2018年7月31日

憂きわれを淋しがらせよ閑古鳥


わたしのブログがこうまで人気(ひとけ)がないのは何故だろうと改めて思います。
文章が下手なのはよく承知しています。そのためでしょうか?
あるいは、ちょっと気が狂っているので、何が書かれているのか読み手に理解不能なのででしょうか?
あまりに独り善がりなので相手になっていられない?
とにかく人としての魅力がない?

わたしはなぜ好かれないのか?それは20代のころからの疑問、言い換えれば生涯を通じての謎でした。

それでも、ただひとつ確かなのは、わたしは自分が何故好かれないのかを知りたいけれど、人の言葉に従って自分を変えるつもりはないということです。
それはとんだ心得違いでしょうか?「誰もありのままで好かれているわけじゃない。
皆好かれるために努力しているのだ。」そうなのでしょうか。わたしにはわかりません。

ただわたしは、キラワレモノのわたしのままを認めてくれる人を、それが決して現れないと知りながら待ちつづけるだけです。

そしてもっともっと文章が上手くなりたいのです。

時々わたしは、もし金銭的な余裕があり、引きこもりでなければ、「文章教室」のようなところへ通いたいと思います。
そして毎度毎度糞真面目な文章ばかり書いているので、『これであなたも人気者!ユーモア会話術』といった講座を受けてみたいとも思うのです。

前にも書きましたが、わたしは20代の頃、3か所の小さな出版社に勤めていました。
そしてそれぞれの会社から、異口同音に「キミはモノを書く仕事には向いてない」と言われて馘になった経験があります。3か所の中で一番長く続いたところが10カ月。ひと月でお払い箱になったところもありました。
ですから書くことに関しては強い劣等感があります。

「文章の巧拙よりも、書いたものにね、人間性、人がらが出るんだよ!」と言われれば、返す言葉もありませんけれど。



私は、ただしゃがんで指でもって砂の上に文字を書いては消し、書いては消し、してゐるばかりなのだ。何も言へない。何も書けない。けれども藝術に於いては、ちがふのだ。歯が、ぼろぼろに欠け、背中は曲がり、ぜんそくに苦しみながらも、小暗い露地で、一生懸命ヴァイオリンを奏してゐる、かの見るかげもない老爺の辻音樂師を、諸君は、笑ふことができるであらうか。私は、自身を、それに近いと思ってゐる。社会的にはもう最初から私は敗残してゐるのである。けれども、藝術。それを言ふのも亦、実に、照れくさくてかなわぬのだが、私は痴(こけ)の一念でそいつを究明しようと思ふ。
辻音樂師には辻音樂師の王国があるのだ。
ー太宰治「鴎」 







2018年7月30日

美しき宵




Swanston Street, Melbourne, John Atkinson Grimshaw. (1836 - 1893)

『スワンストン・ストリート メルボルン』ジョン・アトキンソン・グリムショー(1836-1893)




今此処に共にあること


法哲学者で芥川龍之介の親友でもあった恒藤 恭(つねとうきょう)は、『旧友芥川龍之介』のなかでこう書いている。

「おたがひに一と言も話さないで、おやぢと二人、へやのなかにゐるときがある。それでゐて、そんな時にいちばん幸福な感じがするんだ」というようなことを芥川が話したことがある。これは意味の深い言葉だと思っていまでも記憶してゐる。[……]
 ほんたうに親しい間柄の人と人とは、ただ同じ処にいっしょにじっとして居るだけで、すでに充分幸福である」(市民文庫版1952年)

そのひとが今、ここにいること。わたしと共にここいいること。これに勝る幸福があるだろうか?

わたしは人と話したい・・・言葉を交わさずとも一緒に黙っているだけで心安らぐ。そんな深い信頼関係を築くことはおそらくわたしには無理だろう。

「あなたがいるからわたしがいる」、敢えて哲学的な言い方をすれば、「プルーラル・アイデンティティ」(plural Identity) =(他者あっての自己)
わたしは愛されない限り、何者でもなく、存在すらしていない。



もうすぐ八月。わたしはホタルを見たことがない。

飛ぶ蛍 あれと言わむも ひとりかな (炭 太祇)

もう一つ、わたしの好きな句(?)がある。志ん生の噺『心中時雨傘』の〆の一言

こぼれ松葉は 枯れて落ちても 二人連れ

心中、か・・・愛の極致。

ひとは知らず、わたしは”プルーラル・アイデンティティ”というものを、このように理解している。







2018年7月27日

狂気ゆえ、だれにもわからない…



本を読むこと、絵画や写真を観ること、映画を観、音楽を聴くこと・・・わたし(たち)はいったいいかなる「資格」をもって「文化を享受」しているのか?

例えばわたしたちはどのような資格で「肉」を食しているのか?
それが空気や水のように、人間の生存に不可欠のものであるのなら仕方がない。
けれども、一切肉を食べない人たちもいる。ある種の肉食を禁じている宗教もある。
「ヒトが肉を喰うのは当たり前」とは言えない。

サラブレッドが、ただ競走するという目的のために生み出されたように、ブタや牛も最初から「食べられるために」飼育されてきたのだから。
だから「わたし」は肉を喰う資格があるのだと?



「左右対称性」ということを思う。
'Absolutely Nothing' =「完全なる無」
わたしは昔から自分のことをそのように感じてきた。まったくの無、ゼロ。

例えばわたしが本を読むとき、眼の前に聳える巨大な山から湧き出る水を、その麓で、入れ物もなく「両手で受けている」ような惨めさ、みすぼらしさを感じてしまうのだ。

それは既に「左右対称」でさえない。片方が「無」なのだから。

才能に対する「嫉妬」?
そうではなく、嫉妬は嫉妬でも、彼らがこの世界(社会)の一隅に確かに己の位置を占めているということに対する嫉妬ではあるかもしれない。

かつて作業所で、毎日竹とんぼを作っているという人の話を聞いた。
「竹とんぼ」と「著作」これは充分「左右対称」足り得るのだ。
つまり言い換えれば「竹とんぼ」を作っている人、封筒貼りをしている人たちは、「文化化を享受する資格」を持っていると言っていい。

それではなにかを創りだしていなければならないのか?或いは労働か?それがあなたのいう「資格」なのかと問われれば、そうではないという答えを繰り返すだけだ。

「重度障害者とわたしは左右対称か?」「否」
「ホームレスとわたしは左右対称か?」「否」

わたしは如何なる存在とも「対称」を為すことはできない。何故なら一方は「有」一方は「無」なのだから。



おそらく、わたしは 'You're Nobody Till Somebody Loves You'
「ひとは誰かに愛され、認められて、初めて「なにもの」かになる」、という言葉の呪縛から抜け出せないでいるのだろう。
呪縛というよりも、これはわたしの、わたし自身の「人間の定義」なのだ。

わたしはあまりにも自らの存在を低く低く見積もっているが故に、「人類の清華」である「文化の泉」から「同じ人類の一員」として、本を読むこと、絵を観ることが許されるとは思えないでいるのだ。

『フランダースの犬』のネロ少年は、貧しかったがために、ルーベンスの「キリスト昇架」と「キリスト降架」を観ることができなかった。
彼が持たななった「資格」はお金であった。

ではわたしに欠けている「資格」とはなにか?おそらくは「愛され得るものであること」

人間以下の者が人間の創造した文化を享受する資格があるのか?

< 私は自分のことを一度も「存在」とみなしたことがない。わたしは非市民、員数外の者、過度の、ありあまる空無性だけを存在理由とする、無のまた無だ。>
ー エミール・シオラン『生まれたことの不都合について』(出口裕弘 訳)



先日わたしは「限りなく「無」に近い存在を愛する」と書いた。

この「無」には「無口」(無言)「無能」「無智」というような意味あいも含まれている。

有名より無名を

勝者よりも敗者を 敗者よりも不戦敗者を 不戦敗者よりも逃亡者を

若年・中年よりも幼年・老年を

人間よりは動物を 動物よりは植物を 植物よりは鉱物を

博識よりは文盲を

饒舌よりは啞者を

進歩よりは退化を

健常より障害を・・・

しかしわたしじしんがまだ「無」に近づけていない。

宗教的な思想とは無関係に、寧ろ哲学的な意味合いにおいて、より小さく、より無力で、より弱くありたい

けれどもこのように「無」を事々しく言い募ること自体が、「無」から遠ざかることになるという矛盾。

「雨露を凌ぐ」という。けれども本当は雨と露と、風だけで生きられるような存在でありたい。

無に近づきたいという欲求と、生きるということは、それ自体が相容れないことなのだろうか。

それ以前に、わたしは「限りなく無に近い存在」に何を見ているのだろう・・・

『大いなる沈黙へ』という映画が観たい。という「欲」がある。

ひたすらに「人間の欲」というものを削り取り剥ぎ落として、限りなく崇高な無に近づく姿がある。彼らは「文化」といわれるものと無縁に生きている。ただ神と共に。



「ただの一瞬の休止もなく、わたしは世界に対して外在している」というシオランの言葉に思いを致す。

同じように

「人間は心の奥のまた奥で、意識以前に住みついていた状態へ、なんとか復帰したいと渇望している。
歴史とは、そこまで辿りつくために、人間が借用している回り道に過ぎない」
という言葉に共鳴する。

文化を享受するに価しない存在でありながら、尚、本なしで、映画無しで、音楽なしでは生きることができない。「有」に憧れ、「無」である自らに絶望しながらも、一掬の水を啜る・・・ある種の屈辱と共に味わう。

人間ならざる者が人間の文化を欲するという永遠のアポリア。


肝心なことはひとつしかない。敗者たることを学ぶ ── これだけだ。
ー エミール・シオラン










2018年7月25日

世を拗ね者の問わず語り「愛」「才能」など


連日の厳しい暑さのせいもあるだろうが、ただそれだけの理由ではなく、既に先月の時点で書いたように、自分の内面が徐々に「狂気」に浸食されつつあることを感じている。
── この場合の「狂気」というのは、ほとんどの生活者が何の疑いもなく「自明」としている事々が、わたしにとっては最早まったく「自明」ではなく、自明なことなどほとんど存在していない、といった意味での「狂気」のことである。

そしてこの「狂気」の淵源なるものは「孤独」「孤立」そして生きる悲しみである。

「「美」はわたしの宗教である」と書いたことがある。
しかし自然の美は措くとして、人間が創造した「美」、音楽でも、絵画でも、詩歌や文学でも、それらに今なお、わたしは拝跪するか、と自らに問うた時、素直には首肯できなくなっている。

バッハを聴くこと、モーツァルトを聴くこと、レンブラントの絵を観ること、放哉や啄木の歌を読むこと、トリュフォーの映画を観賞すること。=文化を享受すること。
そもそもわたしにそんな資格があるのだろうか?
そしてここにひとつのキーワードが浮かび上がる。それは「施し」。

' Beggar'ー「乞食」これはいったいどういう存在だろうか。

「お金を払って本を買った。CD、DVDを買った。入場券を買って美術館に行った。コンサート会場に行った・・・」そういうことではないのだ。

紀伊国屋で、定価で辺見庸の本を買った、エミール・シオランの本を買った・・・としても、なおわたしは彼らに「施しを受けている」という感覚が拭い去れない。

「晴耕雨読」ではなく「晴耕雨眠」・・・本当は、「文化」などといったものと全く無縁に暮らしている方が、より人間らしいのではないか、とも思う。

そもそも「文化」とはなにか?そしてそれを必要とする者とはどのような者たちなのか?



