2019年5月5日

私は世を愛さなかった。世もまた私を。所詮敵ならば潔く袂を分かとう・・・ (バイロン)


底彦さん、いつも充実した、内容の濃いコメントをありがとうございます。
これは幸いなことに、ふたつさん、そして瀬里香さんのコメントにも言えることですが、
わたしは、かつてのJunkoさんも含め、「こんなコメント・・・」と感じることがないことをよろこばしく思っています。

ただ、前回のふたつさん、そして、今回の底彦さんのコメントも、今のわたしの鈍い頭には、「難解」という意味ではなく、軽々しく返事を書けるものではないので、その点はどうかご容赦ください。





最近「友人」の存在について考えさせられることがありました。
つまり他ならぬわたしにとって、友人、友達とはいかなる存在であるか、ということを、考え直す契機に出会いました。

「友情」「愛情」については、今から10年前、2008年のブログに繰り返し書いています。

この年の記事は抜粋して、製本(自費出版ではありません)し、2015年、32歳の時から20年来、手紙や電話でやり取りのあった、作家山田太一氏に送りました。
山田さんは、手紙を出せば、(葉書の場合が多かったですが)必ず返事をくれるような人で、ちゃんとわたしの送った本を読み、その上で、「とてもついていけない」と拒否反応を示されました。殊に「友情」「愛情」についての記述に違和感を覚えたようです。

山田氏が違和感を覚えたという一連の記事を書いてから10年。
友情や愛情についてのわたしの考えも変化しているように思います。

当時、SNSの友達で、スペインの女性とメールで話した時、「友達は恋人よりも大事な存在」・・・という点で、意見が一致しました。

「友人」・・・いまでもそれはわたしにとっては、「それがなくては生きてゆけない・・・生きてゆくのが非常に困難になる」存在という点では変わっていないでしょう。「友とは第二の自己である」と言ったのは誰だったでしょうか。現実には「第二の自己」というよりも、脚の不自由な人にとっての杖のようなもの。なくてはならない必要不可欠な存在です。

以前の「親友」との最後の年だったでしょうか、銀座の伊東屋で、彼女と一緒にポストカードを選んでいました。彼女は「わたしにくれるの?」と訊きました。
「いや、海外のインターネットの友達に出すんだよ」とわたしが何気なく言った。
その瞬間、彼女の心が文字通り音を立てて崩れたように、目を真っ赤にして、「あたらしいともだちができたんだ・・・じゃあもうわたしはいらないね」

前にも書きましたが、「あたらしい友達ができた・・・もうわたしはいらない・・・」という言葉。その気持ちを今のわたしは完全に理解できます。
何故なら実は昔からわたし自身がそういう人間だったから。

これは一般に言われる「独占欲」とは少し違うような気がします。
つまりわたしは、正に彼女の言葉の通り、相手を責めることなく、黙って姿を消すからです。

友だちに限らず、わたしは人と、「浅い関係」というものを持てません。

底彦さんは、わたしのなかに「すさまじい自己否定」を見ているようですが、それは、「彼女」の言葉を借りれば、やはり自分が「愛されざる者」であるという揺るぎない自己規定(アイデンティティー)があるからでしょう。
しかし同時にわたしは世の多くの人に「すさまじい自己肯定」を、(加えて、すさまじい「現状肯定」を)しばしば見るのです。

友達、それは生きてゆくのに欠かせない存在だと書きました。
けれども、今のわたしは「生きてゆくこと」を望んではいません。

「人生とは、生まれてから死ぬまでの長い苦しみ」と母が言いました。
そして母はまた、「あなたはあらゆるものを否定するからね・・・」と言います。
けれども、わたしのなかには、どこかで、あらゆるものから否定され続けてきたという気持ちもあるのです。

今のわたし、すなわちこれ以上生きることを望んでいない人間にとって、「友人」とはいかなる存在なのか・・・

わたしは二階堂奥歯を、彼女の考え方、その書いたものではなく、彼女自身の自死によって・・・日本も核武装すべき、軍隊を持つべきという、わたしとはまったく相容れないポリシーを持つ西部邁を、この国への絶望による覚悟の自裁によって、無条件に称賛する者です。


