2019年5月26日

或る狂人の述懐(ふたつさん、Junkoさん、底彦さんのコメントに触れて…)その3「Junkoさん」


「断想」に寄せられたJunkoさんのコメントへの返事、というか、今回はちょっと反論めいた感じになってしまうかもしれません。けれどもそれは、わたしの状態云々というよりも、インターネット上でのコミュニケーションの当然の限界というものだと思います。
わたしに言わせれば、わたしのブログも含めて、所詮ネットはネット。おもちゃに毛の生えたようなものだということです。それでもブログは、ふたつさんの意見も踏まえつつ、尚、まだ「ウェブ日記」と呼ぶに価するものもあります。しかしSNSとなるともう。
人間のコミュニケーションというものもここまで退化、というか簡略化・記号化されたかという感じです。


>カレンダーを持たず、カレンダーを追って暮らしていないから半分以上廃人という意見には賛同しかねます。カレンダーなどもはや時間を何時間、何日と言う数や長さでしか、捉えることのできない、それこそ「社会人」という嘘くさい名称の陰に隠れた、動物としての勘や生気をもはや失った生き物が作ったものですし、そんなものに振り回されて、皆と頭を揃えてつるんで生きている事を果たして生きていると言うのかなあとも考えます。


昔、銀座の伊東屋、あるいは丸善に毎年年末に、母か、当時いた「親友」と一緒に、カレンダー・フェアに行くのが楽しみでした。年中行事のひとつでした。
カレンダーを持たなくなって久しいというのは、そういう時間が、そのような一日が、わたしの人生から失われて久しい、ということです。
カレンダーというのは、ある意味「歳時記」に似ていて、季節の移り変わりを実感するものでもあると思います。「ああ、もうすぐ水無月なんだなあ」と思う、今年ももう半分が過ぎようとしているんだなという感慨が湧く。人間は巡る日々、移ろいゆく季節と共に生きています。「暦」を持たないということは、時が流れていないということと同義です。
そして何よりも、カレンダーがあっても、記入することがない。どこへ行く日、誰と会う日・・・そういうもののない生活って、そもそも「生きている」と言えるとは思えないのです。それは世界(社会)との、人との繋がりがないことの証明に他ならないから。


>私は苦しさや悲しさこそが生きている証であると思うのです。喜びじゃなくね。


わたしは現在の自分がまさにそうであるので、歓びのない、苦しみと悲しみだけの人生なら要りません。わたしは十分すぎるほどの苦しみ悲しみに恵まれていますが、自分が今現在「生きている」という実感がまるでありません。そして「人がどう見るか」ではなく、「自分がどう感じているか」が最も大事なことであることは言うまでもありません。
わたしに必要なのは「生きている証し」という目に見えず、触れることもできない「観念的」なものではなく、「生きているという実感」なのです。

無論Junkoさんは、「生きる意味は悲しみや苦しみにこそある」、ということを、「そういうもんだ」と一般化、普遍化して話しているわけではない。あくまでもJunkoさん個人の人生観を言われているということは承知しています。ただ、わたしは残念ながら、「苦しみを糧に生きる」と思えるほど強くはありません。

宗教に関してはまったくの無智ですが、キリストでさえ、十字架の上で、苦痛と孤独と悲しみに、「歓喜」を感じたのではなく、神への恨み言を言ったのではありませんでしたか?

「わが神、何故我を見捨て給うたか・・・」と。











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