「すべての人間は無条件に生きる権利を有する」
これは一般的には「自明のこと」とされている。(と仮定しよう)
ところで、憲法で保障されている「基本的人権」とか「天賦人権論」といった「教えられ与えられた理由」の他に、人は上記の命題を妥当とする根拠を持っているだろうか?

例えばわたしを殺した者は何故罪に問われるのか?
(その罪は当然ながら「殺ータケオー罪」ではなく「殺ー人ー罪」だ。)
殺人者は「わたしという個人」を殺したことによっては罪に問われない。わたしの中から「わたしくし性」を完全に捨象した、いってみれば(代替可能な)「ヒトの身体」を殺めたことによって罰せられる。いわばブッチャーである。

ところが一般に殺人とは、「誰でもよかった!」という無差別殺人を除いて、その動機は被害者の属性、乃至、その人がその人であるが故の犯行である。

相模原「やまゆり園」の場合は重度障害という属性を標的とし、抹消しようとした点で、単なる大量「殺・人」では括り切れない。これはいわば(広義の)政治的判断に基づく粛清であり、思想犯でもある。植松聖は単なる「実行犯」の一人に過ぎない。使嗾したのはこの国の古層に脈々と流れる異者排除のメンタリティに他ならない。

どのような重度の障害者であろうとも、その名を愛する家族なり友人なりがいれば、それを殺すことは紛う方なき殺生ー「殺○○(=名前)」である。
裏返せば、殺されて悲しむ者がいない時、それは言葉の本質的な意味での「殺人」と言えるのだろうか?被害者は、この世界にどのような形で存在していたのだろうか?

メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』のテーマは「愛」であった。彼は、その出自や姿形以前に、愛されざる者であるが故にモンスターであった。
ブラックジャックとフランケンシュタイン博士のモンスターとの違いがあるとすればそれは何か?
「愛されざる者」=「わたし」はそもそも「人間」だろうか?

全ての命は等価だろうか?少なくともわたしはそうは思わない。
辺見庸が殺されるのとわたしが殺されるのとではまったくその重さは異なる。
(この場合(辺見庸)の部分を任意の愛される者、才能のある者に置き換えてよい)
ブラックジャックとメアリー・シェリーの創造したモンスターの価値は同等だろうか?
人の価値はその人に注がれる愛情の「質の量」によって計られる。
ホームレスに愛される埃まみれの犬に比べてさえ、わたしの命は遥かに軽い。

あらゆる生命は誕生したときから平等ではない。だからこそ、優位のものに下位の者たちがまつろうということに、どうしても抵抗を感じてしまう。
ヒトを含め、動物たちの赤ちゃんが母親の乳を奪い合う、授乳される。それは「施し」ではなく「愛情」に他ならない。



以上思うことをわからないことはわからないなりに、断片的散発的に述べてきた。
主に言いたかったことは、文化を享受することは才能のある者の施しを受けることとは違うのかということ。わたしがルソーを読むとき、それはルソーから施しを受けることとどう違うのか?
パンを乞い、小銭を乞う「乞食」と「知識」や「美」を乞う者の本質的な差異は何か?

「ブレッド・アンド・ローズ」-パンと花(文化・美)これが人間が生きるに最低限必要なものとされているし、現にその通りだ。ならば人はいかなる資格を持って、パンと薔薇を手に入れるのか?働けず「対価」を払うことのできない者は?「施し」?「施しではなく権利だ!」というなら、わたしがその権利を持つ根拠は何か?
その「権利」は無条件に与えられたものであって、わたしがわたしであるがゆえに手に入れたものではない。その「権利」自体が「施し」ではないと言われても納得するのは難しい。



社会に「貢献」し「利益を生まない」者は無価値だと言っているのではまったくない。
ただ悲しいのだ、この世界の何処にも自分の居場所がなく、何もかも与えられるだけの存在であることが。
いや、違う、わたしは何も「与えられて」はいない。パンから文化から人権に到るまで、全て「施されて」いるだけだ。或いは「盗む」ことによって命をつなぐ孤児だ。
誰もそれを咎めはしない。ただ悲しいのだ。

わたしは医学的な意味での「知的障害」ではないかもしれないが、所謂「バカ」には違いない。
わたしには「自明の理(ことわり)」があまりに少ない。

いったい人は何時、あなたがたのような人になったのだろうか。わたしは自分がまったく普通のニンゲンである気がしないのだ。





2018年7月23日

世界にただ独りとり残された者…


いつ、何で読んだのか忘れてしまったが、最近しばしば頭の中で繰り返し反芻するイメージがある。

それは偶然同じ駅のホームにいて、飛び込み自殺の模様を目撃した男性の言葉だ。

「── 電車がホームに入ると同時に彼は線路に降り、その場にしゃがみ込んで線路をつかんだ。
その顔は迷子が泣きながら母を探す姿と、最後の選択をした悔しさが重なっているように思えた・・・」

迷子が泣きながら母を探す姿・・・

死の瞬間を表す言葉でこれ以上的確で正確な描写をわたしは知らない。







2018年7月22日

孤立そして無援…


今日も引き続き辺見庸のブログを読む。やはり肯くところが多いし共感するところも多い。
けれどもわたしは、彼の「愛読者」ではあっても彼の「味方」ではない。

わたしは万引きするホームレスの味方ではあっても、痴呆症の老人の味方ではあっても、辺見庸の「味方」ではない。

ところでわたしに味方はいるだろうか?おそらくそんなものはいない。

わたしが好きな歌は、啄木の

死ぬことを 持薬を飲むがごとくにも
われは思へり
心いためば (「一握の砂」より)

だけではない。

自殺しても 悲しんでくれる人がいない だから私は自殺するのだ

という夢野久作の『猟奇歌』の中の歌も愛している。

しかしわたしは啄木の友ではないし、啄木はわたしの友ではない。
夢野久作とて同じこと。

人は誰かに愛されることによってはじめて人になる。
誰からも愛されない者は「ひと」ではない。

そしてわたしは、そんな「ひとではない」者たちの味方でありたい。

ひとりのアパートでスーパーの値引き弁当をぼそぼそと食べている孤独なお年寄りと、辺見庸を、エミール・シオランを比べたとき、より尊いのは、そしてわたしが愛するのは、いうまでもなく前者だ。「才能」と「尊厳」は同義ではない。

「誰からも愛されない」ということが人生の不条理なら、「才能を持つ」ということもまた人の世の不条理ではないだろうか。

そのように突き詰めてゆくと、わたしは「文化を否定する者」ということになるのかもしれない。

なぜならわたしは「限りなく無に近い存在」をこそいとおしむから・・・

無益・無用・無価値であることの尊さ、高貴さ、
愛されること、才能を持つということの原罪性・・・そんなことを考える。

存在から、一切の「価値」「意味」なるものを剥ぎ取ること。















2018年7月21日

辺見庸のエッセイに失望


河北新報に掲載された辺見庸の「むごい夏──処刑とクチナシの花」を読んだ。
なんだか肩透かしを食った感じ。小洒落たエッセイ風にまとめられていたが、そこには憤怒も、絶望も、蹉跌も、焦燥も、惑乱も読み取ることができなかった。

かつて辺見はイスラエルによるガザでの殺戮についてこう書いていたのではなかったか?


「アーレントが生きていたら、アドルノが生きていたら、なんと言ったか。パレスチナの少年にガソリンを飲ませ、焼き殺した所業について。パレスチナ国際義勇軍の編成が呼びかけられたかもしれない。元気だったらわたしもパレスチナ入りをめざしたかもしれない。サルトルも国際義勇軍に賛成しただろう。オーウェルはそれに参加しただろう。ヴァルター・ベンディクス・シェーンフリース・ベンヤミンは国際義勇軍結成にかんする知的なメッセージを送ったかもしれない。ソール・ベローはノーコメント。堀田善衛は国際義勇軍に心情的に賛成しつつ、みずからは参加できない苦渋を、キザで無害なエッセイにして、スペインあたりから朝日新聞夕刊文化面に寄稿しただろう。それでも暴力の連鎖には反対だとか。吉本隆明は「ナンセンス!スターリニストども!」と罵ったろう。カネッティは『目の戯れ』の続編を書いたろう。ツェランはまたも自殺したかもしれない。世界はまだ砕かれず、覆されてもいない。世界は凡庸でもない。また再びのユダヤ人迫害への環境ができつつある。」

彼のイメージした堀田善衛的な、そこはかとない傍観者的態度(強いて言えば「諦念」)を、わたしは今回のエッセイで辺見庸自身から感じた。

クチナシの花ービリー・ホリデーー奇妙な果実(私刑によって嬲り殺され、木に吊るされた黒人たちを'Strange Fruits'=奇妙な果実と呼んだ)
これなら辺見庸じゃなくてもエッセイストかコラムニストが書けばいいのではないか?