ー追記ー

底彦さんはわたしを「鬱病」であると思いますか?
フフ、愚問ですね。仮にそうであったとしても、わたしには「治り(し)たい」という気持ちがないし、早晩今のテクノロジー万能社会と、わたしの美意識との間での決定的な対立があり、わたしは滅びるのですから。











3 件のコメント:

  1. こんにちは、Blueさん。お久しぶりです。
    いつも読んでます。its all over now,im blueも観てます。

    10連休が明けて、今日が令和初出勤でした。
    10連休中は自転車で遠出をしたり飲み会をしたり、遊んでばかりいました。

    わたしも今は激しい怒りや悲しみや絶望や不安を感じることも無く煮えたぎることも無く疲弊し切ることも無く、かといって激しい幸福や喜びや自己肯定感や達成感や遣り甲斐を感じることも無く、でも地味に平和に生息してゐます。Blueさんの心の中は、平和か戦争かと云うと、どちらかと云えば平和ですか。

    最近、FBで知り合った自転車友達と実際にオフラインで会って、木曽川沿いを走ったり美濃の山奥を走ったりしてゐます。趣味の合う人たちと、会って自転車に乗って一緒に綺麗な景色を眺めて一緒に美味しいものを食べて一緒に気持ちよく走るだけ、という浅くて淡白な関係ですが、それはわたしの唯一の楽しみです。

    2008年からのブログには、わたしも随分お邪魔させていただきましたね。見解の不一致はあまり無かったように思ひます。あったとしても全て正直に話し合えてをり、とても居心地の良い場所だったと記憶してをります。

    さて、友達についてですが。友達の少ないわたしに、新しい友達ができたことを、悲しんだり淋しく思ったりするのではなく、喜び、祝福してくれる友達こそが、本当の友達だと思ってゐます。ここはBlueさんと感覚が違うかもしれませんが。わたしはBlueさんの友達のつもりでいますが、Blueさんに新しい友達ができたら普通に素直に喜びます。

    わたしは今年45歳になりました。日本人女性の平均寿命が90歳を超えてゐますから、人生あと半分もあることになります。人生あと半分もあると思ふと少しうんざりしますが、どうせ「生まれてから死ぬまでの長い苦しみ」なら、少しでもそれを緩和して(癌患者がモルヒネで痛みを緩和するように)、地味に生息してゐたいと願ひます。わたしは精神障害者1級ですから【治る】【治す】という発想はずいぶん昔に消えてしまいましたが、そのことに絶望してゐるかと云うとさうでもなく、少しの希望があり、これからも、Blueさんを始め、ときどき友達と手を繋ぎ合い、うだつは上がらないでせうけれど、地味に平和に生息していきたいと思ってゐます。変ですかね。


    底彦さん、ふたつさん、こんにちは。

    返信削除

  2. こんにちは、Blueさん。

    わたしも世を愛さなかつたけれど、世は案外わたしを受け容れてくれることに最近気づきました。今までわたしに手を差し伸べられた手はたくさんあったはずなのに、どうせわたしなんか愛されざる者だからと云って、拒絶し、突っぱねてばかりで、鎖国してばかりでしたが、最近ようやく、わたしに手を伸ばしてくださる人たちの温かい手に触れる勇気が少しだけ湧きました。わたしは怒りも苦しみも痛みも絶望も煩悶も感じなかつたけれど、いつも淋しかった。

    しかし淋しさを埋めるためだけの軽いお付き合いは絶対にしません。一緒に自転車で田舎や渓流を走つてくださり、楽しさを分かち合える方のみ、FBで友達になつてゐます。こんなわたしを歓迎してくださる方が居ることに、今はかなり感激しつつ、感謝を捧げつつ、体を動かすことで心を平和に保っています。わたしに付き合ってくださる皆さまのお陰様でメンタルの薬も少し減らすことに成功しました。

    わたしたちは皆、宇宙のみなしご。だからときどき手をつなぐ必要があるの。by 森絵都

    返信削除
  3. Takeoさん、こんにちは。それから、瀬里香さんも、底彦さんも、こんにちは。

    二階堂さんのブログと、Takeoさんの2008年のブログを一部拝見させてまらいましたが、どちらの文章にも、引き込まれるような言葉がたくさんありました。

    ぼくは、どちらかと言うと活字にはなじめないので、文章を読んだり書いたりするのは苦手な方で、読むのに結構時間がかかってしまったりするんですが、だからと言って、いい文章がわからないということでもありませんし、美しい言葉が美しい言葉だということはわからなくはありませんし、それにもまして、自分が惹きつけられる言葉には逆らえない場合があります。
    (例えば、Takeoさんが言っていた『限りなく球体に近い多面体』と言う言葉には逆らえない魅力がありました)

