2019年5月26日

音信不通、或いは通信不能…


過去3回、『或る狂人の述懐(ふたつさん、Junkoさん、底彦さんのコメントに触れて…)』
と題して、3人の言葉を借りて自分の気持ちを綴ってきたが、書いているときに既に感じていたことだが、改めて読み返すと。ふたつさんに対しても、底彦さんに対しても、Junkoさんに対しても、結局「反論」を書いているだけのように思えてならない。

以前「いのちの電話」の相談員が、わたしと話していて「ああ言えばこう言う こう言えばああ言う・・・」と呆れていた。
精神科看護師の「m」氏は、わたしに「自殺を勧告」しにわざわざコメントをくれ、わたしがそれについてここで公然と反論をすると、自らのブログで「因縁を付けられた」と苦笑している。

けっきょく誰にとっても、わたしというのは面倒で、厄介で、鬱陶しい、嫌な存在なのだ。

きっと本当は、ふたつさんの言っていることが、底彦さんの感懐が、Junkoさんの意見が、「正し」く「正解」であり、「いのちの電話」の相談員や精神科看護師の不快感が「至極真っ当」で「正常」な反応なのだろう。



ふたつさんは、「ここ」 でのコメントに、こう書いている。

>Takeoさんは、「内容」に関することであれば、自分の考えと違う考えであっても受け入れられる人のような気がします。(例えば、右翼思想を持っている人でも受け入れることがあるように)

いや。これは明らかにふたつさんの誤解です。わたしは確かに、西部邁に、北一輝に、2.26事件を起こした反乱将校たちにシンパシーを感じています。

西部の場合は、彼の自殺と、ここで繰り返し書いているように
「この国に絶望する人がひとりでも増えること、それがわたしの希望です」という最晩年の言葉に惚れているからだし、北一輝及び青年将校たちの行動には、貧しい者たちを顧みない奢れる政治家たちへの怒り・・・即ち「憂国の情」があるからです。

ですから逆に言えば、そうではない9割以上の右寄りの人間はそもそも「大嫌い」だし、そういう人間と交流を持てるという人がわたしには理解できません。

じゃあ「右ではない」人たちならいいのかというと、そういうことではありません。
要は西部のように、この国に絶望して死ぬとか、北や青年軍人たちのように命を賭して体制に反逆するような人たちだからこそ愛せるのです。


わたしに「因縁を付けられた」という精神科の年配の看護師。
「ああ言えばこう言う こう言えばああいう」とため息をついた「いのちの電話」の相談員。
「ぼくも発達障害だけど、ああはなりたくないねえ・・・」と、あるブログに於いてわたしを名指しした東大哲学科出の茶坊主。

きっとみんなの方が正しいんだろう。それを認めることはやぶさかではない。いや、もっとハッキリと認めよう。

「でも「正し」かったら何だというのだ?」・・・ということは言えまい。

「因縁」をつけられれば不愉快だし、ああ言えばこう言われればいい気持ちはしないし、一口に「精神障害者」と総称されて「あんなの」と同一視されたくない、という「いや~な感じ」もあるだろう。

そういうことを踏まえた上でのベテラン看護師の「自殺の勧め」なのかもしれない。
現に「彼」が言ってたように、「友達を求めてもできないことが何よりの証拠」なのだろう。何の証拠かと言えば、言うまでもなくわたしという存在が「誰からも嫌われ敬遠される人物」ということの「証明」に他なるまい。

(「m」さん、あなたのブログにこのブログのURLを公開すること、わたしの文章を(正確に、文脈通りに)引用することは何の問題もありません。)


P.S.

サム・クックの"Change is gonna come" で、わたしが胸を打たれるのは、セカンド・ヴァースで歌われる

"It's been too hard living, but I'm afraid to die"

「生きていることが辛くてなならない。けれども死ぬことも怖い」という部分。

そして

フォース・ヴァースで歌われる

"I couldn't last for long" 
「もう長くはもたない(堪えられない)」

身につまされる。

そして続いて

"But now I think I'm able to carry on"
「でも今は、頑張れると思える」と歌う、それは「チェンジ・イズ・ゴナ・カム」ー変化が訪れるから・・・

しかしYou Tubeのコメントに誰かが書いていたように、"Change is YET gonna come" 「変化は「いまだ」訪れてはいない」サムの歌が書かれてから半世紀後の言葉である。

そして私の思いは、

"Change is never gonna come..."