少なくとも、この処刑によって、彼自身が負った傷(そんなものがあればだが)も、そこからしたたる血の色も見ることはできなかった。

「死刑は国家による殺人である」という死刑廃止論者の常套句を、原稿用紙七枚分の上品で手堅い(H自身が最も嫌うはずの「毒にも薬にもならない」)エッセイに仕立て上げただけ。わたしにはそんな風にしか思えなかった。そしてもうひとつ、うっすらと耳の奥に響いていたのは、'Look Back in Anger' 「怒りを込めて振り返れ」という声だった。



フランシス・ゴヤ シリーズ『戦争の惨禍』より「どちらも」(Tempoco) 



2018年7月20日

生きるということ…


「妙なことだが、その瞬間まで、わたしには意識のある一人の健康な人間を殺すというのがどういうことなのか、わかっていなかったのだ。だが、その囚人が水たまりを脇へよけたとき、わたしはまだ盛りにある一つの生命を絶つことの深い意味、言葉では言いつくせない誤りに気がついたのだった」
「これは死にかけている男ではない。われわれとまったく同じように生きているのだ。彼の体の器官はみんな動いている──腸は食物を消化し、皮膚は再生をつづけ、爪は伸び、組織も形成をつづけている──それがすべて完全に無駄になるのだ」
「爪は彼が絞首台の上に立ってもまだ伸びつづけているだろう、いや宙を落ちて行くさいごの十分の一秒のあいだも、かれの目は黄色い小石と灰色の塀を見、彼の脳はまだ記憶し、予知し、判断をつづけていた──水たまりさえ判断したのだった」
「彼とわれわれはいっしょに歩きながら、同じ世界を見、聞き、感じ、理解している。それがあと二分で、とつぜんフッと、一人が消えてしまうのだ──一つの精神が、一つの世界が」

これは、7月7日に行われた、オウム真理教死刑囚一斉処刑の日に、Hのブログに引用された、ジョージ・オーウェルのエッセイ「絞首刑」(『オーウェル評論集』小野寺健=編訳 岩波文庫)からの一節である。

この同じ文章同じ個所が、やはり以前、Hの著書の中で紹介されていて、はじめて読んだ時の強い印象を憶えている。


生きているということ。それは爪が伸びるということであり、頭髪が伸び、皮膚の組織が代謝を繰り返すということだ。言い換えれば、生きるということは、爪を切らなければならないということ。髭を剃り髪を切らなければならないということ。入浴しなければならないということだ。それはひどく億劫で面倒くさいことでもある。大変な重労働でもある。
生きるということはとても面倒くさいことを引き受ける、ということなのだ。

捨て果てて 身は無きものと思へども
雪の降る日は 寒ぶくこそあれ
花の咲く日は 浮かれこそすれ

これまで何度も引用した西行の歌である。
生きるということは、世を厭い、お暇乞いをしたいと思っている自己の意識と、
それ自体が「生命そのもの」である身体との絶えざる相克・葛藤である。

「生命力」 「生きようとする盲目的な意志」について、印象的な文章をふたつ、紹介しよう。共に今から16年前、2002年に朝日新聞の読者投稿欄に掲載されたコラムだ。

最初は30歳の主婦の投稿。

「やっと3カ月の娘が、この暑いのに必死にしがみついてくる。そこには彼女の「命の綱」があるからだ。
この子が今、生きていくための手段は、おっぱいを飲むこと。これしかない。
この世の終わりかとおもうほど大きな声で泣きわめいた後は、目に涙をいっぱいため夢中でおっぱいを吸う。母となったことを実感する瞬間。1日7、8回、この生死をかけた挌闘が繰り返されるのだが、毎回、母子とも汗だくである。
腕の中で一生懸命生きている娘を見ながら考えた。
汗にもいろいろあるが、私と娘が今、かいている汗は何だろう。子供を産むまで、こんな汗があるとは知らなかった。」

もう一つは60代の男性。

「早朝の散歩の途中、公園の前を通ると、何か小さなものが動く。何と胴体のない頭と前脚だけのカブトムシでした。折からの風にあおられて倒れると、頑張って前脚で起き上がる。
それを何回も繰り返す。
その姿を見て、出来るだけ風の当たらない所に移し、いつもより早めにコースを切り上げて帰りに寄ってみると、ひっくり返って手を宙に動かしている。
蟻にやられてしまうぞとみていたが、よい知恵が浮かばない。どの道、長生きはできない。最後に何か食べさせてと思い、家に連れて帰りました。
盆の上に梨を切り、載せて近づけると両手を広げ、梨に手をかけて果汁を一生懸命吸いました。
胴体のないこの小さな命が、どうしていきていられるのか不思議でなりませんでした。何とかよいかたちで成仏させてやりたいと、夜は桃を切ってやり休みました。
翌朝目を覚ましてみると静かに両手を合わせて息を引き取っていました。」

生後僅か3カ月の赤ん坊、胴体のない頭部だけのカブト虫が、「いのちそのもの」「いのちのかたまり」であることがいきいきと伝わってくる。

わたしは思う。この圧倒的な生命の力は、厭世観と人の世の屈辱にまみれたこのわたしの中にもあるのだということを。

捨て果てて、あらずもがなとおもう我が実存と、
雪が降れば寒いと思い、照る日には汗をしたたらせ、日々もの喰う我が身・・・
「飛び込み」にせよ「飛び降り」にせよ「縊死」にせよ、「溺死」にせよ、
どのような形であれ、無条件に生きんとする意志に逆らって消し去ることの困難さと哀しさを想う・・・












2018年7月18日

真っ当を厭うマスコミ&日本人


7月13日のHのブログに

「共同通信に「むごい夏ーー処刑とクチナシの花」を寄稿した。約7枚。加盟各紙に掲載されたらご一読いただければさいわいです。にしても、ひどい夏だ。大量処刑の前夜、サイコパス政権幹部は飲めや歌えの大宴会をやっていた。」

と書かれていた。うちは東京新聞を取っているが、こんにち、首都圏の大手新聞社がHの書いた文章を載せるだろうかという懸念はあった。現に「相模原事件」の時も、大道寺将司氏が東京拘置所内で死亡したときのHの文章も、東京新聞には掲載されなかった。

新聞社に確認したところ、本来なら14日に載るはずの記事は、やはり掲載されていなかった。
そこで配信元の共同通信に電話した。「ちょっと調べてみないとわからないので、5時ころにまた連絡くれますか?」とのことだった。約1時間後、再度電話。「北日本新聞」(富山)と「河北新報」(宮城)に掲載されているという情報をもらった。どちらでも構わないのだが、河北新報に14日の朝刊を郵送してもらうように頼んだ。送料込みで200円ほどだそうだ。
共同通信では、「ファックスがあれば送りますよ」と言ってくれたが、世に「ファック」事例は数多あれども残念ながらうちにFAXはない。

東京新聞も落ちたものだとは思わない。きょうび辺見庸の文章を載せるというのは実際かなりの覚悟が必要だろう。何への覚悟か?もちろん読者からのクレームへの覚悟だ。更に自分たちがいかに「ジャーナリズム」とは名ばかりのハンチクな仕事しかしていないかという事実を突きつけられることへの「不快感」(慙愧ではない)もあるだろう。

3年前だがこんなことを書く人なのだ。


昨夜、コビトに訊かれた。戦争法強行採決をまえに、なぜ「ゼネスト」が呼びかけられなかったのか?なぜその呼びかけさえこころみられなかったのか?戦争法はそのくらいの国家暴力の立法化ではなかったのか。国会、地方議会、官公庁、交通運輸、港湾、郵便、国公立各大学、高校、同教職員、各報道機関、農水産、商業、サービス、非正規雇用者関連各ユニオン、映画、美術、演劇、文芸家協会、スカンピンの、今晩食うにも困っている個人たち……。どこかで腹の底からの瞋恚の炎はあがったか。なにかがかつてなく激しくはじけたか。このクニにほんの一部でも機能マヒはあったか?抗議の辞職をした野党議員が一人でもいたか?怒って辞めた大学の学長はいたか。ハンガーストでだれかが餓死したか。抗議のしるしとして1面白紙の新聞をだしたところが1紙でもあったか。編集局長の方針に逆らって懲戒された記者が何人いるか。なぜなのですか?豆麩をほおばりながらコビトは訊いた。わたしはだまっていた。ゼネストなど10万キロ先のはなしだ。はらわたが破裂するほどの怒りなんか、ありはしなかったのだ。9条違反どころではない、常時「例外状態」化をねらう戦争法のものすごさ。それにみあうストラグルなんか、どこにもありはしなかった。あれはだから「負け」ですらなかった。たたかっていなかったのだから。(2015/12/02)


Hの寄稿文を載せるという決断を下した河北新報という新聞がどういうものか見てみるのもまた一興だろう。

ところで、夕方、Hのブログが更新されていた。

◎河北新報などが掲載

共同通信からのれんらくでは、エッセイ「むごい夏ーー処刑とクチナシの花」は河北新報や北日本新聞などが掲載しているようです。

更新は5時半。

なんとなくおかしかった。


2018年7月17日

耳を貸す者


私たちがどれほど遠く信仰から離れ去っていようとも、話相手として神しか想定できぬ瞬間というのはあるものだ。そのとき、神以外の誰かに向って話しかけるのは、不可能とも狂気の沙汰とも思われる。孤独は、その極限にまで達すると、ある種の会話形式を、それ自体極限的な対話の形式を求めるのである。
ー エミール・シオラン『生まれたことの不都合について』(出口裕弘訳)


神はわたしを許すだろうか?
神には「嫌いな人間」というものは存在しないのだろうか?
ヨーセフ・メンゲレも、わたしも、同じように許すのだろうか?


断想「嫌われても平気」なわけ…


「自分が、現にある通りのものであるがゆえに自殺するのはよい。
だが、全人類が顔に唾を吐きかけてきたからといって、自殺すべきではない。」
ー エミール・シオラン『生まれたことの不都合について』(出口裕弘訳)

現実に「全人類に嫌われる」ということはないだろう、(物理的に出遭うという可能性がないという意味に於いて)しかし何者にも愛情を注がれることも、関心を持たれることもない存在ー「世界に唯独り遺棄された者」として、なお人は生きてゆけるか?
そしてその上で、尚生きる意味とはなにか?

「嫌われる」ということが何らかのアクションの結果である、という因果律抜きに、
正に「自分が自分であるが故」の理由で嫌われること。を考える。

シオランの言葉を置き換えれば、

「自分が、現にある通りのものであるがゆえに全人類が顔に唾を吐きかけてきた。」
なら、どうするか?

