2019年5月18日

「鈍感さ」について、(過去の投稿より)


期せずして、瀬里香さん、底彦さん、そしてJunkoさんと「自分を取り巻く世界に対する『鈍感さ』がなければ生きることはとても難しいのではないか?」という話をした。

昔からそんなことを書いていたような気がして、過去の記事を見直してみたら、やっぱり見つかった。そんな中から3つほど引用しておく。

言うまでもなくわたしの過去のブログへの誘導のつもりなどまったくない。
自分自身、改めて、いつまでも同じことに悩み、繰り返し繰り返し、同工異曲・・・同じことを書いていた(きた)のだなという、わたし自身の、現在に至るまで途切れることなく連続してきた現在進行形の過去の再認識のための引用です。


◇      ◇


「鈍感であること」について 

2017.11.07

「母が図書館から借りて来た雑誌、『住む。』2008年夏号をパラパラとめくっていたら、木工デザイナー三谷龍二さんのエッセイに、文化人類学者レヴィ=ストロースの次のような言葉が引用されていた。

『独自性を持ち、また互いを豊かにする一定の隔たりを保つには、どんな文化も自らに対する忠誠を失ってはなりません。そのためには、自分と異なった価値観に対してある程度目をつぶり、こうした価値観の全部、あるいは一部への感受性に鈍感であることも必要なのです』
(レヴィ=ストロース講義 平凡社)

ところで、やはり同じ雑誌の松山巌さんのエッセイ『怠けるヒント』に、歌人穂村弘の『短歌の友人』という本からの引用が載っていて、それは

『我々の<今>には「もっと大きな意味で特別」なことがある。それは人類の終焉の時代を生きる、という意味である。人類史上最も幸福で、しかし心のレベルでは最低の生を生き、種の最期に立ち会おうとしているわれわれの<今>が特異点にならないはずがない』

というものである。

(もっとも、『短歌の友人』は今から10年前、2007年に発行された本で、最近の穂村は、昨年(2016年)に出版されたエッセイで、「健康であるなら300歳くらいまで生きてみたい」などと書いていたが・・・)



自分と異なる価値観に対してある程度目をつぶること、またそれらに対して過度に敏感にならずに鈍感になること。これらは世の中をうまく渡ってゆくうえでの処世訓には成り得るかもしれない。
けれども、不正や腐敗、(人間性そのものの)堕落に対してすら鈍感になり過ぎている現代のわたしたちは、いまいちど、それらに対する鋭敏な感覚を研ぎ澄ましー人間性を破壊させる価値観に対する拒否反応を取り戻した方がいいのではないか。

よく言う言葉に、「結婚する前は両目をよく見開いて。結婚してからは片目を閉じて」というのがある。実際のところ、これが本当に賢明な知恵であるのか疑わしい。「賢明な知恵」というのが、往々にして「賢い処世術」と同義であることはよくあることだ。そして巧みな世渡りは人間性と魂を堕落させる。

レヴィ=ストロースの東京での講義から約30年。今は異なる価値観に対する寛容さをこれまで以上に求められる時代であり、同時に、ある種の価値観に対しては、断固として拒絶し、「否」という姿勢を取らなければならない時代でもあるだろう。
既に「既成事実」に対する妥協主義、順応主義は飽和点にまで達していて、「心のレベルでは最低の生を生きている」という点に於いては、10年前の比ではない。

個人的には、人類の終焉に立ち会うことを厭わない・・・というよりも寧ろ心待ちにしているとは言っても・・・」


◇      ◇



「発達障害に於ける知覚過敏についてのメモ」

2017.08.28

堀江敏幸氏のエッセイに、蛍光灯の明かりの均質さが苦手、電子レンジで温めたミルクの均質さが好きになれないと書かれていたことを思いだす。
だから堀江氏は、ひとつで部屋中を照らす蛍光灯ではなく、部屋のあちこちに間接照明をつけたり、ミルクは小さな手鍋で温めたりしていると書いてあった。

間接照明に使う白熱球が無くなってしまった今はどうしているのか、興味があるところだが、彼が嫌ったのは単に光の均質性、ミルクの温度の均質さだけなのだろうか。
そこになにか、別の視点からの意味づけは為されていないだろうか。

わたしが外に出ることが困難なのは、外界の刺激=音・光・匂い・色などが不快感を催させるからだが、それが自然界の音や光や匂いでない以上、そこには必ずその音や光を発している人間が存在している。実際の物理的な刺激以上に、わたしは、それらの音や光を発している人間の無神経さ、鈍感さを嫌悪しているのだと感じる。
だとすればわたしの外出困難は、所謂発達障害に伴う「知覚過敏」に単純に還元することはできないように思われる。

映画『鬼火』で、主人公のアランは、「ぼくが憎むのは人生ではなく、世界の醜さだ」と。
世界は勝手に醜くはならない。世界が醜くなるには、常に人間の手がかかわっている。

