2021年5月31日
時代に逆らって書くということ
2021年5月30日
2021年5月29日
憎むことを知らない者たち
そもそもニッポンには社会があるか疑わしいのだ。西欧的な意味合いで社会というとき、「個人が前提となる。個人は譲り渡すことのできない尊厳を持っているとされており、この個人が集まって社会をつくるとみなされている」(阿部謹也『「世間」とはなにか』)。とすればこの国には西欧的概念としての社会はないのであって、あるのは「非言語系の知」の集積たる「世間」なのである。社会ということばは輸入語でありSocietyの訳語だった。個人も同様で、もともと日本語にはなく、Individualの訳語として19世紀後半にお目見えしている。社会や個人の概念がこの国に定着したかというと、阿部謹也氏によれば否だという。国家権力との緊張関係を前提とする社会や、その成員としてそれぞれに異なった内面世界をもつ個人はこの国にはなじまなかったということだ。万葉以来千年にわたり時空間の暗黙の秩序をつかさどってきているのは、やはり非言語的(非論理的)価値体系でもある世間なのである。こういってもよいだろう。ニッポンは社会と世間の二重構造によってなりたっていると。社会は建前であり世間が本音である。タテマエでは、人には生きる価値のあるものとそうではないものの区別はないと言いつつも、ホンネでは、<死すべきもの><生きるべきもの>の異同を暗々裡に認めている。かくして死刑制度は世間によって強固に支持される。世間は天皇制、軍国主義、独裁政治、ファシズムとうまく調和しながらそれらを下支えしてきた。ー辺見庸『コロナ時代のパンセ』(下線、引用者)
目取真俊さんは「日本は舐められている」と。「なめられて当たり前だと思います。パレスチナでは、子供たちがイスラエル軍の戦車に石を投げているのに、(沖縄の米軍基地前では)シュプレヒコールしてプラカードで抗議しているだけですからね。アメリカ兵から、お前ら自爆テロもできないだろうと思われてあたりまえなわけです」「よその国ではレイプしたら報復されて殺されるかもしれないが、沖縄、日本ではそんなことはない。」(略)米兵にしてみれば、沖縄は「ぬくぬくしたリゾート地」であり「夜中に酒飲んで歩いていても後ろから刺されることも、撃ち殺されることもない」と作家は語っている。
(同書)
全面的に同感である。
沖縄を日本人に、アメリカ兵を日本政府に置き換えることは充分に可能だ。
大状況を変えるには、こちら側も、欧米諸国のように、非・言語により拮抗する大状況を持たなければならない。何百万人の人たちが、スマートフォンで、ツイッターに、現政権にNOと書きこんだところで、それを権力に拮抗する力とは言わない。
2021年5月28日
鳥の巣
2021年5月27日
なにが規準になり得るのか
現実は小理屈ではすまないほどにリアルである。もともとそうだったのだが、ますます隠しようがないほどに切羽づまってきた。コロナと大不況・・・人間はいまや「生きるか死ぬか」というほどに追いつめられているといってもオーバーではないだろう。失業したくないから、条件が悪くとも働きつづける。だが働くのも命がけである。生活のためにはウィルス感染の危険を冒してでも労働せざるを得ない。失業ー貧困ー病気ー無収入のプロセスは、もともと頼りないセーフティーネットから容易に漏れ、死へと直結する。「誰が命がけで働くのか。誰が死ぬまで働かされるのか。誰の労働が低賃金で、最終的には使い捨て可能で代替可能なものなのか」。バトラーによれば、パンデミックはこれら「一般的な問い」を、あらためてなまなましく浮かびあがらせ、答えを迫っている。「職業に貴賎なし」「同一労働・同一賃金」といったお題目は、依然、”正論”ではあるのかもしれないが、従来の足場を失いつつあるのだ。昨夏、若い女性がカッターナイフを手に真珠販売店に入り、お金を奪おうとしたが未遂、すぐに交番に自首したという記事が九州の新聞に載った。女性は新型コロナの影響で客足が遠のいたうどん店を解雇され、生活に窮し、公園で寝泊まりするようになった。彼女は一時、「食べ物を下さい」と書いた紙を掲げて公園に立っていたという。