2019年5月9日

「人は何故生きられるのか?」


最近のわたしは日々生きているのが辛くてならない。
「死ねないから」という以外の「生きていること」への積極的な理由なんて何ひとつない。
生きていて、なにひとつおもしろいことがない。

人は誰しも、面白いことがあるわけではないが、生まれてきた以上「仕方なく」、本当に「仕方なく」生きているのかと考える。もしそうでないとすれば、いったい何がたのしくて生きていられるのか?

ふたつさんのコメントにあった、ブルースマンの「しぶとさ」については、理解できる。
貧しい者が懸命に生きようとする姿は、理屈抜きにうつくしい。

「嘗ての」ブルースマンや、「嘗て」ファーガス・バークの撮った、ゴミ箱を漁る少女、そして山谷のドヤ街にいるひとたちの「生」をわたしは肯定するが、自分自身には到底そのような「しぶとさ」や「生命力」はない。

絵や写真や音楽といっても、それがあるから生きてゆけるというほどの力はない。
それらはあくまでも「慰め」でしかない。

わたしは「死ねないから生きている」という言葉を何度も目にしてきた。
それは本当によくわかる。だからこそ、それ以外の理由で生きている人というものが全くわからない。

多くの人は、何故生きていられるのだろう?

仮にこのような訴えを聞いて、わたしは鬱病だという者がいたとして、
だったらどうだというのだ。「鬱病なら治さなきゃ」
何度でも言う、「治る」とはどういうことか?
そして仮に「治った」として、一体この世界に何があるというのか?






2 件のコメント:

  1. こんにちは。

    たぶん、昔の貧しい子供たちや古い時代のブルースの人たちの中に、「死ぬ」と言う選択肢はなかったんじゃないかと思うんですね。

    そこのところが、現代に生きている人間とは、決定的に違うところだと思います。

    もしも、戦前のアメリカ南部の黒人たちに「自殺」と言う選択肢を与えて、『どうする?それでもこんな差別の中で生きていくかい?』と尋ねたら、きっと、かなりの数の人たちがあっさりと死んでしまったような気がします。
    (アメリカは正確な記録がないことをいいことに、隠していますが、その時代の黒人差別は、人間が平気で生きていかれるようなものではなかったと思います)

    おそらく、彼らには「自殺」と言う選択肢も与えられていなかっただろうし、それ以前に、彼らには、「差別」という知識すら与えられていなかったでしょうから、自分たちが「差別」されているという意識自体が薄かったと思います。

    それは、昔の時代に、貧しい町に生まれて、貧しい親に育てられ、なんとか貧しい仕事にありついて、また貧しい子供を育てる羽目に成り、最後には貧しい中で死んでいった人たちにも言えることですが、彼らにはほとんどの選択肢が与えられていませんでしたから、「生きる」しかなかったんだと思います。

    彼らに与えられた唯一の選択肢が「貧しく生きること」だったんだと思います。


    おそらく、彼らの多くは、自分たちのことを「そういう生き物」だと思っていたんじゃないかと思いますね。
    つまり、「黒人と言う生き物」であり、「貧民と言う生き物」ですね。
    そして、自分たちが「差別」されていることや、「社会的な格差」の中で「下」に位置付けられていることに対する疑問を持つための材料を何も与えられていないので、そのこと自体に気が付かないまま、「そういう生き物」として「生きて、死んで」行くしかなかったんでしょう。

    もちろん、教育や福祉が行き渡ったことを悪いことだと言うわけじゃないですが、良くなったはずなのに、なんでちっとも良くならないのかなぁ?と思ってしまいますね。

    教育によって選択肢が与えられたわけですが、格差や貧困はなくなりませんから、けっきょく、与えられた選択肢は、「貧しく生きること」と、それに加えて「死ぬこと」が付け加えられただけです。

    要するに、「いま」に近ければ近いほど、人間が「死ぬこと」を突き付けられた状態で生きなければならなく成ったということだと思います。


    これ、良くなっているんでしょうか?


    本当は、もう少しマシになっててもいいような気がするんですけどね。
    「いまの社会」には、そのぐらいの余力があると思うんですが、どうなんでしょうね?

    ぼくは、こんな状況を人間に突き付けている「社会と言うモノ」を踏みつけて「生きて、死んで」いこうかなと思っています。

    つまり、ぼくの敵は「社会」です。
    (ぼくは、「社会」が「人間」では出来ていないと思っていますので、「人間」に危害を加えるつもりはありませんけど)

    だから、たとえ髪の毛一本ほどでも、「社会」をこき使ってやれれば満足だし、そのためなら、こんな世の中でも『生きてやるよ』と思います。
    (もちろん、ただ単に『死にたくない』と言うのもありますけどね)

    では、また。

    返信削除
  2. こんにちは、Blueさん。


    >最近のわたしは日々生きているのが辛くてならない。
    :まづはこのBlueさんの呟きを出来るだけneutralに受け止めたいです。解るよとも云えないし、慰めや激励もできません。Blueさんが辛いと云つてゐる現実をわたしは観たり感じたり触ったり嗅いだり味わったりすることもできませんが、確かにBlueさんは辛いのでせうね。こんなに生きづらい世の中で56年も生きてきた、もううんざり、そろそろ生きることから解放されたい、そんな感じなのでしょうか。

    >「死ねないから」という以外の「生きていること」への積極的な理由なんて何ひとつない。
    :はい、わたしも自分が死ぬのがまづ怖いし、それに自分が自殺したら両親も娘息子も業務的に「自殺者の身内」というラベルを貼られますから。わたしの死を彼らが悲しむかどうかは別として。

    >本当に「仕方なく」生きているのかと考える。
    :わたしは煙草も吸うしお酒も飲むので、あまり長生きしないとは思ひますが、もしわたしの寿命が100歳まであるとしたら、それまで「仕方なく」生きると思ひます。出来る限り生きる苦痛を緩和しつつ、誤魔化しつつになりますが。

    >ふたつさんのコメントにあった、ブルースマンの「しぶとさ」については、理解できる。
    :はい、わたしもです。崖から落ちそうになってもしがみ付く腕力や気力や根気と云いますか。ただ、わたしはその他に、Blueさんの繊細さとは真逆かもしれない【鈍感力】や【能天気さ】や【図々しさ】などを身に付けてしまったやうです。

    >それらはあくまでも「慰め」でしかない。
    :慰めは、無いよりはある方が良いとひます。わたしは月曜日から土曜日まで働いてゐますが、日曜日になると、如何に日常から解放されるかばかり考へていますから。わたしの場合は自転車に乗って綺麗な景色を眺めることに必死で逃げてゐます。

    >仮にこのような訴えを聞いて、わたしは鬱病だという者がいたとして、
    :わたしはBlueさんは鬱病ではないと思ひます。ただBlueさん自身の生きづらさが半端ない(であろう)だけで。わたしは30年前から様々な病名を与えられていますが、それらが「治る」兆しも無く、また「治そう」という気概も無く、自分の生きづらさとは一生のお付き合いだと思ってゐます。精神科で処方される薬とも一生のお付き合いだし、喧しい電車のアナウンスや暑苦しいアスファルトや煩わしい電子媒体攻めや電子音の鳥のさえずりや、スマホ決済や、けたたましい選挙カーなどとも一生のお付き合いだと思つてゐます。とにかくこれほど不便な世間にうんざりしますが、だから週末になると自由自在に思ふ存分マイナスイオンに逃走することばかり考へてゐます。

    返信削除