2019年5月16日

自殺者に花束を


「人は何故生きられるのか」Ⅱ より


T:「死ねないから」という以外の「生きていること」への積極的な理由なんて何ひとつない。
S:はい、わたしも自分が死ぬのがまづ怖いし、それに自分が自殺したら両親も娘息子も業務的に「自殺者の身内」というラベルを貼られますから。わたしの死を彼らが悲しむかどうかは別として。



「自分が自殺したら両親も娘息子も業務的に「自殺者の身内」というラベルを貼られますから。」

これはいったい何を言っているのでしょうか?「自殺者の身内」というレッテルを貼られる、とはどういうことでしょう?

「自殺者の身内」というレッテルがあるのなら、当然「安倍晋三の身内」「麻生太郎の身内」「枝野何某の身内」「菅直人の身内」という世間から後ろ指をさされる負のレッテルもあるのでしょうね。

だって自殺は悪でもなければ犯罪でもないのだから。寧ろ「社会に殺された」場合が少なくないのだから。そして為政者は間接的には加害者なのだから。


ー追記ー


わたしの自殺は誰のせいでもありません。それはわたしが最後までわたしであったという証明であって、何かに(誰かに)「間接的に殺された」のでは決してありません。

だってそもそも「生まれてきたことが敗北」なのだから。







2 件のコメント:

  1. こんにちは, Takeo さん.

    ここ数日の Takeo さんのブログの文章からは, Takeo さんが以前書いていた虚無感と, それから生に対する否定を感じています. Takeo さんの苦痛が気になりますが, 共感できる部分があります.

    Takeo さんの苦しみとは異なるでしょうが, 私も虚無に襲われることがあります. 自分の中が空になったようなその感覚の中では, 世界を否定する方向性のみがあり生きられるための力が失われています. この感覚が直ちに死への思考に繋がるわけではありませんが, 死が幾分か間近になっているとは言えるでしょう. 恐ろしい気持ちになり苦しいですね. 死なないための理由が見つかりません.

    ですから, Takeo さんが感じている「生きていること」への積極的な理由が一つも無いという感覚を, 私の感覚に基いて想像することは少しはできるのです. そして Takeo さんが相当に苦しんでいるだろうということも.

    Takeo さんはその苦痛からの解放を望んでいますか? ブログの文章からはわかりませんでした. 私は上のような虚無に陥ったとき, 非常に苦しいのは確かなのですが, なかなか解放されたいという意思を持つことができません.

    このあたり, 自分でもうまく整理ができていないのでここから先は曖昧な書き方になってしまいます.

    Takeo さんは去年の 9 月頃に, 心の病に関連して

    〜 平気で(彼にとっての)「バトルフィールド」或いは「地獄」に留まって居られることが「治癒」の謂いなのか? 〜

    と書いています. 私はこの文章が印象に残っていて, それは私自身の内に治りたくない, 治るのが恐ろしいという自分が居るからです. 病がこれほど苦しいのに, なぜ治りたくないと思うのか. わかりません. けれども Takeo さんの上の文章は一つの答えだと思います.

    自分がどうして生きられているのかを考えてみると, それは人間の中のそういう精神の何物かを保ち続けているだけのことではないかと思うのです. 死ねないから生きているのとは異なるような気がするのです.

    Takeo さんの苦しみと相反するかのように, もう一つのブログは濃密さを増しているように感じられます. Rudolf Krivoš と Kompánek Vladimír の作品には特に惹かれてしまい細かいところまでを見ました (画家の名をメモしておいたのです). 今日は絵を描きに行くので, 思い出しながら真似をして描いてみようと思います.
    時折挿入されている音楽も素晴らしいですね.

    Takeo さんの心が少しでも平穏に向かいますよう.

    P.S. 現実の問題として, 心の病が重い場合, 治癒は実感として非常に難しいと思います. 骨折した骨が適切な治療でくっついてもどうしても弱くなってしまうように, 心の病でも深い傷を負った精神は完全には元に戻らないのではないでしょうか. 不可逆です. あくまで私の実感ですが.

    ふたつさん, 瀬里香さん, こんにちは.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      最近のように、ほとんどすべての投稿が愚痴とぼやきのような状況になっても、他の二人、更には、Junkoさんからも、長文で、充実したコメントを頂けることに驚いています。
      自分がまともに思考し、ちゃんとした文章が書けなくなったころに、皆から、中身の詰まったコメントが届けられるというのは、皮肉でもあり、歯がゆくもあります。

      覚束ない文章ですが、何とか今の気持ちを書いてみます。

      底彦さんの言われるように、わたしと底彦さんの感じている「虚無感」は異質なのだろうと思います。わたしの持つ「虚無感」は、言ってみれば、「世界の投影」なのだと思います。つまりわたしは「鏡のような存在」です。

      ここで繰り返し書いていますが、「健康」或いは「健全」な状態とは、わたしという個体だけでは実現せず、それはわたしと世界(わたしを取り巻く外界)との融和・調和であると思っています。

      わたしにとって、テクノロジー万歳、進歩への無条件の拝跪が特徴である現代の「マテリアル・ワールド」は、それ自体が「虚無」なのです。
      「生きていることへの虚無感」・・・それは必ずしも、言葉通りに、「わたしという存在の虚しさ」を意味しません。

      視点は流動的相対的ですが、「わたしが世界を見捨てた」とも言えるのであって、「世界に取り残された」という一元的な見方考え方は、必ずしも正確ではないと思います。

      >私自身の内に治りたくない, 治るのが恐ろしいという自分が居るからです. 病がこれほど苦しいのに, なぜ治りたくないと思うのか. わかりません.

      それは底彦さんの中に、わたしが書いたような境地に至ることはないだろうという気持ちがあるからではないでしょうか?つまり底彦さんにとって、「治る」ということは、決して、「無感覚」になることではなく、「治る」イコール「戦場への復帰」という深層での意識が強いからではないかと憶測するのです。
      「戦地で平気でいられること」が怖い、というよりも、それこそ、物理的にロボトミー手術でもしない限り、自分の「恐怖」は消えることはないという感覚、つまり「不可逆」という意識ではないかと思うのです・・・

      自らを消すということは、とりもなおさず、「世界を消す」ことに他なりません。
      「わたし」というものと「わたしを取り巻く世界(外界)」とを分離することは不可能です。(これは決して、いわゆる主観的観念論=私が世界を作っている、という意味ではありません)例えばこのブログも、底彦さんも、「わたしの一部」です。そういう意味です。



      さてさて、底彦さんらしい気配りで、わたしのブログの大半を占めるわけのわからないエロ・グロには触れずに、お褒めの言葉を頂きうれしく思います。気に入った画家を見つけられたようで、投稿者冥利に尽きます。
      当然ながら、ほとんどの画家の名前は知らないのです。特に最近は、中欧・東欧(ポーランド、チェコ、スロバキア、ルーマニア)と言ったところを渉猟していますので、タイトルの英訳もどこまで正確だか・・・

      名前を挙げられた二人とも、スロバキアの画家ですね。Rudolf Krivoš (読めない)は、以前から時々目にしていた画家ですが、最近意識的にポストしています。

      とは言え、できるだけ多様に、エロ・グロにと思いますが、なかなか難しいものですね。

      お気持ち、感想を聞かせてくださってありがとうございました。








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