胸が締め付けられる。この風景は、路上生活者の女性をバス停のベンチから立ち去らせようとしてひどい暴力をふるい、死に至らしめた”きれい好き”の住民の挙措と重なる。新型コロナは、多数の失業者とともに、おびただしい「過剰潔癖症候群」を生み出しつつある。後者は一般に、職を失い重い影を引きずって街をさまよう人々を地域から排除しようとする。お腹を空かせた失業者がコンビニでパンや弁当を万引きすると、さもとんでもない重大犯罪でもあるかのように詰(なじ)る。なんだか胡乱な目をしたこのクニのトップによれば「自助・共助・公助」だそうである。なべて「自己責任」なそうな。福祉・公共サービスを縮小し、公共事業は民営化、規制緩和により競争を煽り、貧者、弱者保護政策を最小化するいわゆる「ネオリベラリズム」を臆面もなく推進する現政権にとっては、「食べ物を下さい」の女性も、殺された路上生活者も、増えつづける自殺者も、「自己責任」ということになるのか。1970年代のスタグフレーションをきっかけに物価上昇を抑える金融経済重視政策が世界の主流になり、レーガノミクスに象徴されるような「市場原理主義」への回帰が大勢となった。いうまでもなくここには貧者・弱者保護の精神はまったくない。2013年6月発表の「日本再興戦略」いわゆるアベノミクスも、大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略を政策運営の柱としたが、まちがえてもらっては困る。レーガノミクスもアベノミクスも、貧者、弱者切り捨ての上に成り立った「富者のための戦略」だったのだ。コロナ時代のいま、哀しいかな、「生は特権化された人々の権利」に過ぎない(バトラー)のかもしれない。貧しい人々は、にもかかわらず、コロナの死線を越えて日々働き続けなければならない。でなければ今日を生きながらえることができないからだ。
2021年5月26日
ひとを幸福にさせない「日本」というシステム
ある本を読んでいて、一見どうということのないトートロジー(同語反復)にいたく感じ入った。「あなたがたがダメなのは、ほかでもなく、あなたがたがダメだからだ」。簡明といえば簡明。しかし生きる出口を封じる極めて残忍な、今日的ロジックである。あなたがたの貧困は政治や社会ではなく、あなたがたの「無能」にげんいんがある、と同義の、これこそいわゆる新自由主義の論法だ。それがいま、「自己責任」論とともに、世界に蔓延している。新自由主義とか歴史修正主義とかいえば批判が足りるとおもうのは大きなまちがいだ。わたしたちはここにきてにんげん圧殺の怒濤のような流れに直面しているのであり、極論するならば、各種ヘイト・クライムにたいしてもあまりにも無抵抗である。ヘイト・クライムはげんざい、人種・民族差別を超え、生活保護受給者や申請者ら貧者や社会的弱者を「怠け者の常習的たかり屋」などと決めつけて排斥する流れにもなっている。なつかしくおもいだす。英国の全労働者は自分たちを組織的に搾取している富者にたいし、「深いうらみ」をいだいており「このうらみはあまり遠からずして ── ほとんど計算しうる時期に ── 革命となって、それに比べれば第一次フランス革命と1794年(「テルミドールの反乱」)も稚戯に類するであろうような革命となって、爆発するのである」と、エンゲルスが予言した(『イギリスにおける労働者の状態』)のはむかしもむかし、1845年のことだった。エンゲルスはマンチェスターの工場で労働をし、資本家による過酷な労働者搾取を身をもって経験したのだった。だが、エンゲルスのいうような革命は起きなかった。革命いまだし・・・・というべきかどうか、わからない。経済的・政治的に対立する階級間の争いを階級闘争といい、往時はもっぱら搾取される労働者が資本家側にしかける争議をさしたものだが、げんざいは「上からの階級闘争」が主流になっているという見方もある。富者が貧者に攻勢をかけ、いよいよ崖っぷちまで追いつめているというのだ。富者=善。貧者=悪「あなたがダメなのは、ほかでもなくあなたがダメだからだ」という理屈によって。ー辺見庸『コロナ時代のパンセ』(2021年)(下線、引用者)
◇
