる「更生施設」なのだろうか?
竹とんぼ作りにしても、ポスティングにしても、封筒貼りにしても、それらの労働に対する対価が100円を下回るとは、いったいどういう理由なのか?


 
ある臨床心理士のブログに、村上春樹の「普通というのは普通じゃないところを含んでこそ普通という発言と、それを受けた精神分析医北山修(元フォーククルセイダーズ)の、「正常は異常を含んで初めて正常」というようなことが書かれていたが、「普通」も「正常」も「非・普通」「異常」も、相対的な概念で、普通とか正常という固体・実体(像)があるわけではないので、そもそも上のような言説は成り立たない。
「お汁粉に塩をほんの少し入れると甘さが引き立つ」という話と同じではない。だれも「普通」とは何かを知らず、また定義もできないのだから。
ブレヒトの「ファシズムはファシズムと反ファシズムによって構成される」は意味が通じる。誰がファシストであるかはわかる。けれどもそのファシストが「普通であるのか」「異常であるのか」は分らない。



「自殺」というのは、ある意味で、精神医学に対する「人間の精神」の勝利と言えないだろうか。科学でこころを解明できると考える人間の嗤うべき傲慢さに対する勝利だと。











2018年9月3日

お話ししませう


基本的にストリート・フォトグラフィーが好きなのですが、ミッドセンチュリーのファッション・フォトも。


これは女流ファッション・フォトグラファー、リリアン・バスマン(1917-2021)の1955年の作品。

モノクロームですが、どこかペンで描いたような繊細さがシックです。


わたしがまだテレビを見ていた頃ですから、もう20年くらい前でしょうか、
深夜に映画を観終わった後、気紛れにTV画面にしたら、「麻布狸穴(まみあな)」という番組が流れていて、当時知り合い(?)だったJ-WAVEのナビゲーター、ロバート・ハリス、神田うのなどがしゃべっていて、もう番組はエンディング近かったのですが、うのがハリス氏に「ハリスさんはどんな写真集が欲しいですか?」と尋ねると、「うーん、やっぱりヘルムート・ニュートンだな」と答えているのを聞いて、「ええ!?」と呆れると同時に(女好きの)彼らしいなと苦笑したことを思いだします。

仮に同じ質問をされたら迷いますが、少なくとも、エロティック系や美女系ではないことだけは確かです。
「アート」の範疇に入れられる写真で、本当にエロティシズムを感じさせる写真を見たことがありません。「プレイボーイ」や「ペントハウス」のピンナップでさえ、「綺麗」です。

スティーヴン・マイゼルの撮った、ルイ・ヴィトンの広告のマドンナは、確かにセクシーでしたね。





ところでここ数年・・・いや、親友を失った10年以前から、「雑談」というものをしていないので、誰かと、この時期ならビア・ガーデンで、或いは焼き鳥の煙の立ち込める居酒屋で、喫茶店で、アルコールやコーヒーを飲みながらおしゃべりを交わしたいと思います。

映画や音楽について主に話題にしているブログを読むのは、言ってみれば、彼女や彼らの話を聞いているようなもの。
そしてわたしもここで、誰が聞いているのかわからない「雑談」を綴っている。
そういう者同士が、いつか出逢えれば・・・

そうそう、昔(から)わたしが愛読していたブログで話題にされている音楽は、大雑把に分けると、(洋楽の)「ロック」や「ポップ」がほとんどですが、最近自分の持っているCDを適当に聴いていると、確かに、60年代の頃のものも、2000年前後に流行ったギター・ポップ(?)もいいんですが、やっぱりわたしがおちついて耳を傾けていられるのは、シナトラやナット・キング・コール、ビリー・ホリデー、エラやサラなんだなぁと改めて思います。



コラ・ジャズ・トリオ「チャン・チャン」(2008年)
セネガル及びギニア出身の三人組。編成はピアノ、パーカッション、そしてコラ。)

〔コラ(kora)は、西アフリカが発祥のリュート型撥弦楽器。セネガル、ガンビア、マリ、ギニア、ブルキナファソなどの国々で300年以上に渡って受け継がれてきた伝統的な民族楽器で、特にセネガルとガンビアに代表される。長いネック、ヒョウタンの共鳴胴、そして21本の弦が特徴。
ハープやギターの原型とも言われ、アフリカの民族楽器の中でも最も美しい音色を持つとされる。〕