わたしはあのような音や匂いや光そのものよりも、それを創りだし、使用している人間の、堪えがたい愚鈍さを嫌悪する。

『精神医学は対人関係論である』という本のタイトルを思い出す。
わたしは懐中電灯を憎みはしない。けれどもその光をわたしの顔に投げつけてくる者をわたしは憎む・・・


◇      ◇



「消えない音」

2016.03.11

わたしが外に出られない理由は、何度も書いたけれど、外界の醜悪さ、「音」「臭い」「光」「色彩」などが生理的な不快感を引き起こすからだ。

けれども、これを「知覚」の「矯正」によって、「感じなく」させることをわたしは望んではいない。
醜いものを醜いと感じること、それによって外出が著しく困難になっても、自分の感受性を偽るよりはマシだ。

ブラック・ジャックに「消えた音」という作品がある。

田舎で先祖代々伝わる田畑を耕して地道に暮らしていた男がいた。
最近彼の村のすぐそばに飛行場が出来て、昼夜を問わず飛行機の騒音に悩まされるようになった。
いつかかれは飛行機の轟音を聞くと発作的に自分の鼓膜を破ってしまうようになる。
何回も鼓膜の再生手術をしても、彼は発作を繰り返す。医者はこれではどうしようもないからと転地療養を勧めるが、先祖代々の土地を離れるわけにはいかない。

或る時、彼がまた発作を起こしたとき、たまたま外国から帰ってきて、飛行場の近くにいたブラック・ジャックが彼の鼓膜を手術することになった。
ブラック・ジャックの手術は特殊なもので、患者の耳に伝わる音がある一定の音量を超えると、鼓膜が自動的に開き、音が聞こえなくなるものだった。つまり彼は轟音が聞こえない耳を持つことになった。

数日後、男がブラック・ジャックの処にやってきて、鼓膜をもとに戻してほしいという。
音で苦しめられているのは自分だけじゃないというのを聞いて、BJは「他の住民にも同じ手術をしてくれと言うのか?」と訊く。けれども男は、そうではなく、問題は騒音をまき散らす飛行場の存在であって、音が聞こえなくなることじゃない、それでは何の解決にもならない、という。ブラック・ジャックは黙って男に手術室に入れという。

そう。問題は世界の醜さであって、それを自分の知覚から遮断することではない。
あるものを見えなくすることや、聞こえなくすること、無視できるようにすることではない。

それは戦場で、人を殺すことに無感覚になるような洗脳を施すことに等しい。

今日、駅で、「北海道新幹線」のポスターを見た。醜悪なデザインと悪趣味でけばけばしいしいバックの色彩。
でも、それがニッポンなのだ。



本当に十年一日のように同じことを書いてきたんだなと改めて思う。そしてわたし自身の状況は決して「同じよう」ではなく、日毎に「悪くなって」いるのだ。











4 件のコメント:

  1. こんにちは、Blueさん。
    わたしはずいぶん鈍感力を身に付けてしまつたものです。そのことについては溜め息が出てしまひます。だつて歩きスマホどころか自転車スマホや車スマホをしてゐる人たちさへ見なかつたフリをしてしまふのだから。さういう迷惑な人たちには、こちらに迷惑をかける前に自滅してもらいたいとすら思ひます。わたしがイライラさせられるのは御免と云つた感じでせうか。怒りを持つ分わたしが消耗するのですが、わたしは無駄に消耗したくないので。わたしは善悪に反応する前に快不快に反応してしまうのですが、最近は不快を感じることも減り、地味に平穏に生活してゐます。不快なものを無意識に避けてきた結果だと思ひます。わたしは決して自分と異なる価値観の持ち主に寛容なわけではなく、さういう人や事やモノや空間や時間から逃げてばかりゐるだけです。わたしの為に。わたしの感受性をわたしが守る為に。

    ところでわたしは電車やバスには乗れません。電車やバスの乗り方?随分前に忘れてしまひました。まづどこから乗るのか、どこで券を買うのか、どこでお金を払うのか、ちつとも分かりませんし、駅やバス停や車内のアナウンスや車内の椅子や車内の吊り革も気持ち悪いですし、電車やバスに乗つてゐる人たちの殆どがプラスチックの板を触っている光景もただ気持ち悪いからです。だからわたしは自転車と友達になりました。どこに行くのにも自転車です。ちなみに車も手放しました。自動車税も重量税も払えないし自動車保険料も払えないしガソリン代も払えないし車検代も払えない。わたしは経済的な束縛には敏感で、解放されたくて自転車を選びました。以前は稼いだ分お金を消費してゐましたものですが、最近はかなり吝嗇になり敏感になるところが変化してきたやうです。タクシー代はおろか切符代さへ払いたくなく、その分、今は明日も生きるために食べることにお金を費やしたいと思つてゐます。