2021年5月25日
「わたし」は「あなた」ではない。「あなた」は「わたし」ではない。では「わたし」は永遠に「わたし」であり続けるのか
論理学で「自同律」ということばがある。「A=A」の形で表わされるもので、概念は、その思考の過程においては同一の意味を維持しなければならない。と言うことなのだが、なに、さほどにむずかしくかんがえることもあるまい。A=Aは、「わたしはわたしである」という根本的というより、あたりまえの同一原理にひとしい。しかしA=Aは、敷衍すれば「わたしがわたしである」ことからどうしても逃れられない、という自己強制か自縄自縛の論理にもなりかねない。わたしがわたしであり、そうでしかありえないとしたら、悦びであるよりも、不快にもなりうる。
先日作家の目取真俊(めどるましゅん)さんと対談した折に、「自同律の不快」にわたしの方から触れた。といっても、この不快感についてはもともと埴谷雄高が言いだして有名になり、目取真さんはそれをうけて、A=Aを、「日本に住むもの=日本人」に転移し、はげしい不快感を表明していたのであった。「私は、と口にして、日本人である、と言い切ることのできない『自同律の不快』が私にはずっとある」(『論座』2006年7月号)。同じエッセイで、さらにこうも書いていた。「私の国籍はいま日本にある。しかし、私は日本人である、と言い切ることには生理的嫌悪さえ覚える」(略)目取真さんは「私はあくまでウチナンチュー・沖縄人であり、沖縄に強い愛郷心は抱いても、日本という国に愛国心を持とうとは思わない」ときっぱりと言いきっていた。いわばA=Aへの反逆であり、「日本に住む者=日本人」への謀反である。ー辺見庸『コロナ時代のパンセ』より
◇
2021年5月24日
サムウェアー・ダウン・ザ・ロード
「生きるってのは・・・・ずいぶん屈辱的なんですね・・・・」
友人の父がまた入院した。ときどき意識がうすれ、食べ物の飲みくだしがむずかしくなるので、どうしても付きそいと介助がいる。ひとり息子の友人は去年、仕事を休み、両親の介護に明けくれたすえに母を喪ったばかりで、心身共に疲労の色が濃い。絞り出すようにつぶやいた。「生きるってのは・・・・ずいぶん屈辱的なんですね・・・・」。ドキリとしたまま返事に窮する。屈辱的とは、父親のことか、じぶんのことか、それとも、今生きてある人間たちぜんぱんについてそうなのか。屈辱の意味と所在についてせんさくし、わたしはおもいを沈めた。友人が察して話題を変えてくれた。意識が遠のく父の耳に「お父さん、お父さーん!」と懸命に声をかけていたら、肝心の父親ではなく、隣の病床の患者が「はーい」と明るく返事したのだという。だんだんからだをうごかさなくなる父に、せめて手くらいはなんとかさせようと、「はい、グーパー、グーパー」と号令をかけていたら、さっぱり応じないのに、認知症もあるらしい隣の患者がしきりに「結んで開いて」をやっていたとか。笑えないが笑ったふりをした。(略)病院側はだれもことばはやわらかい、けっして暴言を吐いたりはしない。患者を理不尽に叱ったりもしない。だがそれ以上でもそれ以下でもない。治療は特に熱心でも、観察するところ、ことさらに手抜きをしているのでもなく、さりとてべっしてやさしいわけでもない。問題の析出は容易ではない。老いおとろえたか弱い<生体>の危機をめぐり、しかし病院は、いや社会ぜんたいが、なにかシステマティックに、無機質に乾ききり、それに慣れっこになっているのではないか。法的にはなにも問題はない。ただ、法的に問題がないことが、ただちに人間的に、あるいは究極の人間倫理にかなうかどうかはまたべつのことじゃないか。治療費、入院費をはらえず、病院が治るみこみもない患者を、強制的に<たたきだす>のではなく、ていねいなことばで<退院していただく>からといってそれが暴力でないといえるのだろうか。ー辺見庸『コロナ時代のパンセ』(2021年)
◇
また一方で、
・・・しかし私のように、意志によって中毒をネジふせて退治するというのは、悪どく、俗悪極まる成金趣味のようなもので、素直に負けて死んでしまった太宰や田中(英光)は、弱く、愛すべき人間というべきかもしれない...