あなたが「○○だから」きらい。ではなく「あなたがあなたであるから」きらい。と、いうこと・・・


「全人類が顔に唾を吐きかけてくる」ということは、確かに現実には起こりえないことだ。
これはあくまでも修辞的表現に過ぎない。

例えばThe Beatlesの歌、'Misery' の出だしは

”The world is treating me bad... Misery”

「世界中がぼくを邪険に扱う」なんてことは現実にはありえないことだけれども、そんな風に感じること、自分の限られた周囲が、全世界と同一視されるということはないだろうか?


例えばごく幼少期から極めて少ない愛情しか受け取ることができなかった人(宅間守もそのような人間の一人だったと読んだことがある)が、成人後に「巨大な湖」のような愛情を求めてしまうことは本人の責だろうか。
常に親から、周囲から、一定量の愛情を与えられ続けてきた者の愛情の貯水高は、多分愛情に餓えた人たちの求める一括請求と同等だと思うのだ・・・


ニルヴァーナのカート・コバーンは、いろいろと面白いことを言っている。

“I'd rather be hated for who I am, than loved for who I am not.”

「自分自身でいるために憎まれる方が、自分をなくして好かれるよりましだ」

同感だけど、やはりひとりはサビシイ・・・


「誰一人味方がいない」ということは「全員が敵」という事と同じではない。
少なくともわたしの中では。


「一定の距離を置かれた≠嫌われた」か
「一定の距離を置かれた=嫌われた」か? 
わたしは後者だ。


文学、音楽、アートなどの抽象的な対象を愛することに生きる意味を見出すか?
或いは、鳥や獣、草や花など、自然界のあらゆる生き物と心を通わせることができたという、アッシジの聖フランチェスコのように、人間以外の生き物と共に生きるか。
しかしわたしは現実の生身の人間関係がなければ生きてゆくことはできない。




2018年7月15日

自分が嫌いではいけませんか?


みなが狂いはじめた。当然の生体反応である。わたしたちはもっと狂うべきだ。そして、もっと狂うはずである。さらに狂わなければならない。
もう気のきいたことなど、いおうとしないことだ。わたしは気のきいたことをいわない。
ー 辺見庸ブログ 2018年7月13日

「わたしたちはもっと狂うべきだ。そして、もっと狂うはずである。さらに狂わなければならない。」

わたしはこういう言葉に敏感に反応する。そして肯く。


「自分を否定しないこと、これこそが世界を変えるための第一歩です」
 ー 竹宮惠子

これは26歳の若く有能なライター・編集者のブログで紹介されていた本の帯に書かれていて、彼が「強く惹かれた」言葉だそうだ。

Hの言葉にウンウンと肯くわたしは、こういう言葉をみると反射的に「ケッ!」と言ってそっぽを向いてしまう。
こういう言葉は虫唾が走る。

似たようなことが2~3日前にあった。
日本新聞協会 広告委員会主催の「新聞広告クリエーティブコンテスト」の広告が新聞紙面に大きく載っていた。
今年のテーマは「新聞」。
そして、たとえばこんな感じというのだろうか、大きくキャッチコピーが書かれていた。

「将来について、危機感はもちろんあります。でも悲観ばっかりも嫌じゃないですか。」(here

わたしは思わず「アホか!」と叫んでいた。

Hが言うまでもなく、みな夙に狂っているのだ。
「悲観ばっかりも嫌じゃないですか。」やはり出てくる言葉は、「ア・ホ・カ!」

「いや狂っているのはお前の方だ」というのなら、わたしは素直に「そうかもしれないな」と認めるだろう。自称狂人が今更それを人に追認されたとて別に痛くも痒くもない。



人は、誰かが彼(彼女)自身のことを悪くいうのを聞くのが不快らしい。
そしてもっと自分を認めること、受け容れること、自分を愛することを求める。
皮肉なことにわたしだけが、自分を愛せない自分を受容し、わたしだけが自分を受け容れることの出来ない自分を許している。
そして「死にたくなったら死んでもいいんだよ」と言ってくれる。


わたしは父を好きになることができない。
父のことは何も知らない。定年まで勤めていたという仕事がどういう仕事だったのかも。
父の家族観、親子観、仕事観、人生観などまるで知らない。

父を嫌うということはどういうことか?それは鏡に映った自分の顔に唾を吐きかけるのと同じだ。何故なら、父がいるからわたしが今存在しているのだから。
父を憎むということは、とりもなおさず、自分の存在の根源を憎むことに他ならない。

親は親、子は子という考え方は、わたしには受け容れることはできない。
「親殺しのパラドクス」をご存知だろう。タイムマシンで過去にさかのぼって、自分が生まれる前の父を殺すことができるか?というやつだ。もしできないとしたら、その理由は?

クリスティーナ・ロセッティの詩に、
「いったい誰が閂をかけて閉め出すことができるのだろう、一番嫌いな自分自身から?」という一節がある。


I lock my door upon myself,
And bar them out; but who shall wall
Self from myself, most loathed of all ?


わたしの血の半分は父の血だ。人が決して「わたし自身」から逃れることができないように、わたしもまた「父の血」から永遠に逃れることはできない。

父が亡くなったら、悲しいだろうか、と時々考える。悲しくはない、とは言えない。
わたしは父のことを何も知らないのだから。
しかし「まだ元気」と言える今は、わたしは父の呪縛から逃れることができない。
大嫌いな父を見るたびに、わたしは彼の分身であり、彼という川の流れに浮かぶ泡沫(うたかた)であるという考えが自然と浮かんでくる。
自分を創った親を愛せずしてー親の存在から分離してどうして自分だけを愛し、認めることができるというのだ?

自分がどうしても好きになれない者の血と肉と骨と皮によって出来ていること。
それがわたしが自分自身を愛せない大きな理由だが、その他にも、単純に愛され、肯定された経験がないということも当然ながら大きな要因だ。

中学生の時、いつも一緒だった3人の友達がいた、或る年のバレンタイン、下校時、彼らだけがチョコレートをもらっていたことが分かった。彼らはわたしを気遣って隠そうとしていたようだが、偶然知ってしまった。そのうちの1人は、わたしにすまなそうな、それでいてどこか得意気な微苦笑を浮かべていた。

とにかく女性は苦手だった、特に仕事の出来る女性、有能な女性はわたしを見ているとイライラしてくるようだった。年下であっても、随分叱咤された。呆れられた。疎んじられた。
太宰の『カチカチ山』のたぬきとウサギである。女性は醜悪で魯鈍な者には容赦がない。

事実わたしは醜かった。外見に関しては人それぞれ見方はあるだろうが、わたしはセックスの出来ない身体を持っている。(※EDではない)セックスの経験がないわけではないが、それによって快感や悦びを得たことはない。

わたしが自分を否定するとき、自分を認めることができないという時、「思い込みが激しい」「卑下しすぎるのも見苦しい」「自虐趣味?」といった言葉がどれほどわたしを傷つけているかわかるだろうか?不用意に発せられた「そんなことないよ」という一言さえ・・・

「己を肯定せよ」、「汝、自らを否定するべからず」という発想、社会に流通している通念が、どうしても自分を肯定できない者への、ある種の攻撃的メッセージであるということを思って欲しい。

それとも「自分が嫌い」「自分を愛せない」ということは、わるいことなのだろうか・・・



※26歳の「有能な」ライター・編集者と書いたのはあくまでも反語であり、

彼の〔このような〕眼差しをわたしは到底肯んじない。










2018年7月14日

悲鳴


友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい  友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい 友達が欲しい 友だちが欲しい ともだちがほしい。 友だちがほしかった・・・


2018年7月13日

考える義務 Ⅲ  死刑制度維持論者への質問


わたしは死刑制度に反対である。そこで、人はどのような理由で死刑を支持しているのか知りたいと思った。多分2002年の朝日新聞に載った記事だが、元筑波大学教授という人が、死刑制度存続の立場から意見を述べているので、この記事に沿って考えてみたい。なおこの元教授は「自分は法律の専門家ではないが」と断っている。

見出しは「命でしか償えない罪も」である。


「私は法律の専門家ではないが、死刑制度の存続を願う一市民の立場から、考えるところを述べたい。
第一に、国家は正義の遂行者でなければならない。
 ここでいう正義とは、不条理な人権の侵害に対して復讐する権利の旗印を意味する。国家の構成員である個人は公権力に警察権、裁判権、刑の執行権を移譲し、納税などの義務を果たす代償として、国家により生存と生活の権利を保障されている。」

ここで疑問に思うのは、では「国家」は「不条理な人権侵害を行わない」という大前提が無ければならないのではないかという事だ。ここで彼は、国家は無条件に「善」の立場にあるという「誤った」前提に立っているのではないだろうか?

またすべての国民は「納税などの義務」を果たす「代償」として生存を保証されているわけではない。ホームレスにも基本的人権はある。更に言えば、ホームレスが存在すること自体がおかしいのだ。

「第二に、個人の人権は無条件で保障されているのではない。他人の人権を侵害した者は、その侵害の程度に応じて自己の権利に制限を受ける。侵害が重大な場合は「生存権」とてその例外ではあり得ない。」

「侵害の程度に応じて」とあるが、「罪」と「罰」のバランスは、一体だれが、どのような資格で決めるのか?

スマホを見ながらわき見運転して子供をひき殺した場合の罰が、懲役5年や6年というのを、軽すぎると見るか、妥当とみるかは、当然裁判官の判断だが、量刑=「罪」と「罰」の軽重の客観的なバランスはどのようにして保証されるのだろう?
「生存権とて例外ではない」ーその根拠は?いかなる法哲学に因るのか?

