本を読むこと、絵画や写真を観ること、映画を観、音楽を聴くこと・・・わたし(たち)はいったいいかなる「資格」をもって「文化を享受」しているのか?
例えばわたしたちはどのような資格で「肉」を食しているのか?
それが空気や水のように、人間の生存に不可欠のものであるのなら仕方がない。
けれども、一切肉を食べない人たちもいる。ある種の肉食を禁じている宗教もある。
「ヒトが肉を喰うのは当たり前」とは言えない。
サラブレッドが、ただ競走するという目的のために生み出されたように、ブタや牛も最初から「食べられるために」飼育されてきたのだから。
だから「わたし」は肉を喰う資格があるのだと?
◇
「左右対称性」ということを思う。
'Absolutely Nothing' =「完全なる無」
わたしは昔から自分のことをそのように感じてきた。まったくの無、ゼロ。
例えばわたしが本を読むとき、眼の前に聳える巨大な山から湧き出る水を、その麓で、入れ物もなく「両手で受けている」ような惨めさ、みすぼらしさを感じてしまうのだ。
それは既に「左右対称」でさえない。片方が「無」なのだから。
才能に対する「嫉妬」?
そうではなく、嫉妬は嫉妬でも、彼らがこの世界(社会)の一隅に確かに己の位置を占めているということに対する嫉妬ではあるかもしれない。
かつて作業所で、毎日竹とんぼを作っているという人の話を聞いた。
「竹とんぼ」と「著作」これは充分「左右対称」足り得るのだ。
つまり言い換えれば「竹とんぼ」を作っている人、封筒貼りをしている人たちは、「文化化を享受する資格」を持っていると言っていい。
それではなにかを創りだしていなければならないのか?或いは労働か?それがあなたのいう「資格」なのかと問われれば、そうではないという答えを繰り返すだけだ。
「重度障害者とわたしは左右対称か?」「否」
「ホームレスとわたしは左右対称か?」「否」
わたしは如何なる存在とも「対称」を為すことはできない。何故なら一方は「有」一方は「無」なのだから。
◇
おそらく、わたしは
'You're Nobody Till Somebody Loves You'
「ひとは誰かに愛され、認められて、初めて「なにもの」かになる」、という言葉の呪縛から抜け出せないでいるのだろう。
呪縛というよりも、これはわたしの、わたし自身の「人間の定義」なのだ。
わたしはあまりにも自らの存在を低く低く見積もっているが故に、「人類の清華」である「文化の泉」から「同じ人類の一員」として、本を読むこと、絵を観ることが許されるとは思えないでいるのだ。
『フランダースの犬』のネロ少年は、貧しかったがために、ルーベンスの「
キリスト昇架」と「キリスト降架」を観ることができなかった。
彼が持たななった「資格」はお金であった。
ではわたしに欠けている「資格」とはなにか?おそらくは「愛され得るものであること」
人間以下の者が人間の創造した文化を享受する資格があるのか?
< 私は自分のことを一度も「存在」とみなしたことがない。わたしは非市民、員数外の者、過度の、ありあまる空無性だけを存在理由とする、無のまた無だ。>
ー エミール・シオラン『生まれたことの不都合について』(出口裕弘 訳)
◇
先日わたしは「限りなく「無」に近い存在を愛する」と書いた。
この「無」には「無口」(無言)「無能」「無智」というような意味あいも含まれている。
有名より無名を
勝者よりも敗者を 敗者よりも不戦敗者を 不戦敗者よりも逃亡者を
若年・中年よりも幼年・老年を
人間よりは動物を 動物よりは植物を 植物よりは鉱物を
博識よりは文盲を
饒舌よりは啞者を
進歩よりは退化を
健常より障害を・・・
しかしわたしじしんがまだ「無」に近づけていない。
宗教的な思想とは無関係に、寧ろ哲学的な意味合いにおいて、より小さく、より無力で、より弱くありたい
けれどもこのように「無」を事々しく言い募ること自体が、「無」から遠ざかることになるという矛盾。
「雨露を凌ぐ」という。けれども本当は雨と露と、風だけで生きられるような存在でありたい。
無に近づきたいという欲求と、生きるということは、それ自体が相容れないことなのだろうか。
それ以前に、わたしは「限りなく無に近い存在」に何を見ているのだろう・・・
『大いなる沈黙へ』という映画が観たい。という「欲」がある。
ひたすらに「人間の欲」というものを削り取り剥ぎ落として、限りなく崇高な無に近づく姿がある。彼らは「文化」といわれるものと無縁に生きている。ただ神と共に。
◇
「ただの一瞬の休止もなく、わたしは世界に対して外在している」というシオランの言葉に思いを致す。
同じように
「人間は心の奥のまた奥で、意識以前に住みついていた状態へ、なんとか復帰したいと渇望している。
歴史とは、そこまで辿りつくために、人間が借用している回り道に過ぎない」
という言葉に共鳴する。
文化を享受するに価しない存在でありながら、尚、本なしで、映画無しで、音楽なしでは生きることができない。「有」に憧れ、「無」である自らに絶望しながらも、一掬の水を啜る・・・ある種の屈辱と共に味わう。
人間ならざる者が人間の文化を欲するという永遠のアポリア。
肝心なことはひとつしかない。敗者たることを学ぶ ── これだけだ。
ー エミール・シオラン