とも書いている。
全面的に賛成である。
2021年5月23日
生は特権化された人々の権利か
2021年5月22日
人間がわからない
「 最早隠れ処など存在しない」。主体から主体性がうばわれ、世界からそれぞれ固有の「質」が奪われた・・・・と言ったのは誰だったか。(略)「最早隠れ処など存在しない」「管理社会から脱落した者がつつましく冬を越すことすらもはやできなくなっている」。ああ、そうだ。T・アドルノが半世紀以上前に言ったのだった。ヒューマニティーの喪失。そうだ、アドルノがいいたかったのは、しかし、おそらくそれだけではない。21世紀の管理社会では、システムとしてのヒューマニティーは前世紀よりも、もちろん19世紀よりもはるかに向上している。ではなにが問題なのか。アドルノによれば、ファシズムの時代に人々を支配していたのはナチスのような「暴力団」でありナチス以降は管理社会がとってかわったけれども、実は両者に決定的なちがいはない。19世紀末、落魄のアル中詩人にして一文無しのホームレス、ポール・ヴェルレーヌに献身的に手を差し伸べた医者はたしかにいたが、管理化された社会では、形骸化した弱者救済のシステムらしきものはあっても、その分人間の主体性が希薄になるので、ヴェルレーヌのような詩人も彼を本気で救うような医師も、ずいぶん少なかろう、というのだ。管理社会はひとというものの落魄をそもそもみとめはしない。管理社会では「落魄」はもう詩ではなく、たんに病理なのである。ー辺見庸『コロナの時代のパンセ』(2021年)より
◇
ジョルジュ・アガンベンは「自分の生が純然たる生物学的なありかたへと縮減され、社会的・政治的な次元のみならず、人間的、情愛的な次元の全てを失った、ということに彼らは気づいていないのではないか・・・」と書き、案の定、多くの論者から非難されている。しかしわたしはアガンベンの主張にCOVID-19の不当な過小評価よりも、コロナ禍でまちがいなく減縮されつつある人間存在へのまっとうな危機意識を感ぜずにはいられない。辺見庸同書(下線引用者)
しかし仮にコロナが存在しなかったとしても、管理社会はその網の目を更に広く、細かく張り巡らしてくるだろう。人間による人間の疎外そして迫害は、コロナとは無関係に強まっている。
精神を病む者が増えるだろう・・・と書きかけて、ふと指が止まった。そもそも、「主体」=「わたし個人」というものを持たない者たちがこころを病むということがあるのだろうか、と。
◇
4月25日に発売された辺見庸の本は、既に都立中央図書館などに所蔵が見られたが、わたしの住んでいる市には所蔵がなく、いつまで経っても「新着図書」のリストにも挙がらない。
2021年5月21日
個性と畸形について(ダイアン・アーバス)
奇形の人々の写真を多く撮りました。それは私が写真を撮った最初の題材のひとつですし、わたしに非常に強い興奮をもたらしたのです。私はただ、彼らを崇拝したものでした。いまでもそのうちの何人かの人々にはそうした感情を持っています。親密な友情というのではないのですが、彼らはわたしに羞恥と畏怖の入り混じったような感情をもたらしてくれます。奇形の人々には伝説の中の人物のようなある特別な価値がそなわっているのです。例えば人を呼びとめてはなぞなぞを出すお伽噺の主人公のように。ほとんどの人たちは精神的に傷つくことを恐れながらいきていますが、彼らは生まれた時から傷ついています。彼らは人生の試練をその時点で超えているのです。彼らはいわば貴族です。
われわれすべてがこのアイデンティティというものを持っています。それは避けることのできないものなのです。ほかのすべてが取り去られたあとも残るものがアイデンティティなのです。私は最も美しい創造は、作者が気づかなかったものだと考えています。
わたしには彼女のいう誰もが避けがたく持っているアイデンティティ(「自分自身」或いは他と己を必然的に分かつものとしての「自己」)が見えない。実際に話してみればそれぞれに固有の自己を持ち、その当然の結果として(表現の巧拙は度外視して、)自分の意見があることがわかるのだろうか?
私は写真は何が写されているかということにかかっていると思っています。つまり何の写真なのかということです。写真そのものよりも写真の中に写っているものの方がはるかに素晴らしいのです。
ダイアン・アーバスは、最後に、
「でも本当に、自分が撮らなければ誰も見えなかったものがあると信じています。」
と語っている。
確かに、わたしは彼女の写真を通じて、人間の多様性というものを目の当たりにした。
そして、フリークスに対しての、
2021年5月20日
2021年5月19日
説明並びにお詫び
昨日の投稿でわたしはこのように書いた、
2021年5月18日
ストリーツ・オブ・ロンドン
マザー ナース ゴッド