「第三に、人命は限りなく尊いが、それ故にこそ、自己責任能力をもつ者が、不条理で身勝手な理由により何ら落ち度のない他人を殺害した場合は、その命をもってしか罪を償う方法がないのである。」

これにはなんら論理的な説得力はない。つまりどのような罪は命をもって償わなければならず、どのような罪は、実刑4年で済まされるのかという基準が示されていない。
そして奪われた命はそれを奪った者の命をもって償うしかないと言いながら、すべての殺人者が死刑にならないという一貫性の無さも納得できない。つまり死刑制度は、裏を返せば奪われた命に軽重があるという事を表明してはいないか。
「過失致死」の場合は、”自己責任能力をもつ者が、不条理で身勝手な理由により何ら落ち度のない他人を殺害した場合”には当たらないというのも、身勝手な理屈ではないか。

そもそも日本のように人権意識の極めて低い国にあって、遺族感情を考慮してなどという取って付けたような口上は、いかにもあざとい。
仮に不条理な形で、肉親を殺されたものが、殺人者を「死刑にして下さい!」と言ったとしたら、遺族感情を鑑みて、裁判官は遺族の希望を容れてくれるのだろうか?
もし「これは死刑には値しない」という判断が下された時には、裁判官は遺族の感情を踏み躙ってはいないか?

あまりにもスカスカの「国家性善説」に立った死刑制度維持論であった。



「悪を退治る!」未だそんな前近代的な大見栄切って人気取りを演じているのか。
つくづくこの国は「反省」と「検証」に欠けた国だと感じる。

死刑制度があるために、「処刑」=「殺す」ことが最終的なゴール(目的)になってはいないか?「木を見て森を見ず」になってはいないか?
第二第三の麻原(=オウム)を、加藤智大を、永山則夫を生み出さないために、彼らを飽くまで人間として遇し、彼らの人生観・殺人観を徹底的に究明・検証し、それを社会のシステムに還元すること、それが司法の役目ではないのか?
「殺人者」を人間として遇しない限り、人間としての彼らの心の内は語られることはないだろう。
彼らから学ぶべきところは大きいはずだ。単純に凶悪犯=非・人間として、隔離ー処刑。
それでは犯罪の背景になったもの、その動機が不明のまま彼らはこの世から消されてしまう。彼らが「闇」(病み)なら「闇」を忌避して葬り去るのではなく、寧ろその闇を解明することに力を注ぐべきではないのか?何故なら彼らは「悪魔」ではなくわたしたちと同じ社会に生まれた「人間」なのだから。
彼らがレクターでなくても、学ぶところは大きいのだ。
それともあなたは、生涯殺人者になることはないと、こっそり神に耳打ちされたとでも?

最後に、ある狂った集団に命を奪われかけた人の言葉を紹介しよう。

ユダヤ人の哲学者であり、アウシュヴィッツの生存者、プリーモ・レーヴィの言葉である。

「人間がアウシュヴィッツを建てたのだから、人間であることは罪である。
 アウシュヴィッツを建てたドイツ人が有罪であるならば、ドイツ人と同じく人間である
 自分も有罪である」

プリーモはわたしたち自身に、執拗な反省と地道な検証を・・・「考えること」を促してはいないか・・・














2018年7月12日

考える義務 Ⅱ


7月7日七夕の日。辺見庸はそのブログで三度に亘り、「オウム殺戮」についての記事を載せている。
けれども何故かいまひとつ深みに、言い換えれば「闇」に欠け、手ごたえを感じられない。



しかし、人間というものは、「狂気」なしではいられぬものかもしれません。我々の心の中、身体の中にある様々な傾向のものが、常にうようよ動いていて、我々が何か行動を起こす場合には、そのうようよ動いているものが、あたかも磁気にかかった鉄粉のように一定の方向を向きます。そしてその方向へ進むのに一番適した傾向を持った者が、むくむくと頭をもたげて、主潮的なものになるのです。
そのままグイグイ行動を続けますと、段々と人間は興奮してゆき、遂には精神も肉体もある歪み方を示すようになります。その時、「狂気」が現れてくるのです。

幸いにも、人間のエネルギーにも限度がありますし、さまざまな制約がありますから、「狂気」もそう永続しません。興奮から平静へ戻り、主潮的勢力となっていたものが力を失い、「狂気」が弱まるにつれて、またもとのようなうようよした、さまざまな傾向を持った者の集合体へ戻るのです。

そして、人間は、このうようよしたさまざまなものが静かにしている状態を平和とか安静とか言って讃えながらも、すぐさまこれに飽きて憂鬱になり倦怠を感じます。そして再び次の「狂気」をもとめるようになるものらしいのです。

われわれがノーマルな生活だとうぬぼれている生活でも、よく考えてみれば、「狂気」の連続であり、しかも「狂気」なくしては生活は展開しないということを考えますと、何とも言えぬ変な気持ちにさせられるのです。

(略)

我々が我々の所謂健全な生活の中で、「感動」とか「感激」とか言っているものの中には、常に「狂気」の翳がさしていますし、我々は狂気に捕らえられてもそれを知らず、かつまたそれから甘い汁を吸っていることもしばしばあるからです。

(略)

狂気によってなされた事業は、必ず荒廃と犠牲を伴います。真に偉大な事業は、「狂気」に捕らえられやすい人間であることを人一倍自覚した、人間的な人間によって、誠実に執拗に地道になされるものです。
我々は己の「狂気」を監視し、他人を「狂気」に導くようなことは絶対に避けねばなりますまい。

ー 渡辺一夫『人間模索』より「狂気について」

”人間は己の「狂気」を常に監視して生きてゆかねばならぬ”と渡辺は言う。

そして人間の狂気は、常に我々一人一人の胸の中に伏流水として密かに流れているのだと。
即ち、狂気は突然天から降ってくるものではなく、人間とは常に狂気を孕んだ存在なのだと警告する。


人民の多くは、国家による殺りくに酔いしれた。政治から排除されているルンプロ的人民たちも、政権の〝英断〟に拍手をおくった。
いかなる抵抗も対抗も困難である。なぜなら、最悪の暴力的専制は、あらゆるしゅるいの社会的同一性の解体後の砂漠にたちあらわれ、もっとも脆弱で貧しい人民をもみかたにつけているからだ。」

と辺見は書く。

これは渡辺の

我々の所謂健全な生活の中で、「感動」とか「感激」とか言っているものの中には、常に「狂気」の翳がさしていますし、我々は狂気に捕らえられてもそれを知らず、かつまたそれから甘い汁を吸っていることもしばしばあるからです。

と呼応してはいないか。

言い換えれば、興奮状態、万歳!「死刑賛成!」いづれも「狂気の沙汰」ということだ。


「人間がもし本当に「幸福」なら、何故、彼らには気晴らしが必要なのだろう?」
ー パスカル


ー追記ー

死刑廃止の前に先ず死刑を公開性にせよ。衆人環視の前で、大臣が、首相が縊り殺せ。
処刑とは本来「見せしめ」なのだから。執行者自らの正当性を大衆、国民に周知させる行為なのだから。








2018年7月11日

考える義務



考えることこそが人間の尊厳であり、考えないものは石ころか獣と同じであるとパスカルはいう。

わたしはこのような言い方を好まない。けれども、人間には「考える義務」があるのではないか。

今回のオウム真理教の死刑執行についても、素知らぬ顔で、通り過ぎるわけにはいかない。

「悪とはなにか?」「善とはなにか?」「狂気とは?」「正気とは?」

17世紀の人、パスカルにも考えるヒントはいくつも見つけることができる。





「われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるモノを前方においた後、安心して絶壁の方へ歩いてゆくのである」(183)



「正義・力。
 正しいものに従うのは、正しいことであり、最も強い者に従うのは必然のことである。
 力のない正義は無力であり、正義のない力は圧政的である。
 力のない正義は反対される。何故なら、悪いやつがいつもいるからである。正義のない力は、非難される。したがって正義と力とを一緒におかなければならない。そのためには、正しいものが強いか、強い者が正しくなければならない。
 正義は議論の種になる。力は非常にはっきりしていて、議論無用である。そのために、人は正義に力を与えることができなかった。何故なら、力が正義に反対して、それはただしくなく、正しいのは自分だと言ったからである。
 このようにして人は、正しいものを強くできなかったので、強いものを正しいとしたのである。」(298)



「流行が好みを作るように、また正義をもつくる」(309)



「正義とは既に成立しているものである。したがって、われわれのすべての既成の法律は、それがすでに成立しているという理由で、検討されずに、必然的に正しいと見なされるであろう」(312)



「権威
 あることを人から聞いたということが、君の信じる基準になってよいどころか、それをいまだかつて聞いたことのないような状態に自分を置いた上でなければ、何も信じてはいけない。
 君自身への君の同意、そして他人のではなく、君の理性の変わらぬ声、それが君を信じさせなければいけないのだ。

もしも古いことが信じることの基準だとするならば、古代の人たちには基準がなかったということになるのだろうか。

もしも一般の同意だとするならば、もし人々がいなくなってしまったらどうだろう。
 (略)
いずれにしても、信じるか、否定するか、疑うかのどれかを選ばなければならないのだ。
 われわれには、いったい基準がないのだろうか。
動物についてなら、われわれは彼らが為すべきことをよくやっていると納得する。人間について判断するための基準はないのだろうか。
 否定することと、信じることと、正しく疑うことは、人間にとって、馬にとっての走ることと同じである。」(260)

以上『パンセⅠ』前田陽一 / 由木 康訳


これらは全て考えるための「酵母」である。

「正義に従うことができなかったので、人びとは力に従うことにした」と、パスカルはいう。

<正しいものを見いだせなかったので、人は強いものを見出した>

または

人は正しいものを強くすることができなかったので、強いものを正しいとしたのである

etc...

考えよ・・・









2018年7月10日

尹東柱


「弟の印象画」(1938年9月)


ほのあかい額に冷たい月が沁み
弟の顔はかなしい絵だ。
歩みをとめて
そっと 小さな手を握りながら
「大きくなったらなんになる?」
「人になるよ」
弟の説はまこと 未熟な答えだ。

何食わぬ顔で手を放し
弟の顔をまた覗いて見る。

冷たい月が ほのあかい額に濡れ
弟の顔はかなしい絵だ。

ー 尹東柱 ユン・ドンジュ (1917 - 1945) 金時鐘 キム・シジョン訳



「大きくなったらなんになる?」
「人になるよ?」

「人になる」とはどういうことか?

1945年7月、27歳の若さで、治安維持法違反で投獄されていた福岡刑務所で獄死した朝鮮人、尹東柱は、だれよりも「人」ではなかったか?
誰よりも純粋に人であったので、人でなしの国に殺されたのではなかったか。
言い換えれば、尹東柱は「ひと」ではあったが「邦人(くにびと)」ではなかった。



人になる 人であるとは、どういうことか?

