2019年5月4日

Its all over, Now You're free to fall..


今日は、Sさんからうれしいコメントをもらった。わたしのもう一つのブログの投稿に興味と関心を持ってくれているらしい。Sさんには甚だ不本意だろうが、Sさんはわたしにとっては、(いい意味でも悪い意味でもなく)とても真面目な人という根拠のない先入観があって、あのような「エロ・グロ・ナンセンス」を標榜しているようなブログの主にはさっさと見切りをつけたものだとばかり思っていた。そのようなブログを作りましたと聞いただけで遠ざかるというのではなく、実際に視、そして、その言葉に偽りがなかったことを確認して去って行ったのだろうと。

昔からの経験から導き出されたわたしのモットーは、「自分に忠実であれば人に嫌われる」ということだ。これは確信を持って言える。
ただしこれは決して一般論にはならない。自分のテイスト、自分のスタイル、自分のポリシー、自分のスタンスを持っていて、尚、人から好かれる人もいる。
簡単に言えば持っているものの「中身」の問題だ。

Sさんがわたしのもう一つのブログに投稿している絵を気に入ってくれているということは、とても大きな励みになったことは紛れもない事実だ。日頃から肯定的に評価されたことのない人間には、Sさんのような人に評価された(?)・・・「今のところ」彼のお気に召しているようで、率直にうれしい。

ただ、それはあくまでも「今のところ」という留保付きのことだ。

わたしは基本的に人を信用しない。これは何も人間不信ということではなく、単純に、「来年のわたしは今現在のわたしとは違う」という現実を言っている。
前にも書いたが、人間は限りなく球体に近い多面体であるということ。
わたしたちが知り得るのは、その無限に近い多面性の、ごくごく一部でしかあり得ないということ・・・

Sさんにとって、ふたつさんにとって、瀬里香さんにとって、どこまでが「Takeo」で、どこから・・・(どの一面を見た瞬間)が、もうTakeoではないのか?到底わたしに知るすべはない。

殺人者であり、同時に聖者でもあるという「人間」という存在を、何故、理解し得るのか?「理解」というものが不在であっても愛し得る。しかしそれは束の間に過ぎない。

わたしは全的な、全き抱擁を求めている。しかしそれは人間には求めることのできないものだ。

矛盾の総体である「人間」というものを、如何にして人が愛し得るか・・・



わたしは昭和38年(1963年)に生まれた。そしてごく普通の「たのしい」小・中・高校時代を送った。
平成が30年として、30年前、26歳になる年に、わたしは、大森の馬込のアパートに越し、そこで、26歳から42歳まで過ごした。

ある映画に「部屋選びは慎重にな。孤独な者にとっては、部屋だけが友達だからな」という名セリフがある。その言葉の通り、馬込のその部屋は、大学以降友達というものを持つことのなかったわたしの唯一の「親友」だった。

その後40代になって、20歳年上の女性の「親友」ができた。

そして約10年前、双方の親友を相次いで失ってから、わたしは今に至っている。

昭和には大学までの約18年があり、平成には、あの部屋と親友がいた。
平成にはまだ携帯電話もインターネットもなかった時期があった。

そして新しい元号になった。もはやわたしの時代はとっくに終わっていたという思いが、
新たな年号という形として象徴・表象されるようになった。

その気持ちを表すために、もう一つのブログのタイトルを"It's all over now, I'm blue..." にした。無論ディランの歌、"Its all over now, baby blue"が元だ。

最近は唯一の話し相手である母とも、あまり話が噛み合っていないと感じることが多くなった。今日母に「最近は前よりも(生きているのが)大変そうだね」と言われた。

新しい年号になったということは、昭和、平成と、何かしら、まだ生きることができる何かが存在していた時代が完全に終わりを告げたということだ。

I'm blueというよりも、「もう何もかも終わったんだ」という、絶望を突き抜けたある種のすがすがしさのようなものを感じている。

「もう昭和でも平成でもないんだよ。つまりあんたの時代は終わったんだよ」と言われているような、なんだか少し肩の荷が下りたような気がする。つまり、もう出番は終わったよ、と・・・










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