「ナーチュア」Nurture という養育を意味することばがあり、氏育ちという時の氏はネイチュア、つまり自然で、育ちの方がナーチュアとされる。このナーチュアはしかし同時に滋養分としてのたべものそのものをもさすのである。*滋養などということばもいまではいいかげん古びてしまったらしい。けれどもじつはこの滋養とか慈母とかいうときの滋ないし慈にあたるものが、ナースというときのニュアンスを伝えるのにいちばんふさわしいように思われる。さながら母の如く、といってもここが肝心なところで、ことわっておくがナースとはけして母そのものではない。あくまでも母代わりなのだ。養いはぐくむことと母であることとははっきり別物である。(略)ナースとはいつくしみであり、救いである。それなしでは人間が生きつづけられぬものの謂である。乳なしでは生きられぬみどりごにはじまって、老人、子供、病者、弱者、ひいては人生の敗残者、落伍者、故郷喪失者など、あらゆる孤独な魂がひとしなみに求めているもの。それは母(マザー)でも神(ゴッド)でもない、わたしにいわせればそれこそナースなのだ。ナースには鬼子母神のおぞましさも、多産な牝のふてぶてしさもない。ただひたすら甘美にこまやかに、傷手を癒し、飢えや渇きをみたしてくれる機能があるばかりである。生きることに何らかの難儀を感じている人間がさいごにあてにすることのできる、いわばやさしさの代名詞みたいなもの、それがナースであり、ナースさえ行き届いていればたいていの問題は解決されるといっても過言ではない。*エロスといい、アガペーという。むずかしいことはよくわからないが、大ざっぱにいって肉の愛を意味するエロスに対し、アガペーはふつう聖愛などと訳されている。肉の絆の束縛からはあくまでも別個のところに成立する友愛、同志愛などで、ほとんど神の愛にもなぞらえられるものだ。素人考えで突拍子もないことを持ち出すが、日本人にはともすれば親しみにくいとされるこのアガペーなるものを、西欧のひとびとに思いつかせたのは、ひょっとしてこのナースという観念のなせるわざではあるまいか、というのがこの頃のわたしのおぼろげな直観なのだ。マザーとナースの微妙なニュアンスのずれが、そのままエロスとアガペーの区別にもなぞらえられる気がする。ばあや、ねえや、乳母など、日本語ではこのナースにあたる役割がおおむね血縁関係からの類推ですませられてきたということも考えるに値しよう。(略)これはやはりしあわせな島国の、閉鎖的な農耕社会の家族制度のなごりでもあろうか。養老院に行くよりは疎まれてもやはり家族と一緒の方が、といった発想も、ナースに対する信頼の情の歴史的欠如にもとづいているような気がしてならない。(引用文中太字は本書では傍点、下線は引用者による)
◇
と言っている。
2021年5月16日
障害者と「素晴らしき新世界」
わたしは日頃、インターネットで情報を得るということをしませんし、逆にそのようなことを避ける傾向があります。書き手個人の言葉、思いよりも、情報の方が多いようなブログにわたしは関心を持てません。けれども、今回偶然あなたのブログあったリンクを読み、それについて感じたことを少し、お話します。
先ず
「障害とは皮膚の内側にあるのではない。皮膚の外側にあるものだ。階段をのぼれない私の体の中に障害があるのではない。階段しか設置していない建物の中に障害がある、というのが社会モデルの考え方です。この考え方は180度、私の見方を変えてくれました」
これは精神乃至・知的障害と、肉体的障害との違いであると思いますが、 わたしは、精神障害というものと、その障害を持つ個人とは不可分の関係にあると考えます。以下はあくまでもわたし個人に関することですので、それを一般化するつもりはありません。
◇
昨日わたしは、東京西郊の町から、御茶ノ水の眼科に行きました。
わたしはひとりではバスにも電車にも乗れません。車内に流れる人工音声の「ご注意ください」という執拗なアナウンスに堪えられないのです。最寄り駅から御茶ノ水まで行くにも、電車内での同様のアナウンス、プラス「スマホ人の群れ」(西部邁)堪えがたく、新宿までは特急を使っています。晩年の西部が、「スマホ人の群れを見ると吐き気を催す」ので、何処へ行くにもタクシーを使っていたのと同じです。
この世界がうるさいと感じるのは他ならぬ「わたし」という個人の感受性であり美意識です。
ところで、人にやさしい社会って何でしょう。「駆け込み乗車は危険ですのでおやめください」というのも、「この車両には優先席があります、お年寄りや身体の不自由な方には席をお譲りください」・・・このようなアナウンスが人にやさしい、親切と感じる人も少なくないでしょう。けれども、それを苦痛に感じ、付き添い(騒音から意識を逸らすための話し相手です)なしでは公共交通機関を利用できない人間もいます。「障害者への配慮」というものが、階段にスロープを設けるとか、エレベーターを付けるといった目に見える「バリアフリー」のようなものであれば苦労はしません。
リンクに貼られた文中に
「変わるべきは、私の体ではない。私の心ではない。変わるべきは社会環境だということを先輩が教えてくれたのです。自分を責めすぎることなく、運動という形で社会の側を変えるということを信じていくことで生きていくことができるようになりました」