そして今、この街に この邦に「ひと」はいるのか・・・

わたしには見えない ひとの姿が

わたしには聴こえない ひとの声が

誰がわたしに返事をしてくれるのか?

届かないのは わたしが「ひと」でないからなのか?

それともひとでなしの邦で「ひと」になってしまったからなのだろうか?

わからない

たったひとつわかること、それはわたしも尹東柱と同じく、「邦人(くにびと)」ではないということだ・・・



私はなにを望んで
私はただ ひとり澱のように沈んでいるのだろうか?
ー 尹東柱













2018年7月9日

イントレランス


プリーモ・レーヴィはいう。

「怪物」は確かに存在している。けれどもそれは「全体のごく僅か」なのだ。
本当に恐ろしいのは、「普通の人」と呼ばれている者たちである。本質的な問い・疑問を発することなく信じ、行動する用意のある人たちである。

「怪物」とは、先天的に怪物なのではなく、後天的にそのようになる、ごくふつうの者なのであり、ごくふつうの者こそが、ただごくふつうであるがゆえに、ファシズムを熟成させてゆく。その母体となるのが周囲の寛容さである。

彼ら・彼女らが根源的な、乃至顕在的な「悪人」ではないことを以て、彼等が胚胎している「ファシズム」「レイシズム」に寛容であってはならない。


とはいえ、「天皇」であれ「ヒトラー」(ナチズム)であれ、「信じている者」を変えることは事実上不可能だ。


ではどうすればいい?

レヴィナスは言う。「人間(ホモ・サピエンス=「叡智をもつ者」)は、戦争を回避できるほど賢明ではない」と。

それがさしあたっての妥当な回答なのだろう。





前にも書いたことがあるかもしれないが、数年前、フェイスブック上で、欧米の友達に問うたことがある。

「あなたの(ネット上、或いは実生活での)友達、知り合いが、もしドナルド・トランプの支持者であるとわかったら、あなたはそれでも彼らと友達でいられますか?」

皆一様に「ウーン・・・」と頭をひねっていた。フランスの女性は「とても難しい質問だ」と言った。

その後現実にトランプが大統領になった時に、これまでの(FBでの)友だちと袂を分かった人も少なくなかったようだが、正確なところはわからない。

自分の友人が、知り合いが、また家族が、恋人が「差別主義者」だったり「全体主義を支持している」と知った時に、わたしたちはどのように振る舞うべきなのか?

そのヒントになるのがコスタ・ガブラス(Costa-Gavras)監督の名作『ミュージック・ボックス』(Music Box - 1989)であり『背信の日々』(Betrayed  - 1988) だろう。

前者は父親が元ナチであったことを知った弁護士の娘の葛藤、後者は「人種差別主義者」を愛してしまったFBI捜査官の苦悩。
そしてわたしはそれが家族であり、恋人であっても(彼らを)(「家族じゃないか」「恋人だろ?愛している」という「甘え」を許さ(せ)なかった彼女たちの信念を支持する。






2018年7月8日

理解しているという誤解


アンドレ・ジードの書いた言葉で、ノーマン・メイラーが好んで引用したものがある。
それは「あんまり早くわたしを理解するな」である。

誤解されることを避けるには口を噤むしかないのだろうか・・・



木村敏著『関係としての自己』(2005年)。
図書館に返してきてもらうか迷う。

序論にはこんな言葉が書かれている

「人間とは精神である。精神とは何か。精神とは自己である。自己とは何か。自己とはそれ自身に関係するところの関係である。すなわち関係ということには関係が関係それ自身に関係するというそのことである」
ー キルケゴール『死に至る病』より

全編こんな感じで、フーコー、レヴィナス、プリーモ・レーヴィ、ジョルジュ・アガンベン、フロイト、ニーチェ、ヴィトゲンシュタイン、ハイデガーなどの引用で彩られているが、とても今はこれを精読する気力はない。


寝ても疲れが取れない、一日中何にもしていないのに。

ラクニナリタイ・・・




死に切れぬ者として…


これまでほんの少しでも手伝えていたこと、自分で出来ていたことが、目に見えて出来なくなっている。(自分の部屋の掃除でさえも・・・)

毎日毎日部屋の中で過ごすだけ。本を読んだり映画を観る気力もない。
今日偶然You Tubeで、市川崑監督の『黒い十人の女』を見つけた。画質もYou Tubeにしては悪くない。前から見たいと思って見逃していた映画だ。(無論新宿や渋谷のTSUTAYAに行けばDVDがあるのは知っている)今ならわざわざ借りに行かなくとも観ることができる。
けれども観る気になれない。

これをしたら面白かろうというものがナニもない。

ただただだるい。ツマラナイ。ツマラナイ。つまらなくてしょうがない。
こんな毎日を、そう遠くない将来、病んで倒れるまで続けなければならないのか?
どれほど本気かわからないが、こんな状態なら本当に早く世の中から消えてしまいたい。
今なら自殺を試みることも可能じゃないかと思うようになっている。

外に出る予定は全くない。もちろんどうしても本人が出向いていかなければならないようなケース(=医者に行くこと)は除いて。

何故外に出ないのか?
ツマラナイから。
外の世界が醜いから。
人間が醜いから。
街が醜いから。

友だちもなく、生きていく(る)楽しみもなく、先の希望もなく、人は生きて行けるものだろうか?

何故生れてきてしまったのだろう?
「愛されざる者」として。
異形の者として。

「非・人間」(=人ニ非ザル者)として存在している。

生きる術も、死ぬ術も持たずに。

「朝から晩まで、いったい何をなさっているんです?」
「自分が自分であることを我慢しているのです」
ー エミール・シオラン






2018年7月7日

追記


先の投稿はもちろん矛盾を孕んでいます。
例えば世界の「幸せの総量」の問題。
「誰かが泣き止めば誰かが泣き出す・・・世界の涙の総量はいつも変わらない」とベケットは書きました。
けれども、ひとりでも多くの人が幸せな人生を送れるようにと願うことは、人間の自然な、当たり前の感情です。仮に誰もが、世界中の人が幸せになることなど見果てぬ夢だと承知していても、少しでも不幸の要因を減らしたい、無くしたいと思います。

けれどもそういう現実のレベルとは異なった次元で、落魄の美、敗者の美、不幸であることの美をわたしは尊ばずにはいられないのです。

わたしには功成り名遂げて、胸を反らしている人よりも、
ひとりで膝を抱えてうずくまっている人の姿形の方が遥かに気高く美しく見えるのです。

世間と、或いは世界と折り合えない人、狎れ合わない人の後ろ姿に惹かれるのです。

「背(手)は語り、口は騙る」と言います。
黙す人たちの背中や、皺だらけの、あるいは垢にまみれた手を愛おしむことができるようになりたいと思っています。

「美」は、わたしにとっての宗教です。






2018年7月6日

泥の美 負の美


なにかを書こうと思うのだが、うまく考えがまとまらず、もどかしい。

弱者であるということは一種の恩寵だろうか、という考えがふと頭を掠めた。
だが「恩寵」という言葉は相応しくはないだろう。「恩寵」というからには、それを受ける者(当人)に何らかの幸(さち)が齎されなければならないはずだ。

これは過去に何度か書いたことのある、わたしの主要な関心事のひとつでもあるのだが、弱者(と呼ばれる状況にある人)や、障害を持った人、悲しみを抱えた人、傷を負った人、社会という枠組みからドロップアウトしてしまった人・・・そのような人たちの存在が、どれほどわたしのこころを潤し、また慰めになっているかということをしばしば考える。

言い換えれば、わたしは全ての人が幸せで、死を思う人の居ないような世界に住みたいとも、またそんな世界に自分が生きられるとも思わないのだ。
つまりわたしは「不幸な人」「孤独に呻吟している人」のいる世界を望んでいる、という事になる。何故か?それは不幸は幸福よりも高貴だからだ。
苦しみや悲しみには、それに相応しい「美」が備わっているからだ。

裏返せば、誰もがハッピーで、病も、老いも、自殺も、自責も、自己嫌悪も悔恨もない世界は、高貴さも、繊細さも、情緒の襞も、美も存在しない、陰影に欠けたフラットで即物的な世界という事になる。もちろんそんな世界には文学も、哲学も、音楽もアートも存在しないだろう。何故って、それらはみな、幸か不幸か我々が生を享けた憂き世の生に付き物の、激しい雨風をなんとか凌ぐための人間の叡智と工夫の結晶に他ならないのだから。

俗に言う「よりよい社会」とはなんだろう?それは政治屋渡世で喰っている者たちの好む言葉だが、そもそも政治(家)というものが存在する限り、「よりよい社会」などというものは絵に描いた餅。噴飯物でしかない。



不幸な人は幸福な人間よりも高貴である。
深い傷を負った人間は無傷の者より美しい。
全ての(商業的、世俗的)成功・栄達は堕落である。
無名は有名に勝る。

これは最早わたしの信仰と言ってもいい。「信仰」といっても、わたしが拝跪する対象は、あくまでも「美」である。
ただ、勝つことよりも敗れ去ることに、更に言えば不戦敗に、より大きな価値を見出すのだ。


「すぎさったものだけがきれいにおもわれるのは、過去がすでに世界から距離をとっているからだ・・・」

Hの日記にあった言葉だが、弱者、不幸な者、落伍者、孤独な者たちが美しく見えるのは、彼らが現世(=いま・ここ)という穢土から離れているから・・・そう言い換えることもできるだろう・・・


誤解を恐れずにいうなら・・・いや、そういう卑怯な言い方は止めよう。

わたしは世界中の人間が全て、今現在悲しみにひしがれている人の如く不幸であれ、とまでは思わないが、たとえばボロをまとったホームレスと、公園でたまたまであった彼(彼女)に、パンと飲み物を差し出す束の間の(一期一会の)やさしさを秘めた無名の人ばかりであればと思う。

うつむく人、地に横たわる躯にさしのべる手と微笑み、それ以上に貴い芸術や文藝、そして仕事が、この世の中にあるだろうか?

「ノブレス・オブリージュ」(Noblesse Oblige) 持てる者が持たざる者を援ける義務・・・
しかし、これは義務というよりも寧ろ、彼らに与えられた「恩寵」ではないだろうか?