嘗て北一輝は獄中で朋友の西田税(みつぎ)に言った。「この国に革命がおこることは決してないだろう」


(わたしはふたつさんは、アル・グリーンの迸る激情型の歌よりも、サムの、静かな怒りと深い悲しみを湛えた歌の方が好きだと思っていました。もっともわたしはサムのこの歌のライブ・ヴァージョンを知りませんが・・・)

































1 件のコメント:

  1. Takeoさん、こんにちは。
    それから、底彦さん、歌を聴いてくれたこと嬉しいです。
    たぶん、ぼくがすすめるような歌は底彦さんの好みからは少しズレていると思うんですが、そういう曲しか知らないので、どうぞ適当に聞き流してください。

    さて、Takeoさんは『9割の右翼が嫌いだ』ということですが、一般的には「10割」です。
    それが「〇〇主義」と言うものだと思いますし、そういう「〇〇主義」から「差別」が生み出されます。

    実際には、「一人」でも例外があれば十分なくらいで、『〇〇人は全部馬鹿だ』というところに「差別」が生まれます。
    もしも、「一人」でも「優れた〇〇人」を認めれば、その「差別」は崩壊していくことに成ります。
    そうなったときには、「〇〇人差別」は消えていき、残るのは『馬鹿な奴は嫌いだ』ということに過ぎません。
    ところが、そうなれば、その人が『あなたが考える「馬鹿」とは、どういう人なのですか?』と問われることになるわけです。

    そういった「問い」をカットしてしまうのが「差別」と言うものだと思います。

    Takeoさんは、いつも自問自答しているように見えますから、「問い」をカットすることはないような気がします。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    いえいえ、サム・クックも大好きですよ。

    ぼくは、「音楽」に関しては、一方的な「鑑賞者」ですから、「創作」はもちろん「批評的な視点」もほとんど持ちません。
    だから、ぼくの中にある区別は「アメリカン・ブラック・ミュージックであるか否か」ということぐらいなんです。
    そこに含まれているものに、上下はありませんし、順位もつけません。

    まぁ、有るのは、「好き」と「すごく好き」くらいですね。
    ぼくは、サムのゴスペル時代をたまたま知っていますので、そちらに思い入れが強いということはあるかもしれません。

    それから、ぼくはブラック・ミュージック全般の「核」にあるのは「やさしさ」だと思っています。
    だから、激しくシャウトする曲でも、包み込むようなバラードでも、また、ドロドロのブルースでも、ほぼ同じような「やさしさ」を感じているような気に成れるんですね。

    ぼくは、もともとの音楽ファンではないので、少し聞き方が特殊なのかもしれませんが、自分でもそこのところは理解できていません。


    あと、「チェンジ・イズ・ゴナ・カム」ですが、この曲には、二つの視点があると思うんですね。
    つまり、サムが誰に向けて歌っているかということで、微妙に聞こえてくるものが違ってくるんです。

    サムが「黒人たち」に向けて歌っていると思って聞くと、
    『ほら、希望のある未来がすぐそこまでやってきているよ!みんなでそれをつかみ取ろうよ!!』
    と言う風に聞こえます。

    でも、もう一つのきき方として、サムが「白人たち」に向かって歌っていると思って聞くと、
    『もう、あんたたちの思うようにはさせないよ!オレたちだって、もう黙って言うなりにはならないのさ、そういう時代がやってきたんだからね。止められるもんなら止めてみなよ!』
    と、ぼくにはそんな風に聞こえてきます。

    上の「黒人たち」に向けて歌われた場合だと、確かに『「差別」なんてなくなりゃしないじゃないか?』と言う不満が残ります。

    でも、下の「白人たち」に向けて歌われた場合だと、どうですか?
    確かに「差別」が消えてなくなったわけではないのは同じですが、「白人たち」が「やり放題」にはできなくなったのも間違いのないことだと言わざるを得ません。
    (とりあえず、黒人が大統領にも成ったし)

    サム自身が、どう思ってこの曲を書いて歌ったのかはわかりませんが、少なくとも、サムがゴスペルからR&Bの世界に向かったのは「白人に向けて歌うこと」が、一番大きな理由だったような気がします。
    (だから、ぼくはゴスペル時代のサムが、より好きなのかもしれないんですけどね)

    『その時代を止めることはできない』と言う意味で、サム・クックが言ったことは当たっているように思います。

    この曲は、今でも多くのカバー・バージョンを生み続けていますし、この曲をカバーしさえすれば、R&Bの中では「レトロ感」や「オールドスクール感」を出せるというようなプロデュースの傾向もあり、ややパターン化し過ぎなんじゃないか?と思うほどですが、それほど、この曲が愛される理由も、「黒人たち」と「白人たち」の両方向に向けて「問い」を発していることによるのかもしれないなと思ったりもします。

    最後に、ブラック・ミュージックの中に、「ゴッド」や「ロード」や「ジーザス」などの「神」はたくさん出てきますが、「その神」は「白人」だと思いますか?
    それとも、やっぱり「黒人の神」は「黒人」なんでしょうか?

    答えは、もちろん「黒人」です。
    じゃなきゃ、「黒人」は祈れませんから。

    それでは、また。、

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