「社会を変える」という。しかし、社会というものは言うまでもなく、その国の国民、長い長い年月をかけて蓄積されてきた民族の文化、考え方、価値観が土台となって形成しているものです。逆にいえば、社会を変えるということは、日本人全体の意識の在りようを変革すると言うことです。そういう意味で、わたしは、「社会を変える」というお題目は所詮絵に描いた餅に過ぎないと考えます。
「『お忘れ物、落とし物にご注意ください』というアナウンスがなかったから、忘れ物をしたじゃないか。」とクレームを言うような人がいる社会が、成熟した大人の社会に変わるということは、文字通り「百年河清を俟つ」ようなものであろうと感じています。
勿論障害者を含めたほとんどの人がうるさいと感じていないものを一人や二人の例外のために変える必要を感じる人は、ほぼ、いないでしょう。わたしは一人や二人であっても、そのマイノリティー中のマイノリティーを尊重せよというほど、愚かではないつもりです。
つまり、それがいかなる国の社会であろうと、一人や二人の例外は苦しみ続けることを運命づけられているということを知っていると言うことです。
◇
さて、いろいろな事情から、眼科の朝一番の診察・治療に間に合うためには、前日から、病院の近くに宿を取っておく必要がありました。駅に近いということと、比較的料金が安いといいうだけのビジネスホテルです。すぐ隣にセブンイレブンがあり、わたしは、飲み物を買ったのですが、迂闊だったのは、そのコンビニの支払いが自動精算機であったことです。
わたしはコンビニやスーパーの自動精算機は使えません。財布からお金を出そうとしていて、少しでももたついていると、「オカネヲイレテクダサイ オカネヲイレテクダサイ」とその喧(かまびす)しいこと。全く同じことが、障害者手帖更新のために証明写真を撮った折にもありました。こちらは「必要な金額を挿入してください」だったか、とにかく、一分たりとも「待てない」。「待つ」ということを知らない。お金が投入されるまで何度でも同じ言葉を繰り返す。何故かほどに人間が機械に振り回され、苛立たされなければならないのか。
「人が財布からお金を出わずかな時間をすら待つことが出来ずに、何べんでもしつこく催促する」これが「障害者やお年寄りにやさしい」社会と言えるでしょうか。
社会を変えるどころか、当の社会は、コロナ禍により、人間同士が物理的に接触しないという「対策」を奇貨として、益々機械による人間の疎外、そして生体の浸蝕を促しているように見えます。
繰り返します
「変わるべきは、私の体ではない。私の心ではない。変わるべきは社会環境の方だ」
という言葉は、なにかひどく実質を伴わない虚しい掛け声のようにしか聞こえないほど、説得力に欠けるのです。
無論人間の存在が多種多様である以上、何を快とし何を不快とするかが、個人個人によって違う以上、全ての人を掬いあげるということはもとより不可能なことではあっても、貧困や差別の解消が喫緊のテーマであることは言を俟ちませんが、
「障害とは皮膚の内側にあるのではない。皮膚の外側にあるものだ。階段をのぼれない私の体の中に障害があるのではない。階段しか設置していない建物の中に障害がある。」
或いは
「変わるべきは、私の体ではない。私の心ではない。変わるべきは社会環境だ。」
という言葉が、何かとても表面的で軽いものに聞こえてしまうのです。
そこには、「障害」とは何か?「社会」とはなんで、「障害者や高齢者にやさしい」とはどういうことで、社会をどう変えれば、僅かでも「それ」に近づくことができるのかという、具体的な議論が欠如した、空疎な抽象論(乃至キャッチコピー)があるだけのように思えてならないのです。
踊ることなく過ごしけり
2021年5月15日
いま 思うこと
ふたつさん、Junkoさん、コメント欄一枠あたり原稿用紙10枚分にも亙るご意見を複数回頂き、ありがとうございました。 「自己愛」及び「承認欲求」についての議論はひとまずここで打ち切りたいと思います。おふたりがそれぞれに仰っていましたが、人間というこの不可解な生き物の脳や心の働きを、「自己愛」であるとか「承認欲求」という一語を以て裁いて=捌いてしまうことに昔から抵抗がありました。人間の心は重層的なものであり、各々の人間の「微妙な機微」というものを心理学で測定できるとは到底考えられないのです。
迷い
母がせわしない中、斜めよみした記事なので、不正確なところもあると思うが、およそそんな内容であった。
彼女は世に知らしめたのだ、「どのようなかたちであれ人を傷つけることは許されないことだ」ということを。このような判決を下した裁判長も立派である。
彼女の勇気に惜しみない拍手を送りたい。
◇
現時点から過去24時間にqinggengcai.blog.fc2.com からの閲覧は17回。
無論こちらからのアクセスはできない。
先方が「本当にもうおれたちに関わってくれるな!」という意味で、わたしをブロックする分には一向に構わない。嫌われて遠ざけられるのは寧ろ歓迎したいくらいだ。ところが、彼らは相変わらず、こちらに日に十回前後訪れている。これはいったい何を意味しているのか。
2021年5月12日
承認欲求とはなにか?