2018年7月4日

ディプレッション・ペイシェント(鬱病患者の自己対話)




性欲?
幸か不幸かもうまったくありません。世間的に若くて綺麗という女性を見ても・・・といってもほとんど外に出ることがないし、TVも観ない、雑誌も読まないので、そもそも若い女性が視界に入ってくること自体がないのですが、仮に外できれいな女性を見ても、まったくセクシュアルなことは感じないし考えません。

自分に関心を持っていない女性は全くの路傍の石と変わりません。
「わたしに関心」といっても、わたしは俗に言う「キモオ」ですから(苦笑)
第一スマートフォンをもった女性って、わたしにとってはなんだか生身の人間て感じがしないんですよ。



ファッション?
ああ、昔は着るもの、身に付ける物にも興味もありましたが、今はまったく着の身着のまま。とにかく外へ行かないんですから。ただ、セックスよりはまだ興味はあるかもしれません。
今ではセックスは「不潔」というイメージが強いですね。



望むこと?
友だちが欲しいですね。無理ですけど。何故かって?世間一般の人と共通点がまるでありませんから。



恋人?
あ、これはそもそもまったく可能性のない話。また望んでもいません。
わたしが欲しいのは恋人じゃなく友達です。



わたしの外見?
つまりキモオの外見?
ゲテモノ好きですね。
去年、2017年3月と4月。(「最新」にしておそらく最後の写真です)





なにか一言。

もう世の中にはなにも愉しみはありません。







2018年7月3日

映画について少々


フォローというほどではないが、時々覗くツイッターの(文学系)アカウントがある。
数日前、こんな投稿があった。

「2018年上半期の映画からのベストフレーズは、ハリー・ディーン・スタントンの遺作『ラッキー』の「つまらない雑談なら気まずい沈黙のほうがマシだ」です。」

このセリフのどこがいいんだよ?

今年は全然映画を観てないな。Hは2013年頃のブログで盛んにベルイマンを語っている。彼に心酔しているように見えたが、ベルイマンも観る気がしない。
もちろんHが言っていた『沈黙』は名作だし、もう一度観たい。
ベルイマンで今手元にDVDがあるのは『恥』『野いちご』『蛇の卵』(これは途中で寝てしまった)あれ?「神の沈黙三部作」ってなんだったっけ?『沈黙』『鏡の中にある如く』あとは?数年前わざわざ品川区の図書館まで、この三部作を借りに行ったのに。

Hがカサヴェテスについて書いていた。『こわれゆく女』。これも持ってるがそのままになっている。

大田区に住んでいた頃、母が何処かの映画館でやっていたカサヴェテス特集を観に行った。3回ほど行ったのだろうか?母はジーナ・ローランズが好きだという。

その時に観た『ラブ・ストリームス』という映画の中でカサヴェテスが語る科白について教えてくれた。

「まあ、人生なんてものは自殺と離婚、裏切られた約束と幼児虐待の連続ってところかな」
"Yeah, well, life is a series of suicides, divorces, promises broken, children smashed, whatever." 

こういうのをほんとうの「いいセリフ」っていうんだよ。

再見や過去に何度も観たものも含めて今観たい映画は・・・

『十階のモスキート』『ゆきゆきて神軍』『記憶の扉』くらいか。
あ、いや!トリュフォーの『緑の部屋』、『ゴダールの映画史』ブレッソンの諸作品。とりわけ『ラルジャン』。アニエス・ヴァルダの『落穂拾い』それに『木靴の木』『春にして君を想う』そして、ああ、『ローサのぬくもり』は名作!blah blah blah...

今年初めに初めてYou Tubeで観た映画、『日本暗殺秘録』(1969年)中島貞夫監督

ラストの

「そして現代
 暗殺を超える思想とは何か?」

科白ではないが考えさせられる命題だ。

けれどもそもそも「暗殺」或いは「テロル」とは「思想」だろうか?
転覆に転覆を重ねても、またいかなる体制であろうとも、国家がある限り権力があり、権力のあるところには支配がある。

狂気(兇器)の沙汰と言われ「思想以前」と言われても、それ故に、わたしはそこに人間性の哀しき美の発露を見る。

テロリズムとは心優しき者の心に宿る思想である・・・」 
ー 竹中労

とにかく今は何もできない。
本を読み、映画を観ることができる日がまた来るのだろうか?




ジョン・カサヴェテス監督『アメリカの影』(1958年)のために、ミンガスが書き下ろした曲。"Nostalgia in Times Square"















2018年7月2日

無題


誰かに自殺を仄めかされたら、「生きてください」といった類のことはわたしにはどうしても言えない。
そう言えるのは、その人がいなくなってしまったら自分が困る場合だけだ。

[ 夏目漱石『硝子戸の中』六・七・八参照 ]


一期は夢よただ狂へ


明日の精神科の予約はキャンセルした。あまりにも具合が悪い。
第一にここから駅まで歩いて約20分、クリニックのある駅から約10分の道のりに耐えられるか?
途中、西部邁言うところの「スマホ人」と「傷害事件」など起こさないか?
衝動的に線路に飛び込んだり赤信号で道路に飛び出したりしないか?
先方で、ちゃんと話せるか?

そのようなことに全く自信が持てなかった。



母はHの書いた

「命はもっと粗末に、ほったらかしにしやうぜ。」という言葉が解らないと言った。
「命を粗末にしよう」という事が解らないと。

わたしはこのセリフとてもいいと思う。
なにかの映画の科白なのか、本の中の言葉なのか、それともH自身の言葉なのかは知らないが、人は、いっしょう懸命生きているから死にたいと思うのだ。
概して不真面目な人間は自殺など考えない。
死にたいと思うほどいっしょう懸命に生きているのだ。
「よく生きるためには自殺さえするのだ」というコクトーの言葉を思い出す。

だからHは、もっと不真面目になれよ、と言っているように思う。

「詩が彼を怠惰にした。そうでなければもっと真面目に自殺を考えていただろう」という言葉が出てくる三島の小説はなんだったろうか?

けれどもわたしはそういうタガの外し方を知らない。



これからこのブログはますますいわゆる「まともさ」から逸脱してゆくだろう。
リベラル、護憲派、戦争反対を訴える人たちから総スカンを喰っているHを今頃になって盛んに持ち出してくること自体、世間の所謂「良識派」と袂を分かつ宣言しているようなものだ。

けれども、誰にでもわかりやすい、それ故まったく衝撃を伴わない、新味も深みもない、敢えて言うなら「非・文学的」「非・哲学的」=「没主体的会話」こそが、大方の理解と共感を得られるというのなら、わたしはわたし個人の言葉で話し、それ故に誰の耳にも届かない孤独な狂人で構わない。

「大勢の理解と共感を得る」ということは、どのような場合にしても決して望ましいことではない。何故なら畢竟それは大衆(マス)への迎合に他ならないからだ。
もう「まともさ」や「正気ぶること」には正直ウンザリシテイルノダ。


追記

Hの言っていることは非常に正鵠を得ていると思う。
けれどもわたしはHに限らず、好きな音楽、内容のある本、素晴らしい映画を人に勧めることが好きではない。わたしが200%の素晴らしさだと思っても、それはあくまでも、あくまでも、わたしの趣味の問題でしかないのだから。
Hは(普遍的な)「真実」を語っているわけではない。(そもそも「真実」ってなんだ?)
わたしは彼のひとりごとに勝手に耳を傾けているだけだ。













2018年7月1日

七月…


7月。一年の半分が終わった。人生なんてあっけないほどに短い。その僅かないのちの時さえ、倖せを感じて暮らすことができない人が大勢いるのだ。これが、「生れてきたことの不都合」でなくてなんだろう。

正直「覚悟はできている」とはいえない。どんな自殺者だって、飛び降りる直前、引き金を引く直前には思い躊躇うものだ。

「人間には生きるために気晴らしが必要である」とパスカルはいった。
わたしにそんなものはない。何もない。ナニモナイ。
それでも尚生き続ける理由を、わたしは見出すことができなかった。
楽に死ぬことができないから。ただそれだけが生の根拠だった。
けれども、退屈と倦怠が「死ぬのも楽じゃない」という気持ちを上回われば、舞台の幕は降り照明は落とされる。


月曜日に今年初めて精神科に行くことになっている。
何のために行くのか?自分でもよくわからない。
確実なのは、(どこであろうと)精神科に因って今の状態が改善される可能性はないという事。そしておそらくわたしは精神疾患などではないのだろうという事。そして引き続き一日の大半を寝て過ごすための薬が要るという事。

「親亡き後」のないわたしにとって、先はそう長くはない。何も死に急ぐことは無かろうという気持ちもないではない。しかし芥川の言うように、ほとんどの人が「ただ生きるために生きている」のだとしたら、人類とはなんと不幸な生き物であることか。





最近は辺見庸のことばかりじゃないかと、わたしのブログの4人の読者の内、4人ともがそう思っているかもしれない。
それほど惹かれるものがあるということだ。彼の書く物には。ただ先日も書いたように、わたしは辺見庸の信奉者でも心酔者でも信者でもない。
わたしは「書かれたもの」と「書いた人」を同一視はしない。

以下またランダムに彼のブログから気になった言葉を引用する。
わたしは彼の紹介者のつもりはない。これらのことばを通じて、こういう思想、こういう考え方に共鳴する者であるという、自己紹介のようなものだ。

それにしても政治についてよく飽きもせずに語る人たちがいるもんだ。
日本に徴兵制が敷かれても、彼ら/彼女らはツイッターで、ブログで、グズグズと愚痴っていることだろう。実際のところ彼らが実在しているのかすら定かではない・・・



ー以下辺見庸ブログより抜粋引用ー


憲法改悪反対の呼びかけに賛同する署名とカンパをしてくれ、といふ手紙がくる。大江健三郎ら、毎度おなじみの「ゼンダマ」ブンカジンたちの氏名と写真つき。アホか。署名とカンパとやつらのえっらそうな記者会見で、9条改悪、集団的自衛権容認、秘密保護法が阻止できるんやったら、さいしょっからこんなことになってないやろ。まずかれらのうす汚い急所を蹴上げよ、だ。(2013/10/23)