    それは底彦さんや瀬里香さんの文章にも共通していることですが、「詩情」ですね。
    要するに、ここにコメントを入れている人達、みなさんの言葉が静かなんですね。
    ぼくには、そういう文章は書けないと思います。

    まぁ、それはそれで仕方ないと思いますけどね。


    それはともかく、この記事の話ですが、自殺したことをもってその人を称賛するということですが、それについては、ぼくも理解できます。
    自死は時によって潔い行為だと思います。

    ただ、前に、ここで話したことがある「有名・無名」についてや、「長命・短命」についてや、「権威を受け取ったか・拒否したか」ということにも同じことがいえると思いますが、それらは、一つの局面であって、絶対的な要素ではないと思います。

    たとえば、ヒトラーも確か自殺していたと思いますが、ヒトラーの自殺と二階堂さんなどの自殺を同列に扱うことには、どうしても疑問が出てきます。
    それと同じように、どうしても評価できない自殺もあってもいいような気もします。

    また、それとは逆に、評価したくなるような人の中にも「有名」な人も居ますし、それどころか「権威」を受け入れた人も居てもいいんじゃないかなと、ぼくなんかは思ってしまうわけです。
    (ほとんどいないですけどね)

    ぼくが、ほぼ無条件に評価・称賛してしまうのは、「貧乏」と「長生き」ですね。
    「貧乏」はともかく、「長生き」はTakeoさんと逆だと思いますが、ぼくが称賛するのは「長生きな人」というよりも「長生きなこと」です。

    要するに、ぼくは「存在」をもとに話をしているんだと思います。
    だから、「長く存在していたこと」=「長生き」を評価してしまうんだと思いますよ。

    Takeoさんは「(自分の存在を含めた)存在を否定すること」に立って話をしていますから、当然そこは逆になるということだと思います。

    いつも、ブルースの話になってしまいますが、ぼくが、ブルースマンに最も惹きつけられるのは、「しぶとさ」ですね。

    差別されても、ひどい目にあっても、フラレても、それどころか目が見えなくなっても、片方の手や足がなくなっても、まだブルースに縋り付いてる。
    しかも、どこかアッケラカントシテいたりもする。
    そういう、「しぶとさ」に驚かされますし、無条件で感心してしまうわけです。

    そして、さらに、その彼らの生き様が、かられの歌うブルースから、これまた実にリアルに伝わってくるので、全く抵抗できません。

    しかも、そのことが、どんなに三流のブルースマンでも、ほとんどおんなじなんです。
    確かに、実力のあるブルースマンも居れば、カスみたいな奴もいます。
    でも、そこだけは、おんなじです。
    でも、ぼくが聞いているのは、そこだけですから、ぼくにとっては「一流」でも「カス」でも、ほとんど変わらないんですね。

    B.Bキングはブルースを上等にしましたけど、彼は生涯を通じて『自分はたいしたブルースマンではない』と言い続けたそうです。
    多くの人が、そのことばを彼のジェントルな言葉だと思っているでしょうが、ぼくには、彼が本音で言っていたのがよくわかります。
    ブルースの大きさでブルースの意味が決まっていますから、音楽として「上等」か「カス」かは、あまり関係ないんですね。


    あと、余談ですが、ぼくもロードバイクと言うタイプの自転車に乗っています。
    知り合いがくれたもので、かなり古い(たぶん40年くらい)ものですが、まだ現役です。
    チューブラーと言うパンクしやすいタイプなので、最初にもらった時は、しょっちゅうパンクして困りましたが、タイヤ・シーラントというタイヤの中に入れておくだけで、ほとんどのパンクを勝手に補修してくれる補修材を入れるように成ってからは、パンクしなくなりました。
    長距離のツーリングに行くときなどは、入れておくとパンクの心配がないのでいいと思いますよ。

    それでは、また。

    返信削除