前の投稿で、何故中途に、「自文化理解」についての長い論考を、敢えて全体のまとまりを乱すような形で割り込ませたか。── これは後知恵になるかもしれないが、あの引用と、それに関するわたしの意見、更に先方のブログには書かなかった補足的文章を加えたか。
わたしは引用の直前に、
隠遁生活で満足してくれたらいいけれど、
「自己愛」があるから幼稚な承認欲求を
満たすために、これからもいろんな人にネット上で
ふっかけては揉め事起こすでしょう。 」
2021年5月11日
どうしようもないわたしが(まだ)生きている
今回の投稿は極私的な内容で、今現在のわたしという混沌とした存在の胸の裡を、なんとか言葉にしてみようという試みに過ぎない。であるから、理路整然とした文章の対極にあるが、逆にいえば、この混乱、惑乱ぶりが、そのまま今のわたしであるともいえる。いずれにしても、書く主体が既に崩壊しつつある状態で書かれたものなので、極めて読みにくい文章になると思う。その点、予めご理解ください。
◇
先日のコメントで、ふたつさん、Junkoさん、それぞれから、「しばらく休んでください」と言われた。以前にも、「やすんでください」と言われたことがあった。ところがわたしには「やすんでください」の意味がよくわからない。
「上級日本語」の課題として、平均二週間に一回、小論文を課す。今学期は計六回。明日が第六回目の作文の提出期限である。最低八〇〇字というのはこれまでの課題と同じ条件だが、今回は最終回ということで上限なし。一昨日あたりから届き始めている。今回の課題は、昨年も扱った主題をめぐる問いだが、昨年より難易度を上げた。昨年は、「わかる」と「理解する」との違いを述べさせたのだが、今年は、授業中に私が示した両者の違いについての説明を前提として、「自文化は理解可能か」という問いに答えさせた。なかなか興味深い回答が返ってきている。すでに添削を終えた十三本の小論文のうちで私が最も高く評価しているのは、「わかっている」状態を説明するのにプラトンの『国家』の中の「洞窟の比喩」を援用したもの。その後半を引用しよう。
この現象は哲学者プラトンの『国家』の中の「洞窟の比喩」に比べられます。確かに、洞窟に住んでいて、縛られていて、動けない人は、洞窟の壁に映る影は彼の社会だと思い込んでいます。そして、洞窟人にとって影は彼の社会、彼の文化で、自然的で唯一の事実なので、その文化の規則の理由を説明できず、理解することができません。あるとき、一人の洞窟人がその洞窟から出ることができたとき、彼だけが自文化の規則の理由を説明できて、自文化を理解することができました。
それゆえ、自文化を理解するために、自文化から離れて、その歴史を学んで、その価値観や慣例の原因を理解する必要があります。例えば、自文化の歴史を見ると、異性愛が自然な状態と思われている理由は中世において、戦争時、多数の戦士を必要としたので、人口を増やすために、同性愛を禁止したことにあると言われています。それを理解するために、自分の社会の文化から離れて、異性愛は「自然な状態」であるとする通念からも離れる必要がありました。
しかし、外に出た洞窟人が自文化を理解することができたのは、他の文化を身につけたからで、それによって彼の自文化に変化が起こり、新しく身につけた文化と比べることによって元の自文化を理解しました。故に、自分の社会を離れて自文化を見るときはじめて、本当にそれが自分の文化だと言えるのではないでしょうか。
これを書いた学生は、毎回思慮深い内容の文章を書いてくれるのだが、この学生にかぎらず、要求したわけではないのに、哲学者を引用する学生が毎回必ず何人かいる。私が哲学を専門としていることを意識してのことかどうかはわからないが、感心するのは、それらの引用が付け焼刃でなく、面白い着眼点を示していることが多いことだ。それから、これはたまたまに過ぎないと思うが、哲学者を引用するのは女子学生に多い。これは私の勘繰りだが、彼女たちは、高校三年次文系理系を問わず必修科目でバカロレアでも同じく必修である哲学をかなり真面目に勉強したのではないかと思う。日本学科における他の授業で哲学の知識が役に立つことはほとんどない(と思う)が、私の授業ではそれが大いに役に立っているようである。これまでにも、アリストテレス、スピノザ、ライプニッツ、ルソー、カント、ニーチェなどを引用した小論文があった。もちろん、私はそれをとても嬉しく思っている。