未知の〈結末〉などありはしない。だって、〈結末〉はたえず〈死〉でしかないのだから。

エベレストのかへり、女の子たちの話し声を背中に聞いた。小学生だろう。子どもたちがわたしを追いこした。ランドセルの中身の音がした。追いこした3人のうち、ひとりがふりかえり、そのような目つきをどこで教わったのか、さも蔑むような、怪しむような目でわたしを見た。うすく怯えつつ、まったくどうじに、うすく笑っていた。むろん、おもいすごしかもしれぬ。わたしは見返した。〈わたしは不審者ではないよ〉というつくろい顔ではなく、こうすれば残忍な顔になるとひそかに長年イメージトレーニングしている〈残忍な顔〉で笑い返してやった。せつな、子どもが凍りついた。きっと親に報告するだろう。
(2013/11/05)




プログラムの裏表紙に谷川俊太郎先生の例の「詩」が載っていた。「愛する人のために」。「保険にはダイヤモンドの輝きもなければ、/パソコンの便利さもありません。/けれど目に見えぬこの商品には、/人間の血が通っています。/人間の未来への切ない望みが/こめられています」。わたしはクローゼットの闇に横たわっている。世界は正常だ。ジャン=ギアン・ケラスはイケメンだ。無伴奏チェロ組曲全曲は絶品だ。わるひのはわたしだ。そのとほりだ!保険には人間の血が通ってるぅ!Oh、yes! 人間の未来への切なひ望みがこめられてるぅ!すばらしい詩どぇす!ほんま、涙でます。「お金に愛情をこめることはできます」やて。そのとほりどぇす!わたひがわるひ。わたひの根性がわるひさかい、谷川さん、おまはん、なんぼもろたんや、なんて下品なこつ、つひつひ言うてまうんや。すんまへん!センセ、えろすんまへんな!勘弁してつかぁさい!でも、保険に人間の血がかよってるというのであれば、貧者と病者と弱者を合法的にいびり殺す現在のシステムのすべてに、あたたかなひとの血がかよっているということである。つまり、おい谷川、現代のホモサケルはみんなぶち殺してよい、といふことだな。保険にも入れないホームレスは死ね、ってことか。わたひの根性がわるひさかい、おいクソッタレジジイ、おまはん、なんぼもろたんや?て、つひつひ言うてまうんや。すんまへん!そうしたわたしの下劣な品性をコビトは見ぬいている。だから、シカトするのであらう。クローゼットの闇でわたしの顔は赤らむ。(2013/11/17)



けふは小雨のなかエベレストにのぼった。道ばたにパトカーがとまり、なかから警官が2人わたしをじっと監視していたので、気分を害し、2度目の登頂はやめにする。どうしてわたしがアルカイダだとわかったのだろう?おなじジョークを9.11の翌年の1月、ボストンで言ったら、勾留されるから2度と口にしないでくれと米国人カメラマンに真顔で忠告されたっけ。でも、けふは下校時だったので、たぶん、アルカイダではなく、「不審者」か「変質者」とうたがわれたのかもしれないな。突きつめてかんがえてみれば、わたしが広義の不審者か変質者であることは、必ずしも否定できない事実だ。わたし以外のひとびとが非不審者、非変質者であればの話だが。(2013/11/25)



秘密保護法に反対するのなら、新聞はーーそこではたらく個人たちは、という意味だけれどもーーストライキをすべきだった。少なくも、それを目指すべきであった。白紙の新聞、記事の載っていない新聞をだしたらよかったのに…。ぼくはそうおもったし、いまもそうおもう。安倍政権はきわめて危険である。ほんきで倒さなければならない。むろん、ストライキなどおもいもつかず、ロバの屁のような社説でお茶をにごし、きょうもそしらぬ顔で「ニュース」なるものを生産、偽造しつづける、個人のいない新聞と、それら下品な浸透圧の犠牲となる読者たち。困ったことです。そう言いつつ、秘密保護法下の状況を不作為によって支えるひとびと。批判者たちの、アジビラていどの語法とボキャブラリー。下品な浸透圧は、反ファッショの側からも生まれている。いまは権力の実相がきもちわるいだけではない。反権力を自称する者らの立ち居ふるまい、目つき、腰つきも、なにやら怪しい。戦端は、ひとだのみにするのでなく、「個」がいま、みずからひらけばよい。惨めになんどでも負ければよい。(2013/12/30)




・この国は、ヒロシマ、ナガサキがあるために、ずいぶんかいかぶられてきた。絶大な経験はひとの認識を深める、とかんがえるひとびとにより、もともと深い精神性をもつ日本の思想文化は、ヒロシマ、ナガサキの空前絶後の体験によって、かならずや、さらに深淵なものになっているはずである、とかいかぶられてきた。誤解である、善意の。この国の思想文化は、残念ながらヒロシマ、ナガサキの経験をほとんどすこしも血肉とはしていない。かつても、いまも、おそらく、未来も。アラン・レネ、ロラン・バルト、そしてタルコフスキー、ボードリヤールにさえ、日本への好意的誤解があった。誤解はなんらかれらの罪ではなく、かれらの自由であり、勝手である。罪というなら、ヒロシマ、ナガサキの経験をほぼ消費しつくして、観光的表象(というより“商標”)だけを残して、反核反戦の思想と魂の基地をつくることがついにできなかったこちら側にある。経験は、いつもかならず自動的に、認識を深めるというものではない。フクシマについても。とくに、この国の社会なきセケン(世間)とゴロツキ政治においては。侵略戦争のかぞえきれないほどの加害責任を、東京大空襲とヒロシマ、ナガサキのホロコーストで、ご都合主義的に相殺する、チャラにすることで、いちどとして激烈な内省をしなかっただけでなく、ヒロシマ、ナガサキの責任追及をあっさり放棄し、天皇制ファシズムの歴史的検証もネグレクトし、いまや侵略戦争そのものとそれに付随したおびただしい犯罪を正当化するまでにいたっている。

日本が今後、憲法を改定する公算は論なく大である。徴兵制ないし準徴兵制にふみきる可能性もあるだろう。45年に廃止された治安維持法(実質的に再生しているけれども)が、新しい装いで復活する可能性もつよい。将来的核武装化の可能性はもはや絶無ではなくなった。『サクリファイス』をみながら、例によって、茫々と妄想にふけった。経験は直線的に認識を深めることはない。とりわけ、テクストとされた集合的経験と記憶は危うい。経験と認識は、権力にゆだねるものではなく、あくまでも「個」の向自的作業であるべきだ。たしかこんなセリフがあった。「わたしはこの時を待っていたのだ…」。じっとじぶんに耳を澄ますと、わたしにも待っている気配がある。平和やそのための「犠牲」となることではなく、全面的核戦争でも大震災でも巨大隕石の落下でもなんでもよい、徹底的な全的破滅をどこか待っている心もちがある。それまでの一瞬になにを見て、なにをかんがえるか…だけがテーマである。
犬がベランダに糞をしたので、心静かに、ゆっくりとかたづけた。午後3時半すぎ、東口のミスドとストラーダ・ヴェルデをめざしアパートをでるも、寒風意外にきびしく、目標をきゅうきょ下方修正し、マックに行ったら満員。しかたなく、なんだか形式的にエベレストにのぼってお茶をにごす。
かへりみち、郵便屋オットーの言葉をおもいだした。「いままでの人生は本物ではなく、ずっと永いあいだ本物の人生を待ってたにすぎないのだ…」。言外に、本物の人生なんかない、ただ死を待つだけ、とかたっている。このしゅの人生論はなかなかおもしろそうで、じつはとてもつまらない。人生論はどうやってもつまらないものなのだ。『サラバンド』の80をとうにこした老人が吐きすてる、じぶんの人生など「クソだったよ…」のほうが、すっきりしていてよほど好きだ。(2014/01/02)




・エベレストにけふ、のぼった。強風下2回。シダレヤナギの葉が右側の尾根に、切りおとされた無数の青いひと差し指のやうに、ちりつもっていた。友人が自殺に失敗した。らしい。昨夜知った。またやるだろう。そこここで、死はすでに、「状況」なんかより、よほど身近であり、もっとも正直だ。いまごろさかしらげに「状況」をかたるやつはマジ、ウザい。うそくさい。いざといふときが近づいているのだ。ひとはいざという間際に、急に悪人にかわる。わたしぃが言ったのではなひ。まったく文字どおりに、漱石が書ひている。だからおそろしい、油断ならなひ、と。金の話でごまかしてはいるが、むろん、金の話なんかじゃあなひ。いざという間際…とはなんだらう。と、いぶかるが、ププイ、いぶかるまでもなひ。大道寺さんからけふ、封書がとどいた。また黒塗りが1箇所あった。なぜかはわからなひ。ムッとする。ていねいにこの黒塗りをやったきみ、東京拘置所のひと(ブログ読んでますかぁ?)を、しかひ、わたすぃはあまり恨んでいなひ。わたひぃは、この刑務官より100万倍も、朝日はじめ各社の新聞記者や作家、詩人らをふかーく軽蔑する。宮内庁は、刑務官とくに絞首刑の執行にあたった刑務官たちこそ宮中にまねき、あつく労をねぎらひ、表彰すべきである。全員に勲一等旭日大綬章をあたへるべきである。新聞記者、テレビキャスターや作家、詩人らは、わざとらしひ善人面したのも、もともと悪党面、アホ面したのも、ならべていっぱつ延髄切りでええ。

友よ、いまは自殺にもあたひしなひ季節なのだから、首吊りはしばらくやめとけよ。命はもっと粗末に、ほったらかしにしやうぜ。なにもわざわざじぶんでやらなくったって、やっていただけるかもしんないだらう?(2013/12/22)




現とも 夢とも知らぬ 世にしあれば 在りとて在と 頼むべき身か

源実朝「金槐和歌集」より






※ 辺見庸が時に不審者に見られるというのは、彼は2004年に講演中に脳出血で倒れ、その後遺症で右半身マヒの症状が残っているためだろう。
「エベレスト」というのは彼の自宅の近所の小高い丘のことで、彼の歩行リハビリ(彼は「自主トレ」と呼ぶ)のためにしばしば登頂する。

上記の文章を読めば辺見庸がしばしば「左翼/リベラル」に敵視(というよりも、冷笑を伴う黙殺)される理由もわかるだろう。

なお下線・太字は引用者による。