    さういへばあの美しき黒電話も最近見かけなくなりましたし、緑色の公衆電話も姿を消しました。ポケベルも無くなったしテレフォンカードも無くなった。不便な世の中になつたものです。

    >外界の刺激=音・光・匂い・色などが不快感を催させるからだが
    :わたしは家の中でもそれを感じます。例えば全自動でお風呂を沸かしたときの「お風呂が沸きました!」という機械音と共に流れるクラシックのメロディーだとか。とにかく逃げたくなります。それらの音が聴こえない所へ。

    週末自転車旅行に行くときに、決して持って行かないものが2つあります。携帯電話と腕時計です。せっかく日常から逃げるのだから電子媒体からの着信音や時間に邪魔をされたくない。これは釣りを趣味にしてゐる人や登山を趣味にしてゐる人もさうだと思ひます。

    世間に100%反応し世間に100%適合してゐるとそれこそわたしが死んでしまひます。だからわたしはわたしが生きるために、そこそこ(いやかなり?)世間から逃げて何とか生を維持してゐます。生を維持してゐると云つてもあまり積極的ではなく消極的に受動的に仕方なくではありますが。

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    1. こんばんは、瀬里香さん。

      >歩きスマホどころか自転車スマホや車スマホをしてゐる人たちさへ見なかつたフリをしてしまふのだから。

      「見なかった振り」もなにも、わたしは、彼らがいるために外に出ることすらままなりません。

      >さういう迷惑な人たちには、こちらに迷惑をかける前に自滅してもらいたいとすら思ひます。わたしがイライラさせられるのは御免と云つた感じでせうか。

      瀬里香さんの言う「自滅」がどういう意味なのかわかりませんが、同感です。

      わたしは電車にもバスにもできるだけ乗りたくはないのですが、ここは郊外とは言え東京ですから、自転車でさえ、乗っていれば、スマホバカや歩きたばこバカ、アイドリングバカと遭遇しないわけには行かないのです。

      >さういへばあの美しき黒電話も最近見かけなくなりましたし、緑色の公衆電話も姿を消しました。ポケベルも無くなったしテレフォンカードも無くなった。不便な世の中になつたものです。

      いや、ほんとうにその通りです。テレホンカードがなくなれば、10円玉で掛けるしかなくなる。つまりテレホンカードの時代よりも不便になるわけです。

      それでは社会生活ができないといわれても、それはまったくわたしの責任ではありません。

      へえ、クラシックが流れるの?(苦笑)
      本当に日本人てセンスというものが微塵もないね。

      >世間に100%反応し世間に100%適合してゐるとそれこそわたしが死んでしまひます

      これもその通りだけど、ちょっと見た限りでは、ほとんどの人が、8割方適応しているように見えます。

      最近は本を読むこともままならない状態ですが、文学であれ哲学であれ、自身、世界乃至社会との不協和音、不調和を感じ、生きることの困難さを感じていない者の言葉は聞くに値しないと強く思うようになりました。

      以前書いたように、詩人の吉原幸子は「幸せは罪ではない」と書きました。
      それを引用した石原吉郎は、彼女が本気でこう言っているのかどうか疑問だと書いています。

      幸せであることが「罪」かどうかはわかりませんが、少なくとも、「幸せ」で順調な人生を送っていることに対し、後ろめたさを感じられないような人間は、ただの盆暗であると思います。




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  2. 追記

    「幸せであることの罪」は「他人の不幸が見えなくなる」ことにあります。
    「幸せは罪」か?それは「限りなく罪に近いもの」というのがわたしの意見です。


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  3. Takeoさん、こんばんは。

    ぼくの場合は、必ずしも鈍感力を必要としていないような気がします。
    たとえば、道端に犬の糞が落ちていれば、どうしても一度は目を持っていかれますが、だからと言って、それ以上注目したりはしません。
    ぼくにとって、「歩きスマホ」も「電子音」も、それと同じ扱いに成るみたいです。
    ぼくの場合は、そこで、そんなに鈍感に成らなくても居られるみたいですね。

    ぼくが、今一番『いやだな!』と思うのは,モノではなく「ママ友」と言われる「人の集合体」ですね。

    いずれにしても、おそらく、ほかの方は、もともと持っている感性が、ぼくよりも敏感なんだと思います。

    ぼくは、どこかが、かなり図太く出来ているみたいで、そこのところが平気なんでしょうね。
    でも、ほかのところが頑丈にできているかと言うと、そうでもないような気もします。

    まぁ、要するに、「どっちつかず」ってとこですね。

    それから、前にも言いましたけど、少なくとも、ぼくにとっては、いまのTakeoさんの文章の方に、惹きつけられますね。
    過去のブログの文章は、一般的に言って、「いい文章」なのかもしれませんし、きっとその当時ぼくが見たとしても、そう思うでしょうが、惹きつけられるということはなかったと思います。

    毎回同じ言い方に成ってしまいますが、なぜなのかはわかりません。


    では、また。

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