日本の高校で哲学が必修になる日が来るとはとても思えないが、もしそんな日が来るとすれば、それは日本の社会が大きく変わるときであろう。
確かに出されたテーマは「自文化は理解可能か」でした。自文化をなんらかの(例えば、洞窟から外へ出るというような)形で相対化することは、或いは可能かもしれません。
けれども、自文化を「わかる」乃至「理解する」ということと、それを受容するということは同義ではないと思われます。
「わかる」或いは「理解する」というのは、あくまで「知的な領域」での営為であって、心理的・精神的側面が欠けています。
「わかっている」と、それができるということとは同じではありません。
前回の『自己認識の方法としての異文化理解』の際にも感じましたが、世界が広がるということは、単に「認識」の幅が広がるということ。認識の広がり、知識の蓄積は、「わかっている」「理解している」に留まり、実存が豊穣になったこと、また自己が自文化の桎梏から解き放たれたことを意味しないと思います。
肝心なのは「自文化」を受容出来、同時に、自文化から受容されうるか、ということではないでしょうか?
異文化を知ることによって、逆に自文化に幻滅し、憎しみすら覚えるというのも、いうまでもなく「自文化理解」のひとつの在り方です。
私は寧ろそのような自文化理解こそが健全な「わかった」「理解した」ということの形であると思います。
「わかる」「理解する」「学ぶ」ことは、
自文化を受容することも、自文化を忌避・拒否することも含意していません。
>故に、自分の社会を離れて自文化を見るときはじめて、本当にそれが自分の文化だと言えるのではないでしょうか。
この最後の文章はわたしにはわかりません。何故なら再三の繰り返しになりますが、知る、わかる、理解する、学ぶということと、その対象を、自己と言う個別的な存在と融和させることとは違うと思うからです。
◇
隠遁生活で満足してくれたらいいけれど、
「自己愛」があるから幼稚な承認欲求を
満たすために、これからもいろんな人にネット上で
ふっかけては揉め事起こすでしょう。 」
特に彼の人の嫉妬の対象になった人はいい迷惑です。
この種の人間との遭遇を一度経験すると
他の自己愛にはひっかかりにくくなりますが、
それでも心に負う傷は深いです。 」
その意味が分かりますか?
人に迷惑かける、かけるといいながら町中で
みんなに眉ひそめながら暴走するのが暴走族。
もっと言うと、スーパーのおやつコーナーやおもちゃコーナーで
ひっくり返って泣くのと同じ心理。
「承認欲求」「注目欲求」が幼稚なんです。
大人なら、努力してまっとうに承認されるまで歯を食いしばって
るものです。努力したから必ず賞賛されるとは限らない。
だから自分軸で、努力するんです。
発達凸凹があろうと、やりづらかろうと、努力するんです。
あなたはどちらでもない。
巨大な自己愛、身の丈に合わない理想像の間で
駄々こねてるだけの、「年老いた2才児」と変わらないように見えます。
自分に関係ない、と思うと全く読まない人、
想像力の欠如が著しいからヒントを書いてあげても、わからないんですよ。
自閉症じゃなくて、人格障害で、無職で、親の年金で暮らしていて
医療費は一文も払いたくない。そんな世の中のお世話になりまくってる人が、
発達障害の診断を受けて、どこまで社会復帰していくのか
はなはだ疑問だけど、一応おつきあいしましたが、
結構難しいケースじゃないでしょうか。
それで日本が嫌いの、自分は嫌われるの、
性格は運命の、差別だ、マイノリティーだ、
言ってるなら、
治療としての発達障害診断じゃなくて、
「研究対象」として医学部のモニターになるほうが
ずっと世の中のためになるんじゃないかと思います。
そしたら、「自分は特別なんだ」って自己愛も満たされるし。
納得行く診断名も着くと思いますよ。
何種類か複合タイプかもしれないし。
だいたい失礼ですよね、もともと発達障害や知的障害を
馬鹿にしているでしょう。
自分も仲間ですよ、仲間かもしれない、
本当はそんなこと微塵も思ってないでしょう。
私は、偏見なく最初おつきあいしました。
慈しみの心を持って私にできる精一杯をしています。
今もそうです。どうぞお幸せに。